登山
登山(とざん)とは、山に登ること。
概要
古くは宗教的な意味を込めて山が登られたり、戦争などの、何らかの山登り以外の必要性から山が越えられることがあったが、現代では、信仰のみならず、それ自体が目的となったスポーツ、娯楽として、広範な人々に親しまれている。また、職業として登山を行う人も生まれている。
西欧語のalpinismは「近代登山」と訳されるが、これは山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神や肉体に与えるものを重視し、それを人生のうるおいとすることを目的とするものであり[1]、それ自体が目的となっている点でそれはスポーツの一種であり[1]、現代的な意味での登山として登る対象は、簡単に登ることができる近隣の丘陵からヒマラヤ山脈まで様々である。
歴史
歴史の中で、山というのは聖なる場所であったり、ときに悪魔の住む場所とされたり、あるいは戦争のため、生存のために切り開いてゆくものであった[1]。狩猟のための登山は古くから行われているがこんにちの登山とは除外される。
多くの宗教では、山は崇拝や信仰の対象であり、神そのものであるとされる場合もあった。そのため、様々な聖典や伝説で登山が記録されている。モーセはシナイ山で神の啓示を受けたとされる[1]。
ヨーロッパ
ハンニバルは前218年に第二次ポエニ戦争の時、6万人の兵と37頭の象とともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている[1]。 121年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ山の山頂に登った。 1336年4月26日にイタリアの詩人、ペトラルカが弟ジェラルドを連れてフランスのアビニョン近郊ヴァントゥ山の登山に挑み、その頂上まで登った。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤコブ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。
ルネサンスの始まりと共に趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にAiguille山(Mont Aiguille)の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラー(Josias Simmler)が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。奇妙なことに17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。
18世紀後半に、近代的登山の幕開けとなるようなできごとがあった[1]。アルプス最高峰のモン・ブラン登頂という出来事である[1]。1760年のこと、自然科学者H.B.deソシュールがシャモニーを訪れ、モン・ブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にM.G.パカール(Michel-Gabriel Paccard)およびJ.バルマ(Jacques Balmat)が登頂に成功し[1]、翌年にはソシュール自身も登頂に成功した[1]。
19世紀のスイス・アルプスは英国人登山者のメッカとなり、アルプスの主峰39座のうち、31座の初登は英国人によって達成された。それとともに登山技術も急激に進歩した[1]。たとえば、それまでマッターホルン(4477m)は「登ることは不可能」と見なされていたが1865年にはエドワード・ウィンパーが登頂に成功した[1]。アルプスの4000m級が登りつくされ未登峰が無くなると、岩壁や側稜などからの登山といった、より困難なルートからの登頂や、あえて冬季の登山などが行われるようになっていった[1]。またヨーロッパのアルプス以外にも目が向けられるようになり、カフカス、アンデスなどの山々、またアラスカの山などにも挑戦が行われるようになった。 その間、1857年には世界で最初の登山団体、イギリス山岳会が設立された。
ジョージ・マロリーが「そこにそれがあるから-Because it is there.-」と答えたのはあまりに有名であるが、記者の「なぜ"未踏峰(エベレスト)"に登るのか」という質問への答えであることはあまり知られていない。北極、南極に次ぐ第3の極地エベレストは、征服すべき対象であるとも説明している。
日本
日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中(富山県)の国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている[2][3]。都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある[3]。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは不明である[2]。
日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。
ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある[4]。
同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている[3][5]。
1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った[3]。
文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる[2]。
江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている[3]。
江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、杣人や狩猟や採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる[2]。
江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが、人100名余り、馬30頭の一隊を組んで箱根を越え、山頂に登っている。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている[3]。
明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初に登った外国人としても知られる[6]。
日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある[7]。
その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った[7]。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる[3] 。
明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵 など、地元の猟師が案内をした[7][8]。
日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い[9]。1889年(明治22年)には、ウエストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウエストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。
明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した[10][11]。
明治時代、測量や地理学的な目的での登山が行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)大塚専一の針ノ木岳-立山-後立山縦走などである[3]。
陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された[3]。
探検時代の後[12]、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め[13]、大正期に大衆化した[14]。1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った[15]。
これを受けて、1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった[13]。
また、1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた[13][16]。
1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた[17]。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った[18]。
1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる[19]。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された[20]。
1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ、1953年(昭和28年)のエベレスト、1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュ[21]が続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである[22]。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた[23]。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した[24]。1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた[25]。1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった[26]。[27]
1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向と百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった[28]。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた[29]。また2010年今日、また若者が登山に戻りつつある。[30]
登山の技術
もともと本来の登山は競技ではなく[1](つまり他人と競って優劣をつけるためのものではなく)、技術の優劣を簡単に言えるものではなく、また同一の山、同一コースでも、自然条件が異なればその難易度がまったく異なる性質を持っている[1]。
よって登山技術というのは、広い意味で言えば、十分な準備をすること、十分な訓練をすること、そのうえで行動計画を立案し、自然と人間の力関係を慎重に判断してゆくことが基本であり重要な点であり、登攀・歩行などの個々の技というのはむしろ2次的なものである[1]。
ヒマラヤなどの高高度の山頂を目指す場合などでは、「極地法」と呼ばれる方法、すなわち、多数の人々の支援をうけつつ、低高度からキャンプ(テント群)を設営しそれを足がかりにさらに上方にキャンプを設営することで物資を上へ上へと運び、最後に頂上近くのキャンプから(それまで他の人々の働きのおかげで体力を温存した)数名程度の攻撃隊が頂上をきわめる、という手法がある[1]。
登山計画
登山というのは、登山計画を立てる段階からすでに始まっているとも言える。
登山計画の立て方には様々方法があるが、その概要の一例を述べると、(1)山選び (2)期日選び (3)リーダー決定、などがある[1]。
目的とする山の選定には、参加メンバー全員の体力・技術・経験をしっかり把握し、それらを十分に考慮する必要がある[1]。体力・技術・経験以上の難度の山を選んでしまったり、強者を標準として弱者に無理を強いたりしてしまうと、事故や遭難につながる。メンバーがすでに決まっている場合は、メンバーの中の弱者に合わせて山を選定すべきである。
参加メンバーは登山前に何度か会合を持ったり連絡をとりあったりしつつ、(1)目的地およびコースの選定 (2)グループ(パーティ)のリーダーとメンバーの決定 (3)各自の任務分担の決定 (4)予算の決定 (5)行動予定表、装備・食糧表、参加者名簿などの文書作成作業、 などを行う。[1]
上記の過程で、メンバー全員が目的の山について十分な知識を持ち、コースを熟知しているような状態になっていることが望ましい[1]。(リーダーのみが熟知しているだけでは事故や遭難のリスクが高まる)
パーティ(グループ)が大きい場合[31]は、リーダー以外にサブリーダーも決めておき、サブリーダーにメンバー指導などの仕事を分担させ、リーダーの過負荷を回避するとよい[1]。
また、トレーニングも登山直前ではなく、常日頃から行われなけれていなければならない[1]。登山のトレーニングというのは、単なる筋力トレーニングというよりも、むしろ持久力を重視したものが行われていなければならないのであり[1]、健康の維持が重視されなければならない[1]。
歩行技術
登山の歩行技術というのは、ペースのとりかた、および休憩のとりかたで巧拙が決まる[1]。山での歩行というのは平地での歩行とは異なり、一定の速度・リズムを保ち、足の裏全体を使って歩く[1]。山では、(メンバー全員の身体的な能力の範囲内で、かつ)疲労の少ない一定の歩行速度を見つける必要がある[1]。(平地では、思いつきで速く歩き、無理だと気付きゆっくり歩くなど、速度をフラつかせてもさほどバテはしないが、上下動をともなう登山でそれをするとすぐにバテる)。一般的に言えば、歩きだして最初の20分で、一度は休んで、衣服・荷物の不都合な部分(リュックの肩ひもの長さ、靴ひもの締め具合、衣服の重ね具合など)を調整・修正する[1]。その後は40~50分程度歩いては10分程度休憩する、ということの繰り返しで歩んでゆくのが一般的である。グループ(パーティ)の歩行速度は当然、体力的な弱者を標準とする[1]。(強者を標準としてはならない。弱者に無理を強いることになり事故・遭難の原因になる)。脚は歩行しつつも、つねに心を働かせ、自分たちの位置を地図上で確認する[1]。たとえ気の合う仲間と一緒にいようが、山では歩きながら、はしゃいだり、ふざけたりすることは控える。(はしゃいだりふざけたりして歩行姿勢や歩行速度を乱すと事故につながる。)
道具
- 登山靴、リュックサック、雨具、地図、方位磁針(コンパス)、懐中電灯などの光源
- 雨具、セーターのような防寒具、保温具(使い捨てカイロ)
- テント、ツェルト、シュラフ(寝袋)
- アイゼン、ピッケル、ワカン、スノーシュー、スキー、ストック
- ロープ(ザイル)、カラビナ、ハーケン、ハンマー、下降器(ディセンダー)
- 地形図 - 登山行程や交通機関の問い合わせ等の登山に必要な情報を書き込んだ登山地図がある。
登山の種類
レクリエーションとしての登山
レクリエーションとしての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や、新陳代謝の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、森林浴(リラクゼーション効果)を楽しんだり、共に登山をする人との交流、冬山を登る際にはスキー滑走を目的とする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、散歩の延長で登れるような手ごろな山から、踏破に3~4日かかるものまでさまざまな山を歩くことができる。またひとつの山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しむことの出来る場所が多い。日本においては、以前は登山というとワンダーフォーゲルや山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山やトレッキングができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。
一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、遭難事故件数も増えつつある(登山における諸問題参照)。
競技としての登山
高校総体においては、競技の一環として登山を取り入れている。体力や装備、あるいは天気図に関する技能・知識や、高山植物、応急処置の方法、テントの設営技術等を点数として、審査員がそれらの達成度を計数し、高校ごとに順位を決定する。隊列に遅れず登頂を目指すのも体力点として高得点ではあるが、他にもマナーや態度、知識や服装にも気を遣う必要がある。3~4日間をテントで過ごし、食事も寝床もすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつである。さらに、地方大会では実力の優劣をはっきりとさせるために重量規制があり、現段階では4人で60kgと言う規定がある。その60kgに、飲料として使用する分の水、ケガの治療などとして使用するために綺麗な水などを要するため、実質70kgにも75kgにも及ぶことなどが多々あるという。
また、国体においても山岳競技があり、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコース完走する時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。
他にも岩を登る行為の派生競技としてフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレールランニング等の競技がある。いずれも、競技とは言え山や岩場でのスポーツになるため、安全対策や体調管理に十分に注意する必要がある。
職業としての登山
純粋に登山そのものを職業として行うのは、主に登山ガイドや登山家などである(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。
登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。現在は、社団法人・日本山岳ガイド協会が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する自然ガイドなどさまざまな資格がある。
また、著名な登山家の一部は、日本国外の8000m級の山を、単独で登ったり無酸素登攀したりと言う難しいアタックをする際、テレビ局や大きな企業をスポンサーに持つことが多い。アタックが成功した場合は企業の広告塔としてCMに出演し、利益を得ることもある。
こういった山岳ガイドや登山家の中でも広く名前を知られている者は講演活動をし、本を出版することも少なくない。
一方、自然資源を得るための登山も存在する。東北地方に存在するマタギと呼ばれる狩猟集団や、山菜を採って販売する地元住民等の入山理由がそれである。山菜採りは自然環境に影響を与えるほどの量を採ることはせず、狩猟をする場合も個体数に影響を与えるだけの乱獲は避けるのが望ましいとされる。
麓から山頂まで荷物を人力で輸送するため登山する職業を歩荷(ボッカ)あるいは強力(ごうりき)という。
登山における事故
遭難事故
原因と対策
登山の際にもっとも気をつけるべきことは、遭難である。遭難は一人から数十人規模の大量遭難まで多種多様であり、人数が多いからといって安心できるとは限らない。主な原因としては、
- 地図の誤読によるルート間違い、あるいは地図未携帯によるルート間違い(旧登山道や獣道に入ってしまった場合など)からの遭難
- 登山道から外れたための遭難(山菜採り・茸採りの登山者に多い)
- ホワイトアウト(冬山での地吹雪や吹雪による視界不良)による遭難
- 雪崩・土砂崩れなどに巻き込まれた場合の遭難
- 天候不良・日没による下山不能状態
- 怪我人が出るなどした場合の単独行動による遭難
- 高山病や凍傷など・・・酸素濃度や寒冷地の気候など、登山者が生活する地域との環境の違いによる傷病
- 低体温症・・・風速10m以上、気温10℃以下、降雨という気象条件であれば、夏山でも発症する[32]。
- 持病の悪化(持病の悪化に伴って行動がとれなくなることによる遭難)
- 遭難者救出のために入山し、自身も遭難するケース(二次遭難)
- 火山ガス(硫化水素など)の吸引
- 装備・技術不足による転落・滑落
- などがある。これらの回避策としては、
- パーティ全員が地図を携帯し、おのおの確認を繰り返しながら進む
- 遭難した場合の非常食や予備食を準備しておく
- 事前に天気予報等で気象状況を十分に把握し、天候不良の場合は登山そのものを中止する措置を取る
- 天候の急激な悪化に際しては、無理に進まず、引き返す、一旦止まるなどの適切な対処をする
- 事前に計画を立てる際は、パーティメンバーの体力を考慮し、決して無理な計画は立てない。また、緊急時の下山ルートなども調査し計画しておく。
- 時間に余裕のある計画を立て、少々のトラブルがあっても日没までには目的地に着けるようにする
- 雪崩や土砂崩れはたいがい起こる場所が決まっているため、できるだけそのルートを避けるか、事前に申し合わせ注意しつつ素早くその地点を通過する。また地形を良く把握し、雪崩が起こりそうな場所をあらかじめチェックするのも有効である。
- ケガ人や急病人が出た場合、移動が可能な時は速やかに下山し、不可能な場合は直ぐに医療機関か警察に連絡を取る
- 山菜採りなどで登山道以外の場所へ立ち入る際は常に自分の位置を確認し、決して深入りしないようにする
- 安易に遭難者救出に向かわない
- などが挙げられる。また、遭難した際にも本来の到着時間や取るべきルートを救出隊が確認できるように、出発前に入山届を書いておくのも重要である。
時代別世代別状況
警察庁は、1961年から[33]毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめており、その統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、1972年は20歳代が66.6%、10歳代が16.7%、30歳代が11.1%、40歳代が5.6%で50歳代以上は0%、1998年は50歳代が25.3%、60歳代が20.8%、40歳代が15.4%、70歳代が12%、20歳代が9.7%、30歳代が9.1%、10歳代が4.9%、80歳代が2.6%、90歳代および不明が0.1%、2008年は60歳代が29.8%、50歳代が19.1%、70歳代が17.5%、40歳代が10%、30歳代が7.8%、20歳代が6.4%、10歳代が4.6%、80歳代が4.2%、90歳代および不明が0.4%となっていて[34]、時代によって登山をする世代が異なっていることを示していると考えられる[35]。
1990年前後からは中高年登山ブームが起こっていて[36]、2008年に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録[37]、2009年に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新、遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている[38][33]。2008年の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる[39]。
朝日新聞の2010年の調べでは、2005年~2009年の7、8月の富士山への登山中に救護された人のうち、体調急変により心肺停止になった人が14人おり、うち11人が45~69歳である。高度のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている持病が悪化することが考えられるという。また、2009年夏、富士登山で高山病[40]と診断された人が537人いるという。[41]
中高年による登山者ブームは、若年期に登山経験を持たない人たちによるものである。ゆえに中高年の登山に対する適応能力の問題よりも、むしろ過去に登山経験を持たない認識の甘さによるところが大きい。[要出典]
落石事故
登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある。落石の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで落石を発生させてしまうケースもある。
登山と自然破壊の問題
近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。
- ごみの問題
- 登山の途中に発生するゴミは、原則的に当人が持ち帰らなければいけない。プラスチックやペットボトルなどの化学合成品は分解が遅く、長く自然界にとどまるため生態系に悪い影響を及ぼすとされる。また、生ゴミであれば捨てて良いというわけではなく、過多な栄養はその地に住む動植物の生態系を変え、結果的にはそれまでの生態系を破壊してしまう結果にもなる。
- 植物の盗掘
- また、よくあるのが植物の持ち帰りである。高山植物は学術的にも貴重であり、ほとんどの山で持ち帰りが禁止されている。しかし、それを知らないがために野の花を摘むように持って行ってしまう登山者がある。あるいは、高山植物の生息域にロープ等で立ち入り禁止が示されているにも関わらず、自宅での鑑賞のために持って帰ってしまう者、悪質なものは土を掘り返し根元から大量に持ち去ってしまうこともある。代表的な高山植物であるコマクサは、その美しさに愛好家も多い花だが、山からの盗掘もまた多い。逆に、盗掘した植物を、本来その植物が自生していない別の山に移植してしまうケースも発生している。
- 動物生態系への影響
- 多くの登山者が山に入ることによる、野生動物が安心と思う住領域の縮小、また人間の持ち込んだごみにより、野生動物の食環境の変化、また人間が出すごみを好む動物が増えてしまうなどの影響が考えられる。また犬を連れての登山を禁止している山もある。これは犬が病原菌を持ち込んだり野犬となったりして、野生動物の生態が乱されるのを恐れての処置である。犬連れ登山禁止に対しては、長年犬は山小屋、猟師で飼われてきたが、犬から野生動物への病気感染があったか疑問である、人間の方が犬より環境インパクトが大きいなどの反論がある。
- 排泄物の処理
- 槍ヶ岳や剱岳、八ヶ岳、尾瀬など、人気のある山においては山小屋での排泄物の処理が問題となる。以前はし尿の処理は土に返すだけの処理であったが、登山人口の増加に伴って人間の排泄物が自然に与える影響が無視できない状況になってきた。加えて、排泄物に含まれる大腸菌等によって湧き水が汚染され、飲用できなくなる事態も発生している。そこで、現在ではヘリコプターなどで排泄物を運搬、しかるべき施設で処理する方法や微生物で分解するバイオトイレなどへと変化して来ている。運送費や諸経費の調達のため、場所によっては山小屋の利用料を値上げしたり、トイレの使用料を取る山小屋もある。登山における休憩中の排泄も人数が多くなれば悪臭や栄養過多で影響を与えるため、簡易トイレの使用も推奨されている。
- 登山道の荒廃
- 近年の中高年の登山ブームにおけるオーバーユースによって登山道の荒廃が広がっている。加えて、えぐれた登山道では雨が降るとぬかるみ、それを避けるために登山道脇を歩くことによって植生は失われ、登山道が広がり中には車が通れるほどの広さになっている登山道もある。また、最近では登山時に腰やひざの負担を軽減する目的でステッキやストックなどを使用する人が多くなってきているが、それらで登山道の土が掘り起こされ、柔らかくなった土が雨で流出するなど登山道が荒れる原因になっている。
登山を扱った作品
漫画
- 『蒼き氷河の果てに…』(島崎譲)
- 『イカロスの山』(塀内夏子)
- 『おれたちの頂』(塀内夏子)
- 『岳 みんなの山』(石塚真一)
- 『神々の山嶺』(原作:夢枕獏、作画:谷口ジロー)
- 『カモシカ』(鎌田洋次)
- 『岳人(クライマー)列伝』(村上もとか)
- 『K』(原作:遠崎史朗、作画:谷口ジロー)
- 『強力伝』(原作:新田次郎、作画:池上遼一)
- 『こちら愛!応答せよ』(上原きみこ)
- 『THE BIG WALL(ビッグ・ウォール)』(原作:横溝邦彦、作画:鎌田洋次)
- 『山靴よ疾走れ!!』(紅林直、脚本:生田正)
- 『氷壁の達人』(神田たけ志)
- 『北壁の死闘』(原作:ボブ・ラングレー、画:井上康彦)
- 『魔の山』(手塚治虫)
- 『魔の山大遭難 決死の救出劇』(原作・監修:NHKプロジェクトX制作班、作画・脚本:こやす珠世)
- 『約束の地』(谷口ジロー)
- 『孤高の人』(坂本眞一)
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 平凡社『世界大百科事典』vol.20, p.266-269、徳久球雄執筆
- ^ a b c d 『北アルプス この百年』 pp.11-72
- ^ a b c d e f g h i 『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 pp.260-273 日本の登山小史 山崎安治
- ^ 『峠の歴史学 古道をたずねて』 pp.105-155, 61-104
- ^ 『峠の歴史学 古道をたずねて』 pp.136, 138-155
- ^ 『山と高原地図 51六甲・摩耶・有馬』1994年版小冊子p.12『登山史』、調査執筆:赤松滋
- ^ a b c 『黎明の北アルプス』 pp.165-171
- ^ 『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 p.2
- ^ 『山と高原地図 51六甲・摩耶・有馬』1994年版小冊子p.12『登山史』、調査執筆:赤松滋
- ^ 『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 p.48 山でつくられた郷土の科学者 高橋秀男
- ^ 『北アルプス この百年』 pp.60-62, 156-169
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.16, 18
- ^ a b c 『北アルプス この百年』 pp.74-125, 170-187
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.18, 25。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、この大正期から昭和初期、戦争によって下火になるまでの間のブームを、第1次登山ブームと呼んでいる。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.18, 19。東久邇宮稔彦王や秩父宮雍仁親王が登山に親しんだ。
- ^ 『北アルプス この百年』 pp.178-180。1925年(大正14年)長野県制定の登山者休泊所及案内者取締規則により山案内人の公的な資格認定が始まり、その流れは1953年(昭和28年)の長野県観光案内業条例に引き継がれた。この条例の資格を受けた者は、2001年(平成13年)は579人。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.19
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.22, 24
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.25。登山者は非国民と呼ばれるなどの時代情勢になった。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.25, 26
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.29, 30。アンナプルナはフランス隊による「人類初」の8000メートル峰登頂、エベレストはイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによる世界最高峰初登頂、マナスルの初登頂は槇有恒率いる日本山岳会隊の今西壽雄とシェルパのギャルツェン・ノルブによるもの。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.30
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.29-32
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.32-35。谷川岳の遭難死者数は2008年(平成20年)までに792人で、本書によれば、「世界でいちばん遭難死者が多い山」としてギネス認定されているという。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.236-238
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.39
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.29, 30, 39。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、このブームを第2次登山ブームと呼んでいる。p.18によれば、一般的には、このブームを第1次登山ブームと呼ぶ場合が多いという。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.224-227。「旅行会社のパック旅行のような」(p.225)形態のツアー登山の先駆けは、1970年代末頃と考えられる。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.236-238。2007年(平成19年)日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド協会を脱会、2010年(平成22年)1月現在、山岳ガイドの資格認定を行う全国的な団体は2団体となっている。
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.50-53。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでいる。p.52 では、このブームの始期は、1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている。
- ^ 例えば4~5名程度をこえたら。どの程度の人数からサブリーダーを置くか、判断は様々
- ^ 朝日新聞2010年7月16日。夏山の低体温、防ぐには。
- ^ a b 中高年の山遭難増える 死者・不明は過去最多 J-CASTニュース 2010/6/ 9 18:04
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.73 - 79
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.70 - 73
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.71
- ^ 平成20年中における山岳遭難の概況(警察庁生活安全局地域課)
- ^ docomo ich 2010年6月9日0時50分配信のニュース
- ^ 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.77-79
- ^ ※メルクマニュアル日本語版1によれば、「高山病」の発症リスクは体力の有無とは関係なく、また、高齢者より若い人に多く発症する症候群である。メルクマニュアル家庭版, 296 章 高山病 2010年6月27日閲覧.
- ^ 朝日新聞2010年6月26日 富士登山 体調急変ご注意(静岡県警・山梨県警への調査記事)。
参考文献
- 『北アルプス この百年』2003年(平成15年)著 菊池俊朗 文春新書 ISBN 4166603477
- 『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』第5版 1974年(昭和49年) 編者 大町山岳博物館 発行所 信濃路 発売元 社団法人農村漁村文化協会
- 『峠の歴史学 古道をたずねて』 2007年 著 服部英雄 朝日新聞社 ISBN 978-4-02-259930-8
- 『黎明の北アルプス』1994年 著 はまみつを 郷土出版社 ISBN 4-87663-255-3
- 『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 2010年(平成22年) 著 羽根田治 平凡社新書 ISBN 978-4-582-85506-7
関連文献
- 『日本アルプスの登山と探検』 1896年(明治29年) 著 ウォルター・ウェストン 岩波文庫
- 『日本アルプス』4巻 1910年(明治43年) - 1915年(大正4年) 著 小島烏水
- 『山と渓谷』 1930年(昭和4年) 著 田部重治 岩波文庫
- 『日本百名山』 1959年(昭和34年) - 1963年(昭和38年) 著 深田久弥