サミュエル・エトー
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名前 | ||||||
本名 | サミュエル・エトオ・フィス | |||||
愛称 | 黒い宝石、黒豹 | |||||
ラテン文字 | Samuel Eto'o Fils | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
カメルーン スペイン | |||||
生年月日 | 1981年3月10日(43歳) | |||||
出身地 | ドゥアラ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | アンジ・マハチカラ | |||||
ポジション | FW | |||||
背番号 | 99 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
代表歴2 | ||||||
1997– | カメルーン | 109 (54) | ||||
2. 2011年11月14日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
サミュエル・エトオ・フィス(Samuel Eto'o Fils, 1981年3月10日 - )は、カメルーン出身で同国代表のサッカー選手。ロシア・プレミアリーグ・FCアンジ・マハチカラ所属。サミュエル・エトーとも表記される。別名黒い宝石。なお、フィスは英語の Jr. (ジュニア)に相当する仏語の添え名である。
カメルーン代表の最多得点記録保持者であり、史上最多の4度のアフリカ年間最優秀選手賞受賞、2度のアフリカネイションズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など数々の栄誉を手にしている。
経歴
初期の経歴
カメルーンのドゥアラ市にあるカジ・スポーツアカデミーの一期生。1年半程度在籍した後、16歳でレアル・マドリード・カスティージャと契約。しかし、外国人であった為セグンダ・ディビシオンBでは試合に出場できず、成長を妨げないようレンタルされ、レガネス、エスパニョール、マジョルカで過ごした後、2000年のシーズン終了後に6億6000万円でマジョルカに完全移籍した。マジョルカでは2002年にコパ・デル・レイ優勝に導くなど活躍している。
FCバルセロナ
2004-2005シーズンにバルセロナに移籍しリーガ優勝を経験した。
2006年9月のUEFAチャンピオンズリーグ1次リーグ、ブレーメン戦で右ひざ半月板を痛め、全治5ヶ月と診断された。自身が「第二の故郷」としているマジョルカ島で療養していたが、2007年2月に復帰し、ゴールも決めている。なお、復帰後の起用法を巡って出場を拒否するなど、トラブルメーカーぶりもまた、健在である。
2007-08シーズンはティエリ・アンリがバルセロナに加入し、前述のフロントとの衝突などから放出が噂されるもチームに残る。しかし開幕前のインテルとの親善試合で怪我を負うと、ボージャン・クルキッチの台頭などもあり出場機会が減少。ただし、出場した試合では18試合で16ゴールと抜群の決定力を見せた。また、2007年10月17日にはスペイン国籍を取得し、カメルーンとの二重国籍となった。
2008-09シーズン、監督に就任したジョゼップ・グアルディオラの意向により一度戦力外通告を受けるが、最終的に残留する形で踏み止まると、10月25日の第8節UDアルメリア戦でバルサ史上最短の23分間でのハットトリックを達成し(この時点で8試合9得点を記録、バルサ在籍中の得点率が1.34試合となり、バルサ歴代2位につく)[1]、ひとたびリオネル・メッシ、アンリとともに世界最強ともいわれる3トップを組むと、開幕からシーズン終了までゴールを量産。3人でリーガで計72ゴール、さらに国内のカップ戦、UEFAチャンピオンズリーグなどを含めると計100ゴールを挙げ、その圧倒的な攻撃力をヨーロッパ中に知らしめた。自身も自己最多、リーガ2位の30ゴールを記録し、3シーズンぶりのリーガ制覇とチャンピオンズリーグ、さらにはコパ・デル・レイをも制し、スペイン勢史上初の3冠獲得に大きく貢献。チャンピオンズリーグ決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では決勝点を挙げた。
インテルナツィオナーレ・ミラノ
2009年7月、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレード(エトオ+移籍金4600万ユーロ)により、5年契約でインテルへ移籍。2008-09シーズンセリエA24得点(得点ランキング2位タイ)のディエゴ・ミリートと2トップを組むことになった。8月8日のスーパーカップ・ラツィオ戦で移籍後公式戦初出場、初得点を記録すると、セリエAデビューとなった2週間後のバーリ戦でPKによりセリエA初得点を挙げた。2010年3月16日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグのチェルシー戦では、チームを4シーズンぶりのベスト8へと導く決勝ゴールを挙げた。その後インテルはセリエA、コッパ・イタリア、チャンピオンズリーグを制し、エトオは史上初めて2シーズン連続で三冠を獲得した選手となった。
2010-11シーズンも好調が続き、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ6戦で1位の7得点を記録。セリエAでも得点ランクトップを走ったが、11月21日のキエーヴォ戦では相手選手に頭突きをしてしまい、3試合の出場停止処分を受けた[2]。FIFAクラブワールドカップ2010では決勝のマゼンベ戦で1ゴール1アシストを記録するなど活躍し、ゴールデンボール(MVP)を獲得した。12月21日にはクラブでの活躍が評価され、4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。その後はセリエ、チャンピオンズリーグともに得点王こそ逃したものの攻撃の中心として活躍。2011年5月9日のコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦では2得点を挙げ、インテルの2連覇に貢献。またこの2得点でシーズンの総得点を37とし、バルセロナ時代の2008-09シーズンに記録した自己記録を更新した[3]。
アンジ・マハチカラ
2011年8月24日、ロシア・ダゲスタン共和国に本拠地を置くFCアンジ・マハチカラに3年契約で移籍した[4]。移籍金は非公表であるが、移籍金2700万ユーロ、年俸は2000万ユーロと伝えられている[5]。その3日後に行われたロシア・プレミアリーグ第22節のFCロストフ戦(2-2)では後半58分から出場して80分に同点ゴールを挙げ[6]、第23節のFCヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド戦では2試合連続となる得点を挙げた[7][8]。
代表
1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にはカメルーン代表史上最年少となる17歳3ヶ月で出場した。同年のトヨタカップ、2000年のアフリカネイションズカップ、シドニー五輪を制した。
また、カメルーン代表として2002年日韓ワールドカップで来日した際にサガン鳥栖と試合をして決勝点を奪っている。
2006年のアフリカネイションズカップ・エジプト大会では、準々決勝で2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会の最終予選で最後まで出場を争ったコートジボワールとPK戦までもつれたが全員成功し2巡目の最初の番でエトオはクロスバーを越えるミスキックをしてしまい、チームはベスト8で敗れた。
FIFAワールドカップ・南アフリカ大会ではグループリーグ初戦の日本戦では、チーム事情から本来のポジションとは異なる右サイドでのプレイを余儀なくされ無得点だったが、デンマーク戦とオランダ戦ではゴールを記録した。9月5日のアフリカネイションズカップ2012予選のモーリシャス戦で2得点を挙げ、代表通算100試合出場と50得点を達成した。
2011年11月15日、代表戦出場ボーナスの支払いがないことから、アルジェリア代表との親善試合をボイコットして試合は中止された。これを重く見たカメルーンサッカー連盟は、16日に代表戦15試合の出場停止処分を下したが[9]、エトオは処分が不服であるとして規律委員会に訴え、4試合の出場停止に軽減された[10]。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 自らも少年時代には十分な環境でサッカーが出来なかった経験から、母国では自ら出資してサッカー教室を作った。
- 16歳でレアル・マドリードへ移籍する際、イングランドやイタリアからもアプローチがあったようだが、本人がスペインサッカーに最も惹かれていたこともありスペイン行きとなった。フランスのスタイルも気に入っているらしい。ちなみに初めて欧州へ移籍してきたとき間違えてスペインではなくフランスの空港に降りてしまった。
- レアル・マドリード時代トヨタカップ優勝を経験しているため、カメルーンに凱旋したときカルロス国王から賞賛されている。その写真はカジ・スポーツアカデミーの食堂に飾ってある模様。
- グアルディオラ政権となってから、一度戦力外通告を受けていたが、プレシーズンマッチで奮起し毎試合のようにゴールを奪い続け、監督の信頼を勝ち取った。アフリカネイションズカップ中にもバルセロナの試合を気にし続けるなど、クラブに対する深い忠誠心とプロ意識を持っている。もっとも、エトーは自らの心のクラブはマジョルカであると公言しており、スペインのクラブでキャリアを終えるとすればマジョルカで終えたいとインタビューで語っている。
- 2004-05シーズン、カンプ・ノウで行われた優勝報告会において、超満員に膨れ上がった観衆の前で「Madrid ,cabron saluda al campeon!(くそったれマドリー、チャンピオンに挨拶しろ!)」と叫び物議を醸し、翌16日に謝罪会見を開いた。[11]
- 2009-10シーズンの11月に古巣バルセロナとカンプノウで対戦した際、スタメン発表時にスタンディングオベーションで迎えられた。試合後にジェラール・ピケと抱擁しバルサTVのインタビューに応じた
- 弟のダビド・エトオはマジョルカの下部組織出身で現在はテルセーラ・ディヴィジョン(4部相当)のレウス・デポルチウに所属している。
- 自他共に認める車好きだが、何度か事故を起こしている。
- 幼い頃に父親に腕時計を買ってもらって以降、腕時計にはこだわりがあり、自らプロデュースも行っている。2010年W杯予選の際は「カメルーンがW杯に出場できたらチームメイト全員に腕時計をプレゼントする」と宣言し、実際に出場決定後、自らのブランドの450万円相当の腕時計を贈った(計1億円に上る[12])。* インテルに移籍後、現時点で世界最高の選手は誰かと問われ、「その選手とは一緒にプレーしたことがある。もちろんメッシだ。」と答えている。
- 異なるクラブでチャンピオンズリーグ2年連続優勝を経験したのはマルセル・デサイー、パウロ・ソウザ、ジェラール・ピケ、エトオの4人だけである。
- 夫人との間に3人の子供がいるが、サルデーニャ島に住む愛人との間に一子を設けている。
所属クラブ
- 1997-2000 レアル・マドリード
- 1997-1998 → CDレガネス (loan)
- 1998-1999 → RCDエスパニョール (loan)
- 1999-2000 → RCDマジョルカ (loan)
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1997-98 | CDレガネス | セグンダB | 28 | 3 | 0 | 0 | |||||
1998-99 | エスパニョール | プリメーラ | 0 | 0 | 0 | 0 | |||||
1999-00 | マジョルカ | 13 | 6 | 0 | 0 | ||||||
2000-01 | 28 | 11 | 5 | 2 | |||||||
2001-02 | 30 | 6 | 1 | 1 | |||||||
2002-03 | 9 | 30 | 14 | 6 | 5 | ||||||
2003-04 | 32 | 17 | 2 | 0 | |||||||
2004-05 | バルセロナ | 9 | 37 | 25 | 1 | 0 | |||||
2005-06 | 34 | 26 | 2 | 2 | |||||||
2006-07 | 18 | 11 | 4 | 1 | |||||||
2007-08 | 18 | 16 | 4 | 0 | |||||||
2008-09 | 36 | 30 | 4 | 0 | |||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2009-10 | インテル | 9 | セリエA | 32 | 12 | 3 | 2 | ||||
2010-11 | 35 | 21 | 4 | 5 | |||||||
通算 | スペイン | プリメーラ | 276 | 162 | 29 | 11 | |||||
スペイン | セグンダB | 28 | 3 | 0 | 0 | ||||||
イタリア | セリエA | 67 | 33 | 7 | 7 | ||||||
総通算 | 371 | 198 | 36 | 18 |
代表歴
- 1997年3月9日:コスタリカ戦でカメルーンA代表デビュー
- 1998年 FIFAワールドカップ フランス大会 - グループリーグ敗退
- 2000年 シドニーオリンピック 金メダル
- 2000年 アフリカネイションズカップ ナイジェリア・ガーナ大会 - 優勝
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ 日韓大会 - グループリーグ敗退
- 2002年 アフリカネイションズカップ マリ大会 - 優勝
- 2002年 FIFAワールドカップ 日韓大会 - グループリーグ敗退
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ フランス大会 - 準優勝
- 2004年 アフリカネイションズカップ チュニジア大会 - ベスト8
- 2006年 アフリカネイションズカップ エジプト大会 - ベスト8
- 2006年 FIFAワールドカップ ドイツ大会 - アフリカ地区予選敗退
- 2008年 アフリカネイションズカップ ガーナ大会 - 準優勝
- 2010年 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会 - グループリーグ敗退
獲得タイトル
オリンピック | ||
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男子競技サッカー | ||
金 | 2000 | 男子競技サッカー |
クラブ
- トヨタカップ (1): 1998
- コパ・デル・レイ (1): 2002-2003
- リーガ・エスパニョーラ (3): 2004-2005, 2005-2006, 2008-2009
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2): 2005, 2006
- UEFAチャンピオンズリーグ (2): 2005-2006, 2008-2009
- コパ・デル・レイ (1): 2008-2009
- コッパ・イタリア (2): 2009-2010, 2010-2011
- セリエA (1): 2009-2010
- UEFAチャンピオンズリーグ (1): 2009-2010
- スーペルコッパ・イタリアーナ (1): 2010
- FIFAクラブワールドカップ (1): 2010
代表
- アフリカネイションズカップ (2) : 2000, 2002
個人
- アフリカ年間最優秀若手選手賞: 2000
- アフリカ年間最優秀選手賞: 2003, 2004, 2005, 2010
- FIFPro年間ベストイレブン: 2005, 2006
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー: 2005, 2006
- リーガ・エスパニョーラ得点王 : 2005-06(26得点)
- アフリカネイションズカップベストイレブン: 2006
- アフリカネイションズカップ得点王: 2008(5点)
- FIFAクラブワールドカップゴールデンボール: 2010
脚注
- ^ 「TOPIX FILE:エトーが「最短ハットトリック」を達成!!」 『WORLD SOCCER DIGEST No.279』 第14巻第22号、日本スポーツ企画出版社、2008年、81頁。雑誌 29893-11/20
- ^ エトーへの処分が確定 パンデフは古巣相手に不振脱却なるか? Livedoorスポーツ 2010年12月3日
- ^ バルサ時代の自己記録を塗り替えたエトー「僕はインテルに残る」SOCCER KING 2011年6月1日
- ^ エトーがインテルからアンジへ移籍uefa.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ アンジがエトー獲得を発表goal.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ ロシア移籍のエトー、早くもデビュー弾goal.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ Голы Это'О и Роберто Карлоса помогли "Анжи" победить "Волгу"championat.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ Мгновения 23-го тураchampionat.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ 代表戦のストライキをしたエトーが15試合の出場停止処分にsoccer-king.jp、2012年1月8日閲覧。
- ^ エトーの出場停止処分が大幅軽減goal.com、2012年1月8日閲覧。
- ^ Sammi Eto'o Madrid Cabron http://www.youtube.com/watch?v=TjkHfoBlCnI&fmt=34
- ^ 「TOPIX FILE:大盤振る舞いを見せたエトー」 『WORLD SOCCER DIGEST No.305』 第15巻第24号、日本スポーツ企画出版社、2009年、81頁。雑誌 29893-12/17
外部リンク
- 公式ウェブサイト (要Adobe Flash Player)
- Profile on Anzhi Makhachkala official website
- Samuel Eto'o – FIFA主催大会成績
- Samuel Eto'o Private Foundation
- ESPN Profile
- Profile at SoccerSurfer.com