アンドリュー・アーヴィン

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アンドリュー・アーヴィン
Andrew "Sandy" Comyn Irvine
生誕 1902年4月28日
Flag of the United Kingdom.svg イングランドマージーサイド
バーケンヘッド
死没 1924年6月8日、もしくは9日
エベレスト(Everest)
職業 登山家

アンドリュー・アーヴィンAndrew "Sandy" Comyn Irvine、1902年4月28日-1924年6月8日もしくは9日)はイギリス登山家、イギリスによる第3次エベレスト遠征隊(1924年)に参加した。エベレスト初登頂を目指し、アーヴィンとジョージ・マロリーはエベレスト北壁に挑戦したが、そこで姿を消した。彼らが最後に目撃されたのは、山頂からわずか数百メートル手前であった。

年少期[編集]

アーヴィンはイングランドチェシャー州(現在はマージーサイド)のバーケンヘッドで、スコットランドウェールズに起原を持つ家族に元に生まれた。アーヴィンはバーケンヘッド校(en:Birkenhead School)とシュローズベリー校(en:Shrewsbury School)で学んだ後、オックスフォード大学のマートンカレッジ(en:Merton College, Oxford)で技術者になるために学んだ。アーヴィンは熱心なスポーツマンであり、ボート競技に長けていた。そのため、1922年、23年とザ・ボート・レースのオックスフォード大学のメンバーに選出された。

エベレストへの挑戦[編集]

1923年、アーヴィンは、オックスフォード大学のスピッツベルゲン遠征隊に選出されたが、アーヴィンはあらゆる局面で優れた能力を見せた。この時、アーヴィンと遠征隊のリーダー、ノエル・オデールはフォエルグラッチェ(en:Foel Grach、ウェールズ)の上で出会ったことがあったことをお互いに思い出しているその後、オデールがイギリスによる第3次エベレスト遠征隊に選ばれた時、アーヴィンの高い能力を認め、遠征に彼が必要だと考え、推薦、アーヴィンは遠征隊の一員となった。この時、アーヴィンはまだ21歳の学生であった。

インドへ向かう船の中で、アーヴィンと親しくなったジョージ・マロリーは妻に「アーヴィンはどんな時でも頼りになる、おしゃべり以外は」と書き送っている。この遠征で、アーヴィンは山岳用酸素ボンベの機能性、重量、強度などの確認を行ってその問題点を洗い出し、遠征後に酸素ボンベを再設計して、改良する予定となっていた。そして、さらには、遠征中使用するカメラ、キャンプ用寝具、プリマス・ストーブなどの多くの機器の維持管理を担当した。アーヴィンは遠征隊で人気があり、気さくで発明の才能があり、激務にも耐えたため、年上の同僚たちも敬意を払った。

登頂は6月初頭に開始、マロリーとアーヴィンが登頂に挑んだが、マロリー、アーヴィンの姿が見られたのは1924年6月8日が最後となった。彼らのサポートを行っていたノエル・オデールは、午後12時50分、マロリーとアーヴィンが「セカンドステップ」へ取り掛かろうとし「頂上へ向けて力強く進んでいた」と報告したが、彼らが登頂に成功したかどうかは確認できなかった。そのまま二人はエベレストに消えた。彼らが登頂に成功したかは未だに不明である。1999年に捜索隊によってマロリーの遺体が発見された。その遺体はロープによって腰部が損傷していたことから、二人はロープで結び合ったまま滑落したのではないかと推測されたが、アーヴィンの遺体は未だに発見されていない。

マロリーとアーヴィンが失踪した約9年後の1933年、イギリス第四次遠征隊(隊長:ヒュー・ラットレッジen:Hugh Ruttledge)のメンバー、パーシー・ウィン・ハリスは、高度8573mまでの登山に成功したが、ハリスは8380m付近のファーストステップでピッケルを発見、それは1924年にマロリーとアーヴィンが登頂に挑戦したときのものであった。『エベレスト1933』のP137にはハリスがピッケルを発見したとき、「それはボイラー板のような厚いスラブの上に、茶色で、平穏で、自由なままに転がっていた。」と述べたとしている。 さらにP138で、ハリスは「この厚いスラブは別段、険しいものではなかったが、滑りやすく、脆い小石で覆われた危険な場所であった。」と述べている。1933年11月のアルペンジャーナルにおいて、ラットレッジは以下のように解説した。「対角線上に上へ横断し、約1時間登った後、マロリーかアーヴィンが使用していたにちがいないピッケルを発見した。北東やせ尾根の下、60ftの傾斜角30度の地点にそれは転がっていた。」「ここから推測できるのは」ハリスは続けて言った、「このピッケルがアクシデントの発生を示していることだ」と。さらに「このピッケルの存在は、ここで滑落が発生して落ちたか、滑落した同僚を助けようとしてロープを引っ張るために両手を空けようとピッケルをここに置いた可能性を示している」と続けた。

登頂の可能性[編集]

1999年、イギリスのBBCとアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー、アーヴィン捜索隊が、8、155m付近でマロリーの遺体を発見した。この発見により、二つのことが明らかになった。

  1. マロリーの腰にはロープで強く引っ張られたために生じたひどい出血が見られたこと。これは何れかのポイントで2人がロープで結ばれたまま、滑落したことを意味しており、さらにその後、ロープが露出した岩に引っかかることにより、マロリーがその場所に横たわったことを意味している。
  2. マロリーの遺体には北東稜から滑落した最近の例に見られるような激しい損傷が見られず、比較的損傷の少ない状態で「8200mスノーテラス」のすり鉢状の地形で発見された。さらに、捜索隊が発見するより前にマロリーの遺体を発見したとされる中国の登山家王洪宝は、彼のピッケルが、滑落最終地点である遺体発見現場の近くに落ちているのを発見していた。これにより、以前に発見されたピッケルがアーヴィンのものであることが判明した。

これらの調査結果から、いくらかの推測ではあるが、マロリー、アーヴィンがエベレスト登頂に成功した可能性を見出している。

  • 第1に、マロリーは登頂成功後、山頂に妻の写真を置くため、写真を所持していたとマロリーの娘が常に言っていたこと。この写真はマロリーの遺体が発見されたときに見つけることができなかった。遺体と衣服の保存状態が極めて良好であったため、写真を山頂に置いた可能性が存在する。ただし、現在のところ、山頂で写真は発見されていない。
  • 第2に、マロリーの遺体が発見されたとき、彼のスノーゴーグルが彼のポケット内に入っていたことであるが、それは彼が夜間に死亡した可能性を意味している。さらにこれはマロリーとアーヴィンが登頂の為に努力した後、日没後に下山した可能性をも含んでいる。彼らの出発時間と行動能力から判断すれば、彼らが山頂に到着し、それから下山している時に滑落したということも考えられる。

しかし、どちらも決定的な証拠とは成り得ていないが、これに決定的な具体的証拠を与えそうなものが1つだけ存在する、それはアーヴィンが所持していたと思われるカメラである。しかし、アーヴィンの日記に記されていた2台のカメラのどちらも発見されていないが、多くの人が登山の際にこのどちらか1台を所持していたと推測している。コダックの専門家は、カメラがフィルム入りで発見されれば、そのフィルムが白黒であり、急速冷凍されていることから、それを修復して、現像できる可能性があると述べた。

1975年、王洪宝が、8,100m付近でイギリス登山者の遺体を見たと報告した。さらに1979年、日本登山隊が登山に挑戦した時、その隊長、長谷川良典にも報告した。しかし、その詳細を語る前に、王洪宝は雪崩で遭難死した。しかし、王洪宝が遺体を見つけたとしている高度とほぼ同じ高度でマロリーの遺体が発見されたことから、王が発見したものがマロリーの遺体であるとする見解が根強い。ただし、ある意見ではマロリーの遺体は顔を下に向けていたが、がれきに埋没していたと王洪宝が語っており、捜索隊が発見したときの状況と一致していないことを指摘している。また、ある研究者は王洪宝がアーヴィンの遺体を発見したと考えており、王洪宝が、その遺体について、おそらく死因となったであろう、頭部の損傷について語っていたが、マロリーの遺体にはそのような損傷が見られなかったことを指摘している。さらに、1999年、マロリーの遺体が発見された時、頭部はガレキに埋没しており、王洪宝が遺体の顔を見た上で、簡単な埋葬をするために、遺体を移動したと思われることも指摘されているが、これは全て推測に過ぎない。

マロリー、アーヴィンそして彼らが所持していたヴェスト・ポケット・コダックモデルBを見つけ出すために、1986年、1999年、2001年、2004年、2005年と捜索隊による捜索が行われたが、彼らの運命について新たな証拠が発見されることはなかった。その推測と議論は「The Mystery of Mallory and Irvine(マロリーとアーヴィンの謎)」として、いまだに続いている。

参考文献[編集]

  • Peter Firstbrook Lost on Everest: The Search for Mallory and Irvine, BBC Books (1999) ISBN 0-563-48712-7
  • Holzel and Salkend The Mystery of Mallory and Irvine, Pimlico (1999) ISBN 0-7126-6488-2
  • Julie Summers Fearless on Everest: The Quest for Sandy Irvine (2000), (republished 2008) ISBN 978-1-904466-31-4.

外部リンク[編集]