ヘリオガバルス

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ヘリオガバルス(エラガバルス)
Heliogabalus (Elagabalus)
ローマ皇帝
Elagabalo (203 o 204-222 d.C) - Musei capitolini - Foto Giovanni Dall'Orto - 15-08-2000.jpg
「ヘリオガバルス胸像」(カピトリーノ美術館所蔵)
在位 218年 - 222年
別号 ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス
Varius Avitus Bassianus
全名 カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生 203年3月20日
エメサ(現在のシリア・アラブ共和国・ホムス
死去 222年3月11日
ローマ
継承 アレクサンデル・セウェルス
配偶者 ユリア・コルネリア・パウラ
  アクウィリア・セウェラ
  アンニア・アウレリア・ファウスティナ
  ヒエロクレス(男性)
子女 アレクサンデル・セウェルス従弟・養子)
王朝 セウェルス朝
父親 セクストゥス・ウァリウス・マルケルス
母親 ユリア・ソエミアス・バッシアナ
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスラテン語: Marcus Aurelius Antoninus Augustus[1]203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルスHeliogabalus )、またはエラガバルスElagabalus )という渾名通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する[2]

セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルス外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスVarius Avitus Bassianus)といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母ユリア・ソエミアス英語版は密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した[注釈 1]。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。

しかし、彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった[3]。また、宗教面でも従来の慣習制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行った。

ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるともみられているが[4]、後世の歴史家からも祭儀にふけって政治を顧みなかった皇帝として決して評判はよくない[3][5]。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」との評価を下している[6]19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の退廃について言及している[7][注釈 2]

生涯[編集]

生い立ちと皇帝即位までの経緯[編集]

皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老院議員の父セクストゥス・ウァリウス・マルケリス英語版と母ユリア・ソエミアス英語版の子として203年シリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた[2][8]。父マルケルスは騎士階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母ユリア・マエサはエメサの町の大祭司[要曖昧さ回避]ユリウス・バッシアヌス英語版の娘で、セウェルス朝の開祖セプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった[3][9]。したがって、彼の母ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男であるカラカラ帝とは従姉弟の関係にあり、皇帝家の一員であった[8]。幼少期のウァリウス・アウィトゥスは母方一族の生業である神官として養育されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった[2]。少年は長じて太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした[2]。やがて皇帝となる少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていた[10]

残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で弟のゲタ帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失い、217年4月8日メソポタミアハッラーンで暗殺された[2][5]。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝にはクーデターの首謀者であった近衛隊隊長のマルクス・オペッリウス・マクリヌスが即位した[2]


即位したマクリヌス帝は、北アフリカマウレタニアの出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした[8][10]。それに対し、中東の属州シリアに幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の伯母ユリア・マエサは自らの孫であるヘリオガバルスを帝位に就ける陰謀をめぐらした[8]。マクリヌス帝は、その子息ディアドゥメニアヌスと共同で統治したが、東方の大国パルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍隊からの信頼を失っていた[10]

14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは女系を通じて親族であったが、未亡人となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラのだったと公言し、少年は先帝と密通して生まれたカラカラの落胤であると主張した[2][3][8]。これは、少年の祖母にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである[2][注釈 3]。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家のを駆使して第3軍団「ガッリカ」の兵士将軍を買収して自陣営の戦力を調達した。

218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した[2]。それに対し、軍団指揮官のヴァレリウス・エウティキアヌス英語版はウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した[11]。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した[12]

ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した[13]オリエント諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである[10]

軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した神官による暴挙であると記した手紙をローマの元老院に書き送った[14]。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した[15]

元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「パルティカ英語版」の裏切りによってアンティオキアの戦い英語版において敗北した[13]。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ、斬首の刑に処せられた[2][13]。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された[13]

アンティオキアでの勝利をもとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した[16]。これは完全に、ローマ法の定める秩序に違反した行為であったが、3世紀に即位したローマ皇帝にはしばしばみられた行為ではあった。また同時に、ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている[17][注釈 4]

結局のところ元老院は、218年の6月、既成事実を追認するかたちでヘリオガバルスの帝位を認め、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した[18]。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナをとして祭るという要求も承諾し[19]、逆にマクリヌス帝が「名誉の抹殺」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった[16]。また新しい近衛隊長には反乱の立役者ヴァレリウス・エウティキアヌス英語版が任命された[20]

ローマ入城と初期の治世[編集]

ヘリオガバルス帝が描かれたデナリウス銀貨

218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは小アジアのニコメディア(現トルコ共和国イズミット)で過ごしていたが[18]、同時代を生きた歴史家カッシウス・ディオは、この少年皇帝が問題を抱えた人物であることは既に明らかになっていたと指摘している。新皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと諭した家庭教師を不愉快に思って殺害したと伝えられる[21]。同時期にユリア・マエサ神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像をウィクトーリア女神像の前に掲げさせた[18]。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、嫌でも神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。

こうした振る舞いに、後盾であった反マクリヌス派の軍勢は早くもヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め[22]ゲッリウス・マキムス英語版将軍に率いられた第4軍団「スキュティカ」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「ガッリカ」(彼らは反乱に加担し、ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっている[23]。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した[24]

皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた(隕石)と信じられていた、底が平らで先の尖った円錐形の形状をもつ巨大な「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、219年の初秋、ようやくローマに到着した[2]。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える紫色の地に錦糸をあしらった司祭服を着用し、ネックレス腕輪など豪奢な装身具をほどこし、頭上に宝石を散りばめた帝冠をいただいたうえで女装していたからである[2]

エウティキアヌス英語版やマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、取り巻きたちを要職に就けて体制を固めた[25]。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている[20]。私生活の退廃も人事にも影響を与え、男性の愛人であった奴隷ヒエロクレスを共同皇帝にしようとしたり[26]、別の愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している[27]

財政面では、カラカラがそうしたようにの含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニニアヌス銀貨は廃止した[28]

ヘリオガバルス帝の初期の治世で部分的ながらまともな統治が行われていたのは、祖母ユリア・マエサと母ユリア・ソエミアス英語版による執政が行われていたためと考えられている[29]。この野心に満ちた2人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima)、マエサは「元老院の女神」(Mater Castrorum et Senatus)をそれぞれ授与された[19]。実権を掌握してまるで女帝のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は何ら自分の意見を表明できない、ただの傀儡[要曖昧さ回避]でしかなかった。少年皇帝は、祖母と母から甘やかされて育ち、浪費家で、政治的には無能力だったのである[10]

皇帝の結婚[編集]

2度目の妻として迎えられ、のちに再度結婚することになる「ウェスタの処女アクウィリア・セウェラ。后妃としてデナリウスに描かれている。

少年皇帝が最初に結婚した相手はユリア・コルネリア・パウラ英語版という女性であり、220年に豪奢な結婚式が挙行されている[2]。このとき、ローマ市民や兵士に対しても御祝儀が大盤振る舞いされたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲が決めた政略結婚であったと考えられている[30]。彼女はアウグスタ皇后)の称号を得たものの、この結婚生活は長く続かず、その年のうちに2人は離婚した。パウラが皇帝の異常ともいえる性愛に応えられないというのが離婚の理由であった[2]

皇帝はパウラと離婚すると、220年末に「ウェスタの処女」たる巫女アクウィリア・セウェラ英語版を手篭めにして再婚した[30](かまど)の神ウェスタに仕える巫女は共同生活を送り、聖なるを絶やさぬことを務めとしていた[2][31]。幼少時に神職に召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ処女を貫くことが求められ、その禁忌を破った場合には生きたまま穴埋めされるという恐ろしいがあった[31]。しかし、ヘリオガバルスはそのような掟は意に介せず、彼女と結ばれれば、神のような子どもが授かると信じ、彼女に禁忌を犯させてでも結婚を強要したのである[2]

禁断の結婚に対する周囲の批判からほどなく、結婚半年でアクウィリアとの婚姻を解消したのち、221年7月に3度目の妻として迎えたのは美貌で知られたアンニア・アウレリア・ファウスティナ英語版であった[30]。彼女は、五賢帝のひとりで哲人皇帝として知られたマルクス・アウレリウスの曾孫で、その子であり暴君として暗殺されたコモドゥス帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたるネルウァ=アントニヌス朝との連続性を主張する政治的意図があったとみられる。実は、アンニア・ファウスティナにはポンポニウス・バッスス英語版という夫があり、そのあいだに一男一女があったが、この夫を処刑しての結婚であった[2]。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し、結局ヘリオガバルスはアクウィリアとよりを戻して4度目の結婚を果たした。

宗教改革[編集]

アウレリウス金貨に描かれたヘリオガバルス帝。裏面にはヘロディアヌスが伝えるようにエル・ガバルの化身とされた黒石が戦車に乗せられてパレードを行っている様子が描かれている。

セプティミウス・セウェルス帝のとき、ローマ帝国のなかでは太陽神信仰が流行する傾向にあり[32]、皇帝自身、先に述べたように太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官であった。シリアはもともと母系制の社会であったが、女性は太陽神の祭司にはなれないことになっていた。多神教の社会であったローマでは宗教に寛容であり、領域拡大にともない各地の土着神を受け入れていた。古くからローマでは太陽神としてソールが知られ、しばしばローマ神話にも登場しており、また、ペルシャの太陽神ミトラスを奉ずる密儀宗教、ミトラ教も信じられていた。ただし、ミトラ教が女人禁制であるのに対し、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。

ヘリオガバルス帝はローマでのこうした太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エル・ガバルを古代ローマ多神教における最高神に位置づけるべく「デウス・ソール・インウィクトクス」と尊称させ、天空神ユピテルをも従える存在とした[33]。さらに、ユピテルに従うとされていたカピトリヌスの三女神をエル・ガバルの妻と位置づけ、その権威を高めようとした[30]。ここにローマは、かつてのポエニ戦争以来敵対してきたセム系の神、神官およびそれを操る女性たちの支配を受けることとなった[10]。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝の正式の称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した[10]

さらに、ヘリオガバルス帝は上述したように処女を保つ戒律を持っていた巫女アクウィリア・セウェラとの結婚を周囲に認めさせ、神官同士の交わりによって「神の子」を生み出そうとした[10][34]。本来であれば「ウェスタの処女」を辱めた者は殺され、この禁忌を破った巫女もまた神の罰を避けるために生きたまま土に埋められると決められており、皇帝の行為はローマにおける宗教的慣例を踏みにじる暴挙であった[31][35][注釈 5]

独自の宗教政策の果てに、ヘリオガバルス帝は「ヘリオガバリウム」と呼ばれる巨大なエル・ガバル神の宮殿をローマのパラティーノの丘(パラティヌスの丘)に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、生け贄として捧げられた[18]。歴史家ヘロディアヌスによれば「黒石は神界からの賜り物のごとく崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エル・ガバルの姿を描いていると信じられていた[8]。新たな崇拝対象への信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も割礼を行い[33]、元老院議員に対し、みずから踊り子として祭壇の前で舞う姿をみるよう強要した[18]。ローマの民衆は、神殿で皇帝が神からの賜りとして配る食事を目当てに神殿の祝祭に殺到したと伝えられる[30]。そして、この祝祭の仕上げに、「黒い石」が金細工や宝石類で飾り付けた馬引きの戦車に載せられ、砂金の敷かれた道を運ばれて街中を凱旋したようすをヘロディアヌスは記録している。

6頭もの巨大な白馬に引かれた二輪戦車は金銀細工で飾られる絢爛なものだったが、異様にも誰も乗っておらず無人で走らされていた。しかしその周囲には護衛の兵士が併走しており、ちょうど無人の豪華なる戦車に「神が乗っている」事を想定しているようであった。ヘリオガバルス帝はその後ろから神に従うように馬を走らせていた[30]

ヘリオガバリウムには帝国中の神具や神器が集められ、キュベレー神殿・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や「トロイのパラディウム像」や「マルスの盾英語版」、「ウェスタの聖火」などが持ち込まれた。こうした行為はヘリオガバリウムこそがローマ帝国唯一の聖地となるべきと考える皇帝の命令によるものであった[36]

退廃と性的倒錯[編集]

急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名にしたのは、倒錯的かつ退廃した性生活に関する逸話である。そもそもヘリオガバルスは、正式な結婚生活すら4回の離婚と5回の「結婚」を繰り返しているのである[34]

「ウェスタの処女」セウェラとよりを戻し、4度目の結婚をしたはずの皇帝であったが、その年のうちにまたも離婚した[34]。今度は、こともあろうに小アジア出身のカリア人奴隷で、しかも男性であるヒエロクレスの「妻」となることを宣言[26][37]。これが、5度目の「結婚」であった。さらに『ローマ皇帝群像』によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている[38]

皇帝は、公共浴場へ行っては女風呂に入って女性たちに脱毛剤を塗ってやったとか、毎晩、怪しげな女たちをベッドルームに連れ込んで彼女たちの痴態を観察するなどの淫行を繰り返した[37]。また、密偵を放ち、ペニスの巨大な男性を探させて宮廷に連れて来させ、情事を楽しんだ[37]。皇帝は芝居をしながら、突然全裸になり、片手をに片手を陰部に当ててひざまずき、巨根の男に向かって尻を突き出してを前後運動させたという[37]。猟奇的な逸話としては、神殿内で飼育している猛獣に切り落とした男性器をエサとして与えたというものまで伝わっている。『皇帝列伝』は、以下のように伝える。

…皇帝は自分の全身を脱毛させていた。いかにも健康そうにみえ、最大限の肉欲を起こさせる身体でいることこそ、人生最大の楽しみと考えていたからだ。

元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の性的倒錯を記録し、同性愛ばかりではなく女装癖があったとして実際にその現場を見たことを記録している。カッシウスは、以下のように伝える。

…皇帝は自分の性器をそっくり切り落とそうと考えたが、そうしたことを思いつくのも性格が女性的だったからだ。かれが実際に受けた手術は割礼で、これは太陽神の司祭として必要なことの一つだった。そのため彼は、仲間の多くにも同じことをさせた。

カッシウスはまた、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と叙述してこれを非難し[39]、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで売春宿にするという醜態まで晒したと記録している。

…遂に皇帝は権威ある宮殿までも自らの退廃の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らかい声で甘えるのだった[40]

ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は顔を化粧することにより、こうした行為のためにふさわしい容貌を持つようになっていたという[30]

皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた[37]。厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結んだ[37]。これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ[37]。そして、皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだという[37]。また、性転換手術を行える医師を高報酬で募集していたともいわれている[27]。このことからヘリオガバルス帝の性癖について、これを同性愛や両性愛というより、トランスジェンダーの一種として考える論者も多い[41][42]

皇帝の最期[編集]

度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており[26]、近衛隊も皇帝の異常な狼藉に激しい嫌悪を感じていた[25]。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。

エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、楽器を打ち鳴らす怪しげな女の一団を引き連れて淫蕩な踊りを舞いながら神殿に向かい、屠殺した獣のを混ぜたワインを捧げ、をたいた[37]。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もがトランス状態になったとき、皇帝は少年生け贄として神殿に捧げたという[37]。この所業に対しては、ついにローマ市民の多くも怒りの声をあげた[37]

王族内においても、影の実力者である祖母ユリア・マエサが孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアス英語版だけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた[25]。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、221年、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを養子にするよう認めさせ、アレクサンデルにはカエサル(副帝)の称号を名乗らせた[25]。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった[10]。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した[43]。アレクサンデルは、ヘリオガバルスとは異なり、実直な性格で近衛兵からの人気が高かった。

ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを幽閉し、近衛兵たちには既に死亡したと伝えて動揺を誘おうとした[43]。しかし、これが逆に彼の命取りとなった。近衛隊は動揺するどころか激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう強く求めた[43]。恐れをなしたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。3月11日、近衛隊の城砦に逃れたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士の誰もがヘリオガバルスに対し忠誠を継続することを拒んだ。近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した[43]

全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きたカッシウス・ディオによれば、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという[37]

…怯えたヘリオガバルスは衣類箱の中に隠れて宮殿から逃げようとしたが、あえなく反乱軍に見つけられて広場に引き出された。先に捕らえられていたソエミアスは泣き喚きながら息子にすがりついたが、兵士たちは親子をその場で殺害した。ヘリオガバルスとソエミアスの首は切り落とされ、首のない親子の遺体は裸体で馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首とともに川へ投げ出された[44]

皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちは一掃され[44]、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに返され、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと戻された[10][45]。女性の元老院への関与も明確に禁止され[29][46]、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった[47]

新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであった[注釈 6]

人物評価[編集]

『ローマ皇帝群像』[編集]

ヘリオガバルスの薔薇ローレンス・アルマ=タデマ(1888年)

ローマ皇帝群像』は、帝政ローマの時代の人物によって叙述されたと考えられるローマ皇帝の伝記集であるが、編纂の詳細な時期・地域は不明であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人の著者」といわれている。

ヘリオガバルスの評伝については、当時の歴史書における常として、のちに即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張のなかで特に有名なのが『ローマ皇帝群像』のなかにある「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話であり、このエピソードは有名なローレンス・アルマ=タデマの絵画「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフとされている[48]。これは、ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大なを張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させたという風評にちなんでいるが、真偽のほどは明らかでない。

現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、「ヘリオガバルス伝」のほとんどは信用に値しないと見なされている[49]。そもそも『ローマ皇帝群像』ははるか後年の4世紀頃に編纂されたと考えられている伝記集であり[50]、加えて捏造や創作がたいへん多いことでも知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である[51]

ただし、第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在するとみられており、現在でもその意義を認められている[52]

カッシウス・ディオ[編集]

ヘリオガバルスとは同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ、上述のように彼の退廃や性的倒錯について多くを記録し、厳しい批判を展開している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は、『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知るうえで第一級の文献資料として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが相当の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。

ただしカッシウスも歴史家として何ら不誠実さがなかったと断じるのはいささか中立的とはいえない。『ローマ史』の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家たちからの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある[53]

ヘロディアヌス[編集]

「ヘリオガバルスのメダル」(ルーヴル美術館

属州シリアの役人であったヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同様、皇帝と同じ時代を生き、目撃者として同時代史をつづった歴史家で、コモドゥス帝の即位からゴルディアヌス3世の暗殺までの記録である『ローマ人の歴史』を書き残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複しているが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で資料的な意味を有する[54]。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分、より中立的に皇帝たちの動向を残す事に努めている。彼の関心の多くは皇帝の性的退廃より宗教政策について向けられており、その詳細な内容はエル・ガバル信仰を調べる上で重要な記録となっている。彼の記録は、実際に後世の文献学的研究[55][56]考古学的調査で裏付けられている[57]

近代の歴史家[編集]

18世紀イギリスの著名な歴史家エドワード・ギボンは、冒頭で示したように『ローマ帝国衰亡史』を叙述し、そのなかでヘリオガバルスを厳しく批判している。

ヘリオガバルスの異常な性欲はウェスタの処女を辱め、多くの妻を取り替えただけでは満足しなかった。女装する事に愉悦を覚え、恋人達を有力者にすることで帝国の尊厳を汚し続けた。(中略)…ヘリオガバルスの伝承はある程度脚色された部分を持つだろう。しかしそれを前提にしてもヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった[6]

ヘリオガバルス、女性の身形と行動を行う女々しさで皇帝の権威を傷つけた最初の男[58]

ギボンは、このように述べて「最悪の皇帝」との評価を下した[6]

また、19世紀ドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールは、主著『ローマ史』(1844年)のなかで「ヘリオガバルスという名の印象は、彼自身の退廃によって決定付けられた」と記している[7]

創作作品[編集]

ヘリオガバルス帝の壁画(オーストリアフォルヒテンシュタイン城ドイツ語版

ヘリオガバルスの退廃癖は後世におけるデカダン派の運動で注目された[42]。道徳性に欠けた耽美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。

文学[編集]

絵画[編集]

「太陽の司祭、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン画

漫画[編集]

音楽[編集]

演舞[編集]

映画[編集]

戯曲[編集]

語源[編集]

  • スペイン語のheliogabalo(ヘリオガバロ[60])は 「暴飲暴食で身を持ち崩す人」のような意味である。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスは、非ヨーロッパ人で初めて帝位に就いたセム系のローマ皇帝で、皇帝就任以前は財務官やシリア軍団長を歴任した。セプティミウス・セウェルスは人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の子孫を名乗ることで、みずからの出自の属州的要素を薄めようとした。松本(1989)p.132
  2. ^ ニーブールは、19世紀に活躍したコペンハーゲン出身のドイツの歴史家で、しばしば近代歴史学の祖のひとりと評される。
  3. ^ ヘリオガバルスを皇帝にすえるという考えは、当初ユリア・マエサの愛人ガンニュスが発したものといわれている。ガンニュスは皇帝のローマ入城前、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑された。
  4. ^ 本来的には、ローマの皇帝は元老員議員であることが所与の条件とされ、元老院より「同輩中の首席」として推挙されることが慣例となっていたが、五賢帝以後はその慣例は有名無実化し、帝位はもっぱら経済力や軍事力に左右された。鶴岡(2012)p.28
  5. ^ ウェスタの巫女は、6歳から10歳までの少女のなかからローマの大神官によって選ばれた6人によって構成され、30年間、カマドの神に身を捧げることになっていた。彼女たちはローマの都の火を絶やさぬことによって市民を保護した。その宗教性は彼女たちの処女性にもとづくが、その禁忌の違反に対する生き埋めの刑に関しては類似の民俗事例に乏しく、きわめて独特のものである。また、他の神殿はローマも含めほとんどすべて方形をなすのに対し、ウェスタの聖域は円形をなしており、その点でも特異である。エリアーデ(2000)pp.168-169, 172-173
  6. ^ 新皇帝のアレクサンデル・セウェルスもまた、母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺されている。松本(1989)p.133

出典[編集]

  1. ^ In Classical Latin, Elagabalus' name would be inscribed as MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鶴岡(2012)pp.24-31
  3. ^ a b c d 木村(1988)p.658
  4. ^ Potter, David Stone (2004). The Roman Empire at Bay: Ad 180?395. Routledge. ISBN 0-415-10057-7. 
  5. ^ a b 松本(1989)pp.132-137
  6. ^ a b c Gibbon, Edward. Decline and Fall of the Roman Empire, Vol. 1, Chapter 6.
  7. ^ a b Niebuhr, B.G. History of Rome, p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."
  8. ^ a b c d e f Herodian, Roman History V.3
  9. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.30
  10. ^ a b c d e f g h i j 秀村(1974)pp.418-420
  11. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.31
  12. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.32
  13. ^ a b c d Herodian, Roman History V.4
  14. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.36
  15. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.38
  16. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.2
  17. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.1
  18. ^ a b c d e Herodian, Roman History V.5
  19. ^ a b Benario, Herbert W. (1959). “The Titulature of Julia Soaemias and Julia Mamaea: Two Notes”. Transactions and Proceedings of the American Philological Association (Transactions and Proceedings of the American Philological Association, Vol. 90) 90: 9?14. doi:10.2307/283691. http://links.jstor.org/sici?sici=0065-9711%281959%2990%3C9%3ATTOJSA%3E2.0.CO%3B2-N 2007年8月4日閲覧。. 
  20. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.4
  21. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.6
  22. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 5
  23. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.7
  24. ^ van Zoonen, Lauren (2005年). “Heliogabalus”. livius.org. 2007年8月18日閲覧。
  25. ^ a b c d Herodian, Roman History V.7
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  27. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.16
  28. ^ Tulane University "Roman Currency of the Principate"[1]
  29. ^ a b Augustan History, Life of Elagabalus 4
  30. ^ a b c d e f g Herodian, Roman History V.6
  31. ^ a b c エリアーデ(2000)pp.168-169
  32. ^ Halsberghe, Gaston H. (1972). The Cult of Sol Invictus. Leiden: Brill. p. 36. 
  33. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.11
  34. ^ a b c Cassius Dio, Roman History LXXX.9
  35. ^ Plutarch, Parallel Lives, Life of Numa Pompilius, 10
  36. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 3
  37. ^ a b c d e f g h i j k l 鶴岡(2012)pp.31-33
  38. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 10
  39. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.14
  40. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.13
  41. ^ Benjamin, Harry; Green, Richard (1966). The Transsexual Phenomenon, Appendix C: Transsexualism: Mythological, Historical, and Cross-Cultiral Aspects.. New York: The Julian Press, inc. http://www.symposion.com/ijt/benjamin/appendix_c.htm 2007年8月3日閲覧。. 
  42. ^ a b Godbout, Louis (2004). “Elagabalus”. GLBTQ: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture. Chicago: glbtq, Inc. http://www.glbtq.com/social-sciences/elagabalus.html 2007年8月6日閲覧。. 
  43. ^ a b c d Herodian, Roman History V.8
  44. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.20
  45. ^ Herodian, Roman History VI.6
  46. ^ Hay, J. Stuart (1911). The Amazing Emperor Heliogabalus. London: MacMillan. p. 124. オリジナルの2008-02-02時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20080202104958/http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm 2008年5月3日閲覧。. 
  47. ^ Augustan History, Life of Severus Alexander 1
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  49. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. p. 218. ISBN 0-19-814357-5. 
  50. ^ Cizek, Eugen (1995). Histoire et historiens a Rome dans l’Antiquite. Lyon: Presses universitaires de Lyon. p. 297. 
  51. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. p. 263. ISBN 0-19-814357-5. 
  52. ^ Butler, Orma Fitch (1910). “Studies in the life of Heliogabalus”. University of Michigan studies: Humanistic series IV (New York: MacMillan): 140. 
  53. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. pp. 145?146. ISBN 0-19-814357-5. 
  54. ^ Lendering, Jona (2004年). “Herodian”. Livius.org. 2008年5月3日閲覧。
  55. ^ Cohen, Henry (1880?1892). Description Historiques des Monnaies Frappees sous l’Empire Romain (8 volumes). Paris. p. 40. 
  56. ^ Babelon, Ernest Charles Francois (1885?1886). Monnaies Consulaires II. Bologna: Forni. pp. 63?69. 
  57. ^ Corpus Inscriptionum Latinarum, CIL II: 1409, 1410, 1413 and CIL III: 564?589.
  58. ^ Gibbon, Edward, The History of the Decline and Fall of the Roman Empire, Chapter XL.
  59. ^ The Dreaming ≫ Blog Archive ≫ Being An Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolous”. Holycow.com. 2011年3月11日閲覧。
  60. ^ heliogabalo in the Diccionario de la Real Academia Espanola. Retrieved on 2008-05-03.

資料[編集]

主要資料[編集]

副次的資料[編集]

  • Martijn Icks, "Heliogabalus, a Monster on the Roman Throne: The Literary Construction of a 'Bad' Emperor," in Ineke Sluiter and Ralph M. Rosen (eds), Kakos: Badness and Anti-value in Classical Antiquity (Leiden/Boston: Brill, 2008) (Mnemosyne: Supplements. History and Archaeology of Classical Antiquity, 307),

伝記[編集]

画像[編集]