ジョージ・マロリー

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30歳ごろのマロリー

ジョージ・ハーバート・リー・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory1886年6月18日-1924年6月8日?)はイギリス登山家

1920年代、イギリスが国威発揚をかけた三度のエベレスト遠征隊にすべて参加した。1924年6月の第三次遠征において、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと組んで頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は死後75年にわたって謎につつまれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かはいまだに論議を呼んでいる。

マロリーが「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」と答えたという逸話はあまりにも有名だが、最近では本当にマロリーがこのような発言をしたかどうか疑問の声があがっており、新聞記者がひねり出した言葉ではないかという説もでている。

目次

[編集] 生い立ち、学歴、職歴

マロリーはチェシャー(Cheshire)のモバリ(Mobberley)で牧師ハーバート・リー・マロリー(Herbert Leigh Mallory 、1856年~1943年)の子として生まれた。(彼は1914年に届け出て姓を「リー・マロリー」に改めている。)ジョージは四人兄弟の二番目で姉と妹、弟がいた。弟のトラッフォルド・リー・マロリー(Trafford Leigh-Mallory)は第二次世界大戦中、英国空軍に属して戦った。

1896年ウェスト・キルビー(West Kirby)の寄宿学校から英国南岸イーストボーン(Eastbourne)にある寄宿学校グレンゴース(Glengorse)に転校した。13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グラハム・アーヴィング(Robert Lock Graham Irving)の影響で登山をはじめることになる。アーヴィングはそのころ、毎年生徒有志を連れてアルプスに登っていた。1905年10月、マロリーは史学を学ぶべくケンブリッジ大学モードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(James Strachey)、リットン・ストレイチー(Lytton Strachey)、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)、ダンカン・グラント(Duncan Grant)らのいわゆるブルームズベリー・グループ(Bloomsbury Group)と親交を深める。(グラントは何枚かのマロリーの肖像画を描いた。)マロリーはケンブリッジで強力なボート漕手として知られたが、八人乗りボートのオックスフォードとの対抗戦(ボートレース)には出なかった。

学位取得後もマロリーは一年間ケンブリッジに残り、そこで1912年になって出版するエッセイ『伝記作家ボズウェル(Boswell the Biographer)』を記した。その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(Simon Bussy)がマロリーの肖像画を描いている。この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)におさめられている。教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州(Surrey)ゴダルミング(Godalming)にあるチャーターハウス校で教鞭をとり始めた。このときの生徒の中には後に詩人になるロバート・グレーブス(Robert Graves)がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付添い人をつとめている。

チャーターハウス校時代にマロリーは、ゴダルミングに住むルース・ターナーという女性と出会い、1914年に結婚した。二人の式はまさに第一次世界大戦の勃発寸前であった。二人の間には長女クレア(1915年生まれ)、次女ベリッジ(1917年生まれ)、長男ジョン(1920年生まれ)の三人が生まれた。1915年12月マロリーは王立砲兵連隊(Royal Garrison Artillery)に入隊し、ソンムの戦いに従軍した。戦争が終わると、マロリーはチャーターハウス校に戻ったが、1921年にエベレスト遠征隊に参加するため、学校を離れた。離職後、マロリーは著述と講義によって生計をたてようと考えたが、あまりうまくいかなかった。1923年ケンブリッジ大学の校外公開講座局(Extramural Studies Department)に職を得た。マロリーは1924年のエベレスト遠征隊に参加するため、一時的に職を離れた。

[編集] マロリーと山

1904年、アーヴィング率いるパーティーにマロリーは学友と加わり、アルプスのモン・ヴェラン(Mont Velan)登頂を目指したが、登頂寸前にマロリーが高山病にかかって断念した。クレア・エンゲルは「アーヴィングが17歳のジョージ・マロリーを山にいざなった。マロリーたちは簡単な山から難しい山までさまざまな山に挑んだ。彼らが初めて挑んだモン・ヴェランでは学生たちが高山病にかかったために登頂できなかったが、さまざまな登山の経験を通して学生たちは優秀なクライマーに育っていった」(Claire Engel, Mountaineering in the Alps, London: George Allen and Unwin, 1971, p. 185)という。1911年にはマロリーはモンブランに挑み、さらにモン・モディ(Mont Maudit)の前壁を征服している。

1913年までにマロリーは己の登山技術を磨きぬき、英国の湖水地方(English Lake District)にあるピラー・ロック(Pillar Rock)を自力で登ることに成功した。このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されている。このコースはイギリスの山ではもっとも難しいもののひとつである。

[編集] エベレストへの挑戦

[編集] 第一次遠征隊(1921年)まで

1852年インド測量局によって「P-15」と呼ばれていた山が世界最高峰であることが明らかになると、測量局は前長官ジョージ・エベレスト(George Everest)にちなんで同山を「エベレスト山」と名づけた。1893年に、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband)とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将(Charles Granville Bruce)がエベレスト登頂について話し合ったのが最初であるといわれる。1907年には英国山岳会(Royal Alpine Club)の創立五十周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会エベレスト委員会(Mount Everest Committee)を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。

1921年、マロリーはエベレスト委員会によって組織された第一次エベレスト遠征隊に招聘された。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ(Charles Howard-Bury)中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手としてマロリーとジョージ・イングル・フィンチ(George Ingle Finch)が選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に降板し、代わりにマロリーのウィンチェスター校以来の友人で領事だったガイ・ブロック(Guy Bullock)が選ばれた。

この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。遠征隊にはイギリス山岳会の主要なメンバーやインド測量局から派遣された測量官が参加していたが、高山病の影響によって登山は思うように進まなかった。また、6月5日にケラス博士を失うという悲劇にも見舞われた。マロリーはガイ・ブロック、インド測量局のE.O.ホイーラー(E. O. Wheeler)らとともにシェルパの力を借りてエベレスト周辺の調査を行った。ノース・コル経由の北壁ルートが登頂に最適であることが判明したのはこのときであった。

一行は6月25日にロンブク氷河(Rongbuk Glacier)にキャンプを設けて、登頂ルートの選定にあたった。このパーティーはおそらくローツェ(Lhotse)のふもとからウェスタン・クウム(Western Cwm)を眺め、ロンブク氷河から北壁へのルートを見出した最初の西洋人だったと考えられる。山を南側にまわった一行は、東ロンブク氷河のルートを見出した、これは今でもチベット側から登頂するほとんどすべての登山者に利用されている最速ルートである。マロリーはついにノース・コルの鞍部へあがることに成功したことが、これによってマロリーはエベレストの山そのものに足を踏み入れた最初の人間になっただけでなく、難関セカンドステップを越えて北東稜から山頂に至るコースを見出すことになる。9月25日、全員がカールタの基地に戻り、第一遠征は終了した。

[編集] 第二次遠征隊(1922年)

1922年、第二次遠征隊の一員としてマロリーは再びヒマラヤに戻ってきた。第二次遠征隊では実際に山を歩けるメンバーが少なかった第一次遠征隊の反省から人選が進められた。隊長にはかねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット(Edward Lisle Strutt)大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチハワード・サマヴィル(Howard Somervell) 博士や エドワード・ノートン(Edward Norton)、地理に詳しい医師のトム・ロングスタッフ(Tom George Longstaff)、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(Arthur Wakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(Geoffrey Bruce)大尉と同僚のジョン・モリス(John Morris)大尉、さらに前回のメンバーであるヘンリー・モーズヘッド(Henry T. Morshead)、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)大尉らが選ばれた。

第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。

次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して七名のシェルパが命を落としたため、計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。マロリーは帰国後、第二次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息という思いは他の隊員と変わらなかった。

[編集] 第三次遠征隊(1924年)

1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは1924年の第三次遠征隊にも参加を要請された。1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham)、E・シェビア(E.O. Shebbeare) 地質学者でもあったノエル・オデール(Noel Odel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン(Andrew Irvine)らが選ばれた。

一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に二つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日, 22歳の若いアンドリュー・アーヴィン一人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。今回のマロリーは1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていた。ノエル・オデールは二人をサポートすべく単身第五キャンプ(7710m)にあがり、6月8日の朝8時すぎに第六キャンプ(8230m)を目指して登り始めた。

その途中(高度8077m付近)でオデールはふと顔をあげ、雲がはれ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。

12:50分ごろだった。私が初めてエベレストで化石を見つけて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。私は山壁にひとつの小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもうひとつの小さな点が現れ、最初の点に追いつこうと動いていた。第一の点が岩の上にとりつくと第二の点も続いた。そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。

このとき、オデールは二人がセカンドステップに取り付くところを見たと語った。オデールの証言以外にこれを証明するものはないが、彼らがセカンドステップにたどりついたのかどうかわからないし、(ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933年に見つかったアーヴィンのアイス・アックスがあった)逆に言えばたどりつかなかったという証拠もない。その後、二人の姿は山中に消えた。

オデールは午後二時に第六キャンプに到着したころ風雪が強かった。しばらくして戻ってくる二人が吹雪でキャンプを見つけられないといけないと考えたオデールはテントを出て口笛をふいたりヨーデルを歌ったりしていたが、人の気配はなかった。下山する二人のための用意を終えたオデールは四時半に第六キャンプを後にした。下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する二人の姿はついに見ることができなかった。第四キャンプまで下りて一泊したあくる日の6月9日、オデールは再び第五キャンプから第六キャンプへ向かったが、人が入った形跡はなかった。モンスーンの接近のため、遠征隊は二人をあきらめて山を下りることになった。

マロリーとアーヴィンはおそらく6月8日(あるいは9日)に命を落としたのであろう。いまや国民的ヒーローとなっていたマロリー遭難のニュースはイギリス中に大きな衝撃を与えた。10月17日に行われたマロリーとアーヴィンの追悼式は国葬のような規模でセント・ポール大聖堂において行われ、列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルドや国王ジョージ5世はじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。

[編集] 75年の闇を超えて

二人の失踪後、いくつかの遠征隊が遺体を捜し、それによって彼らが山頂にたどりついたのかどうかの決め手を得ようとした。イギリスも1933年から1939年にかけてさらに四度の遠征隊を派遣しているが、1933年の第四次遠征隊は高度8460m地点でアーヴィンのものと思われるアイス・アックスを発見している。第二次世界大戦後、多くの国々がエベレスト初登頂の名誉をかけて争ったが、1953年5月29日、イギリス隊のメンバーでニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーがシェルパのテンジン・ノルゲイと共に初登頂を果たし、マロリー以来の悲願が達成された。

マロリーに関する手がかりは意外なところから得られた。1979年、日本偵察隊メンバーだった長谷川良典が協力していた中国人クライマーの王洪宝(Wang Hung-bao)から1975年に高度8100m付近でイギリス人の遺体を見たという証言を得た。1999年に入ってBBCとアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー捜索隊が組織され、エリック・サイモンスン(Eric Simonson)をリーダーに、山岳史家でマロリーに詳しいヨッヘン・ヘムレブ(Jochen Hemmleb)らをメンバーに加えてエベレストに向かった。一行の一人コンラッド・アンカー(Conrad Anker)は5月1日に頂上付近の北壁でうつぶせになった古い遺体を発見。状況的に滑落して死んだものと推定した。一行は初め、漠然とアーヴィンの遺体ではないかと考えたが、所持品からマロリーの遺体であることがわかり仰天した。ヘムレブは遺品にコダックのカメラ(Vest Pocket Model B)があればマロリーが登頂したか否かという歴史的疑問が解かれると考えたが、なぜかコダックはみつからなかった。一行はマロリーの遺体を囲んで聖公会式の葬儀を行い、露出していた遺体に土をかけた。

[編集] マロリーは登頂したのか?

マロリーとアーヴィンが登頂に成功したか否かはいまだに答えが出ていない。

[編集] 遺体からわかること

マロリーの遺体には腰のまわりにザイルが巻かれており、擦過傷ができていた。これはマロリーが滑落したときアーヴィンとザイルで結ばれていたことを示す。1933年にアーヴィンのものとされるアイス・アックスが発見された地点はその上方だが、そこから滑落したとは限らない。マロリーの遺体が大きく損傷していないことからそれほど長い距離を滑落したとは思えない。

マロリーの遺体から「もしや登頂していたのでは」と思わせることが二点ある。

  • マロリーの娘クレア・ミリカンによれば、彼は頂上に記念として置いてくるため妻の写真を持っていったというが、遺体からはメモだけで写真が発見されなかった。遺体が寒冷な気候下で驚くほど良く保存されていたことを考えれば、写真がポケットの中で風化・消滅したとは考えにくいので、この事実はマロリー登頂の消極的な証左とはいえないだろうか。(だが、同時に山頂でマロリーの所持品などを発見したという報告もなされていない。)
  • マロリーのサングラスがポケットにしまわれた状態で発見された。このことは二人が日没後に山を降りていたということを意味する。マロリーの最後のアタックに先立って隊員のノートンが雪に目をやられて苦しんでいたのを見て、マロリーは日中常にサングラスをかけるようにしていた。マロリーたちの出発時刻および移動速度を考えると、彼らが登頂を終えて下山中に日が沈み、滑落したとも考えられる。(マロリーのポケットに入っていたのは予備のサングラスで、つけていたサングラスは滑落中にとれたとも考えられる。)

[編集] 酸素補給の問題

2001年に発見された第六キャンプの位置から、二人がそこから頂上に到達するのに十一時間を要したと考えられる。当時二人は二本ずつ酸素ボンベを担いでいたが、これは普通に使えば八時間分であり、おそらく頂上にたどりつく前に酸素がなくなったのであろう。(もちろん、少しずつ使う、あるいは使わずにいくことも不可能ではないが。)酸素ボンベのうち一本がファーストステップの手前で発見されている。これをもとに彼らの移動スピードを推測すると、彼らがセカンドステップに到着したときの酸素残量はよくて一時間半。セカンドステップから山頂まで少なくとも三時間かかるとすれば、酸素を切らさずに登頂するのは難しかったろう。

現代の登山家で無酸素登頂に成功しているものもいるが、彼らは十分にトレーニングを積み、酸素をしっかりと吸い込んで最新の超軽量防寒着を着込んだ上、訓練されたシェルパの助けによって登頂している。マロリーがもし登頂できるとすれば、アーヴィンをファーストステップで待機させた場合のみだが、そうするとマロリーの腰についたロープの傷が説明できない。あるものは二人がセカンドステップをあきらめ、北壁ルートをたどろうとしたのではないかと考えるが、傍証はない。

[編集] セカンドステップの問題

北壁から登っていくコースには「セカンドステップ」と呼ばれる難所がある。セカンドステップとは山頂から250mほど手前にある石灰岩の岩場で、高さが30mほどで上部はほぼ垂直な岩壁になっている。1960年に中国隊が初めてここを乗り越え、1975年に中国隊の手でアルミはしごが設置されている。ラインホルト・メスナーに代表される現代の登山家たちの多くはセカンドステップの困難さを理由にマロリーらの登頂を否定する。スペインのオスカル・カディアフ(Oscar Cadiach)は1985年に素手でセカンドステップ登攀に成功しているが、彼の見積もりではセカンドステップの難易度は(マロリーの技術なら登れる)5.7から5.8であった。ただ、カディアフが登ったとき、セカンドステップは雪に覆われており、雪のなかったマロリー登山時より容易になっていた。オーストリア人テオ・フリッシュ(Theo Fritsche)は2001年にマロリー同様の条件でモンスーン到来前の状態でロープなしでの登攀に挑み、5.7~5.8という難易度であると評価している。フリッシュはマロリーのように軽装で酸素も用いない状態が成功し、条件がよければマロリーでもセカンドステップは超えられただろうと語っている。

2007年6月、コンラッド・アンカーとレオ・フールディング(Leo Houlding)が中国隊のアルミはしごを取り外した状態でのセカンドステップ超えに挑み、成功した。フールディングは難易度を5.9と評価。この登頂は1924年の遠征隊の状況を出来る限り忠実に再現するために行われた。しかしアンカーはその八年前に行われた最初の挑戦では失敗しており、「自分は5.12クラスをこなす自信があるが、この難易度は5.9クラスの技術では厳しいだろう」と語った。そのとき、アンカーは中国隊の残したはしごを足場のひとつとして利用していた。2007年の登山後、アンカーは意見を変えて「おそらくマロリーにも登れたに違いない」と言った。二人がセカンドステップを超えたかどうか、いまだに世界の登山者の間では意見が分かれている。

マロリーはスイス・アルプスにあるネストホルン(Nesthorn、3824m)で同じような状況にあったが、これを克服している。仲間たちは彼の高い技術に裏打ちされた積極性と楽観さを疑うことはなかった。

登山技術ということなら、マロリーは北ウェールズでHVS(Hard Very Severe 難易度5.8-5.9)級の山々に登って技術をみがいている。たとえばスノウドン山系のリウェッド(Y Lliwedd)の山々などがそうだが、そのような山に基本装備で登るのになれた登山者は重装備である方が逆に登りにくいのではないか、あるいはわれわれ皆がマロリーの持っていた勇気と高い運動能力を本当に理解しているといえるだろうか。間違いないことは第三次遠征隊のマロリーが前回の失敗による批判を受けて、なんとしてでも登頂してやるという闘志をもやしていたということだ。

ノエル・オデールは彼らがセカンドステップにとりつくのを見たと語った。これに対してはまず英国の登山家たちの間から疑義が出たため、オデールは後に「ファーストステップだったかもしれない」と見解を変えている。しかし、人生の終わりに再び意見を戻し、「やはりセカンドステップだった」と主張していた。もし彼の目撃したことが本当だとすれば、彼の証言する地形はファーストステップではありえない。

別の説もある。オデールがステップを登っていく人を見たとき、彼はごく自然に彼らが登っていくところだと考えた。そのことからオデールの見たのが登頂ルートではないファーストステップだということはありえないという結論が導かれた。セカンドステップなら予定よりもだいぶ遅いが、その理由は信頼性の低かった酸素器具に問題が生じたためと説明されてきた。しかし、それにしても時間的に遅すぎる。もしオデールが見たとき、二人が「下っている」ところだったとすればどうなるだろう。こうすれば時間のつじつまは合う。オデールが見たとき、二人は下山中にファーストステップをよじ登ってそこから眺め、セカンドステップを経由してノース・コルへ出るルートを見つけようとしていたのではないかという説である。(1981年のフランス隊は登頂を断念してまったく同じ行動をとった。)

1999年の調査隊は2001年にさらなる証拠を求めて山に戻ってきた。彼らはマロリーとアーヴィンのキャンプを発見したが、アーヴィンの遺体とカメラを発見することができなかった。2004年には別個の調査隊がカメラを探したが、みつからなかった。

[編集] アーヴィンの遺体の問題

1979年に王洪宝が「1975年の登山時に8100m地点で西洋人の遺体を発見した」と語った。詳細を語る前に王は雪崩で死んでしまったが、1986年トム・ホルツェルが別の中国人から正確な場所を聞き出した。位置的にマロリーか、アーヴィンだと思われるが、王が「ほおに穴があいていた」というのがマロリーの遺体の状況とそぐわない。2001年の調査隊は王が1975年に宿営した地点を特定し、周辺を調査したが、何も見つからなかった。王が見たのは実はマロリーの遺体だったのではないかという説もある。

ヘムレブの著作「Detectives on Everest」(未訳)によれば、別の中国人クライマーXu Jingは1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第六キャンプと第七キャンプの間(8300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(8500m地点)といっている。しかし1933年にアイス・アックスが発見されたあと、アーヴィンに関しては一切の手がかりがみつかっていない。Xuによれば遺体は仰向けになっていたというが、そこから考えられるのは負傷し、手当てをしていて亡くなったかあるいは休息していて亡くなったということである。

[編集] マロリーの仲間たちのコメント

  • ハリー・ティンダル(Harry Tyndale、マロリーの山仲間):「ジョージの登り方は体力で攻めるというより、柔軟にバランスよく、どんな困難な場所もリズミカルにテンポ良く乗り切ってしまうという感じで、蛇のようになめらかだった。」
  • トム・ロングスタッフ(1922年隊のメンバー):(友人への手紙で)「登山家である以上登っていくことは運命みたいなものだ。二人が下りのことを考えたとは想像しにくい。私は彼らがやりきったと信じている。快晴だったというから、きっと二人はオデールの視界から消えた後、世界の半分とも言われる絶景を眺めたのだろう。それが二人にふさわしい場所だと思う。二人はいまや永遠の世界に生き、われわれと共にいる。」
  • ジェフリー・ウィンスロップ・ヤング(Geoffrey Winthrop Young、1920年代を代表する登山家の一人でマロリーを尊敬してやまなかった):「マロリーの登山技術は理論とかじゃなくて彼自身がつくりあげたものだった。どんな斜面に対しても片足を多い位置におき、肩をひざに近づけて折り、体を起こして美しい曲線運動で立ち上がる。彼と岩の間でどんなことがおこったのか見ることができないほど。見ていても結果しかない。スピーディーでパワフルな一連の動きでどんな岩でも乗り越える、岩としては乗り越えられるか、分解してしまうしかないだろう。」ヤングはオデールが「マロリーたちがセカンドステップを超えていた」と主張したときもこれを信じ、彼らなら頂上までも言っただろうと語った。

[編集] 結論

マロリーとアーヴィンがどこまで行ったかという議論はなかなか結論が出ない。ほとんどの説で一致しているのは、二人が二本の酸素ボンベを持っていたということ、オデールが見たようにファーストステップあるいはセカンドステップへとりついたということである。可能性としては二つ、マロリーがアーヴィンの分の酸素も持って頂上に向かったか、あるいは二人でいける場所まで行ったか(その場合、頂上前に酸素は切れる、そのことも覚悟の上だったかもしれない)ということである。どちらにせよマロリーは下山中に滑落して死んだ。オデールがテントに避難した吹雪の中だったかもしれない。アーヴィンはマロリーと共に滑落したか、あるいは一人で稜線上に残って極度の疲労、低体温によって命を落としたかのどちらかであろう。2008年2月にはトム・ホルツェルが「オデールは下山中の二人をファーストステップ上で目撃した」という新説を唱えたが、いずれにせよ証拠が乏しく、今後もなかなか結論は出ないだろう。

[編集] 「登頂」とはなにか

たとえ1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に到達していたという証拠が見つかっても「初登頂」の栄誉はエドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイに与えられるべきだという意見もある。なぜなら「登頂」とは生きて帰ってこそ意味がある行為だと考えられるからだ。マロリーの息子ジョン・マロリーは三歳で父親を失ったが、「僕にとって登頂とは生きて帰ってくることです。もし父さんが帰ってこなければ決してやりとげたとはいえないのです」と、あまりに有名な父を伝説としてしか知らない寂しさを語っている。ヒラリー卿も同じような意見を持っていて「もし山に登っても、下山中に命を落としたら何もならない。登頂とは登ってまた生きて帰ってくることまでを含むのだ」と語っている。最後にイギリス人登山家でヒマラヤに詳しいクリス・ボニントン(Chris Bonington)は「もし彼らがセカンドステップにとりついていたとしたら、彼らは頂上近くまで行っただろう。そこまで行けばクライマーはみな同じ気持ちになる。だから、二人が頂上にいったとしても何ら不都合は感じない。私としてはむしろ二人が頂上までいったと信じたい。これは夢があるし、人々の心を突き動かす考えだと思う。事実はどうあれ、このことは永遠に不可知のままで良いのではないか。」

[編集] マロリーの家族

  • マロリーの弟トラフォード・リー=マロリーは英国空軍に所属して第二次大戦を戦ったが、皮肉にも兄と同じように山で命を落とした。1944年11月14日、ヨーロッパから新任地の東南アジアに向かうためトラフォードはアブロ・ヨーク輸送機に乗り込んだが、同機がアルプス山中で墜落、搭乗員全員が死亡したためである。
  • マロリーの娘クレアは物理学で有名なロバート・ミリカンの一族と結婚したが、彼女の夫もまた第二次大戦中にオークリッジの近くの山中で事故死した。クレアの子リック・ミリカンは父の悲劇を超えて1960年代から70年代にかけて活躍した登山家になった。
  • 孫にあたるジョージ・マロリー2世はアメリカ隊の一員として1995年に北壁からエベレスト頂上に到達した。

[編集] 「そこに山があるから」

マロリーの言葉として広く人口に膾炙する「そこに山があるから」(Because it is there.)という言葉は、1923年にニューヨーク・タイムズ紙の記者の問いかけに答えたものだとされるが、本当にマロリーがこう言ったのかどうかはっきりしない。記事として掲載されたのは1923年10月18日であるが、これはマロリーがアメリカ各地で講演を行ってからしばらく後のことであった。どちらかというとマロリーは言葉を選びながら多くを語るタイプであり、この短い言葉が彼のものとしてはあまりにぶっきらぼうで、そっけなさ過ぎるとマロリーを知る人々は感じた。たとえばマロリーと共にエベレストを歩き、彼をよく知っていたハワード・サマヴィルもこの言葉について「少しもジョージ・マロリーらしい匂いがしない」と切り捨てている。[1]

[編集] 脚注

  1. ^ トム・ホルツェル著、田中昌太郎訳、『エヴェレスト初登頂の謎』p314、中央公論社、1988年

[編集] 参考文献

  • W・マレー著、山崎安治訳、『はるかなるエヴェレスト』、二玄社、1963年
  • ヨッヘン・ヘムレブ、ラリー・A・ジョンソン、エリック・サイモンスン著、梅津正彦、高津幸枝訳、『そして謎は残った~伝説の登山家マロリー発見記』、文藝春秋社、1999年
  • 島田巽、『遥かなりエヴェレスト~マロリー追想』、大修館書店、1981年
ウィキクォート
ウィキクォートジョージ・マロリーに関する引用句集があります。