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[[寛文]]7年([[1667年]])6月4日に[[京都]]で誕生。幼名は増君。[[延宝]]元年([[1673年]])11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年([[1676年]])1月に従三位に叙せられる。[[貞享]]3年([[1686年]])3月、20歳で[[内大臣]]となる。[[元禄]]6年([[1693年]])8月に[[右大臣]]、[[宝永]]元年([[1704年]])1月に[[左大臣]]。宝永4年([[1707年]])11月[[関白]]に就任する。宝永6年([[1709年]])に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年([[1710年]])に[[太政大臣]]に任ぜられる。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])7月太政大臣辞任。正徳2年([[1712年]])8月摂政辞任。[[享保]]10年([[1725年]])准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、'''豫樂院'''(よらくいん、現代では、予楽の字で表記されるが、『豫樂』と表記するのが正しい)と号する。
[[寛文]]7年([[1667年]])6月4日に[[京都]]で誕生。幼名は増君。[[延宝]]元年([[1673年]])11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年([[1676年]])1月に従三位に叙せられる。[[貞享]]3年([[1686年]])3月、20歳で[[内大臣]]となる。[[元禄]]6年([[1693年]])8月に[[右大臣]]、[[宝永]]元年([[1704年]])1月に[[左大臣]]。宝永4年([[1707年]])11月[[関白]]に就任する。宝永6年([[1709年]])に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年([[1710年]])に[[太政大臣]]に任ぜられる。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])7月太政大臣辞任。正徳2年([[1712年]])8月摂政辞任。[[享保]]10年([[1725年]])准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、'''豫樂院'''(よらくいん、現代では、予楽の字で表記されるが、『豫樂』と表記するのが正しい)と号する。


[[書道]]は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる[[空海]]・[[小野道風]]らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は[[慈胤法親王]]を師とした。[[有職故実]]にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『[[唐六典]]』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年([[1724年]])に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家[[茶道]]に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。
[[書道]]は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる[[空海]]・[[小野道風]]らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は[[慈胤法親王]]を師とした。[[有職故実]]にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『[[唐六典]]』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年([[1724年]])に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家[[茶道]]に通じた茶人であり、『[[槐記]]』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。


なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった[[山科道安]](やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。
なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった[[山科道安]](やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『[[槐記]]』11巻により、如実に知ることができる。


『槐記』によれば、家熈は[[自然科学]]にも精通し、[[享保]]16年([[1731年]])、[[雷]]鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している<ref>『槐記』續篇[http://www.nichibun.ac.jp/~shoji/kojiruien-test/ten/frame/f000287.html]</ref>。
[[槐記]]』によれば、家熈は[[自然科学]]にも精通し、[[享保]]16年([[1731年]])、[[雷]]鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している<ref>『槐記』續篇[http://www.nichibun.ac.jp/~shoji/kojiruien-test/ten/frame/f000287.html]</ref>。


[[元文]]元年([[1736年]])10月3日[[薨去]]。享年70。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の京都[[大徳寺]]に葬られる。
[[元文]]元年([[1736年]])10月3日[[薨去]]。享年70。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の京都[[大徳寺]]に葬られる。

2015年3月18日 (水) 07:42時点における版

 
近衞家熈
近衛予楽院像(三時知恩寺蔵) 渡辺始興重要文化財]
時代 江戸時代
生誕 寛文7年6月4日1667年7月24日
死没 元文元年10月3日1736年11月5日))
改名 増君(幼名)、家熙、豫樂院(号)
墓所 京都市北区大徳寺
官位 従一位摂政関白太政大臣准三后
主君 中御門天皇
氏族 藤原北家近衛流
父母 父:近衛基熙、母:後水尾天皇皇女常子内親王
霊元天皇の皇女・憲子内親王(台岳院無品香山良薫)

近衛家久鷹司房熙鷹司尚輔
尚子中御門天皇女御)、

安己君(徳川継友室)、政姫(徳川家宣養女)
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近衞 家熈(このえ いえひろ、寛文7年6月4日1667年7月24日) - 元文元年10月3日1736年11月5日))は、江戸時代前期から中期にかけての公家

経歴

寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名は増君。延宝元年(1673年)11月に元服し、従五位上に叙せられた。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、豫樂院(よらくいん、現代では、予楽の字で表記されるが、『豫樂』と表記するのが正しい)と号する。

書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。

なお、家熈の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。

槐記』によれば、家熈は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している[1]

元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。

系譜

脚注

  1. ^ 『槐記』續篇[1]

関連項目