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第三十一戦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第三十一戦隊(だい31せんたい)とは、日本海軍戦隊の一つ[1]太平洋戦争後期、敵潜水艦を積極的に発見・攻撃するための対潜機動部隊として[2]1944年(昭和19年)8月20日に編制された[3][4]レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小沢機動部隊に所属して戦闘に参加した[5]。以後はフィリピン戦線における多号作戦礼号作戦など[6][7]、通常の水雷戦隊任務にも投入された。戦争末期には本土決戦に備えて敵上陸船団に対する水上戦闘任務に転用された(海上挺進部隊[8]

概要

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太平洋戦争突入二年目以後、アメリカ海軍の潜水艦活動により日本の船舶喪失は急激に増大した[9][10]。日本海軍はいくつかの対策を講じたが、その中に対潜水艦戦闘を専門におこなう対潜機動部隊の新編があった[11]。これが第三十一戦隊である[12]第三水雷戦隊の残存部隊を再編して [13]1944年(昭和19年)8月20日に発足した[14](司令官:江戸兵太郎少将)[15]長良型軽巡洋艦の「五十鈴」が戦隊旗艦となった[16][17]駆逐艦海防艦駆潜艇・基地航空部隊の混成部隊であるため、水雷戦隊と呼称せず「戦隊」と呼ばれている[18]大本営海軍部(軍令部)が対潜機動部隊を連合艦隊に編入したことに、シーレーン防衛を担当する海上護衛総司令部からは大きな不満があがった[19]。 また対潜部隊として新編されたものの、まとまって行動する機会はなく、分散して船団護衛任務に従事した[20]

10月18日夕刻、日本軍は捷一号作戦を発動、レイテ沖海戦がはじまる[21]。この作戦で、第三十一戦隊は第三艦隊に編入され[5]第一機動艦隊の護衛艦として行動することになった[22]。10月20日、第三十一戦隊は軽巡洋艦大淀を臨時旗艦とし[23]小沢機動部隊に所属して日本本土を出撃する[24][25]。10月25日のエンガノ岬沖海戦にのぞんだ[26]

海戦に敗北して日本本土にもどったあと[27]、第三十一戦隊は軽巡洋艦五十鈴を旗艦として内地を出撃したが[28]、同艦は11月19日に米潜水艦の雷撃で大破する[29]。 11月20日、第三十一戦隊は第五艦隊に編入され[6]、第二遊撃部隊に所属してレイテ島地上戦にともなうレイテ島増援輸送「多号作戦」に従事した[30]。第五艦隊編入直後の11月25日、第三十一戦隊旗艦の駆逐艦霜月が米潜水艦に撃沈され[31]、江戸少将をふくめ第三十一戦隊司令部は全滅した[32]鶴岡信道少将が後任の第三十一戦隊司令官となる[33]。最前線の各艦は多号作戦や礼号作戦に従事したが[34]、多数の沈没艦と損傷艦を出した。

1945年(昭和20年)2月5日、第五艦隊の解隊にともない[34]、第三十一戦隊は戦時編制において連合艦隊付属に戻った[35][注 1]。 3月15日、第二艦隊(旗艦:大和)に編入される[38]。三十一戦隊の旗艦は秋月型駆逐艦花月となった[39]。4月上旬の菊水作戦にともなう戦艦大和を含む海上特攻隊の沖縄方面出撃では[40]、第三十一戦隊は豊後水道において第一遊撃部隊の出撃針路の対潜掃蕩をおこなった(坊ノ岬沖海戦[41]。4月20日に第二艦隊が解隊されると、再び連合艦隊付属に戻った[42]。 同20日付で第二水雷戦隊が解隊されたため、残存駆逐艦も第三十一戦隊に組みこまれた[43]。その後、第三十一戦隊を基幹に海上挺進部隊が編成されるが[8]、大規模な海戦や戦闘に遭遇することなく、終戦の日を迎えた。

沿革

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編成経緯

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太平洋戦争勃発後、次第に威力を増してきたアメリカ海軍潜水艦による通商破壊に対抗するため[11]、日本海軍は1943年(昭和18年)11月の海上護衛総司令部新編以降、海上護衛関係の部隊編成を進めた[9]。 そのような流れの1944年(昭和19年)6月19日、マリアナ沖海戦で日本海軍は主力空母大鳳翔鶴を潜水艦の雷撃で喪失した[9]。7月5日、サイパン島地上戦はアメリカ軍の勝利で終わり、サイパン島に取り残されていた第六艦隊司令部(司令長官:高木武雄中将)、第三水雷戦隊司令部(司令官:中川浩少将)[44]第二海上護衛隊司令部(司令官:辻村武久少将)の三司令部は日本軍守備隊(中部太平洋方面艦隊第31軍など)と共に玉砕した[45]。第三水雷戦隊は7月18日付で中部太平洋方面艦隊から除かれて連合艦隊付属となった[19]

米軍潜水艦の跳梁に対し、大本営は海軍次官・軍令部次長連名で、対潜活動の活発化と関係各位の奮起奮励をうながした[9]。 日本海軍の連合艦隊司令部(司令長官:豊田副武大将、参謀長:草鹿龍之介中将)[19]及び第一機動艦隊司令部(司令長官:小沢治三郎中将)では、上述のように全滅した第三水雷戦隊司令部を再建し[14]、さらに海防艦(甲型海防艦丁型海防艦)を編入、将来的には対潜空母(大鷹型航空母艦)や対潜基地航空隊を増強し、専門の対潜掃討部隊を編成することを要望した[1]。 連合艦隊の表現によれば「現戦況ニ鑑ミ可及的速ニ潜水艦狩名人部隊ヲ編成シ」であるが[20]、理想的編成になるのは11月以後と判断していた[19]。当初、戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦3番艦の名取を予定していた[19]

他方、軍令部第12課(防備担当)からも、海防艦及び航空機を主体とする対潜攻撃部隊の構想が持ち上がった[11]。 これらの構想は、海上護衛総司令部参謀長であった島本久五郎少将の回想によると、大西洋の戦いにおける連合国軍の対潜機動作戦部隊(ハンター・キラー・グループ英語版)の活躍がUボートの封殺に成功したという評価に影響を受けたものであった[46]

そして、目的及び用法において両構想に共通性があること、現有兵力では複数部隊の編成は難しいことから、さしあたり1個戦隊が編成されることになった[19]軍令部は8月14日までに及川古志郎軍令部総長以下の承認を得た[3]。その結果、日本海軍は1944年(昭和19年)8月20日第三十一戦隊を新編した[12]。 第三十一戦隊司令官には、第三水雷戦隊司令官江戸兵太郎少将[注 2]が任命された[50]

当初戦隊旗艦には、上述のとおり旧第三水雷戦隊旗艦だった「名取」を予定していた[19][51]。だが姉妹艦「五十鈴」の方がレーダーや水測兵器が優秀と判明した[52][注 3]。 軍令部は、急遽予定を変更する[52]。「名取」は、8月7日に撃沈された軽巡洋艦「長良[53][54]の代艦として第十一水雷戦隊旗艦の予定となった[52]。ところがフィリピン~パラオ諸島方面輸送作戦従事中の8月18日に米潜水艦(ハードヘッド[55]の雷撃で撃沈されてしまった[56]。 なお『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊 <6>』では上記の経緯が述べられているが[52]、『戦史叢書 海上護衛戦』では「名取を第三十一戦隊旗艦にする予定だったが、撃沈されたので五十鈴に急遽変更した」と記述している[57]

新編時の第三十一戦隊の兵力は、旗艦「五十鈴」のほかに[16]、第三水雷戦隊の残存駆逐艦5隻(卯月、夕月、秋風皐月夕凪)から成る第30駆逐隊[注 4]と、新造の松型駆逐艦から成る第43駆逐隊[59][注 5][注 6]、海防艦5隻[注 7](満珠、干珠、笠戸、三宅、第22号海防艦[注 8])であった。 新編後も戦力の増強がおこなわれ、同年9月1日には新編の第933海軍航空隊が編入された[61][62]

運用方針

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1944年(昭和19年)8月20日に創設された第三十一戦隊は、連合艦隊に直属部隊として編入された[62]。時期をみてさらにもう一隊を新編し、海上護衛総司令部に編入する予定だったという[61]。対潜任務であるにもかかわらず海上交通保護を任務とする海上護衛総司令部部隊に編入されなかった理由は、軍令部が「海上護衛総司令部は直接護衛を担当する、連合艦隊は海上交通要所における対潜掃蕩を担当する」と区別していた為である[20]。 軍令部第12課の十川潔中佐の回想によれば[63]、海上護衛総司令部に運用を委ねると護送船団の直接護衛に使用されてしまい、本来の意図である独立した対潜機動部隊としての活動ができないおそれがあること、花形部隊である連合艦隊所属としたほうが士気が高まることにあったという[20]

これについて、海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は、兵力不足の海上護衛総司令部では第三十一戦隊が船団護衛に使用できれば南方航路の護衛が3割増強できると期待していた[20][64]。 第三十一戦隊編成直後の8月24日、軍令部総長官邸でおこなわれたルソン海峡緊急対潜方策の研究会で大井参謀は海上護衛部隊の戦力不足を訴え、第三十一戦隊の応援と活用を要求している[65]。ただし、将来的にはルソン海峡対潜作戦専門の根拠地隊(機雷敷設の第18戦隊を基幹)の新編をもとめている[66]中澤佑軍令部第一部長は「第三十一戦隊の用法については別に研究を必要とする」と述べた[66]。 戦後、大井は「第三十一戦隊が連合艦隊の大型艦の対潜護衛に回されてしまった」と考えて、不服だったと回想している[64]

また大井篤の回想では、護衛部隊の意見として、船団護衛兵力不足を解消するため第三十一戦隊に限らず連合艦隊所属の駆逐艦を船団護衛に転用する選択肢にも言及している[67]。大井の主張に対し、軍令部第一部長であった中澤佑中将や戦史叢書『海上護衛戦』の編纂に関わった小山貞大佐(戦後は防衛庁防衛研修所戦史室調査員)らは「連合艦隊所属の艦隊型駆逐艦は貴重な艦隊決戦兵力であり、対潜能力が低く船団随伴の低速行動にも不向きであった」などとして、かかる選択の有効性に疑問を呈している[68]。 海上護衛総司令部の要望も受け[64]、第三十一戦隊はルソン海峡での対潜訓練を兼ねた船団護衛など南シナ海方面を中心に作戦行動を行った。

なお、第三十一戦隊以外の対潜攻撃部隊として、海上護衛総司令部部隊の第一海上護衛隊でも、1944年7月に独自の掃討小隊と称する軍隊区分を創設している[69]。この掃討小隊は、護送船団周辺で護衛に当たりつつ、機に応じて行動して敵潜水艦を捕捉攻撃する任務が与えられ、船舶被害の多いルソン海峡での作戦に従事した[70]。同年8月にはフィリピンの戦いに向けた増援部隊輸送作戦のため、連合艦隊などから第一海上護衛隊の指揮下に護衛艦艇が増強されたのを受け、1個小隊につき海防艦または掃海艇4隻体制の3個小隊が投入されている[71]。一例として第三掃討小隊(佐渡択捉松輪日振)は澎湖諸島馬公からヒ71船団の護衛に加わったが、7月22日に潜水艦の襲撃で3隻(佐渡、松輪、日振)が沈没した[72]

戦歴

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昭和19年

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1944年(昭和19年)8月20日の第三十一戦隊新編時、第三十一戦隊旗艦の「五十鈴」は横須賀での修理・改造が完了しておらず(9月14日、改装終了)[16]、第三十一戦隊司令部は呉鎮守府の一角を借りして事務をおこなった[61]。 9月7日、豊田連合艦隊司令長官は連合艦隊電令作第292号をもって敵潜掃蕩部隊 (SCB) を編成し、第三十一戦隊と第三南遣艦隊麾下の第21駆潜隊に対し「(一)敵潜撃滅、(二)機動部隊および補給部隊護衛、(三)艦隊泊地警戒、(四)海上交通保護 」を命じた[73]。だが戦局の急転により、統一行動をとったことはなかったと思われる[74]

10月17日、連合軍はフィリピン中部のスルアン島に大部隊を展開し、上陸作戦を開始した[75]。連合艦隊司令部は、当時内海西部にあった第三十一戦隊を機動部隊本隊(指揮官:小沢治三郎第三艦隊司令長官)の警戒部隊に編入した(GF電令作第356号)[5]。これは、機動部隊本隊の警戒兵力であった第二遊撃部隊[注 9]台湾沖航空戦における「残敵掃蕩」のため出撃させたため[77]、機動部隊の護衛が足らなくなったための措置である[78]

10月18日午後5時[79]、日本軍は捷一号作戦を発動する[80]。翌日、第三十一戦隊は旗艦を「五十鈴」から軽巡洋艦「大淀」に変更した[23][注 10]。 10月20日夕刻、小沢機動部隊[注 11]として豊後水道を出撃した[85]。 第三十一戦隊の任務は、第三艦隊を基幹とする機動部隊の護衛であった[86]。軽巡洋艦や駆逐艦は機動部隊本隊の直衛を担当し、海防艦部隊は燃料補給部隊の護衛をおこなった[87]。第一補給部隊(タンカーたかね丸、海防艦〈22号、29号、33号〉)・第二補給部隊(タンカー仁栄丸、駆逐艦秋風、海防艦〈31号、43号、132号〉)という編成である[88]。 10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢機動部隊は空母を含め7隻を喪失する[注 12]。第三十一戦隊は損傷艦こそあったものの、沈没した艦はいなかった[92]。第二補給部隊の仁栄丸は10月25日に米潜水艦(スターレット)によって撃沈され[93]、第一補給部隊のたかね丸も10月31日に米潜水艦複数隻の襲撃により撃沈された[94][95]

レイテ沖海戦後、「大淀」と「若月」は奄美大島からフィリピンへ再進出を命じられたため[96]、小沢機動部隊司令部は「大淀」から「日向」へ[97][98]、第三十一戦隊司令部は「大淀」から「五十鈴」へ移動した[99]。第三十一戦隊は小沢艦隊残存艦と内地に戻って補給と修理をおこなう[100]。 その後「南方輸送部隊H部隊」として、南西方面への輸送任務に従事する[97]。第三十一戦隊司令官指揮のもと[注 13]、第四航空戦隊(日向、伊勢)[101]と軽巡「五十鈴」および駆逐艦複数隻(霜月、梅、桐、桃、桑、杉)は再び南西方面へ進出する[28][30]。三十一戦隊はマニラ到着をもって、南西方面部隊に編入されることが発令されていた(11月5日)[30]

南方輸送部隊H部隊は新南群島で待機中[102]四航戦等はリンガ泊地へ、第三十一戦隊はマニラへ向かうことになった[注 14]11月19日[103]、三十一戦隊旗艦「五十鈴」はコレヒドール島沖合で米潜水艦・ヘイクの雷撃により、艦尾切断の大損害を受けた[104]。11月20日、第五艦隊麾下の第一水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)が第二水雷戦隊と統合される形で解隊されると[105]、第三十一戦隊は一水戦の代わりの駆逐艦部隊として第五艦隊に編入された[106]。以後、第三十一戦隊は本格的に多号作戦に従事する[6]。多号作戦とは、ルソン島マニラからレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力増援作戦である[107]

11月22日、「五十鈴」は駆逐艦「」に護衛されてシンガポールに到着した[30][108]。第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦の「霜月」(第二水雷戦隊・第41駆逐隊所属)に旗艦を変更した[33]24日午後、江戸少将は「桃」を率いてシンガポールを出発、ブルネイに向かう[33]11月25日未明[109]、「霜月」は米潜水艦・カヴァラに撃沈される[110]。霜月沈没により[注 15]、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将をふくめ戦隊司令部は全滅した[46]。 そこで同年12月1日、鶴岡信道少将を新任司令官[112]として内地で第三十一戦隊司令部が再建され、12月22日に空路でマニラに進出した[34]。この間、「五十鈴」はシンガポールからスラバヤに回航され[17]、同地で修理をおこなった[7][113][114]

同年12月5日、北東方面艦隊の解隊にともない第五艦隊は南西方面艦隊に編入された[115]。 12月8日には麾下の第933海軍航空隊がルソン島北部カナンカに進出したが、護衛関係航空部隊の大規模な整理統合に伴い、第三十一戦隊から除かれて第936海軍航空隊に吸収された[116]。多号作戦に投入された第三十一戦隊の駆逐艦は次々に被害をうけた[117][118]。 同年12月15日、連合軍はミンドロ島に上陸してミンドロ島地上戦がはじまり[119]、多号作戦は中止された[120][注 16]。 第三十一戦隊のうち3隻()は様々な事情を経たあと[124][125]、第二遊撃部隊および第二水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下に入り[126]、礼号作戦部隊として[7][127]、12月28日深夜の礼号作戦に参加した[128][129]

昭和20年

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1945年(昭和20年)1月初旬、連合軍はリンガエン湾に進出し[130]、上陸作戦を開始した[131]ルソン島の戦い[132]南西方面艦隊(司令長官:大川内傳七中将)は第三十一戦隊所属艦を含めた第二遊撃部隊に水上突入作戦を命じたが[133]、第52駆逐隊(檜、樅)が空襲と水上艦艇による攻撃で撃沈された[134]。 1月8日、大川内長官は第三十一戦隊残余(梅、樫、杉)の進出を命じたが翌日には取り消し、駆逐隊は第二遊撃部隊から除かれた[135]。第三十一戦隊司令部は台湾高雄市に移転した[34]。各艦は、南西方面から内地や台湾への撤退を開始する[136][137]。香港で修理中の駆逐艦「」は1月20日に高雄港へ到着し、姉妹艦()と合流した[138]ルソン島からの航空兵力撤収作戦で[139]、1月31日に「梅」が空襲により沈没[140]、駆逐艦「[141]も損傷した[34][142]

2月5日、第五艦隊は戦時編制からのぞかれて解隊され[143][144]、第二遊撃部隊の残存部隊は新編の第十方面艦隊(司令長官:福留繁中将)に編入された[145]。ただし、第三十一戦隊は戦時編制において連合艦隊付属に戻された[146]高雄警備府部隊付属)[147]。 そして、同年3月15日には日本列島内海西部所在の第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将)に編入された[38]。ただし、スラバヤで修理中の「五十鈴」は損傷のため3月25日付で第十方面艦隊に編入されて第三十一戦隊から除かれ[17]、駆逐艦としては大柄な秋月型駆逐艦の「花月」が第三十一戦隊に与えられた[148]。第三十一戦隊旗艦は駆逐艦「」を経由して「花月」となった[37]

4月初旬の天一号作戦における第三十一戦隊は、豊後水道を通過する海上特攻隊[注 17]を援護するため、呉鎮守府麾下の呉防備戦隊や応援部隊と共に対潜掃討を実施する[152]坊ノ岬沖海戦)。 4月6日午後3時20分、海上特攻隊(大和、二水戦、第三十一戦隊)は徳山沖を出撃した[153]。午後4時20分、第三十一戦隊(花月、榧、槇)は解列し、以後は待機部隊として第11水雷戦隊司令官の指揮下に入った[153]

坊ノ岬沖海戦で主力艦艇を失った第二艦隊が4月20日付で解隊されると、第三十一戦隊は再び連合艦隊直属となった[42]。同じく第二艦隊に所属していた第二水雷戦隊も解隊されて、残存駆逐艦(第7駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊)は第三十一戦隊に編入された[注 18]

本土決戦準備が進められる中、同年5月20日に第三十一戦隊(第17駆逐隊欠)と軽巡「北上」(人間魚雷回天母艦)を基幹として海上挺進部隊軍隊区分が設置され、本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務に充てられることになった[154]。しかし、燃料不足で行動は極めて制限されていた。同年7月15日には最後の水雷戦隊である第十一水雷戦隊(新造駆逐艦の練習部隊)が解隊されたため[155]、第三十一戦隊は日本海軍で唯一、駆逐艦以上の艦艇多数を擁する水上戦部隊として終戦の日を迎えた。

編制

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新編時の第三十一戦隊の基幹となったのは、第三水雷戦隊の残存艦艇であった[3]。編制上の特色は、水上艦艇が水雷戦隊時代から引き継いだ旧式駆逐艦(峯風型神風型睦月型)、新造の松型駆逐艦、対潜能力に優れた海防艦の混成であること、対潜航空部隊を編入されていることである[156]。また、旗艦用として軽巡洋艦および秋月型駆逐艦を割り当てられている。

なお、福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)は、第十三号型駆潜艇5隻(17号、18号、23号、37号、38号)も対潜・対空装備を増強した上で、第三十一戦隊に編入されたと述べているが[157]、『戦史叢書第46巻』に掲載の戦時編制や第31戦隊基幹の部隊についての軍隊区分表(1944年8月20日[156]・10月27日[158]・12月15日[57]・1945年7月15日[154]等)には駆潜艇の記載はなく、大井篤の回想にも駆潜艇が所属していた旨の記述はない[64]。 1944年(昭和19年)9月7日のGF電令作第292号による「敵潜掃蕩部隊」(指揮官:第三十一戦隊司令官)の軍隊区分において、第三南遣艦隊所属の第21駆潜隊が敵潜掃蕩部隊に編入され、第三十一戦隊司令官の指揮下に入っている[61]。 10月4日には十一水戦の駆逐艦「」が敵潜掃蕩部隊に編入され、空母「海鷹」と出動予定だった[159]

1944年末頃には海防艦や航空部隊は編制から除かれ、ほとんど駆逐艦だけの部隊に変わった。

1944年8月20日時点での編制[160]
  • 軽巡洋艦:五十鈴(旗艦)
  • 第30駆逐隊:卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪
  • 第43駆逐隊:松[注 19]、梅、竹、桃
  • 海防艦:干珠満珠笠戸三宅第22号
1944年11月20日時点での編制[30]
  • 軽巡洋艦:五十鈴
  • 第30駆逐隊:卯月、夕月、秋風
  • 第43駆逐隊:梅、竹、桃、
  • 海防艦
    • 第21海防隊[164]:笠戸、干珠、満珠、三宅、生名
    • 海防22、29、31、43
  • 九三三空
1944年12月15日時点での編制[57]
  • 軽巡洋艦:五十鈴(旗艦)
  • 第30駆逐隊:卯月、夕月
  • 第43駆逐隊:竹、桐、槇、榧、桃、梅
  • 第52駆逐隊:、()、
  • 海防艦
    • 第21海防隊[注 20]:笠戸、生名、屋久[165]、干珠、満珠、三宅
    • 第22号、29号、31号、43号
  • 第933海軍航空隊佐伯海軍航空隊の一部を改編):三座水上偵察機16機
1945年4月20日時点での編制[166]
  • 駆逐艦:花月(旗艦)
  • 第7駆逐隊:潮、響
  • 第17駆逐隊:雪風、初霜
  • 第41駆逐隊:冬月、涼月
  • 第43駆逐隊:竹、桐、槇、榧
  • 第52駆逐隊:杉、樫、楓
1945年7月15日、海上挺進部隊[154]
指揮官:第三十一戦隊司令官

年表

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  • 1944年(昭和19年)8月20日 - 第三十一戦隊新編[171]。連合艦隊付属[12]
    • 8月25日 - 南西方面で行動中の駆逐艦「夕凪[172](第30駆逐隊)、アメリカ潜水艦ピクーダに撃沈される[173](10月10日、削除)[163]
    • 9月10日 - 第43号海防艦を編入する[61]
    • 9月20日 - 駆逐艦「皐月」[174](第30駆逐隊)、マニラで米軍機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没する[175](11月10日、削除)[176]
    • 9月14日 - 「五十鈴」の改造と修理が完成した[16]
    • 9月30日 - 第43駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[177]
    • 10月4日 - 十一水戦の駆逐艦「」を敵潜掃蕩部隊に編入する[159]
    • 10月10日 - 第43駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[163]
    • 10月13日 - 第29号海防艦と第31号海防艦を編入する[61]
    • 10月20日 - 第三十一戦隊に所属していた海防艦4隻(満珠、干珠、笠戸、三宅)で第21海防隊を編制する[164]。同海防隊はひきつづき第三十一戦隊に所属した[61]
    • 11月3日 - 緊急輸送部隊(空母隼鷹、軽巡木曾、第30駆逐隊〈夕月、卯月、秋風〉)として南西方面へ移動中、アメリカ潜水艦ピンタド[178]の雷撃で「秋風」が沈没する[179](翌1月10日、削除)[180]
    • 11月19日 - マニラ沖合で第三十一戦隊旗艦「五十鈴」がアメリカ潜水艦の雷撃で大破[29]、駆逐艦「桃」護衛下でシンガポールに回航される[30]
    • 11月20日 - 第三十一戦隊は第五艦隊に編入される[30][181]
    • 11月24日 - 第三十一戦隊司令部は旗艦を「五十鈴」から秋月型駆逐艦「霜月」に変更する[33]
    • 11月25日 - シンガポール沖合で「霜月」[6][31]がアメリカ潜水艦カヴァラの雷撃で沈没する[178]。第三十一戦隊司令官戦死[33]。司令部も全滅する[28]
    • 11月25日 - 同月15日付で編成されていた第52駆逐隊(桑、檜、樅、杉、樫)を[182]、第三十一戦隊に編入する[30][183]。また第43駆逐隊に「榧」を編入する[184]
    • 12月3日 - 第七次多号作戦に従事中の「」と「」がオルモック湾でアメリカ駆逐艦と交戦する[185]。「竹」が損傷[186]、「桑」が沈没する[187](翌年2月10日、削除)[188]
    • 12月5日 - 北東方面艦隊が解隊され、第三十一戦隊が所属する第五艦隊は南西方面解隊に編入される[189]
    • 12月7日 - 第八次多号作戦に従事中の松型3隻(梅、桃、杉)は空襲を受け、各艦とも小破する[190]
    • 12月12日 - 第九次多号作戦に従事中の駆逐艦「卯月[191]、アメリカ軍の魚雷艇に撃沈される[192](翌年1月10日、第30駆逐隊の解隊により削除)[180]
    • 12月13日 - 第九次多号作戦に従事中の駆逐艦「夕月」と「」は空襲を受けて損傷[193]、「夕月」が沈没する[194](翌年1月10日、第30駆逐隊の解隊にともない削除)[180]
    • 12月14日 - マニラ大空襲により「梅」と「桃」が損傷[195]、マニラ脱出後の松型3隻(杉、樫、榧)は新南群島に進出する[196]
    • 12月15日 - マニラ脱出後の「」が[197]、アメリカ潜水艦ホークビルに撃沈される[178](翌年2月10日、削除)[188]
    • 12月22日 - 新司令部(司令官鶴岡信道少将)が空路によりマニラに到着した[33]。マニラ海軍本部に将旗を掲げる[198][199]。南西方面部隊の警戒部隊に区分される[32]
    • 12月24日 - 第三十一戦隊司令官は将旗を駆逐艦「」に掲げる[199][200]
    • 12月25日 - 第21海防隊を海防艦4隻(生名、新南、干珠、満珠)に改編する[165]。第21海防隊および海防艦2隻を第三十一戦隊からのぞき第一護衛艦隊に編入する[201][202]。第21海防隊所属だった「三宅」と「屋久」は連合艦隊付属となる[202]
    • 12月26日 - 警戒部隊に駆逐艦(野風神風旗風呉竹汐風朝顔)を編入、同駆逐艦は第三十一戦隊の作戦指揮下となる[199][203]
    • 12月30日 - 第三十一戦隊司令部は駆逐艦「樅」でマニラを脱出して仏印カムラン湾に移動[199][114]、さらにサンジャックに移動して同30日に第三十一戦隊旗艦を駆逐艦「樫」に変更する[204][113]。第三十一戦隊指揮下で行動中の「呉竹」が潜水艦レザーバックに撃沈される[178]
  • 1945年(昭和20年)1月1日 - 第933海軍航空隊が除かれる[205]
    • 1月4日 - 第三十一戦隊司令部は台湾高雄陸上に司令部を移す[113]
    • 1月5日 - マニラ沖合で「檜」と「樅」がアメリカ軍上陸船団と交戦する[206]。空襲で「樅」が沈没する[207](3月10日、削除)[208]
    • 1月7日 - マニラ沖合で「檜」がアメリカ軍駆逐艦と交戦し、沈没する[209](4月10日、削除)[210]
    • 1月10日 - 台湾佐営で第三十一戦隊作戦指揮下の駆逐艦「朝顔」と、ヒ87船団の海防艦「屋代」が衝突事故をおこす[211]
    • 1月15日 - ヒ87船団を護衛中の「旗風」が高雄港で米軍機動部隊艦上機の空襲により沈没する[199][212]
    • 1月20日 - 第52駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[213]
    • 1月21日 - 台湾高雄で米軍機動部隊艦上機の空襲に3隻(梅、樫、杉)が応戦、「樫」と「杉」が損傷する[214]。第三十一戦隊司令部は高雄警備府に移転した[34]
    • 1月31日 - バシー海峡で空襲により「楓」と「汐風」が損傷、「梅」が沈没する[199][215](3月10日、削除)[208]
    • 2月5日 - 第五艦隊の解隊にともない[34]、戦時編制において連合艦隊付属となる[146][143](高雄警備府部隊に編入)[216][217]。駆逐艦4隻(神風、野風、汐風、朝顔)は第三十一戦隊の作戦指揮下を離れる[217][218][219]
    • 2月21日 - 連合艦隊付属に復帰する[37][220]
    • 2月24日 - 第三十一戦隊司令部は高雄を出発する[37][221]
    • 2月28日 - 第三十一戦隊司令部は呉に到着、駆逐艦「竹」を旗艦とする[37][222]
    • 3月15日 - 第二艦隊に編入される[38]
    • 3月18日 - 第三十一戦隊旗艦は駆逐艦「花月」となる[37][223]
    • 3月25日 - スラバヤで修理中の軽巡「五十鈴」を[199]、第三十一戦隊から削除する[148][注 22]
    • 4月20日 - 第二艦隊の解隊にともない、連合艦隊付属となる[43]。解隊された第二水雷戦隊より、第7駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊を第三十一戦隊に編入する[226]
    • 4月25日 - 第43駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[169][227]。第52駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[169]
    • 5月5日 - 第三十一戦隊隷下の第7駆逐隊が解隊される[228][注 23]
    • 5月20日 - 軽巡「北上」(人間魚雷「回天」母艦)と第三十一戦隊の大部分を基幹として海上挺進部隊が編成される[154]
    • 5月20日 - 第41駆逐隊に駆逐艦「宵月」を編入する[168]。第43駆逐隊に駆逐艦「」を編入する[168]。第52駆逐隊に駆逐艦「」と「」を編入する[168]
    • 5月31日 - 第41駆逐隊に駆逐艦「夏月」を編入する[233]
    • 7月5日 - 第41駆逐隊から「涼月」を削除[234]、防空砲台となる[235]
    • 7月15日 - 第十一水雷戦隊を解隊[155]、損傷していた「楡」[236]を第52駆逐隊から削除する[170]。52駆に「」を編入する[170]
    • 7月28日 - 呉軍港空襲で「梨」が沈没する[237]
    • 8月15日 - 玉音放送、終戦。

歴代司令官

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脚注

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注釈

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  1. ^ 軍隊区分において、第三十一戦隊は高雄警備府部隊に編入された[36]。2月21日、連合艦隊付属に復帰する[37]
  2. ^ 江戸兵太郎少将は、1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦木村昌福少将が負傷したあと、秋山輝男少将が任命されるまで、第三水雷戦隊司令官を務めた[47][48]。横須賀海軍警備隊司令官を務めたあと1944年(昭和19年)8月10日付で軍令部出仕となり[49]、8月15日付で再び第三水雷戦隊司令官に任命された[50]
  3. ^ 軽巡五十鈴第四艦隊麾下の第十四戦隊として中部太平洋方面で行動したが、1943年(昭和18年)12月5日にマーシャル諸島方面で空襲により損傷した[16]マーシャル諸島沖航空戦)。横浜船渠で修理をおこなうと同時に対空兵装および対潜兵装を大幅に強化、防空巡洋艦となっていた[51]
  4. ^ 日本海軍は8月20日付で第22駆逐隊を解隊し、所属2隻(皐月、夕凪)を第30駆逐隊に編入していた[58]
  5. ^ 8月20日の第三十一戦隊新編の時点で、第43駆逐隊に所属していた駆逐艦は戦没していた[60]
  6. ^ 将来的には竹級駆逐艦5隻(杉、樫、樅、檜、楓)で駆逐隊を編成し、第三十一戦隊に編入予定である[52]
  7. ^ この海防艦5隻は連合艦隊付属。将来、甲型海防艦2隻を加えて海防隊を新編予定である[52]
  8. ^ 第22号海防艦は、連合艦隊付属。将来、丁型海防艦5隻を編入して海防隊を新編し、船団護衛用部隊とする予定である[52]
  9. ^ 第五艦隊司令長官志摩清英中将を指揮官とする第二遊撃部隊は、重巡洋艦2隻(那智足柄)、第一水雷戦隊(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将:軽巡阿武隈〈一水戦旗艦〉、第7駆逐隊〈〉、第18駆逐隊〈不知火〉、第21駆逐隊〈若葉初春初霜〉)であった[76]
  10. ^ 大淀の横須賀~内海西部回航を第41駆逐隊(冬月、霜月)が護衛していたが[81]、潜水艦トレパンの襲撃により冬月が被雷して艦首を喪失した[82]。第41駆逐隊司令脇田喜一郎大佐は、司令駆逐艦を冬月から霜月に変更して出撃した[83]
  11. ^ 第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将(第三艦隊司令長官兼任)を指揮官とする機動部隊(捷一号作戦時):小沢長官直率の第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千歳千代田)、第四航空戦隊[84]日向伊勢)・巡洋艦戦隊(多摩五十鈴)・警戒隊(第一駆逐連隊〔第三十一戦隊旗艦大淀・松型駆逐艦〈〉〕、第二駆逐連隊〔 第61駆逐隊〈初月若月秋月〉・第41駆逐隊〈霜月〉〕)。
  12. ^ 7隻の内訳は[89]、空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)[90]、軽巡洋艦多摩[91]、駆逐艦2隻(初月、秋月)
  13. ^ (昭和19年11月9日)[97]0615日向、有川湾発五島北方にて伊勢、(司令官/31S)、五十鈴、霜月、桑、槇、杉、桃、合同し茲に南方輸送部隊H部隊の集合なる。指揮官31S司令官。速力20kt馬公に向かう。(註、実際に同行したのは「桑」ではなく「梅、桐」。)
  14. ^ (昭和19年11月17日)[97](長官)5F(足柄)(旗艦)羽黒、4Sf、大淀、d×4はリンガに回航の事となる。31S(五十鈴、槇、桑、杉、桃)マニラに向ふ。4Sf、霜月、梅、桐は長島錨地に向ふ。1600入泊。1sd、霞、潮、竹、同地にあり各艦に燃料を補給す。
  15. ^ (昭和19年11月25日)[111]比島沖海戦以来の僚艦、霜月は昨夜昭南東水道にて敵潜の雷撃により沈没したり、又金剛は台湾北方にて敵潜の雷撃により轟沈したりとの報あり。
  16. ^ 当時の南西方面における健在水上兵力は、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)麾下の各艦であった。第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦日向」と「伊勢」、重巡洋艦「足柄」(第五艦隊旗艦)と「羽黒」、軽巡洋艦「大淀」・駆逐艦(朝霜清霜初霜、松型駆逐艦複数隻)である[121]。重巡妙高高雄[122]および駆逐艦天津風[123]がシンガポールで修理中だった。
  17. ^ 第二艦隊司令長官伊藤整一中将を指揮官とする第一遊撃部隊は[149]第一航空戦隊(戦艦大和、第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:軽巡洋艦矢矧[150]、第17駆逐隊〈磯風雪風浜風〉・第21駆逐隊〈朝霜初霜〉・第41駆逐隊〈冬月涼月〉)と第三十一戦隊(花月、榧、槇)という戦力であった[151]。軍隊区分は、第一遊撃部隊主隊(大和)、警戒隊(二水戦の9隻)、前路掃海隊(第三十一戦隊の駆逐艦3隻)である[151]
  18. ^ 第7駆逐隊()・第17駆逐隊(雪風、初霜)・第41駆逐隊(冬月、涼月)[43]
  19. ^ 第43駆逐隊に所属していた「」は[59]、第三十一戦隊新編前の1944年(昭和19年)8月4日[161]小笠原諸島方面輸送船団「第4804船団」を護衛中に米軍機動部隊と遭遇[162]、戦没している(スカベンジャー作戦[60]。8月20日時点では、書類上のみの所属となっている。10月10日、除籍[163]
  20. ^ 『戦史叢書』の『大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期』に掲載の1944年10月27日頃の戦時編制に従った[158]。ただし、『戦史叢書』の『海上護衛戦』では第21海防隊ではなく、第21号海防艦となっている[57]
  21. ^ 宵月を第43駆逐隊所属とする資料があるが、宵月は昭和20年内令第447号で第41駆逐隊に編入されている[168]
  22. ^ 25日付で「五十鈴」は第十方面艦隊に編入された[224]。4月7日[225]、潜水艦ガビランチャーの雷撃で「五十鈴」は沈没した[17]
  23. ^ 「潮」は連合艦隊付属になったあと、6月10日付で第四予備艦となり[229]、終戦を迎えた[230]。第7駆逐隊に所属していた「響」は第105戦隊に編入され[231]、日本海で終戦を迎えた[232]

出典

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  163. ^ a b c 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(2) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497400  pp.35-36〔 内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十月十日 海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ 〕
  164. ^ a b 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497600  pp.5-6〔 内令第一一九七號 海防隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十月二十日 海軍大臣 第十一海防隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第十二海防隊|第十四號、第十六號、第三十八號、第四十六號|・|第二十一海防隊|笠戸、干珠、滿珠、三宅 |(内令定要巻一、七二頁参照) 〕
  165. ^ a b 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070498300  pp.48-49〔 内令第一三八一號 海防隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十二月二十五日 海軍大臣 第二十一海防隊ノ項中「笠戸、生名、屋久、干珠、滿珠、三宅」ヲ「生名、新南、干珠、滿珠」ニ改ム 第三十一海防隊ノ項中「朝顔、」ヲ「沖繩、」ニ改ム (内令定要巻一、七三頁参照) 〕
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  177. ^ 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(1) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497300  p.6〔 内令第一一二一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月三十日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃」ノ下ニ「、槇」ヲ加フ 〕
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  182. ^ 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/11月(3) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497900  pp.4-5〔 内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、樅、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  183. ^ 戦史叢書93 1976, p. 69.
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  189. ^ #S1911第五艦隊日誌(2) p.7〔 (ハ)編制改定 (一)十二月五日 第五艦隊ヲ南西方面艦隊ニ編入(大海機密第05009番電) 〕
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  218. ^ #S1912第三一戦隊日誌(2) p.17〔 五日〇九五八(長官)GF(宛略)GF電令第六二七號 一.第一驅逐隊(神風野風)汐風朝顔ヲNSBヨリ除キGF附属トス/二.第一驅逐隊汐風朝顔ハ準備出來次第出港船團護衛ニ從事シツツ昭南方面ニ進出スベシ 右ノ進出行動中護衛竝ニ運航ニ関シテハ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ承クベシ|無電 〕
  219. ^ #S1912第三一戦隊日誌(2) pp.7-9〔 (二)麾下艦船ノ行動 〕(昭和20年2月~3月)
  220. ^ #S1912第三一戦隊日誌(2) p.21〔 二一日〇九〇三(長官)GF(宛略)GF電令作第五二八號 一.三十一戰隊ヲ聯合艦隊附属ニ復皈/二.三十一戰隊ハ當分ノ間内海西部ニ在リテ訓練整備ニ從事スベシ|無電 〕、同部隊戦時日誌 p.40(作戦経過概要、昭和20年2月21日)〔 |31S司令部附准士官以上九名 下士官兵一九名先発隊トシテ一七〇〇高雄発呉ニ向ハシム|一.31SヲGF附属ニ復皈サル/二.31S内海西部ニアリテ訓練整備ニ從事セシメラル 〕
  221. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) p.41(作戦経過概要、昭和20年2月24日)〔 将旗ヲ一時撤ス|一.31S司令官幕僚航空便ニテ内海ニ向フ/二.司令部附後発隊一七〇〇高雄発呉ニ向ハシム 〕
  222. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) p.41(作戦経過概要、昭和20年2月28日)〔 将旗ヲ竹ニ掲揚ス|31S司令官幕僚呉着 〕
  223. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) p.44(作戦経過概要、昭和20年3月18日)〔 一.31S(花月 杉 樫 桐)大和合同ノタメ一六一四呉発桂島ニ回航/二.四三駆(槇)一八三六桂島ニ於テ大和ニ合同/三.楓大津島ニ於テ大和ト合同|旗艦ヲ花月ニ変更|四三驅司令驅逐艦ヲ榧ニ復皈ス 〕
  224. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) p.46(作戦経過概要、昭和20年3月25日)〔 一.天一號作戰警戒/二.五十鈴31Sヨリ除カレ10HFニ編入 〕
  225. ^ 戦史叢書54 1972, p. 600豪北方面陸軍兵力の抽出輸送
  226. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) pp.52-53〔 (三)〃(四月)二十日 31S 11Sdヲ2Fヨリ除キGF附属トセラル/〃(四月二十日)7dg 17dg 41dgヲ2Sdヨリ除キ31Sニ編入セラル/初霜ヲ21dgヨリ除キ17dgニ編入セラル 〕
  227. ^ #S1911第三一戦隊日誌(2) p.53〔 〃(四月)二十五日 43dgノ中ニ蔦ヲ52dgノ中ニ楡ヲ加ヘラル 〕
  228. ^ 秘海軍公報 第5009号 昭和20年5月12日 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070511300 〔 内令第三八二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月五日 海軍大臣|第七驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  229. ^ 秘海軍公報 第5051号 昭和20年6月24日 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C12070505400 〔 内令第五二五號 横須賀鎭守府豫備驅逐艦 驅逐艦 潮 右第四豫備驅逐艦ト定ム 昭和二十年六月十日 海軍大臣 〕
  230. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 282–283潮(うしお)
  231. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 426–427.
  232. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 283–286響(ひびき)
  233. ^ 秘海軍公報 第5027号 昭和20年5月31日  p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C12070511500 〔 内令第四六四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月二十五日 海軍大臣/第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル/第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ|(内令提要巻一、六八頁参照) 〕
  234. ^ 秘海軍公報 第5072号 昭和20年7月18日 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070505700 〔 内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル 〕
  235. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 325–326涼月(すずつき)
  236. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 336b楡(にれ)
  237. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 336a梨(なし)
  238. ^ 昭和20年2月17日(発令昭和19年11月25日付)海軍辞令公報(甲)第1724号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 
  239. ^ a b 海軍大臣官房 『秘海軍辞令公報甲』1897号、1945年8月27日。

参考文献

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  • 雨倉孝之『海軍護衛艦コンボイ物語』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年2月(原著2009年)。ISBN 978-4-7698-3054-2 
  • 大井篤『海上護衛戦』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。 
  • 大井篤『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』光人社〈光人NF文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 小淵守男「第十一章 北号輸送作戦」『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 倉橋友二郎『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ、1987年12月。 
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • (263-280頁)当時五十鈴通信長・海軍大尉芝山末男『防空巡洋艦五十鈴エンガノ岬沖の血戦 主砲を撤去して高角砲六門に対空機銃と電探。大改装後の通信長の回想
    • (304-318頁)戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
    • (319-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 日向会事務局『航空戦艦の活躍 軍艦日向栄光の追憶』日向会事務局、1977年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』 第45巻、朝雲新聞社、1970年4月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 軽巡I 天龍型・球磨型・夕張・長良型』 第8巻、光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 軽巡II 川内型・阿賀野型・大淀・香取型 砲艦』 第9巻、光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 。Ref.C08030019800。 
    • 。Ref.C08030019900。 
    • 。Ref.C08030020000。 
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    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4))』。Ref.C08030127700。 
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。 
    • 。Ref.C16120660200。 


関連項目

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