ヴィゴ・モーテンセン

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 ヴィゴ・モーテンセン
Viggo Mortensen
『ロード・オブ・ザ・リング』プレミアにて
『ロード・オブ・ザ・リング』プレミアにて
本名 Viggo Peter Mortensen Jr.
生年月日 1958年10月20日(50歳)
出生地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
民族 デンマークアメリカ
ジャンル 俳優詩人写真家
活動期間 1982年-
主な作品
ロード・オブ・ザ・リング』三部作
イースタン・プロミス
受賞
ドラマローグ賞
第10回英国インディペンデント映画賞 主演男優賞
第12回サテライト賞 映画ドラマ部門 主演男優賞
第11回トロント映画批評家協会賞 主演男優賞
備考
第73回ニューヨーク映画批評家協会賞 最優秀男優賞ノミネート(次点)
サンディエゴ映画批評家協会賞 主演男優賞ノミネート(次点)
第20回シカゴ映画批評家協会賞 主演男優賞ノミネート
セントルイス映画批評家協会賞 主演男優賞ノミネート
第13回放送映画批評家協会賞 主演男優賞ノミネート
第65回ゴールデングローブ賞 主演男優賞ノミネート
第14回全米映画俳優組合賞 主演男優賞ノミネート
第61回英国アカデミー賞 主演男優賞ノミネート
第80回アカデミー賞 主演男優賞ノミネート
第22回ジェニー賞 主演男優賞ノミネート(2008年3月3日発表)
バンクーバー映画批評家協会賞 主演男優賞ノミネート

ヴィゴ・モーテンセンViggo Mortensen, 本名Viggo Peter Mortensen Jr., 1958年10月20日 - )は、ニューヨーク州マンハッタン出身の俳優詩人写真家デンマーク王国アメリカ合衆国の二重国籍保持者。独身。身長約180cm(5フィート11インチ)。瞳の色はブルーグリーン。髪の色はブラウン。
ロード・オブ・ザ・リング』三部作のアラゴルン役で世界的な名声を得る。2008年には『イースタン・プロミス』で第80回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。


目次

[編集] キャリア

[編集] 俳優を志すまで

少年時代は母親と映画館に赴き西部劇やクラシックムービーに親しんでいた。

高校の頃から演技に興味を持ち始め、大学入学後は脚本家志望の友人の部屋に入り浸っていた。この頃、町の劇場のオーディションを受けたこともあったが、小学校以来の内気さも相俟って大きな声が出せず成功しなかった。

[編集] 指輪以前

大学卒業後に欧州に滞在していた頃も映画館に入り浸っていたヴィゴは、ピエル・パオロ・パゾリーニイングマール・ベルイマンアンドレイ・タルコフスキー小津安二郎などの映画に影響され、本格的に俳優を志すようになる。

ニューヨークへ行った恋人を追って帰国した後は、Warren Robertson[1] Acting Workshopに参加。デンマークの親族と友人らには、俳優志望である旨の手紙を出したが、誰も彼が本気だとは思わなかった。ヴィゴは生活のためアイスクリーム売りやバーテンダーなどのアルバイトをしながら演技の基礎を学び、1982年に舞台デビュー。インディアナ・レパートリー・シアターでの『ロミオとジュリエット』、アメリカン・レパートリー・シアターでの『Kevin O'Cypher』、Ryan Repertory Companyでの『Two by Two』、Ensemble Studio Theaterでの『The Rapidio』など幾つかの舞台に出演した。

1984年にはドラマ『George Washington』でテレビデビュー。同年『スイング・シフト』(ジョナサン・デミ監督)でスクリーンデビューの予定だったが、編集時に出演シーンはカットされる。またウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』にも参加したが、こちらも編集でカットされため、結局1985年の『刑事ジョン・ブック 目撃者』がデビュー作となった。

1987年、ロサンゼルスのコースト・プレイハウスで上演された舞台『ベント』で、強制収容所ナチ将校を演じDrama-Logue Awardを受賞。

1991年にはショーン・ペン監督処女作の『インディアン・ランナー』に出演。深刻なPTSDを負ったベトナム帰還兵の弟を熱演、一躍注目される。しかしその後は僅かな佳作を除いて出演作に恵まれることは無かった。

[編集] 指輪以後

2001年から2003年にかけて公開された『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、世界の映画史に残る大ヒットを記録し、ヴィゴをはじめ共演者やスタッフらの名声を大いに高めた。当初アラゴルン役にキャスティングされていたのはスチュアート・タウンゼントだったが、彼の容姿が思ったより若かったことから撮影開始後になって急遽ヴィゴが撮影に参加することとなった。出演依頼を受けた際、長期間の撮影で子供と離れて生活することを嫌がり一旦は断ろうとしたが、それを聞いた『指輪物語』ファンの長男に、依頼を受けることを熱心に勧められ出演することに決めた。ちなみにロケ地であるニュージーランドからの連絡を受けてから2日後には現地でアラゴルンを演じていた。

同作の宣伝で出向いたカンヌ国際映画祭のパーティ会場では、カナダの映画監督デヴィッド・クローネンバーグと知り合うこととなった。この出会いが後に『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年)、『イースタン・プロミス』(2007年)出演のきっかけとなる。また同作の演技により、2008年第80回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた(2008年2月25日発表)。

[編集] これから

2008年にはC.P. テイラーの舞台を映画化した『GOOD』(共演ジェイソン・アイザックス)、エド・ハリス主演・監督の西部劇『Appaloosa』(共演ジェレミー・アイアンズレネー・ゼルウィガー)の公開、また『ノーカントリー』の著者コーマック・マッカーシー原作の『ザ・ロード(仮)』(共演シャーリーズ・セロンガイ・ピアース)の撮影が控えている。

[編集] 私生活

[編集] 幼少期

デンマーク人の父ヴィゴ・ピーター・モーテンセン(同名)は農業従事者。母グレース・アトキンソン(現在は再婚しグレース・ギャンブルとなった)は在ノルウェー米国大使館に勤務していたアメリカ人。二人はノルウェーのスキー場で出会い結婚した。ヴィゴは彼らの長男としてマンハッタンのニューヨーク・ホスピタルで誕生。

ヴィゴが2歳になると父の農場経営の仕事の関係で一家はベネズエラへ移住。その一年後にはアルゼンチンへ引っ越し、弟のチャールズとウォルターが生まれた(現在彼らは地理学者に)。ヴィゴと兄弟らは牧場で乗馬釣り狩猟に親しむ牧歌的な子供時代をすごした。また夏毎にデンマークへ帰省していたため、英語のほかにスペイン語デンマーク語フランス語などが流暢に話せる。この頃なりたかったものは南米のカウボーイガウチョ。お絵かきなど、一人遊びが好きな子供だった。

[編集] 少年時代

ブエノスアイレス近郊の山すそにある全寮制小学校に入学。

11歳のとき両親が離婚。弟らと母の故郷であるカナダ国境沿いのサウザンドアイランズ近くのニューヨーク州ジェファーソン郡ウォータータウン市へ戻る。

このころ幼い弟たちはスペイン語しか話せなかった。ヴィゴは同級生たちが夢中になっていたブルー・オイスター・カルトグランド・ファンク・レイルロードなどの激しいロックに馴染めず、汚い言葉やスラングの意味も理解できなかった。そのためすっかり自信を喪失してしまう。大好きなカーペンターズは自宅や一人のときだけこっそり愛唱していた。

中学と高校ではスペイン語研究会、美術部、テニス部、水泳部に所属。成績は優秀で水泳部ではキャプテンを務めるなど文武両道だった。しかし当時の教師や同級生によると、この頃は小柄で天使のような容貌の大人しい生徒で、決して目立つタイプではなかったという。

[編集] 青年時代

ウォータータウン高校卒業後は近郊のニューヨーク州セントローレンス郡カントンの私大、セント・ローレンス大学へ進学。学生時代は政治学の教授夫妻宅に下宿していたが、基本的には脚本家志望の友人の部屋に入り浸っていた。

大学一年のハロウィンパーティではデヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』の衣装とメイクをしたまま酩酊。有刺鉄線の上に顔から倒れ込み、その際上唇の左側から鼻にかけ皮一枚を残して切断。友人らによって病院に担ぎ込まれるも、現在も傷が残るほどの大怪我を負った。縫合時は麻酔が要らないほど泥酔していた。

スペイン文学政治学で学位を取得し、卒業時には政治学専攻らしく「式用の礼装製造業者が従業員に不当労働を強いている」として抗議の意を示すため数名のクラスメイトと共に角帽とガウンを着用しないことを約束した。ただし実際にそれを実行したのはヴィゴだけだった。

卒業後はデンマークに渡り花売りやウェイターなどをしながら滞在。ロンドン近郊に住んだこともあり、映画館に入り浸っていた。その後当時の恋人を追って帰国。

[編集] デビュー後

俳優としてデビューした頃はニューヨーク在住だったが後にロサンゼルスに移住。

1987年7月8日、映画『T.V.サルベーション』の共演者でパンクバンドXのヴォーカリスト、エクシーン・セルベンカ(1956年2月1日 - )と結婚。アイダホ州へ移住。翌年には長男ヘンリー・ブレイク(1988年1月28日 - )が誕生するも1992年に別居。一家はロサンゼルスに戻る。別居理由は生活拠点をアイダホ州に移したことによって一家の収入が激減したことが一因とも言われている。

正式離婚は1998年3月13日親権は元妻と共同保有。現在も家族ぐるみの良好な友人関係にある。その後は父子家庭を切り盛りしていたが、2007年現在では長男の大学進学に伴い一人暮らし。

[編集] 現在

2002年、出版社パーシヴァル・プレスを設立。商業ベースには乗り辛いが優れた作品を紹介している。

2006年5月21日、母校の大学より名誉博士号を授与される[2]。なお母方の祖父も1958年に同大学から名誉博士号を授与されている。

2008年アメリカ合衆国大統領予備選挙ではオハイオ州選出の民主党デニス・クシニッチ下院議員[3]支持を表明。

[編集] ゴシップ

離婚後は特にこれといった恋愛の噂はないが、2000年頃から2003年まで画家ジュリアン・シュナーベルの長女で芸術家のローラ(1980年 - )と交際していた。

現在はそういった話題になると「仕事が忙しくて恋愛どころではない」とか、冗談めかして「自分は隠遁した雌雄同体 (reclusive hermaphrodite)」だとかはぐらかしている。

[編集] エピソード

[編集] 好きなもの

好きな映画は『ベニスに死す』、『ディア・ハンター』、『夢のチョコレート工場』、『裁かるゝジャンヌ』、『女優フランシス』、『秋のソナタ』など。

好きな役者はメリル・ストリープイングリッド・バーグマンリヴ・ウルマンルイーズ・ルネ・ファルコネッティマーロン・ブランドモンゴメリー・クリフトクリストファー・ウォーケン。特にメリル・ストリープとルイーズ・ルネ・ファルコネッティからは演技面での影響を受けた。

好きな家事は皿洗い。また長男の育児担当だったため本人曰くおむつ換えが得意。基本的に自炊派で長男に毎朝弁当を持たせていたり、自宅にインタビュアーが来た際には手料理でもてなしたことも。

好きなスポーツはクロスカントリースキー乗馬。スポーツチームは野球ではニューヨーク・メッツサッカーではアルゼンチンブエノスアイレスサン・ロレンソスペインレアル・マドリードデンマーク代表アイスホッケーではモントリオール・カナディアンズ。その他にもスポーツ観戦は好きで、2006年トリノオリンピックは、フィギュアスケート女子シングル荒川静香が金メダルを得ることとなった演技をリアルタイムでテレビ観戦していた。

好きな食べ物はチョコレートで、常に携帯して現場の共演者やスタッフなどに配り歩いている。そのため「チョコレートの妖精」「チョコレートの密売人」などあだ名をつけられた。

[編集] その他

母方の家系にはジョニー・アップルシードことジョン・チャップマン(1774年9月26日 - 1845年3月18日[4]や、アメリカ西部開拓時代の英雄バッファロー・ビルことウィリアム・フレデリック・コーディ大佐(1846年2月26日 - 1917年1月10日[5]らがいる。

ニューヨークで役者の卵をしていた頃は治安の悪いヘルズキッチン周辺に居住しており、自宅付近でアイスクリーム売りのアルバイトをしたときには通り魔に肩を刺されたことも。

ファッション・フォトグラファーのブルース・ウェーバー監督によるドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』(1988年)に、サンタモニカのビリヤード場で遊んでいる姿が一瞬映っている。その後も幾度か同監督の写真のモデルをつとめている。

新婚時代のモーテンセン家には脚本家マイケル・ブレイクが居候しており、彼の代表作『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は夫妻への新婚祝いとして執筆された。そのため同作の主人公ジョン・ダンバー中尉は、当初はヴィゴを想定したキャラクターだった。

『インディアン・ランナー』(1991年)で知り合ったデニス・ホッパーは、ブレイク前のヴィゴのパトロン的役割を務めた。『ダイヤルM』(1998年)で使用されたコラージュ作品はヴィゴ自身の作だったが、この作品を制作する際のアトリエを提供したのはホッパーだった。2001年には二人でオランダアムステルダムへ旅行。この際撮影された写真はヴィゴの作品集『Signlanguage』に収められている。また2005年にはパーシヴァル・プレスからホッパーの写真集『Bucharest Nights』が出版されるなど、親交は続いている。

ガンズ・アンド・ローゼズのギタリストバケットヘッドとも友人で、二人でCDを共同制作している。

A.R.B.石橋凌とは『ヤクザvsマフィア』(1993年)で知り合った。

ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』撮影中は、ホビットオークに連れ去られ兜を蹴り上げる演技の際に足の小指を骨折したり、殺陣で相手の剣が当たり前歯が欠けたり、拳に酷い怪我を負った。

ドキュメンタリー監督マイケル・ムーアとも親交があり、共に2004年アメリカ合衆国大統領選挙への投票を訴えるラリーLeave No Voter Behind)に参加。その際の模様はムーアのドキュメンタリー作品『Captain Mike Across America』(2007年)に収録されている。

リベラルな政治的言動が目立つため保守派から言動を非難されることもある。

右腕、左腕(元妻と息子と自分の名前の頭文字を組み合わせたマーク)、左肩(旅の仲間の人数「9」のテングワール)、右鼠蹊部(三日月)、腰、右手首(息子が幼い頃落書きした「H」)など、体中にタトゥーを彫っている。

座右の銘は映画監督シドニー・ルメットの言葉。「仕事のほとんどは起こり得る災難に対する準備からなる」

「G.I.ジェーン」では「厳格な鬼曹長」役を演じる為、他の俳優と間を置き、親交を深めようとしなかった。また逆に「ロード・オブ・ザ・リング三部作」では「仲間」というテーマ性から周囲とのコミュニケーションを大事にし、「旅の仲間達」との友情は映画同様今でも続いているという。

[編集] 出演作品

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ・映画

  • George Washington (1984年)--Lieutenant at LeBoeuf
  • ABC Afterschool Specials: High School Narc (1985年)--Tim
  • Search for Tomorrow (1985年)--Bragg
  • マイアミバイス/流血死の捜査令状 Miami Vice: Red Tape (1987年/シーズン3 第65話)--エディ・トランブル
  • Once in a Blue Moon (1990年)
  • バニシング・ポイント/激走2000キロ Vanishing Point (1997年)--ジミー・コワルスキー

[編集] 作品集

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  • Ten Last Night(1993年)

[編集]

詩、写真、絵画、散文などをまとめた作品集。

  • 1991(1991年)
  • Recent Forgeries(1998年)
  • Signlanguage(2002年)
  • Coincidence of Memory(2002年)
  • The Hole Of The Sun(2002年)
  • 45301(2003年)
  • Miyelo(2003年)
  • Mo Te Upoko-o-te-ika/For Wellington(2003年)
  • The Horse Is Good(2003年)
  • LINGER(2005年)
  • I forget you for ever(2006年)
  • SKOVBO(2008年)

[編集] CD

  • Don't Tell Me What To Do(1994年)
  • One Less Thing To Worry About(1997年)
  • The Other Parade(1998年)
  • One Man's Meat(1999年)
  • Pandemoniumfromamerica(2003年)
  • Please Tomorrow(2004年)
  • Intelligence Failure(2005年)
  • Time Waits for Everyone(2007年)
  • AT ALL(2008年)

[編集] 脚注

  1. ^ Warren Robertson - Internet Movie Database (英語)
  2. ^ [1]
  3. ^ [2]
  4. ^ エマヌエル・スヴェーデンボリの思想に影響を受け、生涯を清貧のうちに過ごした伝説の宣教師。 頭に鍋をかぶり麻袋に穴を開けただけの衣類をまとい裸足で放浪していた。荷物は聖書と林檎の苗木で、出会った人々に苗を配り栽培法を伝授することに人生を捧げた。
  5. ^ 南北戦争インディアン戦争に従軍した軍人だったが、後にポニー・エキスプレスに入りバッファロー狩りの名人として称えられる。その後は興行主として「ワイルド・ウェスト・ショー(Wild West show)」を主催。ラコタ族の指導者シッティング・ブルらと共に活躍した。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ