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* 事件に関与して中華人民共和国(中国)に逃亡した党員たちの多くは、[[文化大革命]]を経て[[日中国交正常化]]後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『[[しんぶん赤旗|赤旗]]』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃した<ref name=":13" /><ref>{{Cite journal|和書|date=1975-12-28|title=いずれも反党盲従分子 {{small|中国から帰国の5人}}|journal=赤旗|page=15}}</ref>。 |
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* [[1955年]](昭和30年)頃、実行犯として[[指名手配]]された3人は中国へ不法出国により[[亡命]]した<ref name="20120329-OYT1T01212">{{Cite news|title=白鳥事件・最後の実行メンバー死亡…北京で|newspaper=YOMIURI ONLINE|date=2012-03-29|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|accessdate=2012-03-30|publisher=読売新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120330223817/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|archivedate=2012年3月30日}}</ref>。彼らは[[北京機関]]解体後に[[四川省]]に追いやられ{{Efn|これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた<ref name=":21">{{Cite |
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**最後の生き残りとなった'''鶴田倫也'''{{efn|鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが<ref name=":23" />、暗殺の実行者だったとする主張もある{{sfn|大石|2014|pp=76}}。}}は[[北京外国語大学]]で「唐沢明{{Efn|教科書では中国語で同じ発音となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという<ref name=":23" />。}}」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた<ref name=":23">{{Cite journal|和書|author=菅原裕和|date=2012-06-05|title=中国に逃亡した鶴田容疑者が日本史の教科書を執筆していた|journal=エコノミスト|volume=90|issue=24|pages=90-93}}</ref><ref name=":21" /><ref name=":7" />。 |
**最後の生き残りとなった'''鶴田倫也'''{{efn|鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが<ref name=":23" />、暗殺の実行者だったとする主張もある{{sfn|大石|2014|pp=76}}。}}は[[北京外国語大学]]で「唐沢明{{Efn|教科書では中国語で同じ発音となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという<ref name=":23" />。}}」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた<ref name=":23">{{Cite journal|和書|author=菅原裕和|date=2012-06-05|title=中国に逃亡した鶴田容疑者が日本史の教科書を執筆していた|journal=エコノミスト|volume=90|issue=24|pages=90-93}}</ref><ref name=":21" /><ref name=":7" />。 |
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**1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことは[[オウム真理教]]と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいて[[プロレタリアート|プロレタリア]][[国際主義]]の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという<ref name=":24" />。 |
**1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことは[[オウム真理教]]と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいて[[プロレタリアート|プロレタリア]][[国際主義]]の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという<ref name=":24" />。 |
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* {{Citation|和書|title=国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて|publisher=光陽出版社|year=1997|month=11|ISBN=978-4876622122|last=長岡|first=千代}} |
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* {{Citation|和書|title=白鳥事件|publisher=新風舎|year=2005|month=10|ISBN=978-4797498516|last=山田|first=清三郎}} |
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* {{Citation|和書|title=白鳥事件 {{small|偽りの冤罪}}|publisher=同時代社|year=2012|month=12|ISBN=978-4886837363|last=渡部|first=富哉}} |
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* {{Cite book|和書|author=大石進 |title=私記 : 白鳥事件 |publisher=日本評論社 |year=2014 |NCID=BB17240101 |ISBN=9784535520806 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025875093-00 |ref=harv}} |
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== 関連書 == |
== 関連書 == |
2021年12月5日 (日) 13:47時点における版
白鳥事件 | |
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正式名称 | 白鳥警部射殺事件 |
場所 | 札幌市南6条西16丁目 |
日付 | 1952年(昭和27年)1月21日 (夜) |
攻撃側人数 | 1(実行犯) |
武器 | 拳銃 |
死亡者 | 1 |
被害者 | 白鳥一雄警部 |
謝罪 | 中核自衛隊に所属していたTによる謝罪。主犯・実行者、関与が疑われた日本共産党による謝罪はなし。 |
影響 | 主犯格とされた村上国治の再審請求の特別抗告に関連して、いわゆる「白鳥決定」が判示された。 |
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に北海道札幌市で発生した警察官射殺事件である。
概要
「逆コース」の最中に発生した事件であり、日本共産党による謀殺を主張する検察に対し、冤罪を主張する同党や自由法曹団が鋭く対立した。
実行犯と目された人物らは日本共産党の幇助により国外逃亡したものの、日本共産党札幌軍事委員会[注釈 1]委員長であった村上国治が主犯格として逮捕され、1963年(昭和38年)10月17日に懲役刑が確定した[2][3]。しかし、警察の捜査の過程での証拠捏造や自作自演を指摘する声が根強く、日本共産党による冤罪キャンペーンや松本清張の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まった[1]。
受刑者となった村上は無罪を訴えて1965年(昭和40年)に再審請求を行った。この際に村上の関与を裏付ける新たな証拠が検察側から提出され、最終的に1975年(昭和50年)に最高裁判所は村上の一部主張を認めたものの特別抗告を棄却した[4]。
なお、再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「白鳥決定」と呼ばれる。
村上の出所後、日本共産党札幌委員会軍事部による組織的な犯行であったことを裏付ける内部証言や裁判資料が公にされている[1][5][6][7]。
事件の経緯
1952年(昭和27年)当時、「51年綱領」の採択を経て武装闘争路線を採っていた日本共産党による警察官襲撃事件が、全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」北海道大学の学生らを中心に中核自衛隊を組織。列車運転業務妨害事件(赤ランプ事件)や検事・市長宅への投石事件などを起こしていた(ただし、鉄砲玉のような役割は労働者にやらせていた)。これに対し、札幌市警察本部警備課課長であった白鳥一雄警部は、市内の丸井百貨店で開催されていた丸木位里・赤松俊子の原爆の図の展示会を「占領軍の指示」として中断させたほか、ビラまきや座り込みデモを行う共産党員を多数検挙し、「弾圧の急先鋒」として党関係者などから敵視されていた[7][8][9][10][11][12]。
同年1月21日午後7時30分頃、札幌市(現在の中央区)南6条西16丁目の路上で、自転車に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから拳銃を発砲し、心臓に銃弾を受けた白鳥は絶命した。犯人はそのまま自転車で逃走した[1][9][10]。
遺体は北大病院で解剖され、死因は命中した拳銃弾による出血多量とされた[9]。白鳥の体内から摘出された銃弾と現場に残された薬莢から、暗殺に使われたのは32口径ブローニング拳銃[注釈 2]とされた[13]。
自転車上で片手で拳銃を発射し急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた脅迫状が相次いで届いていたことから[注釈 3]、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した[11][16][17]。
事件発生後、共産党員が市内で「見よ、天誅遂に下る![注釈 4] 自由の兇敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ、全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である[17]」と日本共産党札幌委員会名で書かれたビラを配布した。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員のMが「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害は官憲の弾圧に抵抗して起きた愛国者の英雄的行為で個人的なテロではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した[11][12]。
事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった[11]。
政権与党の対応は素早く、吉田茂首相は事件翌日に「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の破壊活動は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに治安上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と施政方針演説を行い[21]、同年4月には破壊活動防止法を制定させた。本事件を始め共産党員による事件が連日報道され、日本共産党は同年10月の第25回衆議院議員総選挙で全議席を失うなど、自らの非合法活動によって国民の支持を失っていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である菅生事件なども含まれている[11]。
市井では、「白鳥に不正を察知されたと考えたヒロポン中毒のS信用組合の理事長が殺し屋を差し向けた[注釈 5]」「軍用拳銃の闇市への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された[23][24]。
事件発生から4か月後、静岡県で行き倒れ、警察の保護を受けた後に寿司屋で働いていた青年が、保釈中に逃走した北海道庁細胞所属の共産党員Nと判明する。その青年が検事らの情に絆されて札幌の共産党組織の情報を提供したことにより事態が急展開する[9][16][6]。党関係者が白鳥殺害に関与しているとの情報を得た警察は、札幌地区委員らを逮捕した。8月28日に逮捕された札幌委員会副委員長Sは11月28日に自供を始め[注釈 6][7]、「白鳥射殺の実行犯は、円山細胞の『ひろ』[注釈 7]で、やらせたのは村上委員長である」などと供述[9]。さらに翌1953年4月9日に逮捕された札幌委員会常任の追平雍嘉も供述手記を執筆してこれを裏付けた[注釈 8][1][7][9]。また6月9日に共犯として逮捕されていたTが「生きることに怠惰であってはいけない」などと訴えかけた安倍治夫検事の説得を受けて転向し[注釈 9][12]、「1月3日から1月4日頃に村上国治ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述した[7][9]。
その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の誤認逮捕(容疑者と別人の共産党員)を犯したり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕して長期拘留捜査するなどして、手段を選ばずに強引な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者の中には生涯精神を病む者も出たが、一方で日本共産党も組織防衛に奔って釈放された党員らを「査問」し、身の危険を感じた党員が逃亡して警察の庇護を受けるということも起きた[16][6]。
しかし、村上国治らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃自体は発見されず、「事件の2年前に行われた中核自衛隊による射撃訓練の遺留品」で「被害者の体内で摘出されたものと施条痕が一致する」とされた銃弾のみが、裁判に提出された唯一の直接的な物証となった。この弾丸は、T立ち合いのもとで行われた幌見峠での札幌市警による捜索で発見されたものである[9][30][31][32]。
直接の下手人をはじめ共謀したとされた党員らは、日本共産党の密航船群「人民艦隊」で不法出国し、当時日本と国交が無かった中華人民共和国へ逃亡している[注釈 10][9][33][34]。
白鳥警部
事件の被害者となった白鳥一雄は、北海道芽室町に生まれ、帯広中学(現・北海道帯広柏葉高等学校)を卒業後、1937年(昭和12年)に北海道庁巡査になった。太平洋戦争中は大日本帝国陸軍特務機関系のハルピン学院でロシア語を学んだ後に特高警察の外事係として活動しており、戦後も公安警察官として左翼活動の監視に加えて在日朝鮮人の密貿易や風俗営業の取り締まりを行っていた。1948年(昭和23年)3月に札幌市警の警備課長に就任した白鳥は、警察内部においても秘密主義を徹底し、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告を受けておらず、皮肉にもそのことが自治体警察である札幌市警による事件後の捜査を困難なものにした[10][6][23][35]。
生前の白鳥とも直接の面識があった安倍検事が語ったところによれば、普段の白鳥は物静かで礼儀正しいが、その共産主義を憎悪する精神は、シベリア抑留での経験によるものか、熾烈なものであったという[35]。
家庭内では仕事の話をすることもなく良き父親を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは給料日だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った[11]。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた[36]。死亡時の年齢は36であった[37]。
当時の札幌の情勢
当時札幌では、日本警察の国家地方警察(国警)本部と札幌市警察本部、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力したりしながら公安情報の収集が行われるある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていたすすきののとあるバーに頻繁に通っており、そこにはギャングや右翼も出入りしていたという[23]。
なお、推理小説家として知られる松本清張は『日本の黒い霧』で本事件を取り上げてCICによる謀略説を唱えているが[注釈 11]、事件を取材していた北海日日新聞(現・北海タイムス)の編集部長は「白鳥警部は左翼関係の情報収集力にかけてはピカ一だった。CICとしては彼を消せば元も子もなくなってしまう。CICが重宝している子飼いの白鳥をやっつけるはずがない」と語っている[24]。
裁判
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件 |
事件番号 | 昭和46年(し)第67号 |
1975年(昭和50年)5月20日 | |
判例集 | 刑集29巻5号177頁 |
裁判要旨 | |
| |
第一小法廷 | |
裁判長 | 岸上康夫 |
陪席裁判官 | 藤林益三・下田武三・岸盛一・団藤重光 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑訴法435条6号 |
村上の懲役確定まで
検察側は村上国治を殺人罪の共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。
第1審札幌地裁は共同謀議を認定し、村上国治を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審札幌高等裁判所は1960年(昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴を棄却している。1963年(昭和38年)10月17日、最高裁判所は上告を棄却し、村上の実刑判決が確定した[3][40]。
唯一の物証である弾丸については、弁護側が発射から発見まで2年が経過しているにもかかわらず応力腐食割れが生じていないことを指摘しており、さらに「施条痕が白鳥警部の遺体から発見された銃弾と一致したとする鑑定結果はアメリカ軍による鑑定」との証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた[30][31][41]。なお、この弾丸が「発見」された捜索では、訓練中の実験で使用された不発の手製手りゅう弾がTの証言通りに発見されており、Tの証言を補強する間接的物証とされたが、これについては弁護側からも否定されていない[6]。
再審請求
日本共産党[注釈 12]は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。党の支援を受けた村上国治は、無罪を主張して1965年(昭和40年)に再審請求を行い、最高裁判所への特別抗告まで争った[1]。
しかし、1953年6月23日に獄中の村上国治が弁護士を経由して「とくにモグらせた人間(当時札委関係)は絶対に活動させぬ様出来れば外国えやつて貰ひたいことを支店へ伝えて貰ひたい[4]」と証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示した書面が国警に押さえられており[注釈 13]、それが裁判資料として提出されたことなどから、札幌高裁は1969年(昭和44年)6月18日に「弾丸の証拠価値は、(中略)たんに『原判決当時に比べいささか薄らいだ』というに止まらず、大幅に減退したと言わざるを得ない」と認めつつも、「各事件に、申立人が関与している事実は証拠上明白」「明白な事実をことさらに否定しようとする申立人の供述には、その信ぴょう性に疑問をいだかざるをえない」として村上の申立を棄却[42]。最高裁も、1975年(昭和50年)5月20日に札幌高裁の決定を支持して村上の特別抗告を全員一致で棄却した[1][4][7][32][9][31][43][44]。
なお、村上は1969年(昭和44年)11月14日に半分近い刑期を残して仮釈放を受けている[6]。
白鳥決定
上述の通り最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」との判断を示し[注釈 14]、事件にちなんで「白鳥決定[45]」と通称されるようになる。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求められることが通例であり、その厳しさは「開かずの扉」と呼ばれるほどであったが、この白鳥決定以後は裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象として扱われるようになった[9][46]。
その後免田事件や財田川事件の再審開始が決定され、下級審の再審に関する姿勢も変えさせた極めて重要な判例となっている[9]。
後年の推移
亡命者
- 事件に関与して中華人民共和国(中国)に逃亡した党員たちの多くは、文化大革命を経て日中国交正常化後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『赤旗』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃した[6][47]。
- 1955年(昭和30年)頃、実行犯として指名手配された3人は中国へ不法出国により亡命した[48]。彼らは北京機関解体後に四川省に追いやられ[注釈 15][50]、射殺の実行者とされた『ひろ』を含むこのうちの2人が1988年(昭和63年)に病死し、革命烈士として八宝山革命公墓に埋葬された[注釈 16][6][7]。
- 最後の生き残りとなった鶴田倫也[注釈 17]は北京外国語大学で「唐沢明[注釈 18]」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた[51][49][53]。
- 1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことはオウム真理教と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいてプロレタリア国際主義の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという[7]。
- 鶴田は訪中した日本人から身を隠すようにして定年後は大学構内の教職員宿舎に居住していた[注釈 19]。1997年(平成9年)6月、時事通信の記者が北京市内で鶴田との接触に成功したが、鶴田は事件の真相を語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」と言うと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。このころ渡部富哉らによる鶴田帰国支援運動が別途行われていたところであるが、時事通信の取材後に鶴田は消息不明となり、ICPOを通じて照会を求めた日本の警察庁に対して中国側は「鶴田なる人物は中国にはいない」と回答した。鶴田は心臓疾患を患い2012年(平成24年)1月頃から体調を崩し、3月14日に北京で死亡したことが報道されている[6][49][53][55][56]。鶴田は「唐沢明として革命公墓に入ると骨を調べられる。DNA鑑定もできないように海に流せ」と遺言を残し、実行されたという[6]。
- 白鳥の妻は上述の時事通信記者から鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた[53]。
- 国外逃亡を続けて中国で客死した、上述の3人の公訴時効は停止している。中国公安当局による死亡確認を得られていないことを理由に両名の逮捕状は更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日)[2][12][37][57][58]。
川口の告白
- 1998年(平成10年)、事件当時の北海道地方委員会軍事部門幹部であった川口孝夫[注釈 20]が、軍事活動を知りすぎて党に日本を追放された旨を主張する『流されて蜀の国へ』という回顧録を自費出版した。川口はその際の北海道新聞のインタビューで、「謀略ではなかったと言ってよい」と松本清張などが提唱した米軍謀略説を否定し、党員の犯行であったことを認めている。川口は「事件に関与していないが、事件後に報告を受けました」として中核自衛隊の元隊員Tの証言が自分が受けた報告と合致することを認め、さらに党の真相調査に対して「事実」を報告していたことも明かされた。なお、村上が裁判闘争を続けたことについては「彼は、私の入党責任者。『左』の路線の時も、すごい活動家だった。間違いを犯したのは共産党の方針が間違っていたためで。彼個人の責任とは考えません。彼も晩年は気の毒な人でした」とした[5][59][60]。
- 共産党は同紙の取材に対しては「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない[59]」と言及を避けた一方で「歴史の暗部の断層にうごめいて生き血を吸い、腐肉を喰らう男」と川口を激しく誹謗した。事件に関連して中国に逃亡した者からも「軍事方針の直接の実行部隊幹部であったことを自認し、非合法の軍事方針を実践していたことを確認しておりながら、彼は下部組織の犯行であって自分は関与していないと白を切っている」と川口に対し批判の声が上がった。中国への逃亡の後に帰国した人物は、「当時の共産党は組織原則が厳しく、党員は絶対服従することが義務付けられていた」「白鳥事件についても村上国治が上部組織の許可なしに計画実行することなどあり得ない」「川口がこの事件の直接の策謀者だと信じている」と見解を述べている[61]。
- 『流されて蜀の国へ』に対しては「事件の真相を曖昧にしている」との批判もあったが、川口は「妻は何の理由もなく異国に送られ、十八年もの長き年月を強制的に中国に滞在させられ、悲しくつらい思いをし、苦しめられた。その原因である『白鳥事件』の真相の公表を、妻は人生の最後まで望んでいた。私は六〇年間の長い年月の苦労の旅をともにしてきた(妻の名前)の最後の願いを実現させる事こそ、私に残された最後の仕事と考えている」として事件に関する自らの体験を記した遺稿を書き上げ、2004年に他界している。この中で川口は、中核自衛隊の射撃訓練に参加したことや村上の強い要請で『ひろ』の逃亡に加担したことを明かしている[注釈 21][7]。
Tによる謝罪
- 2012年(平成24年)2月24日、裁判で用いられた自供を行い、自身も暗殺計画に参加したとして殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けたTは、「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と中核自衛隊の犯行であったことを改めて認め、説明責任を果たすため手記を公表予定と読売新聞の取材で述べていた[63]。Tはその後、「裏切り者とかユダと悪罵を投げかけられながらも60年間ジッと耐えて我慢してきたTに一回喋ってもらい、記録に残したい」として有志が同年10月に小樽商科大学のサテライト教室で開催した、『白鳥事件を考える集い』に参加し、「若く幼稚な正義感から白鳥警部殺害に関与してしまった。当時は白鳥氏には妻子がいることに思いが及ばず、白鳥警部のご家族に多大のご迷惑をかけたことを、今となっては遅きに失するが心よりお詫びしたい。また、この事件で多くの札幌市民を不安に陥れたことを深く反省している」と謝罪の言葉を述べ、「共産党は55年の6全協で極左冒険主義を清算したといいます。だが、その具体的内容には触れておらず、白鳥事件のことなど一切出てきません。それどころか、事件は一部の分派の飛び跳ねた部分がやったということで、ぼくらや仲間のやったことを切り捨て、現在の党には関係ないといいます。果たしてこんなことで、一般の国民を納得させられるでしょうか」と疑問を投げかけた[6][50]。なお、Tは出所後の村上と面会しているが、互いに事件のことには触れずに2時間ほど回顧談をしている[6][64]。
その他
- 2002年(平成14年)に司法博物館にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が松本市に移管されるとお蔵入りになった[1]。
- 2011年(平成23年)3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~』(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞[65]を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞[66]を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、中国共産党とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。
エピソード
- 北海道大学教授の布施鉄治はイールズ闘争世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・青梅・芦別事件などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であり、近年に至るまで北海道でのタブーとされていた[6][5]。共産党議員であった志賀義雄も、『ドキュメント志賀義雄』を編纂していた横堀洋一に事件の真相について意見を求められ、次のように述べて口を閉ざしている[67]。
もちろん、国会で追求するつもりだった。ところが、種々調べてみると下手な発言ができないことが次第にわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物議員だった賀屋興宣に面会して、意見を聞いてみた。すると賀屋興宣は「志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめておいたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に、関係者を国外に逃がせ、というレポを渡し、それが当局の手に渡っているんだよ」と言うんだ。
- 冤罪を主張する自由法曹団の上田誠吉は、上告審から本事件に関与したが、後年の回想で「当時、ある種の極左冒険主義があったことは間違いないんで、これがたくみに(治安当局に)利用されているんです。一部の人たちが武器を作り、集めていたということはあるようで、(中略)あの状況の中で白鳥警部が射殺される、共産党の周囲の近しい人、あるいは内部の人自体が、〝ははあ、これはうちの関係者がやったのではないか〟と疑うこと、これがこわいですね」と述べている[68]。
- 札幌地検の次席検事として村上国治の取り調べをした高木一(帝銀事件で平沢貞通の取り調べを行った検事)はヤメ検になったあと「私は、個人的には、村上は正直ないい男だと思いますよ」「結局、村上は党の方針にあおられていたのだと思います。しかし、党内では、農民的一揆主義の突出行為だという批判を受けています」と述べ、後年、別件の法廷で白髪頭になった村上国治と再会しなつかしい気持ちで「おお」と声をかけたエピソードを紹介したうえ、帝銀事件にくらべ「白鳥事件はその百倍も苦労しました。相手もそうだし、味方もコントロールしなければなりません」と当時の苦労を明かした[69]。
脚注
注釈
- ^ 共産党札幌委員会の地下組織[1]。
- ^ 国家地方警察本部科学捜査研究所の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた1910年型の誤りでないかといわれる[13]。札幌委員会軍事部が保有していたのは、このブローニングとイタリアのベルナルデリ社製護身用小型拳銃と推察される。この小型拳銃は、撃針が不調で北大工学部の工作室で修理が試みられたが、スプリングを調達できず、後日提供者に返還されている[14]。
- ^ 1月4日には、村上・鶴田(後述)らが集まり宣言文「新年に当り警察官諸君に宣言す」と題する以下の文書を作成し、警察関係者や高田富與札幌市長らに送りつけている[15]。親愛なる札幌の警察官諸君、新しい年を迎え、我々は諸君たちに重大なる決意を固めていただかなければならなくなった事を遺憾とするものである。それは、(中略)占領政策違反の名目で、労働者市民を抑圧しアメリカの手先として日本人を奴隷にする道と、今一つはかかる民族の利益を裏切り、日本人をアメリカに売り渡す売国奴共の命令を拒否し敢然として、日本人の利益のために闘う道とである。(中略)既に我々の兄弟たちは各所で実力の闘いを始めた。東京で諸君たちの同僚、もっとも悪らつな国民の敵である巡査が撲殺されたのは周知の事実だ。(中略)我々の行く手を遮るものは何人といえども容赦はしない。準備はできた。売国奴、国民の敵の功罪表は整備された。(白鳥ら警察官の実名)その他弾圧を積極的にやった外勤の巡査、及び警備課の諸君…警察官諸君、我々はこれらの敵、新しい敵を国民の名においてひとりひとり葬り去ることを宣言する。(後略)
- ^ ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、渡部は「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるためにスパイを通じて原稿を入手した国警が撒いたものであると主張し[18][19]、国警が白鳥暗殺の事前情報を得ておきながらあえてこれを泳がせて犯行後にすかさずビラを増刷して弾圧のきっかけとしたとしている[20]。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている[12]。
- ^ 元共産党員で組合員総代であった人物による公開質問状により流布した。この人物の名をとって「原田情報」と呼ばれる[22]。理事長はその後服毒自殺した[6]。
- ^ 「Sはスパイだ、裏切った」と書かれた党地下組織の文書を警察に見せられてSは観念したのだという[25]。
- ^ この人物は元日本海軍第6震洋隊の下士官で実戦経験があり、戦後ポンプ職人をしていた[26]。T(後述)の証言によれば、『ひろ』は事件の一週間前にも白鳥の暗殺を試みたが、弾が発射されず未遂に終わっている[27]。
- ^ 追平は「事件の前、『ひろ』の家で実包入りのブローニング拳銃をみた」「事件後、『ひろ』に会ったら『オレがやった』といっていた。『手ぬぐいに包んで撃ったので、二発目の薬きょうが引っかかって残ってしまい、あとが撃てなかった』などとも語っていた」と証言している[9]。
- ^ 大石は、吉田岩窟王事件の再審を支援し、三鷹事件や松山事件の冤罪を語った安倍が誘導じみたことをするはずがないとしている[28]。安倍自身も同僚検事の誘導尋問の手法を紹介しながら、「それがしかし、捜査本部におけるそういう偽り、でっち上げ、間もなくばれるんですね。同様に共産党内ビューローにおけるいろんなでっち上げも間もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強いのは真実が強い」「そういう(模擬裁判で警察の捜査本部が出してきた指紋鑑定について偽物と発言した札幌の検事正)下に立って私どもは捜査したんですからね。[…]私が誘導尋問ででっち上げの調書を作ったなんていうことは、もう根も葉もないということはすぐわかるんですよ。それを松本清張が『日本の黒い霧』を書いて、安倍という男はどうも怪しいと言い出したんだから、これはもう松本清張の負けですね」と述べている[29]。
- ^ 東京に潜伏していたメンバーは組織の公然化のためかばうことができないと党中央統制委員から告げられ、乗船訓練を受けて1955年10月頃に焼津港などから上海へ向けて出港している[7]。
- ^ 渡部は「主観的で勝手な推測、ねじ曲げが随所に登場する」として松本の冤罪説を批判している[38]。例えば、『ひろ』は射撃演習には参加していないのだから(演習の遺留品である弾丸と施条痕が一致するとされた弾)事件に使われたピストルを所持しているはずがない旨の記述をしておきながら、4ページ後には「何回も拳銃の射撃練習に行っている」と記述している。松本は『ひろ』を"シロウト"として扱ったが実際には元軍人であり、軍装品として用いられていたブローニング拳銃の心得があったとしても不自然ではない[26]。松本が「暴露」したのは実のところ自らが批判する追平の『白鳥事件』の丸写しであったが[20]、これを書き換えて「Tは大丈夫か」とあたかもTの裏切りを心配していたかのような文脈に仕立て上げていることも確認されており、渡部は「松本清張が白対協(日本共産党が組織した白鳥事件対策協議会のこと)の提出する材料を無批判に書いたというものではない極めて意識的な虚構だ。当時、Tは白対協や弁護団から、S、追平雍嘉と並ぶ裏切り者として糾弾されていたからだ。これは単なるミスでは済まされない」と松本がTにありもしない罪をなすりつけたとして批判している[39]。
- ^ 日本共産党は1955年1月1日に『赤旗』社説で極左冒険主義を自己批判し、公然化を宣言した[7]。
- ^ この指示が上述の人民艦隊による関係者の不法出国に関わっているとされる[6]。
- ^ 主文の続きでは、「この見地に立つて本件をみると、原決定の説示中には措辞妥当を欠く部分もあるが、その真意が申立人に無罪の立証責任を負担させる趣旨のものでないことは、その説示全体に照らし明らかであつて、申立人提出の所論証拠弾丸に関する証拠が前述の明らかな証拠にあたらないものとした原決定の判断は、その結論において正当として首肯することができる」とされ、「所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四三三条所定の適法な抗告理由にあたらない」「要するに、所論の証拠弾丸に関する新証拠は、原判決の認定について合理的な疑いをいだかせるに足りないというべく、右新証拠が刑訴法四三五条六号所定の証拠の明白性の要件を具備しないとした原決定の判断は、その結論において正当として是認することができる」と結論づけられている[4]。
- ^ これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた[49]。
- ^ 2人共アルコール依存症の状態であったという[6]。
- ^ 鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが[51]、暗殺の実行者だったとする主張もある[52]。
- ^ 教科書では中国語で同じ発音となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという[51]。
- ^ 鶴田の暮らしぶりは安定していたが、同居する配偶者が中国当局の監視役であったことが示唆されている[54]。
- ^ 川口は1967年に起きた北京空港事件で砂間一良を庇い、その後監禁・査問を受けた。田中角栄訪中後の1973年12月に帰国した。川口は鶴田の帰国にも取り組み、帰国後は真相を語ること、弁護士は国選弁護人にすることなどで1997年4月に鶴田と合意したという。しかし、上述の時事通信のスクープ報道後、鶴田からの連絡は途絶えた[7]。
- ^ 川口が的屋グループに属する甥に依頼して『ヒロ』を奈井江白山の鉱山飯場へ送り込んだことは、裁判で用いられた参考人調書でも確認される[62]。
出典
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参考文献
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- 渡部富哉『白鳥事件 偽りの冤罪』同時代社、2012年12月。ISBN 978-4886837363。
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- 大石進『私記 : 白鳥事件』日本評論社、2014年。ISBN 9784535520806。 NCID BB17240101 。
関連書
- 追平雍嘉『白鳥事件』日本週報社、1959年。
- 長崎誠三『作られた証拠: 白鳥事件と弾丸鑑定』アグネ技術センター、2003年。ISBN 978-4901496025。
関連項目
外部リンク
- 谷村正太郎. “事件ファイル-8 疑わしきは被告人に利益に 白鳥事件”. www.jlaf.jp. 自由法曹団. 2021年11月5日閲覧。
- 高橋彦博「白鳥事件の消去と再生 『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に」2005年10月
- 「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実 渡部富哉インタビュー(1)(2)(3)ちきゅう座、2012年3月
- 高安知彦, 今西一, 河野民雄「白鳥事件と北大 : 高安知彦氏に聞く」『商學討究』第63巻第1号、小樽商科大学、2012年7月、1-50頁、ISSN 0474-8638、NAID 40019407579。
- 中野徹三、1950年前後の北大の学生運動-その位置と意義を再考する (PDF) 『大原社会問題研究所雑誌』 No.651 (2013年1月号)
- イールズ闘争から白鳥事件へ-その遺したもの 宮地健一のホームページ
- 今西一, 河野民雄, 大石進「シンポジウム・歴史としての白鳥事件」『商学討究』第64巻第2/3号、小樽商科大学、2013年12月、3-95頁、ISSN 0474-8638、NAID 120005360098。
- 河合潤「分析と科学鑑定 : 白鳥事件、ナイロンザイル事件、銑鉄一千万円事件、和歌山カレー事件」『龍谷法学』第48巻第1号、龍谷大学法学会、2015年10月、648-661頁、ISSN 0286-4258、NAID 110009978245。
- 『白鳥事件』 - コトバンク