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* 1995年西日本ジュニアフェザー級<ref name="JuniorFeather" />新人王 |
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* 第58代日本[[バンタム級]]王座(防衛2=返上) |
* 第58代日本[[バンタム級]]王座(防衛2=返上) |
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* 第25代[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[スーパーバンタム級]]王座(防衛7) |
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== 受賞歴 ==<!-- カッコ内は不定期や単発の賞について、授賞式・セレモニーなどの年度ではなく受賞年度のほうを記載 --> |
== 受賞歴 ==<!-- カッコ内は不定期や単発の賞について、授賞式・セレモニーなどの年度ではなく受賞年度のほうを記載 --> |
2011年10月2日 (日) 13:38時点における版
基本情報 | |
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本名 | 西岡 利晃 |
通称 |
スピードキング[1] モンスターレフト[2] |
階級 | スーパーバンタム級 |
身長 | 168.5cm[3] |
リーチ | 174.5cm[3] |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1976年7月25日(47歳) |
出身地 | 兵庫県加古川市 |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 46 |
勝ち | 39 |
KO勝ち | 24 |
敗け | 4 |
引き分け | 3 |
西岡 利晃(にしおか としあき、男性、1976年7月25日 - )は、日本のプロボクサー。兵庫県加古川市出身、尼崎市在住[4]。現WBC世界スーパーバンタム級王者。JM加古川ジム所属選手としてプロデビュー、2000年9月より帝拳ジム所属。
バンタム級時代は「最も世界に近い男」「日本のエース」としてファンの大きな期待を集めた。スーパーバンタム級に転じてからも連勝を続け、5度目の世界挑戦において王座奪取に成功。サウスポーのボクサーファイターで、愛称は「スピードキング」。得意の左ストレートをはじめとする左の強打は「モンスターレフト」の異名を持つ。
世界王座を獲得した試合以降、試合後にリング上で娘を抱きながらインタビューを受けるのが恒例となっている。
来歴
幼少期
幼少の頃からプロボクサーを志し、小学5年生の時、地元のJM加古川ジムに入門。小学校の卒業文集には「将来の夢はボクシングの世界王者になること」と記した。中学3年生で初めてアマチュアの試合に出場し勝利した。だが、アマチュアのルールには馴染めず、当初からプロ志向であった[5]。
プロデビュー
加古川南高校3年時の1994年12月11日、地元のJM加古川ジムからのプロデビュー戦に初回KO勝ちを収めた。翌1995年2月4日、デビュー2戦目となった中村正彦(角海老宝石・後のOPBF東洋太平洋バンタム級王者)との対戦では、2回にスタンディングダウンをとられ、4回に右フックを受けて仰向けのままカウントアウトとなりKO負けを喫した[6]。さらに、同年12月16日には西軍代表スーパーバンタム級新人王決定戦で北島桃太郎(福岡帝拳)に判定負け。早くも挫折を味わった。その後はフィリピン人をはじめとした外国人選手を相手に(1分をはさみ)9連勝。スパーリングの時だけ強いという意味で「スパーリングチャンピオン」と呼ばれたこともあったが、1階級上の世界ランカー、フェルナンド・モンティラ(フィリピン)との引き分け試合では、怒りでモチベーションを上げて本能をかきたてても自分のボクシングができないと感じ、闘う意識を見つめ直すきっかけになった[6]。その後も世界挑戦経験のあるジャック・シアハヤ(インドネシア)など強敵相手にキャリアを積み、評価を高めていった。
日本王座獲得
1998年12月29日、19戦目で日本王座初挑戦。渡辺純一(楠三好)と空位の日本バンタム級王座を争う。初回にいきなりダウンを奪われるも、2回にダウンを奪い返しKO勝ち。王座奪取に成功した。1999年4月24日の初防衛戦では強打を持ち味とする仲里繁(沖縄ワールドリング)と対戦し、8回TKO勝ち。これに勝利したことで東京進出の自信を深めた[7]。その後、8月7日にはヨドシン・チュワタナ(タイ)とのノンタイトル戦を4回KO勝ち、同年12月19日には岡本泰治を10回判定に降し2度目の防衛にも成功。この試合を以って、日本王座を返上した。
世界王座挑戦
2000年6月25日、24戦目で世界初挑戦。辰吉丈一郎を2度にわたってKOしたWBC世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に挑むが、12回判定負けで王座獲得に失敗。この試合の翌日、世界再挑戦をより現実のものとするため帝拳ジムへの移籍を表明。同年9月から正式に同ジム所属となった。11月に移籍初戦(ノンタイトル10回戦)を行い、判定勝ち。翌2001年3月にもノンタイトル10回戦を行い、初回KO勝ち。
2001年9月1日、ウィラポンに再挑戦。フルラウンドにわたる死闘の末、三者三様の引き分けで世界王座奪取ならず。しかし、この試合での健闘が評価され、試合後、WBCにおける自身のランキングが1位に上昇した。翌2002年3月にウィラポンとの3度目の対戦が組まれたものの、2001年暮れの練習中に左足にアキレス腱断裂を負い[8]、挑戦は取り止めに。結果として、この後1年以上リングから遠ざかることとなった。
2003年10月4日、改めてウィラポンに3度目の挑戦。序盤からウィラポンペースで進み、西岡の決定打が出ないまま試合が終わった。判定は前回同様、三者三様の引き分けでまたしても王座獲得はならなかった。
翌2004年3月6日、ウィラポンに4度目の挑戦。3回にウィラポンのヒッティングによる流血をしてからは王者のペースで試合が進み、最終的に12回判定負けを喫した。この年アメリカに遠征し、1か月間マルコ・アントニオ・バレラのキャンプでスパーリングパートナーを務めたことで「吹っ切れた気がする」と帰国後の7月に語っている[9]。その後、スーパーバンタム級に階級を上げ、2008年4月の試合まで8連勝 (5KO) を収めた。
世界王座獲得
2008年9月15日、4年半ぶり5度目の世界挑戦。パシフィコ横浜でナパーポン・キャッティサクチョーチャイ(タイ)とWBC世界スーパーバンタム級暫定王座決定戦を争った。 初回から西岡が優位に試合を進め、KOには至らなかったものの、3-0(117-109が2名、119-107が1名)の判定で圧勝。プロ39戦目にして悲願の世界王者に就いた。
5度目の挑戦で世界王座の奪取に成功したのは、花形進(横浜協栄)以来2人目。(東京)帝拳ジムからの日本人世界王者誕生は、1986年の浜田剛史以来22年ぶり3人目[10][11]。
暫定王座獲得から3か月後の同年12月20日、正規王者イスラエル・バスケス(メキシコ)が網膜剥離によって防衛戦を行うことが出来なくなったことから王座を返上。これにより、同日付で西岡が正規王者に昇格した(バスケスはこれまでの実績を考慮されWBC名誉王者に認定される)。
世界王座防衛
初防衛戦
2009年1月3日、パシフィコ横浜にて初防衛戦。1階級下のWBC世界バンタム級王者(当時)長谷川穂積(真正)に挑戦経験を持つヘナロ・ガルシア(メキシコ)と対戦し、2度のダウンを奪った末の最終12回TKO勝ちを収めた。
なお、日本人世界スーパーバンタム級王者はこれまで3人(ロイヤル小林、畑中清詞、佐藤修)いたが、いずれも初防衛戦で王座から陥落しており、西岡が日本人として初めてこの階級での王座防衛を果たした形となった。
2度目の防衛戦・敵地メキシコで強豪との指名試合
2009年5月23日、敵地に渡っての2度目の防衛戦。メキシコ・モンテレイのモンテレー・アリーナで、元WBO世界バンタム級王者でもあるジョニー・ゴンザレス(メキシコ)との指名試合で対戦。ゴンザレスはアメリカでもビッグマッチを戦うなど、世界的な知名度と人気は西岡を遥かに上回るスター選手。この試合はゴンザレスの母国開催ということもあって、メキシコ国内ではゴンザレスが勝つことは前提で、この日の前座で復帰戦を戦うラファエル・マルケスとの同国人スター対決を期待する声が大きく挙がっていた。また、当時のメキシコでは豚インフルエンザが大流行して多数の死者が出ている状況であり、試合の実現も危惧されたが、西岡はメキシコで戦う決断をした。
試合は初回2分過ぎ、挑戦者の右で尻もちをつくダウンを奪われたものの、王者にダメージは見られずすぐに立ち上がる。そして、迎えた3回、1分を経過しようとしたところで王者の左ストレートが挑戦者の顎にクリーンヒット。今度はゴンザレスが仰向けにダウン。ゴンザレスは何とか立ち上がり試合続行の意思表示を示したものの、レフェリーが試合をストップ。西岡が劇的なTKO勝ちを収め、王座防衛に成功[12]。日本人世界王者としては1985年の渡辺二郎以来、24年ぶり2人目の海外での世界王座防衛を果たした。メキシコの放送局は母国のスター選手を一発のパンチで倒した西岡の左ストレートを「モンスターレフト」と呼んでその衝撃を表現した。
この試合の功績により、東日本ボクシング協会は6月15日の理事会で特別表彰を決定。その後、日本ボクシングコミッションからはコミッショナー特別功労賞の贈呈が決定した。同賞の表彰式は7月14日に後楽園ホールで、ジムの後輩・粟生隆寛のWBC世界フェザー級王座初防衛戦に先立って行われ、翌年4月30日の試合後にはこの記念品として宮田亮平の制作した特製トロフィーが贈られた[13]。
2010年1月には2009年度の年間最高試合に選出された(海外での試合が年間最高試合に選出されたのは4度目)。
また、WBCもこの試合を高く評価し後に年間ベストKO賞を授与。2010年7月29日から3日間イギリス、カーディフで開催されたWBC主催の祭典「WBC王者たちの夜」(WBC NIGHT OF CHAMPIONS) の最終日に表彰式が行われ、優最秀選手賞のヘビー級王者ビタリ・クリチコ、ミドル級王者セルヒオ・マルチネスなど錚々たる王者らと共に表彰を受けた[14][15]。
3度目の防衛戦
2009年10月10日、東京都渋谷区の国立代々木第二体育館にて3度目の防衛戦。元WBO世界ジュニアバンタム級王者でもある5位のイバン・エルナンデス(メキシコ)と対戦した。
3回、王者の左ストレートが挑戦者の顎を捕えた。そして、この回終了後のインターバルで挑戦者が下顎骨骨折の疑いがあるとして棄権。これにより西岡のTKO勝ちとなり、王座防衛を果たした(挑戦者は試合後の検査の結果、やはり当該箇所が骨折していたことが判明)[16]。
4度目の防衛戦
2010年4月30日、東京都千代田区北の丸の日本武道館で4度目の防衛戦。15戦全勝(7KO)の10位バルウェグ・バンゴヤン(フィリピン)と対戦。
序盤こそ無敗の挑戦者相手に攻めあぐねたものの、5回、強烈な左ストレートがクリーンヒットし、挑戦者からダウンを奪う。辛くも立ち上がった挑戦者を今度は連打で追撃。1分14秒、レフェリーストップを呼び込み、TKO勝ちを収めた。世界王座の初防衛戦からの4連続KO防衛は日本人初の快挙となった[17]。
5度目の防衛戦
2010年10月24日、東京都墨田区の両国国技館でランキング1位のレンドール・ムンロー(英国)と対戦。東京ミッドタウンのキャノピー・スクエアで行われた前日計量は一般公開され、日本では初めて生中継された[18]。試合では西岡が序盤から的確にムンローにパンチを浴びせ、何度もロープへ追い詰めるなど相手を終始圧倒。左拳の負傷(出血)もありKOこそ逸したが、大差(ジャッジ3者とも119-109)の判定勝ちを収めて5度目の防衛に成功[19]。現役世界王者のまま死去した帝拳ジムの先輩大場政夫と防衛回数で並んだ。
試合から2か月後の12月28日、2010年度ボクシング年間表彰で最優秀選手賞に選ばれた。34歳での同賞受賞は史上最年長記録となった。
6度目の防衛戦
2011年4月8日、ワールド記念ホール[20]で6位のマウリシオ・ムニョス(アルゼンチン)と対戦[21]。なお、この試合は長谷川穂積のWBC世界フェザー級王座初防衛戦ならびに粟生隆寛のWBC世界スーパーフェザー級王座初防衛戦と併せた「トリプル世界戦」興行の5試合目(セミファイナル)として行われ、西岡が序盤から試合を優位に進め、迎えた9Rの残り10秒のところでムニョスに左ストレートを当ててダウンを奪い、挑戦者はカウント8で立ち上がったもののファイティングポーズを取れず、KO勝利により6度目の防衛を果たした[22]。
7度目の防衛戦・ラスベガスで世界的スターのマルケスと対戦
2011年7月26日、世界2位にランクされるラファエル・マルケス(メキシコ)を相手に7度目の防衛戦を10月1日、米国・ネバダ州ラスベガスMGMグランドホテル&カジノにてメインイベントで行うことを発表[23]。マルケスの戦績は40勝(36KO)6敗、IBF世界バンタム級とWBC世界スーパーバンタム級での2階級制覇を成し遂げており、世界的な人気と実力を兼ね備えているスター選手。西岡は以前からマルケスとの対戦を希望しており、この試合の発表会見と自身のブログにて「マルケスは世界的に知られるすごく強いボクサー。これまでのキャリアの中で一番のビッグファイトだと思う」と語った。そして10月1日(現地時間)にゴングが鳴り、序盤は一進一退の攻防、途中で西岡がバッティングで頭部を負傷するアクシデントがあったものの、第8ラウンド以後はほぼ西岡が一方的に圧倒する展開となり、終わってみれば大差の判定勝ち。これにより西岡は日本人ボクサーとして初となるアメリカ合衆国本土での防衛成功及び内藤大助の防衛最年長記録を抜く記録づくめの7度目の王座防衛を成し得た。
ウィラポンとの4度の対戦
- 初対決は2000年6月25日、西岡の地元・兵庫の高砂市総合体育館で行われた。ダウンこそなかったものの、消極的なボクシングを展開し、12回判定負け。
- 2度目の対戦は2001年9月1日、横浜アリーナで。序盤、右ジャブからの左ボディブローでウィラポンを苦しめた。しかし、7Rに強烈な右ストレートを浴び、左目の上をカット。しかしこのラウンドで西岡は強烈な左カウンターを決め、ウィラポンをダウン寸前にまで追い込む粘りを見せ、持ち堪えた。だが徐々にウィラポンが試合のペースを握っていき、さらに西岡はバッティングにより両目の上をカットしたことと(西岡自身、カットされるのは初であり、目に血が入って視界がぼやけた)、ウィラポンの執拗なボディブロー攻めに遭ったことで動きが鈍くなっていった。それでも最後まで堪え、試合は前回同様判定に。判定の結果、一人は115-113で西岡、別の一人は115-113でウィラポン、そして残る一人は114-114。三者三様の引き分けに終わった。
- 3度目の対決は2003年10月4日、両国国技館で。当初、前年の3月に対戦予定であったが、西岡が練習中に左足アキレス腱を断裂したため、1年半以上遅れて挑戦する形となった。それでも、WBCランキング1位を維持し、指名挑戦者として対戦を迎えたが、前々回、前回同様、判定にもつれ込み三者三様の引き分けとなった。
- 4度目の対決は2004年3月6日、さいたまスーパーアリーナで。3回、ウィラポンのヒッティングによる出血で動きが落ちたまま、試合はウィラポンのペースで展開。最終12回にはスタミナも切れ、大差の判定負けを喫した。
戦績
- アマチュアボクシング:12戦10勝2敗[8]
- プロボクシング:46戦39勝 (24KO) 4敗 (1KO) 3分
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 | |
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1 | 1994年12月11日 | 勝利 | 1R 2:55 | KO | 宍戸雄康 (鍵本エディ) | 日本 | プロデビュー戦 | |
2 | 1995年2月4日 | 敗北 | 4R 2:12 | KO | 中村正彦 (角海老宝石) | 日本 | ||
3 | 1995年3月25日 | 勝利 | 1R 2:41 | KO | 中政重明 (白鷺) | 日本 | 西日本ジュニアフェザー級[24]新人王トーナメント予選 | |
4 | 1995年6月17日 | 勝利 | 4R | 判定 | 木原信行 (今福) | 日本 | 〃 | |
5 | 1995年8月15日 | 勝利 | 1R 1:31 | KO | 内田浩康 (千里馬神戸) | 日本 | 西日本ジュニアフェザー級新人王トーナメント準決勝 | |
6 | 1995年9月18日 | 勝利 | 6R | 判定 | 大野功 (進光) | 日本 | 西日本ジュニアフェザー級新人王トーナメント決勝戦 | |
7 | 1995年10月29日 | 勝利 | 6R | 判定 | 頭本伸 (岐阜ヨコゼキ) | 日本 | 中日本・西日本ジュニアフェザー級新人王対抗戦 | |
8 | 1995年12月16日 | 敗北 | 6R | 判定 | 北島桃太郎 (福岡帝拳) | 日本 | 全日本ジュニアフェザー級新人王西軍代表決定戦 | |
9 | 1996年5月19日 | 勝利 | 8R | 判定 | ホセ・レイ・ローホー | フィリピン | ||
10 | 1996年8月25日 | 勝利 | 6R | 判定 | ドナルド・エスティラ | フィリピン | ||
11 | 1996年10月19日 | 勝利 | 10R | 判定 | アーマド・ファンディ | インドネシア | ||
12 | 1997年2月23日 | 勝利 | 6R 2:40 | KO | ファジー・アーメス | インドネシア | ||
13 | 1997年4月14日 | 勝利 | 2R 2:53 | KO | ジョエル・フニオ | フィリピン | ||
14 | 1997年8月30日 | 引分 | 10R | 判定 | フェルナンド・モンティラ | フィリピン | ||
15 | 1997年11月22日 | 勝利 | 4R 3:01 | KO | 金東洙 | 韓国 | ||
16 | 1998年3月8日 | 勝利 | 5R 2:58 | 反則 | フリオ・カルドナ | メキシコ | ||
17 | 1998年6月29日 | 勝利 | 1R 0:43 | KO | ジャック・シアハヤ | インドネシア | ||
18 | 1998年9月23日 | 勝利 | 2R 0:23 | KO | ジョエル・アビラ | フィリピン | ||
19 | 1998年12月29日 | 勝利 | 2R 1:55 | KO | 渡辺純一 (楠三好) | 日本 | 日本バンタム級王座決定戦・王座獲得 | |
20 | 1999年4月24日 | 勝利 | 8R 1:21 | TKO | 仲里繁 (沖縄ワールドリング) | 日本 | 日本バンタム級王座防衛(初) | |
21 | 1999年8月7日 | 勝利 | 4R 1:13 | TKO | ヨドシン・チュワタナ | タイ | ||
22 | 1999年12月19日 | 勝利 | 10R | 判定3-0 | 岡本泰治 (トクホン真闘) | 日本 | 日本バンタム級王座2度目の防衛(2)→王座返上 | |
23 | 2000年3月12日 | 勝利 | 2R 2:51 | KO | ロデル・リャニタ | フィリピン | ||
24 | 2000年6月25日 | 敗北 | 12R | 判定0-3 | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | WBC世界バンタム級王座挑戦・失敗 | |
25 | 2000年11月5日 | 勝利 | 12R | 判定3-0 | ヘラルド・マルチネス | メキシコ | ||
26 | 2001年3月11日 | 勝利 | 1R | KO | サムエル・ベントゥーラ | メキシコ | ||
27 | 2001年9月1日 | 引分 | 12R | 判定1-1 | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | WBC世界バンタム級王座挑戦・失敗 | |
28 | 2001年12月7日 | 勝利 | 1R 1:32 | KO | エバンヘリオ・ペレス | パナマ | ||
29 | 2003年10月4日 | 引分 | 12R | 判定1-1 | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | WBC世界バンタム級王座挑戦・失敗 | |
30 | 2004年3月6日 | 敗北 | 12R | 判定0-3 | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | WBC世界バンタム級王座挑戦・失敗 | |
31 | 2004年10月30日 | 勝利 | 10R | 判定3-0 | 中島吉謙 (角海老宝石) | 日本 | ||
32 | 2005年4月29日 | 勝利 | 2R 2:00 | TKO | ムスタファ・アバハラウイ | フランス | ||
33 | 2005年9月3日 | 勝利 | 10R | 判定3-0 | ペドリト・ローレンテ | フィリピン | ||
34 | 2006年2月4日 | 勝利 | 10R | 判定3-0 | ウーゴ・バルガス | メキシコ | ||
35 | 2006年11月16日 | 勝利 | 4R 2:59 | KO | ホセ・アロンソ | メキシコ | ||
36 | 2007年8月11日 | 勝利 | 7R 0:23 | KO | ハビエル・ソテロ | コロンビア | ||
37 | 2007年12月15日 | 勝利 | 9R 0:48 | KO | ペドリト・ローレンテ | フィリピン | ||
38 | 2008年4月19日 | 勝利 | 3R 0:43 | KO | ヘスス・ガルシア | メキシコ | ||
39 | 2008年9月15日 | 勝利 | 12R | 判定3-0 | ナパーポン・キャッティサクチョーチャイ | タイ | WBC世界スーパーバンタム級暫定王座決定戦
王座獲得→正規王座昇格 | |
40 | 2009年1月3日 | 勝利 | 12R 0:57 | TKO | ヘナロ・ガルシア | メキシコ | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(初) | |
41 | 2009年5月23日 | 勝利 | 3R 1:20 | TKO | ジョニー・ゴンザレス | メキシコ | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(2) | |
42 | 2009年10月10日 | 勝利 | 3R 3:00 | TKO | イバン・エルナンデス | メキシコ | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(3) | |
43 | 2010年4月30日 | 勝利 | 5R 1:14 | TKO | バルウェグ・バンゴヤン | フィリピン | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(4) | |
44 | 2010年10月24日 | 勝利 | 12R | 判定3-0 | レンドール・ムンロー | イギリス | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(5) | |
45 | 2011年4月8日 | 勝利 | 9R | KO | マウリシオ・ムニョス | アルゼンチン | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(6) | |
46 | 2011年10月1日 | 勝利 | 12R | 判定3-0 | ラファエル・マルケス | メキシコ | style="text-align:left" | WBC世界スーパーバンタム級王座防衛(7) |
テンプレート |
獲得タイトル
受賞歴
- プロ・アマチュア年間表彰
- 1998年度プロ部門KO賞
- 1999年度プロ部門技能賞
- 2001年度プロ部門敢闘賞
- 2008年度プロ部門努力賞
- 2010年度プロ部門最優秀選手賞(最年長記録)
- WBC 2009年1月度月間最優秀選手 (Boxer of the Month)
- WBC 2009年6月度月間最優秀選手
- 東日本ボクシング協会 特別表彰(2009年)
- 日本ボクシングコミッション コミッショナー特別功労賞(2009年)
- 2009年度報知プロスポーツ大賞[25]
- WBC 2009年度年間ベストKO賞[14] (Knockout of the year)
脚注
- ^ “「現代スーパーボクサー」【3】西岡利晃(日本、帝拳ジム)”. 時事通信 (2010年10月25日). 2010年10月25日閲覧。
- ^ “西岡、KOできず「すみません」”. サンケイスポーツ (2010年10月24日). 2010年10月25日閲覧。
- ^ a b 西岡、エルナンデスも異常なし WBC・S・バンタム級戦予備検診 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年10月7日
- ^ 西岡7月英へ WBCイベントに招待 日刊スポーツ 2010年6月4日閲覧
- ^ 野望の左ストレート/西岡利晃の22分21秒 - 世界目指すなら、1回KO 神戸新聞 1999年5月12日
- ^ a b 野望の左ストレート/西岡利晃の22分21秒 - 怒りや憎しみでは殴れない 神戸新聞 1999年5月13日
- ^ 野望の左ストレート/西岡利晃の22分21秒 - いまの気持ち…まだまだ 神戸新聞 1999年5月15日
- ^ a b ボクシング・マガジン編集部編 『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』 ベースボール・マガジン社、2004年3月1日発行 ISBN 4-583-03784-8、223頁。
- ^ 「トップボクサー語録2004」『日本ボクシング年鑑2005』 ボクシング・マガジン編集部編、日本ボクシングコミッション/日本プロボクシング協会協力、ベースボール・マガジン社、2005年4月30日発行 ISBN 4-583-03849-6、7頁。
- ^ 西岡勝ち帝拳に22年ぶり王者 日刊スポーツ 2008年9月16日閲覧
- ^ 西岡 “5度目の正直” で涙の初戴冠 デイリースポーツ 2008年9月16日閲覧
- ^ 西岡痛快、海外防衛! 3回でゴンサレスを沈める ボクシングニュース「Box-on!」 2009年5月24日
- ^ 西岡に新たな勲章! JBC特製トロフィー…V4戦で贈呈 スポーツ報知 2010年4月28日閲覧
- ^ a b ベストKO賞受賞の西岡が帰国「凄い物もらった」 スポーツニッポン 2010年8月3日閲覧
- ^ 英国で「WBC王者の夜」 西岡に年間最高KO賞 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年8月2日閲覧
- ^ 挑戦者のあご割り西岡V3 WBC世界S・バンタム級戦 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年10月11日
- ^ 西岡左強打炸裂! 4連続KO防衛の新記録 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年4月30日
- ^ “西岡V5ボディー! 公開計量400人も驚嘆…WBC世界Sバンタム級戦”. スポーツ報知 (2010年10月24日). 2010年10月25日閲覧。
- ^ 西岡文句なしのV5 最強の刺客に圧勝 WBC世界S・バンタム級戦 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年10月24日
- ^ 当初、両国国技館が予定されていたが、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で会場変更となった。
- ^ 長谷川、西岡、粟生出場の豪華トリプル世界戦 4月8日東京で実現 ボクシングニュース「Box-on!」 2011年2月2日
- ^ 強烈左ストレート! 西岡KOで6度目防衛 スポーツニッポン 2011年4月8日閲覧
- ^ “西岡、7度目防衛戦…ラスベガスでマルケスと”. 読売新聞. (2011年7月26日) 2011年7月27日閲覧。
- ^ a b 世界王座認定団体に続き、1998年5月1日より日本ボクシングコミッションでも旧称の「ジュニアフェザー級」を改め、「スーパーバンタム級」へと名称変更した。
- ^ 西岡「米でKO防衛したい」…報知プロスポーツ大賞表彰式 スポーツ報知 2009年12月9日閲覧
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 日本のボクシング世界王者一覧
- ボクシング現王者一覧
- 『2011年プロスポーツ年鑑』財団法人日本プロスポーツ協会、2011年、ISBN978-4-9905744-0-6
外部リンク
空位 前タイトル保持者 大和心 |
第58代日本バンタム級王者 1998年12月29日 - 1999年12月19日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 仲宣明 |
空位 前タイトル保持者 イスラエル・バスケス |
第25代WBC世界スーパーバンタム級王者 暫定:2008年9月15日 - 2008年12月20日 |
次王者 N/A |