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高見山大五郎

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高見山大五郎
基礎情報
四股名 ジェシー→高見山
本名 Jesse James Wailani Kuhaulua
(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)
→渡辺大五郎
愛称 ジェシー
生年月日 (1944-06-16) 1944年6月16日(80歳)
出身 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ハワイ準州マウイ島
身長 192cm
体重 205kg
BMI 55.6
所属部屋 高砂
成績
現在の番付 引退
最高位 東関脇
生涯戦歴 812勝842敗22休 (122場所)
幕内戦歴 683勝750敗22休(97場所)
優勝 幕内最高優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞6回、敢闘賞5回
データ
初土俵 1964年3月場所
入幕 1968年1月場所
引退 1984年5月場所
引退後 年寄・東関襲名
他の活動 歌手活動
備考
金星12個(佐田の山1個、柏戸1個、北の富士1個、琴櫻1個、輪島7個、北の湖1個)
2009年5月2日現在

高見山 大五郎(たかみやま だいごろう、1944年6月16日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東関脇身長192cm、体重205kg。本名は渡辺 大五郎(わたなべ だいごろう)、米国名はJesse James Wailani Kuhaulua(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)、愛称ジェシー

四股名の由来

高見山の四股名の由来は、Wikipedia日本語版には永らく「三重県奈良県の県境にある高見山からと言われている」と書かれていたが、2008年2月13日朝日新聞名古屋本社版の朝刊によれば偶然の一致であるという。初代高砂、また優勝制度確立後初の優勝力士(高見山酉之助)が名乗るなど、高砂部屋で由緒ある出世名である。なお、初土俵の場所だけ本名の「ジェシー」を名乗っていた。

来歴

砲丸投げ等の投擲競技を経てアメリカンフットボールに打ち込む。高校時代に交通事故で足腰を負傷、これに悩まされ続けている。当時、明治大学相撲部長だった滝沢寿雄らの紹介で1964年(昭和39年)2月に師匠高砂(元横綱前田山)に5年間衣食住を保障するとスカウトされ同年3月場所初土俵。5月場所4日目には対戦相手が何もせずに土俵から逃げ出したが「逃げ出し」は決まり手に出来ずに仕切り直しとなった[1]。最初はちゃんこの味になじめず、ケチャップをかけて食べていた。若い頃は心労が溜まってもすることがなく(パスポートは親方が預かっているため許可がなければ帰国できなかった)、慣れない力士生活に苦労が絶えなかった。

股割りの稽古の際に涙し、その時に言ったといわれる「目から汗が出た」は名言となり、様々なドラマやお笑い番組で模倣された。1966年(昭和41年)には扁桃腺手術を受けたが翌日から稽古を再開し、このとき執拗な喉輪攻めを受けたために声帯を痛め、独特のかすれ声になった(医師からは、手術をすれば元の声に戻ると言われたが、長い期間リハビリを行わなければならないため、今の所手術は受けていない)。元々は美声で知られる人物で、歌も上手かったという。1967年(昭和42年)3月場所新十両、初の外国出身外国籍の関取となった。1968年(昭和43年)1月場所新入幕、史上初の外国出身外国籍の幕内力士となり3月場所には佐田の山に引導を渡す金星、9月場所には柏戸からも金星を挙げた。

1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進。その後小結と平幕の往復が続く。1971年(昭和46年)に師匠・高砂親方が亡くなると「ボスが死んで意欲も失った」と廃業も考えた。しかし、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意する。

化粧廻しにも掲げた「Go for broke」(当たって砕けろ。元々はハワイ出身者も数多く在籍した第2次世界大戦時の米軍日系人部隊スローガン)のとおり、ぶちかまして一気に前に出る破壊力抜群の取り口で知られた。「見る、立つ、出る。大丈夫ネ!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。これは師匠・高砂親方の方針も大きいと言われ、入門時から常に「ジェシー、プッシュ、プッシュ(組まずに押せ)」と指導していたと語られている。

のべ12個の金星を獲得し、一時は現役力士の最多記録だった[2]。金星のうち7個は輪島から獲得している。大関貴ノ花との対決は弁慶牛若丸のそれに譬えられ人気を博した。

1972年(昭和47年)7月場所に13勝2敗で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げる。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。

翌場所には外国出身で初の関脇に昇進。その後大関昇進を期待させるような場面も数度あったが、足腰の脆さのため果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関前の山の引退も相撲の成長を止めた一因といわれる。足腰の脆さゆえに投げられると弱かったが負傷は少なく、長い現役生活に繋がったと評されている。

常々「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と語っていたが、1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽き、引退を表明する。両国国技館で相撲をとる夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため[3] 、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。

16年、97場所にもわたる幕内在位は、当時の大相撲最長記録[4] 。また連続出場記録が怪我のために途絶えた1981年(昭和56年)9月場所では「親方からは記録より体が大事だと言われたが、ワシには体よりも記録の方が大事だった」と云う言葉を残している。現役引退時、「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。

引退後に年寄東関を襲名。数年後には審判委員を務めた。引退後も協会に残ることを希望しており、現役時代の1980年(昭和55年)に日本国籍を取得。日本名は渡辺大五郎(夫人の姓と、相撲の四股名を合わせたもの)。

中国・韓国(朝鮮)など東アジア圏の出身者を除けば、外国出身者として当時最も上位で活躍した力士であり、後の各国出身力士、特にハワイ勢(すなわちポリネシア勢)の活躍の道を開いたと言える。アメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、異境での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られ、相撲ファン以外にも絶大な人気があった。独特の長いもみあげなど特徴ある容貌も人気で、テレビCMに出演するなど土俵の外でも活躍した。弟弟子になる小錦を自らスカウトし、自分の弟子であるを横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献した。ハワイ出身の関取としては、この他に大喜を育てた。最近は、高見盛の師匠としても知られ、師弟2代で角界の人気者となった。

2009年(平成21年)6月15日、日本相撲協会を定年退職した。かつての人気力士の定年とあって、テレビの情報番組などで大きく特集が組まれ、現役時代の映像も多く流された。同年5月場所限りで現役を引退した弟子の潮丸が、師匠の退職と同時に「東関大五郎」を襲名し、東関部屋を継承した。その際に「もう一度ハワイの力士を育てたい」と語った。

定年退職後も単発でテレビ出演を行っている。

エピソード

  • 入門当初から師匠の高砂親方(前田山)をボスと呼んでいた。前田山の死後は高砂を継いだ兄弟子の朝潮(3代目)をボスと呼んだ。
  • 高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた文部大臣森喜朗(当時)が、昭和天皇より「高見山がなぜ辞めたのかね」「高見山は残念だったろうな」との下問を受けた。そのことを後に森が高見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという[5]
  • NHK大相撲中継では英語での解説も務める(衛星第2テレビ放送)。
  • 角界では珍しくギャンブルが大嫌いであり、現役時代も一切ギャンブルに手を出さなかった。パチンコを起因とする債務で引退した弟子の高見藤の会見の際に「私の大嫌いなギャンブルにのめり込んだ」と発言した。
  • 長男の渡辺弓太郎は、小学校時代に力士の道を断念。中学卒業後単身渡米し、スポーツ・エージェントの道へ進んだ。2003年(平成15年)、松井秀喜の入団に合わせるかのように米メジャーリーグベースボールニューヨーク・ヤンキースに入り、ヤンキースタジアム運営部職員として活躍。サンケイスポーツ紙は2007年1月、弓太郎が阪神タイガースからポスティングシステムにより入団した井川慶の通訳を務めると報じた。
  • 従兄弟に元中日ドラゴンズ投手のフレッド・クハウルアがいる。
  • プロレスラーの藤波辰爾とは現役時代から親交があり、新日本プロレスの会場にもよく観戦に訪れていた。
  • 大横綱・大鵬と対戦した経験のある最後の現役力士だった。ただし、大鵬とは11回対戦したものの1度も勝てなかった。
  • 引退時、小学館の学習雑誌は急遽・読みきり漫画の「日本一の人気力士・高見山」を掲載した(後に、単行本化された)。引退の翌年(1985年)には、引退までの半生を描いたテレビドラマ「どすこい!大五郎 高見山物語」(フジテレビ)が放送され、高見山(正確には東関)も自身の役で出演(主演)している。高見山夫人は丘みつ子が演じた。
  • 1972年、変身忍者 嵐毎日放送)32話「妖怪三十一面相!!」に、力士姿でゲスト出演した。
  • 1972年7月場所で初優勝した際、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンから祝電が発せられたことは有名だが、高見山によると「当時はアメリカ大統領選挙の年でね、祝電は(共和党候補の)ニクソン大統領だけでなく、民主党候補だったジョージ・マクガヴァンからも発せられていたんですよ」と語り、自身の快挙がアメリカ大統領選挙の熾烈な争いの渦中でもあったことを明かしている[6]
  • 後に横綱となる愛弟子、曙をスカウトしたのは、故郷ハワイでの『高見山の新弟子探し』のテレビ番組の企画に乗っかる形で、地元の後援者から紹介されたものだったという[6]
  • 「若い頃は山手線に乗って時間を潰し、寂しさを紛らわせた」というエピソードが知られているが、これは事実ではない。本人によれば、当時は両国駅から(山手線が通る)秋葉原駅までの行き方も知らなかったという。[7]
  • 現役時代の1976年5月に母のリリアンを53歳で亡くしている。高見山にとって、この時が最も悲しかったと語っている。立場上高砂親方(元横綱朝潮)夫妻にだけは母の死をすぐに打ち明けたが、本場所が始まる直前だったことから周囲への影響を避けたいと場所が終わるまでは口外しないように頼んでいた。この時葬儀に出席できない心境を「ハワイでは親が死んだ時や悲しんでいる時に子は故郷に帰りそばにいてやるもの、でも今そんなことはできない。日本の『つらい悲しい時でも故郷を思い精進する気持ち』を大切にする。」と言っていた。母の供養を果たすべく臨んだ5月場所では小結として15日間相撲を取り続け、勝ち越して終えている(毎日新聞の記事より)。
  • 停年退職の際に「一番の思い出は曙が横綱になったことかな。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う」と語った。
  • 2009年に開かれた定年を祝う会では、麻生太郎首相(当時)とバラク・オバマ大統領(当時。ハワイ出身)から祝電が届いた。[8]
  • 高見山の定年退職を受け、アメリカ合衆国下院は2009年6月15日に彼の日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行った[9]
  • 2009年10月に第57回菊池寛賞の受賞が発表された。スポーツ関係者の受賞は2001年のイチロー以来。大相撲関係者の受賞は史上初。また同年12月にはスポーツ功労者に選ばれた。
  • SF小説『銀河英雄伝説』に登場するフョードル・パトリチェフのモデルである。
  • 2012年4月28日に行われた「高砂一門ファン感謝イベント」では、立派な白髭をたくわえてトークショーに出演した。

初の外国人力士として

高見山は初めての外国人、それも一般日本人とは異なる人種の力士として注目された。そのため、外国人差別を受けた、との見方がなされたこともある。例えば「相撲は国技だから外国人を受け入れるべきではない」との評論がたびたびマスコミに顔を出し、彼自身もそのような手紙などを受け取ったことがある。また「親方株取得は日本国籍を有する者に限る」との制約がなされたのは、彼を閉め出そうとするものであったという判断もあった[10]。ただし彼自身はこれを一切認めず、多少はそのような反感めいたものがあったことは認めながらも、それらを例外的なものとし、「外人差別は一切感じなかった」と述べている。

場所別成績

高見山大五郎
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1964年
(昭和39年)
x (前相撲) 西序ノ口11枚目
優勝
6–1
東序二段71枚目
優勝
7–0
西三段目22枚目
5–2 
西幕下92枚目
5–2 
1965年
(昭和40年)
西幕下66枚目
2–5 
西幕下84枚目
6–1 
西幕下44枚目
3–4 
東幕下48枚目
5–2 
西幕下30枚目
5–2 
東幕下14枚目
3–4 
1966年
(昭和41年)
東幕下17枚目
1–6 
東幕下41枚目
3–4 
西幕下46枚目
5–2 
西幕下29枚目
5–2 
東幕下16枚目
5–2 
西幕下9枚目
5–2 
1967年
(昭和42年)
西幕下2枚目
5–2 
東十両18枚目
10–5 
東十両13枚目
10–5 
東十両6枚目
9–6 
東十両2枚目
8–7 
東十両筆頭
10–5 
1968年
(昭和43年)
東前頭9枚目
9–6
東前頭4枚目
5–10
東前頭6枚目
8–7 
西前頭2枚目
7–8 
西前頭3枚目
8–7
西前頭筆頭
4–11 
1969年
(昭和44年)
西前頭6枚目
6–9 
西前頭8枚目
9–6 
西前頭3枚目
7–8 
西前頭3枚目
6–9 
東前頭5枚目
9–6 
西小結
8–7 
1970年
(昭和45年)
西小結
8–7 
東小結
4–11 
西前頭5枚目
11–4 
東小結
5–10 
西前頭3枚目
6–9 
東前頭5枚目
8–7 
1971年
(昭和46年)
西小結
4–11 
東前頭3枚目
6–9 
西前頭3枚目
9–6 
西小結
8–7 
東小結
8–7 
東小結
8–7 
1972年
(昭和47年)
東小結
6–9 
東前頭3枚目
6–9 
東前頭7枚目
8–7 
西前頭4枚目
13–2
西関脇
5–10 
西前頭筆頭
9–6
1973年
(昭和48年)
西関脇
8–7 
西関脇
4–11 
西前頭4枚目
8–7 
西小結
3–12 
西前頭4枚目
9–6 
東前頭筆頭
5–10 
1974年
(昭和49年)
西前頭4枚目
8–7 
西前頭筆頭
10–5
西関脇
8–7 
西関脇
11–4
東関脇
6–9 
東前頭筆頭
7–8
1975年
(昭和50年)
東前頭2枚目
6–9
東前頭5枚目
8–7 
東前頭3枚目
10–5 
西小結
5–10 
西前頭4枚目
11–4
東小結
8–7 
1976年
(昭和51年)
東小結
9–6
東関脇
7–8 
西小結
8–7 
東小結
5–10 
東前頭4枚目
8–7
東前頭筆頭
8–7 
1977年
(昭和52年)
東小結
5–10 
東前頭3枚目
6–9
東前頭7枚目
9–6 
西前頭2枚目
9–6 
東小結
9–6
東関脇
3–12 
1978年
(昭和53年)
東前頭6枚目
9–6 
西前頭筆頭
6–9 
西前頭3枚目
6–9
西前頭6枚目
10–5 
東前頭筆頭
5–10
東前頭6枚目
9–6 
1979年
(昭和54年)
西小結
2–13 
東前頭9枚目
8–7 
東前頭5枚目
8–7 
東前頭筆頭
3–12 
西前頭10枚目
10–5 
西前頭2枚目
3–12 
1980年
(昭和55年)
西前頭11枚目
8–7 
西前頭6枚目
8–7 
東前頭3枚目
6–9 
西前頭4枚目
7–8 
西前頭5枚目
7–8 
東前頭6枚目
6–9 
1981年
(昭和56年)
東前頭11枚目
8–7 
東前頭7枚目
9–6
東前頭3枚目
6–9 
西前頭7枚目
10–5
東前頭筆頭
0–2–13 
東前頭11枚目
9–6 
1982年
(昭和57年)
東前頭5枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
東前頭8枚目
10–5 
東前頭筆頭
8–7 
東小結
5–10 
東前頭4枚目
4–11 
1983年
(昭和58年)
東前頭9枚目
9–6 
東前頭2枚目
4–11 
西前頭7枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
西前頭7枚目
6–9 
東前頭11枚目
8–5–2 
1984年
(昭和59年)
東前頭8枚目
1–7–7 
西十両3枚目
4–11 
西十両12枚目
引退
2–13–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な成績

  • 通算成績:812勝842敗22休(通算勝星:歴代8位、通算敗北:歴代3位) 勝率.491
  • 幕内成績:683勝750敗22休(幕内勝星:歴代7位、幕内敗北:歴代2位) 勝率.477
  • 幕内在位:97場所(歴代2位。現在1位は大関・魁皇
  • 通算連続出場:1425回(歴代4位)
  • 通算出場:1654回(歴代4位)
  • 幕内連続出場:1231回(歴代1位)
  • 幕内通算出場:1430回(歴代2位。現在1位は魁皇)
  • 横綱対戦人数:11人(歴代1位)
  • 幕内最高優勝:1回(1972年7月場所)
  • 三賞
殊勲賞6回(1972年7月場所・11月場所、1974年3月場所・7月場所、1976年1月場所、1977年9月場所)
敢闘賞5回(1968年1月場所・9月場所、1974年7月場所、1981年3月場所・7月場所)

メディア活動歴

テレビCM出演

その人気振りから、朝潮(師匠と弟弟子、どちらの朝潮かは不明)からCM横綱と呼ばれるほど、多数のCMに出演した。

  • 大同薬品工業 栄養ドリンク 「ハイクロンA」  
  • 松下電器産業 携帯型テレビ「トランザム」のCM。スーツ姿で帽子を被りタップダンスを踊りながら「トランザム!!」と叫ぶ。同時期の「第28回NHK紅白歌合戦」にて、紅組出場歌手恒例のアトラクションであったラインダンスにも同様の衣装で参加。スーツは退職を前に相撲博物館に寄贈した。
  • 丸八真綿 彼のしゃがれ声で発する「マルハッチ!」「二倍二倍!二枚二枚!」のキャッチフレーズは一躍ブームに。子供たちからタレントまで、彼の声マネは物真似のスタンダードになった。
    • 1990年放送のテレビ朝日系「地球戦隊ファイブマン」30話ではこの二倍二倍!のセリフとポーズが敵である初代艦長シュバリエと銀河戦隊ギンガマンによって演じられたのみならず、四倍四倍!というパロディまでもが登場した。
    • 定年を祝う会開宴前の記者会見で、「列席者が予想の倍になった。」とコメントした際、記者に促される形ではあったが、「ああ二倍ね。…二倍二倍になったネ。」と付け加えて場を和ませた。
    • このCMの中には幼少時代の持田香織が出演しているものがある。
  • 日本船舶振興会(現:日本財団)および日本防火協会 火の用心や敬老などを呼びかけるCM。バスドラムを叩きながら登場。チンパンジーや子供達、山本直純、当時の振興会会長である笹川良一(高見山後援会会長でもあった)と出演。同CMは夕方のゴールデンタイムに多く放映され、CMソングは各曜日ごとのバージョンが製作された。
  • 永谷園 「お茶づけ海苔」「お好み焼きの素」「ミルクセーキの素」のCMに出演。2000年代には弟子の高見盛が「お茶づけ海苔」のCMに出演して、師弟2代の快挙となっている。
  • 富士通 ワープロ「オアシス」のCM。
  • ダイエー
  • 樋屋製薬樋屋奇応丸
  • 日本特殊陶業 「NGKスパークプラグ
  • チトセ 「くるぴたデスク」
  • 中外製薬 「中外胃腸薬」
  • P&G 「全温度チアー」
  • 日清食品 「チルドシリーズ ソース焼そば・ラーメン」※現役引退後
  • 生長の家 ※現役引退後

またTVではないが、部屋の大先輩・東富士の経営する消費者金融会社「ファイナンス・フジ」のCMにも出演していた。

テレビドラマ出演

レコード

  • スーパー・ジェシー(1977年)
  • ジェシー・ザ・スーパーマン(1979年)

脚注

  1. ^ 現在であれば勝負結果の踏み出しになるが、当時踏み出しは勝負結果として採用されていなかった。
  2. ^ 現在は安芸乃島の16個に次いで、栃乃洋とともに2位タイ。
  3. ^ 現在では、場所途中に引退表明をした力士がその後も土俵に上がることは許されていない。
  4. ^ 魁皇が2009年(平成21年)11月場所に幕内在位98場所を達成して第1位、高見山は第2位となった。
  5. ^ 岩見隆夫『陛下の御質問 - 昭和天皇と戦後政治』文藝春秋、2005年、124頁頁。ISBN 978-4-16-767940-8 
  6. ^ a b 高見山(現東関親方) 史上初の外国人力士が明かす数々の秘話 スポーツ報知 2009年4月28日閲覧
  7. ^ 「東関親方45年 上 角界「開国」の先達」 日本経済新聞2009年6月10日33面。
  8. ^ 「大相撲:都内で東関親方の定年を祝う会 オバマ大統領や首相からも祝電」 毎日新聞 2009年6月7日 東京朝刊。
  9. ^ 「高見山」の貢献称賛 米下院が決議採択 産経新聞 2009年6月16日閲覧
  10. ^ ホワイティング(1986)、p.124

参考文献

  • ロバート・ホワイティング、『ガイジン力士物語 小錦と高見山』、(1989)、筑摩書房(単行本出版は1986)

関連項目