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2021年8月29日 (日) 10:12時点における版

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白子川(しらこがわ、しろこがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

白砂川(しらすながわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

平井川(ひらいがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

山崎川(やまさきがわ、やまざきがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

片川(かたがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

耳川(みみがわ)は、日本全国各地を流れる河川名称。

丸山川

丸山川
水系 二級水系 丸山川
種別 二級河川
延長 15 km
流域面積 33.0 km²
水源 愛宕山
水源の標高 200 m
河口・合流先 太平洋
流域 南房総市
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丸山川(まるやまがわ)は、千葉県南房総市を流れる二級河川。旧丸山町の中心河川である。

地理

南房総市丸山地区の北端、嶺岡山地中央部愛宕山南西麓の二ツ山に挟まれた谷を水源とする。同じく愛宕山を水源とする愛宕川を合わせた源流部は「千葉県酪農のさと」として公園や観光施設が整備されている。平安時代より軍馬牧場として放牧が盛んであったこの地(嶺岡牧)が江戸時代に幕府直轄となり、1728年(享保13年)に八代将軍徳川吉宗がインド産乳牛3頭の飼育を開始し、「白牛酪」として乳製品や傷薬を製造したことが日本における酪農の始まりとされていることから「日本酪農発祥の地」とされ、1963年(昭和38年)5月に千葉県史跡に指定された[1]

源流部より下流に至るまでの大部分において国道410号が並行する。嶺岡を南流し●●川を合わせると西へ流れを変え、北から五反目川・本郷川を合わせてゆく。上流部は蛇行する川に沿って水田や集落が点在しており、徐々に南下して大井下の集落を抜けると再び山間部となり安房中央ダムに至る。ダムを抜けると鯨岡付近で大きく蛇行し、再び南の平野部へと進んでゆく。中下流部においては支流も少なく、東隣を流れる温石川流域及び西隣を流れる平久里川水系山名川流域に挟まれた単独の水田地帯を形成する。河川は蛇行しながら丸山町中心市街を抜けると間もなく太平洋へ至る。河口は白子漁港から和田漁港までの一帯に広がる白渚海岸として海水浴場となっている。

約15kmの流路延長中、安房中央ダム湖北端(新川崎橋やや下)より下流13,878mが千葉県管理の二級河川に指定されている[2]

治水

現在の館山市及び南房総市にまたがる安房中央地区は、平久里川水系及び本水系の流域に農地が広がっている。房総半島特有の事情として大河川から遠く、周囲は標高の低い丘陵地帯であることから河川流域が狭く、日照りが続けば農業用水が枯渇し旱魃に悩まされることが常であった。1950年代には戦後の食糧増産の流れに合わせて、安定的な農業用水確保のため有志によるダム建設の機運が高まった。本事業は水源を本河川の丸山町大井地区に求め県営丸山ダム(のち安房中央ダム)として採択され、1958年(昭和33年)5月に安房中央土地改良区が館山市にて発足した。農業用水目的のダムで受益面積は全体で1,144.5ha、うち館山市内が821haである[3]

以降数年間は測量や実施設計、仮排水路や道路付け替え工事等が実施され、76,583㎡を用地として買収。1964年(昭和39年)度よりダム築堤が着工となった[4]。ダム本体の工事は1970年(昭和45年)度に完了し1971年(昭和46年)秋より貯水開始となり、1972年(昭和47年)12月に満水式を迎えた[5]。一方で受益地へ早期配水するための幹線用水路工事には1969年(昭和44年)度より着手し、総延長27,700mを1973年(昭和48年)度までに整備する計画であった[6]。しかしながら基盤整備を含めた事業完了は実際には1976年(昭和51年)まで遅れることとなった。土地改良事業の発足当初は10年計画として推進されたが、以下の理由によって遅れたとされている[7]

  • ダムの予定地域内の住民の反対が強く、用地取得に長期間を要した。
  • 地域内にあった県道や農林道の付け替え工事に難航し、計画通り進捗しなかった。
  • 用水路工事において実際の地質が悪かったことから中途変更を行い、掘削トンネルにコンクリートで巻き立てを行う等の手間が生じた。
  • 国が事業費の半分を補助するところ、一時的に大規模助成が困難となっていた。

支流

上流より記載

  • 愛宕川
  • ??川
  • 五反目川
  • 本郷川
  • 塩井戸川
  • 畑川
  • 梅澤川

主な橋

上流より記載

脚注

  1. ^ 施設概要 - 千葉県酪農のさと
  2. ^ 県内の一級河川・二級河川(千葉県)
  3. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第1号・1970年9月21日)
  4. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第1号・1969年9月26日)
  5. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第1号・1973年8月24日)
  6. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第1号・1971年9月17日)
  7. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第2号・1974年9月19日)

汐入川 (館山市)

汐入川
水系 二級水系 汐入川
種別 二級河川
延長 8 km
流域面積 20.78 km²
水源 作名ダム
水源の標高 95 m
河口・合流先 館山湾
流域 館山市
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汐入川(しおいりがわ)は、千葉県館山市を流れる二級河川である。上流部は作名川(さくながわ)という名称が付いている。

地理

館山市中南部の作名に位置する作名ダムを水源とし北流する。上流部は丘陵地帯で谷津田が見られる。東から永沢川・笠沼川を合わせ、古茂口付近で西へ流れ平野部へ進んでゆく。飯沼地区には江戸時代から整備されている女堰と呼ばれる堰があり、ここから南条・真倉方面の農業用水路へ河川水を流している。伝わるところによると、何度工事を行っても堰が水流で破壊されてしまうため、巫女に訊いたところ「女性を堰止めに使うべし」とのことで、村人たちは村の女性を人柱として使うことができず、その巫女を捕らえて川へ投げ入れて堰を完成させることができたということから付いた名だという[1]

やがて館川橋を過ぎ、長田川を合わせたところで河川は再び北流し館山市街へと入る。市街地では河川幅が広くとられており、長須賀北部にて境川を東から合わせ館山市立館山中学校を囲うように西へ回り館山湾へ注ぐ。河口は左岸・右岸ともに河口閉塞防止用の導流堤が整備され、左岸が新井海岸・右岸が北条海岸となっている。

作名ダムからの流路延長8kmのうち、鎌田橋を境に下流3,800mが「汐入川」として二級河川に指定されている[2]。それより上流部4,200mは「作名川」として館山市管理の準用河川に指定されている[3]

治水

作名ダムの整備

高度経済成長期において水道需要が拡大する中、館山市では水源不足の抜本的解消に対応するダムの建設、及び資金面・運用面でそれを実現するための市内に散在する簡易水道事業の広域化が喫緊の課題となっていた。うち中南部を給水区域としていた宮城・南条・西岬の各簡易水道における水道需要を満たすこと、特に宮城水道区に立地する海上自衛隊館山航空基地関連の水不足解消を目的として、防衛施設周辺民生安定整備事業に位置付け防衛施設庁の補助を6割得て作名川水源にダムを建設する運びとなった[4]。ほか、水道水源開発整備事業として国の補助も一部得ている。

事業は1971年(昭和46年)より着手し、1973年(昭和48年)まで基本設計業務を実施。防衛庁の要求水準は貯水量30万トンとしており、設計調査では38万トンのダムを同地へ建設可能との結果を得た。一方で館山市としてはこの規模でも当時の需要を十分に満たせたものの、将来的な水需要の更なる増大に対応するため50 - 60万トン程度まで拡大して整備したい意向があったため、追加調査を実施。その結果地質の良さから3m程度の嵩上げにより計画貯水量38万トンから63万トンへ、有効貯水量34万トンから59万トンへの拡大を実現した[5]。用地買収は1973年(昭和48年)度に実施され、資材搬入経路4,260㎡及びダム用地66,000㎡を収用[6]。ダム本体の工事は1974年(昭和49年)度より三か年事業にて実施され、予定通り1976年(昭和52年)度に竣工し試験湛水を開始。ダム直下の作名浄水場及び配水池の整備が並行して進められ、1977年(昭和53年)3月に完成した[7]。一方で継ぎ足しを続けてきた配水管設備がダムの給水容量に対応できず抜本的な再整備が必要といった課題はあったものの、配水管工事の進捗により同年7月には一部給水が開始され、1978年(昭和54年)4月の全面給水により拡張事業は完了した[8]

事業開始にあたって、宮城・南条・西岬の各簡易水道事業は1973年(昭和48年)に統合し館山市水道事業として発足した。工事期間中には水道需要に供給能力がいよいよ追い付かなくなり急場の枯渇対応に追われる事態となったが、本ダムの整備に伴って従前は隣接する三芳村の三芳水道企業団より供給不足分を購入していたところを自給できるまでに至った。なお館山市水道事業は広域化を続け1998年(平成10年)3月27日に三芳水道企業団へ吸収されたことから、本ダムは現在三芳水道企業団の管轄下にある[9]

境川の溢水対策

汐入川本流では十分な流下能力が確保されていることもあり、近年では目立った水害は記録されていない。一方で支流の境川は、1996年(平成8年)9月22日の台風17号襲来により蛭子神社付近で氾濫を起こし、下流域の長須賀・下真倉地区にて数十軒の床上浸水被害が発生した。

これに先立ち1995年(平成7年)度には千葉県によって汐入川水系の利水検討河道計画調査が実施されており、境川についても流域視察の上緊急対策工事が実施されるに至った[10]。住宅が沿岸に近接しており河道拡幅や改修が困難であることから、蛭ヶ島橋より下流の二級河川指定区間(800m)全体につき護岸の嵩上げとともに掘削工事によって河床の引き下げを実施した。併せてボトルネックとなっていた橋の嵩上げもなされ、2000年(平成12年)度に完了。館山市も上流端にあたる大宮堰(国道128号沿い)の堆積土除去とともに、青柳大賀線雨水排水路事業によって境川への流入負担減少が図られた。これは熊野神社裏手より南から境川へ流入する代田排水路につき、当時下真倉地区にて整備を進めていた都市計画道路青柳大賀線の地下に排水路を新設し直接汐入川へ放水することで雨水の分流を促すもので[11]、こちらも2000年(平成12年)度に供用開始となった。これによって約56haあった代田排水路の集水域の半分を青柳大賀線雨水排水路が負担することとなり、浸水被害の抑制に貢献している[12][13]

支流

上流より記載

  • 永沢川
  • 笠沼川
  • 長田川
    • 岡田川
  • 境川 二級河川

主な橋

上流より記載

脚注

  1. ^ 南条・飯沼・古茂口エリア別散策(館山市立博物館)
  2. ^ 二級河川指定告示一覧(千葉県)
  3. ^ 準用河川の指定について(千葉県)
  4. ^ 第1回館山市議会定例会会議録(第5号・1972年3月10日)
  5. ^ 第1回館山市議会定例会会議録(第7号・1974年3月12日)
  6. ^ 第1回館山市議会定例会会議録(第2号・1973年3月2日)
  7. ^ 第4回館山市議会定例会会議録(第1号・1976年12月10日)
  8. ^ 第1回館山市議会定例会会議録(第2号・1977年3月5日)
  9. ^ 企業団の沿革(三芳水道企業団)
  10. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第4号・1997年9月17日)
  11. ^ 第3回館山市議会定例会会議録(第3号・1998年9月11日)
  12. ^ 第1回館山市議会定例会会議録(第6号・2000年3月24日)
  13. ^ 第2回館山市議会定例会会議録(第3号・2014年6月11日)

有馬川 (兵庫県)

有馬川
水系 二級水系 武庫川
種別 二級河川
延長 10.79 km
流域面積 81.7 km²
水源 六甲山神戸市北区
水源の標高 850 m
河口・合流先 武庫川(神戸市北区)
流域 神戸市北区・西宮市
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有馬川(ありまがわ)は、神戸市北区西宮市を流れる武庫川水系の二級河川である。

流域

源流部は西側を流れる滝川及び東側を流れる六甲川に分かれ、河川法上も「有馬川上流滝川」「有馬川上流六甲川」として別個に二級河川に指定されており、二級河川としての「有馬川」は両社の合流地点より下流部を指す、全国的にも珍しい形態が取られている。

滝川・六甲川はいずれも神戸市北区の六甲山北麓を水源とする。滝川はその名の通り、最源流部の七曲滝をはじめ紅葉谷・白石谷周辺に数多くの滝が集まっており、有馬四十八滝と呼ばれている。冬場の時期は氷瀑となることから「六甲アイスガーデン」の名も持つ。最下流にあたる鼓ヶ滝を抜けると有馬温泉街に入る。

治水

支流

上流より記載、太字は二級河川

  • 十八丁川
  • 蛇谷川
  • 西川
    • 畑川
  • 有野川(八王子川)
    • 平見川
    • 鎌ヶ谷川
    • 奥山川(茶園谷)
      • シラケ谷
      • ナバ谷
      • 仏谷
      • 鍋滝川(長尾谷)
    • 水無川
      • 深戸谷
    • 堀越川
      • 西堀越川
    • 切畑川
      • 東カ辻川
    • 岡場川
    • 結場川
    • 八多川
      • 皿池川
        • 西皿池川
      • 吉尾川
        • 柳谷川
      • 平井川
      • 八坂川
  • 長尾川
    • 善入川
    • 長野川
    • 鹿ノ子川
    • 掖谷川
  • 沖代川

主な橋

上流より記載

脚注


参考資料

島崎川

島崎川
水系 二級水系 島崎川
種別 二級河川
延長 10.65 km
流域面積 59 km²
水源 三島郡出雲崎町田中付近
水源の標高 100 m
河口・合流先 日本海長岡市・出雲崎町境)
流域 長岡市・三島郡出雲崎町
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郷本川
水系 二級水系 郷本川
種別 二級河川
延長 12.3 km
流域面積 30.78 km²
水源 笠抜山(三島郡出雲崎町)
水源の標高 60 m
河口・合流先 日本海(長岡市郷本)
流域 長岡市・三島郡出雲崎町
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島崎川(しまざきがわ)は、現在は新潟県長岡市三島郡出雲崎町を流れる二級河川である。大河津分水開削までは、現在の郷本川新島崎川分水島崎川等を流路とする信濃川水系西川の支流であったが、分水路開削により信濃川水系とは分断されることとなった。かつ附帯工事として島崎川・郷本川・新島崎川はそれぞれ日本海へ直接注ぐ流路が開削され、現在は各々独立した二級水系となっている。本記事では旧島崎川を構成していたこれらの河川を扱う。

地理

治水

支流

上流より記載、太字は二級河川

島崎川
  • 市野坪川
    • 豊橋川
  • 小木川
    • 常楽寺川
  • 稲川
  • 吉水川
  • 釜谷川
  • 中条川
  • 藤巻川
    • 滝谷川
  • 保内川(郷本川水系)→本川より分派し郷本川へ
郷本川
  • 保内川
  • 小島谷川
  • 荒巻川
    • 下富岡川

主な橋

上流より記載

島崎川
郷本川
  • 高畑橋 - 新潟県道193号出雲崎柿の木小島谷線
  • 太郎丸橋
  • ○○橋
  • ○○橋
  • 日野浦橋
  • ○○橋
  • ○○橋
  • ○○橋
  • ○○橋
  • ○○橋
  • 梅田橋 - 新潟県道192号久田小島谷線
  • 中川橋
  • 土口橋
  • JR越後線橋梁
  • ○○橋
  • ○○橋
  • 割山橋
  • ○○橋
  • 桐島橋 - 新潟県道574号寺泊西山線
  • ○○橋
  • 島崎橋 - 新潟県道69号長岡和島線
  • ○○橋
  • ○○橋
  • 新川橋 - 新潟県道69号長岡和島線
  • 島崎高架橋 - 国道116号
  • 松明橋
  • 火生石橋
  • 志戸橋 - 新潟県道277号郷本桐原停車場線
  • 郷本橋 - 国道402号
郷本川捷水路
  • ○○橋
  • ○○橋
  • まなび橋
  • 和島橋 - 新潟県道69号長岡和島線
  • 四枚橋 - 新潟県道574号寺泊西山線
  • ○○橋
  • ○○橋

脚注

参考資料

手賀川

手賀川
水系 一級水系 利根川
種別 一級河川
延長 7.7 km
流域面積 143.98 km²
水源 手賀沼柏市
水源の標高 5 m
河口・合流先 利根川印西市
流路 柏市・我孫子市・印西市
流域 流山市・柏市・松戸市鎌ケ谷市・我孫子市・白井市
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手賀川(てががわ)は、千葉県柏市我孫子市印西市を流れる利根川水系の一級河川。支流の下手賀川と併せ、手賀沼・下手賀沼と利根川とを連絡する役割を果たす。「手賀沼流域」とは一般に本河川の流域を指し、流域人口は約52万人に上る。

地理

治水

http://www.inzaimizunosato.com/history/history.html

支流

  • 手賀沼 一級河川
    • 大堀川 一級河川
      • 地金堀
    • 大津川 一級河川
      • 上大津川 準用河川
    • 染井入落
    • 湖北集水路
  • 下手賀川(下手賀沼・金山落) 一級河川
    • 亀成川 一級河川
      • 古新田川 一級河川
      • 大森川 一級河川
      • 鹿黒川 一級河川
      • 浦部川 一級河川
        • 和泉川 一級河川

主な橋

上流より記載

弁天川

  • 弁天大橋 - 国道356号印西バイパス
  • ○○橋
  • JR成田線橋梁
  • ○○橋
  • 弁天橋 - 国道356号
  • 六幸橋

脚注

参考資料

下手賀川

下手賀川
水系 一級水系 利根川
種別 一級河川
延長 (下手賀川部分)1.9 km
流域面積 43.27 km²
水源 鎌ケ谷市初富付近
水源の標高 28 m
河口・合流先 手賀川印西市
流域 鎌ケ谷市・柏市白井市・印西市
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下手賀川(しもてががわ)

地理

治水

http://www.city.shiroi.chiba.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/2/071527gou.pdf

主な橋

上流より記載

  • 金富橋
  • 名内橋 - 河原子街道
  • 今井一号橋
  • 今井二号橋
  • 今井橋
  • 今井三号橋
  • 手賀干拓一の橋 - 千葉県道282号柏印西線
  • ○○橋
  • 発作橋

脚注

参考資料

北8西1再開発

再開発の経緯

事業名は「札幌駅北口8・1地区第一種市街地再開発事業」。札幌駅北口は土地の高度利用が進んでおらず、2区画西にある北8西3地区でも西地区が2000年(平成12年)から2003年(平成15年)にかけて[1]・東地区が2002年(平成14年)から2007年(平成19年)にかけてそれぞれ再開発され、うち東地区では超高層マンションとしては北海道で最も高いD'グラフォート札幌ステーションタワーが建設された[2]。他、サッポロテイセンボウル跡地にタワーマンションが建設された北7東1地区や北海道熱供給公社のある北7東2地区が近隣にあるなど、再開発の盛んな地域である。

当地は区画全体(11,700㎡)に老朽化した木造低層住宅や低層ビル・舗装のない青空駐車場が広がっており、再開発の機運が高まっていた。再開発研究会は1988年(昭和63年)2月に設立され、1991年(平成3年)10月に再開発協議会へ発展。計画が具体化してきた2007年(平成19年)2月に再開発準備会が発足し、札幌市は2008年(平成20年)に「北8西1地区再開発基本計画」を策定。2009年(平成21年)7月31日伊藤組土建大成建設を事業協力者、ドーコン日本設計を事業コンサルタントとする再開発準備組合が設立されるとともに、再開発計画の内容が明らかにされた。地上50階・高さ170m・約890戸の住居棟(タワーマンション)を核とし、業務棟(13階・23,000㎡)及び商業棟(2階・5,000㎡)、駐車場棟(17,000㎡)を含む延床面積154,000㎡の構想で、2011年(平成23年)度都市計画決定・2012年(平成24年)度着工・2015年(平成27年)度竣工を目指すこととされた。南側の北8条通沿いには屋外広場やアトリウムを設け、南西角にはそこと連続した憩いの広場とし、同時に地下歩行空間の整備を視野に入れていた[3]

ファイル:N8W1-twintower.jpg
ツインタワー構想時代のイメージパース

その後都市計画決定は当初予定より延期されたが、再開発準備組合は当初計画を大幅に変更し、地上51階地下1階・高さ約180m・約900戸のタワーマンションを2棟とする総事業費350億円のツインタワー構想を策定。ツインタワーは敷地北東と南西に配置し、付随施設として南東に医療施設とサービス付き高齢者住宅100戸が入る18階建て高さ70mのサービス棟と、北西に医療施設が入る7階建てのサービス棟を合わせる。商業施設は南西住宅棟に入れ、駐車場は約800台を収納可能とした。歩行者ネットワークについては、東側を歩道橋で創成川東エリアと接続させ、西側を地下含むネットワークで都心と接続させることとし、2013年(平成25年)度都市計画決定・2015年(平成26年)度着工・2019年(平成31年)度竣工を目指すこととされた[4][5][6]。しかしこの計画がいよいよ本格化すると、当地区北隣に位置する札幌市立北九条小学校の保護者や市民団体から突然反対の声が上がり始めた。ツインタワーの建設によって日差しが遮られ、小学校における日照が大幅に失われると主張し計画を問題視した。組合はツインタワーを細長い形状にして合間から小学校に太陽光が差し込むような構造にしたと説明したものの、保護者をはじめとする有志は2013年(平成25年)12月上旬に再開発計画について考える市民団体「とどけ!太陽の会」を発足させ、高さ引下げなどの陳情を行った[7]。市民団体代表の林心平氏は、2014年(平成26年)1月の公聴会において「成長期における子どもにおいて、日光が当たらない状況が続くと、ビタミンDの生成機能が損なわれる」「もしかしたら日本一日陰の小学校になってしまうのではないかという心配がございます」と主張[8][9]し、翌2月には署名を札幌市に提出。結果、再開発組合はツインタワー構想を断念し、再び当初計画のようなシングルタワー構想へと戻すことになった。具体的には北東の住宅棟1棟を取りやめ地上7階高さ30mの駐車場とし、住宅棟は南西のみに集中させ総戸数を600戸に縮小(高さは50階約180mのまま)、南東のサービス棟(医療・福祉棟)も地上11階高さ60mに変更するというもの。駐車場の収容台数は700台となり延床面積は122,000㎡に縮小した[10]。マンション事業者は大和ハウス工業・住友不動産・東急不動産・NIPPOの4社が選定され、共同で約600戸を供給。マンション棟は1・2階を商業施設及びクリニックモール、3階を保育園とし4階以上を居住スペースとする。医療・福祉棟は1 - 5階を病院とし6階以上を高齢者向け賃貸住宅とする計画。医療棟は3階建てで全て病院として使用。2016年(平成28年)度に権利変換の上施設解体に着手し、2019年(平成31年)度中の完成を目指すこととされた[11]

ところが、今度は事業認可後の2016年(平成28年)1月に、入居を予定していた医療事業者・福祉事業者の2社が建設費高騰を理由として撤退することを再開発準備組合に通知した。代替施設としてビジネスホテルやオフィスビルの誘致が計画されているが、着工時期は早くても2018年(平成30年)までずれ込むこととなり、更なる延期や頓挫の可能性が浮上している。 https://www.decn.co.jp/?p=88454 http://hre-net.com/keizai/keizaisougou/23493/

脚注

  1. ^ 北8西3西地区(札幌市)
  2. ^ 北8西3東地区(札幌市)
  3. ^ 札幌駅北口再開発、50階建てマンションなど計画(2009年11月10日、北海道建設新聞)
  4. ^ 札幌駅北口8・1再開発はタワー型マンション2棟など構想 (2012年6月21日、北海道建設新聞)
  5. ^ 『札幌駅北口に51階建て 再開発組合が計画 14年度着工目指す』2012年6月23日、北海道新聞
  6. ^ 札幌都心部の再開発2件が本格始動へ-北8西1と南2西3南西地区 (2013年9月3日、北海道建設新聞)
  7. ^ 隣に50階建てマンション「日陰になる」 札幌・北九条小 保護者から反対の声 事業者「配慮した」(2013年11月26日、北海道新聞・アーカイブ)
  8. ^ (仮称)北8条西1地区第一種市街地再開発事業環境影響評価準備書に係る公聴会(札幌市環境局)
  9. ^ 寒冷地ゆえ冬場は着重ねをしており校庭に出る機会も限られている点、夏場は高緯度ほど日照時間が長い点を踏まえていない発言である。
  10. ^ 札幌市の再開発事業「北8西1地区」で50階建て高さ180m高層ツインマンション断念、シングル棟へ大幅変更(2014年4月28日、リアルエコノミー)
  11. ^ 札幌・北8西1地区のマンション事業者は大手4社ー市内最大600戸(2015年6月26日、北海道建設新聞)

参考資料

南2西3再開発

再開発の経緯

当初の事業名は「札幌市南2条西3丁目南街区第一種市街地再開発事業」。狸小路3丁目北側に面する老舗ビル「サンデパートビル」を再開発する事業である。再開発を考える会は1997年(平成9年)7月に設立され、長年に渡って計画が醸成されてきた。2006年(平成18年)度には、低層階を商業テナント・中層階をオフィス・10階以降の上層階をマンション(約250戸)とする地上32階・地下3階・高さ125mの再開発ビル建設が決定された。総事業費約250億円、地区面積8,453.36㎡(うち敷地面積5,048.46㎡)・延床面積52,500㎡、設計はNTTファシリティーズ。デベロッパーには新日鉄都市開発及び中堅のゼファーが選定され、在札コンサルティング会社のアラと協同組合都市設計連合も参画した。「狸小路のランドマーク」を標榜し、地下階においてはさっぽろ地下街との接続も予定されていた[1][2]

しかし事業の中核を担っていたゼファーが経営破綻し、2008年(平成20年)7月18日に民事再生手続を開始。当初予定では2008年(平成20年)着工・2010年(平成22年)竣工のはずであったが、着工はおろかビルの解体すらなされなかった。景気悪化により代替デベロッパーの確保に苦慮する一方、多数の地権者が関与する同区画においては以降の地権者間の調整が滞り、再開発計画は一時期凍結ムードが漂った[3]

その後再開発組合は、デベロッパーの早期決定を図るために再開発対象の南2西3南街区を東西に分け、地権者の同意が得られている西地区を先行開発する方針を決定した。地区面積は6,000㎡(うち敷地面積3,700㎡)で、南街区全体の7割にあたる。ビルの内容や事業費を多少調整するものの、東地区も地権者の大半の同意がとれているため、将来的には再開発へ加わることが見込まれており、当初計画からの大きな変更は行わないこととした。参画企業には協力者として新たに大林組を加え、在京デベロッパーを募った。そして既存の再開発準備組合は2012年(平成24年)8月に解散し、同月新たに「札幌市南2西3南西地区第一種市街地再開発事業」として再開発準備組合が設立された[4]

南西地区の再開発ビルは、総事業費153億円で地上28階・地下2階(高さm)の規模。当初計画の規模は地上26階・地下2階[5]であり、2013年(平成25年)に地上29階・地下3階へと施設規模が若干拡大されたものの、建設費高騰により再度見直しが行われた。デベロッパーには大京が選定され、新日鉄都市開発は参加を取りやめた[6]。7棟14地権者が関与し、2015年(平成27年)11月27日に再開発組合が設立された。当初は2014年(平成26年)度にビル解体を行い、2015年(平成27年)度着工・2017年(平成29年)度竣工の予定であったが、計画見直し等により解体先送りが続いた[7][8]2018年(平成30年)度着工・2020年(平成32年)度以降竣工予定となっている。

http://www.kensetsunews.com/?p=69288 http://e-kensin.net/news/article/6411.html

脚注

  1. ^ 札幌市・駅前通り沿いの再開発事業に参加、ゼファー(日経不動産マーケット情報)
  2. ^ 南2条西3丁目南街区再開発概要(アラ・アーカイブ) 当初計画のパースも掲載されている。
  3. ^ 道都再生への胎動 変わりゆくまちの姿 第1部 - 北海道建設新聞連載特集(アーカイブ)
  4. ^ 南2西3南西地区(札幌市)
  5. ^ 札幌中心部のサンデパートビル(中央区南2条西3丁目)の建て替えが具体化、総事業150億円で26階建ての複合ビル(2012年9月10日、リアルエコノミー)
  6. ^ 札幌・サンデパートビルが26階建て複合ビルに建て替えへ-着工は15年度 - 北海道建設新聞、2012年8月24日.(アーカイブ)
  7. ^ 複合ビル20年春完成 札幌・サンデパートなどの再開発 - 北海道新聞、2015年11月27日.(アーカイブ)
  8. ^ 南2西3南西地区再開発(札幌市中央区)/既存建物解体は17年度に/組合(2016年11月7日、日刊建設工業新聞)

吉橋

吉橋(よしはし)は、千葉県八千代市西部の地名。住民基本台帳による2012年11月30日現在の人口は1,556人(八千代市調べ)。

地理

北部を桑納川が流れ、その支流の石神川が中央部、花輪川が東部を流れる。北部は田地が中心の低地で、中央部は台地状である。石神川と花輪川の間に吉橋工業団地が形成され、食料品工場や建材会社が多く集積する。

2002年より西八千代北部土地区画整理事業が開始され、南西部では東葉高速線八千代緑が丘駅の駅勢圏の住宅地として、隣接する大和田新田とともに2008年より本格的な区画整理・宅地造成が続いている(詳細は大和田新田#はぐみの杜を参照)。

歴史

吉橋という地名は鎌倉時代1243年寛元元年)の下総国国衙領、吉橋郷に始まる。台地の間の小さな谷に架かる橋を「吉橋」という佳名で呼んだことが由来とされている。

原始・古代

中世

鎌倉時代、前述の通り当地域を中心とした国衙領であった「吉橋郷」は桑納川流域に近いという地理的関連から、萱田郷・神保郷とともに臼井氏の有力庶子家である神保氏の支配下と考えられる。だが萱田郷と神保郷は「萱田神保御厨」という一体化した荘園でもあった一方、吉橋郷は御厨にはならなかった。別の歴史的経過を辿ったからだとされているが、理由は不明である。後に宝治合戦で三浦氏側についた臼井氏が敗れ衰退すると、代わりに千葉氏が勢力を伸ばし、その中で萱田郷・神保郷とともに香取神社の造営費用を負担している。だが吉橋郷の負担は覆勘使の通行・接待のための輸送力や兵士、食料品など間接的なものである。

戦国時代に千葉氏が臼井氏を滅ぼす中、当地域に吉橋城が築かれる。千葉氏系統の「高木(城)伊勢守胤貞」という城主が八千代市西部と船橋市北部を支配していたという伝承が残り、吉橋城を小金領東域の拠点として桑納川流域にあたる部分を治めたことを示す。一方で千葉氏の領域を示す「原胤長判物」にはこの地域が原氏(臼井氏の後継氏族である小弓原氏)の所属であることを示している。両者は新川を境界とするがいずれも後に後北条氏の諸侯となり、そのため史料に乏しい。だが更に、吉橋城には北条氏の敵方である里見氏の関与を示す伝承もある。これは1567年永禄10年)8月に富津市上総三船山合戦が起き、佐貫城攻略を狙った後北条氏が里見氏に敗れた際、上総より撤退したことに端を発する。原氏は領域の一部を失い、原氏の居城である小弓城に軍事的緊張が走った。小弓城は結局1570年元亀元年)に陥落することとなるが、それ以前に里見氏は市川・松戸方面に既に攻め込んでおり、一時的に吉橋城は里見氏の手に移った可能性が高い。なお吉橋城が後北条氏に攻略され落城したのは1536年 - 1537年(天文5 - 6年)であるが、その後千葉氏を頼って落ち延びた高城氏の家臣は当地域に土着して四家老と呼ばれ、貞福寺を開山しその周辺に十三か寺を置いている。

史跡としては吉橋城遺構の確認調査は行われているが、発掘は行われていない。また吉橋城は広大な外郭部を持ち、城域西側には妙見前遺跡、南西側には渋内遺跡がある。これらの遺跡からは土塁や堀、地下式坑、火葬墓が発見されており、常滑産甕・青磁碗・銭貨などの遺物も出土したことからこの一帯は15世紀後半を中心とする生活地となっていた模様。

近世

当地域は千葉郡吉橋村となり、旗本の川村氏・小栗氏・清野氏が領主となった。当時の石高は377石程度。検地帳が無いため、1698年元禄11年)に名主組頭惣百姓が立ち会って古帳をもとに反別を決定した。また吉橋村は大和田宿助郷役だった。用水は溜井1か所では不足したため、隣接する坪井村から引水し、年に米2俵を払っていた。

近代

1876年(明治9年)に塙小学校が開校し、市制・町村制以降千葉郡睦村の大字となる。当時の人口は793人。1954年(昭和29年)に睦村が八千代町となり、市制施行後の1971年(昭和46年)に吉橋工業団地が建設された。

交通

施設

吉橋工業団地

近隣地名

参考文献

  • 「八千代市の歴史 通史編 上・下」(2008年3月15日、八千代市編纂委員会)
  • 「日本地名大辞典・下」(2004年10月、吉田茂樹)
  • 「角川日本地名大辞典」(1999年4月30日、竹内理三)


桑橋

桑橋(そうのはし)は、千葉県八千代市西部の地名。住民基本台帳による2012年11月30日現在の人口は401人(八千代市調べ)。

地理

南部は桑納川が流れる平地だが中央部以北は台地であり、畑地や針葉樹が多い。住宅は段丘上と千葉県道61号船橋印西線沿いに林立する。また北東部の丘上、北西部の中山カントリークラブ内、北部の秀明学園東側(島田台内)の3か所に飛び地が存在する。後者の飛び地は小高い丘であり、鈴身川の水源となっている。

歴史

交通

施設

近隣地名

北東飛び地

  • 桑納(東)
  • 島田台(南)
  • 桑納飛び地(西)
  • 島田(北)

北西飛び地

  • 島田台(南~東)
  • 船橋市鈴身町(北)
  • 船橋市豊富町(西)

参考文献

桑納

桑納(かんのう)は、千葉県八千代市中央部の地名。住民基本台帳による2012年11月30日現在の人口は122人(八千代市調べ)。

地理

東部を流れる印旛放水路(新川)と南部を流れる桑納川が南東で合流する。標高は西高東低で、台地部と低地部の境界付近に集落が並ぶ。桑橋を挟んだ西側、新川の小支流の谷間に飛び地が存在する。

歴史

交通

施設

近隣地名

参考文献

麦丸

麦丸(むぎまる)は、千葉県八千代市中央部の地名。住民基本台帳による2012年11月30日現在の人口は512人(八千代市調べ)。

地理

東部を印旛放水路(新川)が流れ、北部をその支流である桑納川が流れる。西部には更にその小支流(津金谷津排水路)が流れ、吉橋地域との間に谷を形成する。中央部は新川の河岸段丘上にあり、畑地が中心である。集落は河川付近の低地との境界面に並んでいる。新川と桑納川の合流地点付近には桑納川公園があり、桑納川浄化施設が整備されている。

都市計画図によればゆりのき通りを当地域まで延伸することとなっているが、市街化区域への編入は行われていない。

歴史

交通

施設

近隣地名

参考文献

神野 (八千代市)

神野(かの)は、千葉県八千代市東部の地名。住民基本台帳による2012年11月30日現在の人口は375人(八千代市調べ)。

地理

北部を印旛放水路(新川)が流れ、集落は段丘部分に並ぶ。歴史的経緯から隣接する保品地域との関連が深い。南部は畑地や針葉樹が多いが、現在は保品地域を中心としたニュータウン「もえぎ野」の開発により宅地化が進んでいる。

歴史

交通

施設

近隣地名

参考文献

  • 「八千代市の歴史 通史編 上・下」(2008年3月15日、八千代市編纂委員会)
  • 「角川日本地名大辞典」(1999年4月30日、竹内理三)

外部リンク