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'''クラウディオ・ラニエリ'''('''Claudio Ranieri'''、[[1951年]][[10月20日]] - )は[[イタリア]]・[[ローマ]]出身の元[[サッカー]]選手、サッカー指導者。[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[イングランド]]といった欧州の主要なサッカーリーグで[[監督#スポーツ|監督]]を務めた経験があり、[[バレンシアCF]]、[[チェルシーFC]]、[[ユヴェントス]]などの有名クラブを率いた。現[[セリエA (サッカー)|セリエA]]・[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]監督。 |
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2011年9月より[[セリエA (サッカー)|セリエA]]・[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]の指揮を執っている。 |
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== 来歴 == |
== 来歴 == |
2011年9月25日 (日) 06:08時点における版
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名前 | ||||||
カタカナ | クラウディオ・ラニエリ | |||||
ラテン文字 | Claudio Ranieri | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1951年10月20日(72歳) | |||||
出身地 | ローマ | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
クラウディオ・ラニエリ(Claudio Ranieri、1951年10月20日 - )はイタリア・ローマ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。イタリア、スペイン、イングランドといった欧州の主要なサッカーリーグで監督を務めた経験があり、バレンシアCF、チェルシーFC、ユヴェントスなどの有名クラブを率いた。現セリエA・インテル監督。
来歴
選手時代
1973年にASローマでプロデビュー。しかし、出場機会に恵まれず、2シーズンで6試合に出場したのみで移籍。その後はカタンツァーロ、カターニア、パレルモと渡り歩き、主にDFとしてプレー。1985-86シーズンを最後に引退した。
指導者時代
- キャリア初期
1986年より監督としてのキャリアを開始。イタリア下部のチームを率いた後、1988年にカリアリの監督に就任。同クラブをセリエC1からセリエAまで引き上げる。この実績が認められ、1991年にはナポリの監督に就任。就任2年目に成績不振で解任されたが、衰えの見えていたディエゴ・マラドーナに代わり、若手だったジャンフランコ・ゾラの才能を見出した。1993年よりフィオレンティーナの指揮官に就任すると、セリエAへの昇格に成功。1996年にはコッパ・イタリア優勝に導いた。
- バレンシア(第一期)
1997年にはスペインに新天地を求め、バレンシアの監督に就任。カウンターアタックからの攻撃スタイルを確立し、2シーズンの間にバレンシアを上位争いに食い込むチームへと成長させた。また、人材の育成や獲得にも手腕を発揮。下部組織上がりのガイスカ・メンディエタやミゲル・アンヘル・アングロを育て、レアル・マドリードからサンティアゴ・カニサレスを獲得し守護神に据えた。
- チェルシー
アトレティコ・マドリードの監督を経て、2000年にイングランドの名門チェルシーFCの監督に就任。フランク・ランパードやウィリアム・ギャラスを獲得し、未来のキャプテンであるジョン・テリーを抜擢する一方で、ベテランのデニス・ワイズを放出するなどチームの改革に成功した。2003年夏にロマン・アブラモビッチが新オーナーになると、1億5,000万ユーロを投じる空前の大型補強が行われる。期待が高まる中で迎えた2003-04シーズンは、無敗で優勝したアーセナルに次ぐ国内リーグ2位、UEFAチャンピオンズリーグではアーセナルを破ってのベスト4と一定の結果を出したが、求められていたタイトル獲得はならず。ラニエリはシーズン終了と同時に解任され[1]、ジョゼ・モウリーニョがその後釜に座ることになった。
- バレンシア(第二期)
2004年夏、バレンシアの監督に復帰[2]。開幕前にマルコ・ディ・ヴァイオ、ステファノ・フィオーレ、エミリアーノ・モレッティといったイタリア人の戦力を集め話題になる。しかし、成績は振るわずシーズン途中の2005年2月に解任された[3]。
- パルマ
空白期間を経て、2007年2月にパルマFCの監督に就任。冬の移籍市場で加入したジュゼッペ・ロッシの大活躍にも助けられ、就任時に18位だったチームを立て直し、最終的に12位まで順位を上げてセリエA残留に成功した。
- ユヴェントス
パルマとは契約を延長せず、翌2007-08シーズンよりセリエAに復帰するユヴェントスの指揮官に3年契約で迎えられる[4]。昇格直後のチームを率いてリーグ戦を3位で終え、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
就任2年目の2008-09シーズンは、チャンピオンズリーグのグループステージでレアル・マドリードに連勝したものの、決勝トーナメント一回戦でチェルシーFCに敗北。国内リーグでも勝ちきれない試合が続き、2009年5月18日に解任された[5]。
- ローマ
2009年9月2日、開幕直後に辞任したルチアーノ・スパレッティの後任として、古巣であり出身地のクラブでもあるASローマの監督に就任[6]。実利優先の堅実なサッカーを導入し、チームを上昇気流に乗せることに成功[7]。優勝したインテルと勝ち点2差の2位でシーズンを終え、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。しかし、翌シーズンは一転して不振に陥り、シーズン途中の2011年2月20日に辞任した[8]。
- インテル
2011年9月22日、ジャン・ピエロ・ガスペリーニの後を受けてインテルの監督に就任した[9]。
選手歴
指導歴
- ヴィゴール・ラメツィア: 監督 1986-1987
- カンパニア: 監督 1987-1988
- カリアリ: 監督 1988-1991
- ナポリ: 監督 1991-1992
- フィオレンティーナ: 監督 1993-1997
- バレンシアCF: 監督 1997-1999
- アトレティコ・マドリード: 監督 1999
- チェルシーFC: 監督 2000-2004
- バレンシアCF: 監督 2004-2005
- パルマFC: 監督 2007
- ユヴェントス: 監督 2007-2009
- ASローマ: 監督 2009-2011
- インテル: 監督 2011-
監督としての成績
クラブ | リーグ | 就任 | 退任 | 成績 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
G | W | L | D | Win % | ||||
カリアリ | 1988 | 1991 | 72 | 23 | 19 | 30 | 31.94 | |
ナポリ | 1991 | 1993 | 68 | 25 | 19 | 24 | 36.76 | |
フィオレンティーナ | 1993 | 1997 | 140 | 56 | 34 | 50 | 40 | |
バレンシアCF | 1997 | 1999 | 76 | 35 | 26 | 15 | 46.05 | |
アトレティコ・マドリード | 1999 | 2000 | 38 | 9 | 18 | 11 | 23.68 | |
チェルシーFC | 18 September 2000 | 31 May 2004 | 199 | 107 | 46 | 46 | 53.76 | |
バレンシアCF | 16 June 2004 | 25 February 2005 | 36 | 15 | 12 | 9 | 41.66 | |
パルマFC | 12 February 2007 | 31 May 2007 | 16 | 7 | 6 | 3 | 43.75 | |
ユヴェントス | 1 July 2007 | 18 May 2009 | 92 | 45 | 17 | 30 | 48.91 | |
ASローマ | 1 September 2009 | 21 February 2011 | 56 | 32 | 11 | 13 | 57.14 |
獲得タイトル
- セリエB 優勝: 1993–94
- コッパ・イタリア: 1996
- スーペルコッパ・イタリアーナ: 1996
- コパ・デル・レイ: 1999
- UEFAインタートトカップ: 1998
- UEFAスーパーカップ: 2004