肱川

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肱川
肱川 2006年12月撮影
大洲市街を流れる肱川。大洲城を望む。

水系 一級水系 肱川
種別 一級河川
延長 103 km
平均流量 38.62 m³/s
(大洲第一観測所35ヶ年平均)
流域面積 1210 km²
水源 鳥坂峠愛媛県西予市宇和町久保)
水源の標高 460 m
河口・合流先 伊予灘(愛媛県)
流域 日本の旗 日本 愛媛県
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肱川(ひじかわ)は、四国南予地方を流れる肱川水系の本流で、一級河川である。流路の全域が愛媛県内を流れている。

概要[編集]

肱川(愛媛県大洲市)
臥龍淵。ここには臥龍山荘の不老庵が建つ。

肱川に流れ込む支流は474本と多い上に、中流域に大洲盆地がある一方で、下流域は狭窄している。大洲盆地の北端である五郎(地名)から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り渓谷的な地形である。加えて大洲盆地の北東部、東大洲地区に矢落川への合流点がある。このため大洲盆地に水が溜まり易く、過去に幾度も水害が発生してきた。近年では1943年1945年1995年2004年2018年の水害は大規模であった。

ところで、肱川の水は流域だけでなく、他の場所へも導水されている。野村ダムによって堰き止められた水は、南予用水を通じて北は佐田岬半島から南は宇和島市までの南予地方一帯を潤している。特に柑橘類果樹園にとっては欠かせない水として利用されている。一方で、流域では豪雨時に行われたダムの緊急放流によって死者が出た事もある。また、ダムの影響で、下流域の流量は人為的な変動が見られるようになった。

なお、大洲市街手前の臥龍淵がりゅうのふちは、流れが速く風光明媚な場所として知られ、ここには大洲藩の藩主の別荘であった臥龍山荘が建つ。

地理[編集]

肱川は西予市宇和町久保の鳥坂峠付近に源流を発し、そこから南流して、西予市の南部で東に向きを変え、西予市野村町坂石で黒瀬川、船戸川と合流し北へと向きを変える。その後は河辺川、小田川等の支流を集め、蛇行しつつ四国山地を横断する。中流域には大洲盆地が存在する。ここで一気に開け、流れは緩やかになり、大洲市街を貫流して矢落川などと合流する。下流域は、大洲市北部にて、両岸の山が迫る渓谷状の地形から一気に瀬戸内海(伊予灘)へと流れ込んでおり、河口には水面上の三角州は形成されていない。ただし、海中には膨大な川砂が流れ込んでいる。ここまでの流路延長は103キロメートルと、四国の中では比較的長大な河川であるにもかかわらず、源流部と河口との直線距離が18キロメートルと、その屈曲振りが窺える。

このような場所を流れる肱川は、流域面積の約9割が山地で占められ、さらに、下流部に大規模な平野部が見られず、流域において目立つ平野部は中流域よりも上流側に存在する盆地に限られるという特異な流域像を持つ[1]。また、肱川の河口部は比較的水深が深い上に、河川勾配も緩いため、比較的河川流量の少ない時期には河口から約12 kmの地点まで海水の流入が起こり、この付近では海棲の魚類なども観察される[1]。一方で、肱川の下流部は、流域に建設されたダムが放流を行う際に流量が急増し、ダムが貯水している際には流量が急減など、人為的な流量の変動が目立つ場所でもある[1]

なお、肱川の河口の長浜には、冬期に肱川の上流の大洲盆地から吹き下ろしてくる、肱川あらしと呼ばれる局地風が吹く[1]。しばしば大洲盆地では朝霧が発生し、この霧が風と共に長浜へと吹き降るという現象も起こる。この霧が動く様子が見える、肱川の河口部の東側の小高い場所に「肱川あらし展望公園」も整備された。

名称の由来[編集]

肱川と呼ばれるようになった理由については諸説があり、定かではない[2]

  • 流路がのように屈曲しているからという。
  • 泥土やぬかるみを「ひじ」と呼び、「比治」などの字を当てていた。「土方」(ひじかた)などもこれに由来すると言われる。こうした「ひじ」の多い川で「ひじかわ」とも言われる。肱川は古くは、「比志川」あるいは「比治川」とも表記されていたこともこれを裏付ける(堀内統義『愛媛の地名』(2000年)から)。
  • 伝説としては、1331年伊予守護職となった宇都宮氏比志城大洲城)を築いた際に、下手の石垣が何回も崩れて、石垣が築けなかったので、「おひじ」という乙女を人柱にした所、それ以後は石垣の崩れなくなったので、乙女の霊を慰めるために、城の下を流れる川を「比地川」(ひじかわ)と名付けたとのことである。この伝説に基づき、宇和島自動車バスガイドにより「昔、大水を鎮めるためお肱さんと言う娘が人柱になった事を弔うため」と言う観光説明がなされている。

主な支流[編集]

  • 舟戸川 - 西予市
  • 河辺川 - 大洲市
  • 小田川 - 喜多郡内子町から大洲市へ
    • 田渡川 - 喜多郡内子町から小田川へ合流
    • 中山川 - 伊予市から喜多郡内子町をへて小田川へ合流
  • 久米川 - 大洲市
  • 矢落川 - 伊予市から大洲市へ
  • 大和川 - 大洲市

利水施設[編集]

ダムの放流[編集]

流域のダムが間欠的な放流を行うため、肱川の下流域で人為的に流量が大きく変動する[1]。また2018年7月の豪雨の際には、野村ダム・鹿野川ダムは満水に近づき、7月7日午前6時20分に異常洪水時防災操作を行った。これはダムへの河川水の流入量をそのまま放流する操作で、いわゆる「緊急放流」とも呼ばれる。放流直前に西予大洲両市は避難指示を出し、サイレン等による警告も行われたものの、西予市野村地区で約650戸が浸水し、5人が死亡した。この件について、国土交通省は情報伝達に課題があったことを認め、改善する方針を示した[3][4]

肱川流域の産業[編集]

流域で盛んだった養蚕で産み出された繭を保管するために、大洲市街に大洲商業銀行が繭を保管するために建てたレンガ造りの建物。観光施設「おおず赤煉瓦館」として活用されている。

肱川の流域に見られる平地は氾濫原であったため砂地が多く、水稲の栽培よりも野菜栽培に適しており、畑が作られてきた。この畑では、大洲名物であるいもたきの材料のサトイモなども栽培されてきた他、保存食として漬物も作られてきた。ただ、肱川の氾濫のたびに畑の境界が不明になる事を避けるために、東大洲地区などでは、畑の畦道に沿うように、畑の境界を示す樹木が植えられてきた[1]

肱川の氾濫による洪水被害を少なくするため、肱川流域に位置していた大洲藩は、河畔になどを植えることを推奨した。水防林として植えられた樹種としては、竹の他に、ムクノキやエノキが挙げられる[5]。この中で竹を、建築資材として利用する他に、竹工芸品が作られ、熊手竹すだれ竹刀物差しなどが製造され、この付近の伝統的な産業の1つになった。かつては、団扇の骨(丸亀方面に出荷)、和傘の骨(和歌山へ出荷)も製造していた。他に桑の木も洪水に強いとされ、推奨された。この関係で養蚕も行われ、大洲はの集散地であった。

また、肱川の中下流域は水量もあり、それほど急流でなかったため、かつては河川舟運が発達し、河口の長浜は木材などの集散地として栄えた。この船の通行を妨げないように、河口部の長浜大橋は可動橋として建造された[5]

この他、肱川では漁業も営まれ、アユの漁が行われてきた[6]。また、大洲の鵜飼いは日本三大鵜飼の1つに数えられ、鵜飼いは観光資源として残っている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 日本の地体構造区分の1つの黒瀬川帯の由来である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 小倉 紀雄、島谷 幸宏、谷田 一三 編集 『図説 日本の河川』 p.128 朝倉書店 2010年1月30日発行 ISBN 978-4-254-18033-6
  2. ^ 国土交通省四国地方整備局 大洲河川国道事務所” (日本語). 国土交通省四国地方整備局. 2019年9月7日閲覧。
  3. ^ ダム緊急放流、5人死亡 国交省、情報伝達の課題認める 朝日新聞DIGITAL
  4. ^ 5人死亡のダム放流「天災だが人災」 説明会で住民訴え 朝日新聞DIGITAL
  5. ^ a b 小倉 紀雄、島谷 幸宏、谷田 一三 編集 『図説 日本の河川』 p.129 朝倉書店 2010年1月30日発行 ISBN 978-4-254-18033-6
  6. ^ 小倉 紀雄、島谷 幸宏、谷田 一三 編集 『図説 日本の河川』 p.128、p.129 朝倉書店 2010年1月30日発行 ISBN 978-4-254-18033-6

参考文献[編集]

  • 小倉 紀雄、島谷 幸宏、谷田 一三(編集) 『図説 日本の河川』 朝倉書店 2010年1月30日発行 ISBN 978-4-254-18033-6
  • 横山昭市(編著)『肱川 人と暮らし』(財団法人愛媛県文化振興財団)
  • 大洲工事五十年史

関連項目[編集]