冲鷹 (空母)
新田丸 / 冲鷹 | |
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トラック島泊地に停泊する冲鷹[注釈 1] | |
基本情報 | |
建造所 |
三菱重工業長崎造船所(客船建造)[2] 呉海軍工廠(空母改造)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | (貨客船 →)航空母艦[3] |
級名 | 大鷹型 |
母港 | 横須賀[4] |
艦歴 | |
起工 | 1938年5月9日[2] |
進水 | 1939年5月20日[2] |
竣工 |
1940年3月23日「新田丸」として竣工[2] 1942年11月25日空母へ改造完了[2] |
最期 | 1943年12月4日戦没 |
除籍 | 1944年2月5日[5] |
改名 | 新田丸 → 冲鷹[6] |
要目(航空母艦改造時) | |
基準排水量 | 17,830英トン[7] |
公試排水量 | 20,000トン[7] |
満載排水量 | 21,262.80トン[8] |
全長 | 180.24m[7] |
水線長 | 約173.70m[7] |
垂線間長 | 168.00m[7] |
最大幅 | 23.70m[7] |
水線幅 | 22.50m[7] |
深さ | 23.50m(飛行甲板まで)[7] |
飛行甲板 |
長さ:172.0m x 幅:23.7m[9] エレベーター(13x12m)2基[10] |
吃水 |
公試平均 8.00m[7] 満載平均 8.26m[7] |
ボイラー |
三菱式水管缶4基[11] 補助缶2基[11] |
主機 | 三菱ツェリー式(高低圧[12])タービン2基[13] |
推進 | 2軸 x 140rpm[11]、直径5.000m[14] |
出力 | 25,200hp[7] |
速力 | 21.0ノット[7][注釈 2] |
燃料 | 2,250トン[7] |
航続距離 | 8,500カイリ / 18ノット[7][注釈 3] |
乗員 | 約850名[9] |
搭載能力 |
九一式魚雷 36本[15] 爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個[16] 飛行機用軽質油 190トン[8] |
兵装 |
竣工時[9] 12.7cm連装高角砲4基 25mm3連装機銃10基 |
搭載艇 | 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻[10] |
搭載機 |
計画(常用+補用)[17] 零式艦上戦闘機 9+2機 九七式艦上攻撃機 14+2機 合計23+4機 (資料によっては合計26+4機) 輸送時、艦上爆撃機16、艦戦24可能[18]。 |
特記の無い場合は計画要目 客船時の要目は新田丸級貨客船を参照 |
冲鷹(ちゅうよう)は[19]、大日本帝国海軍の航空母艦[6]。 「冲」は高く昇って到達するの意があり[注釈 4]、鷹が大空高く昇っていく様を意味する[21][22]。
概要
[編集]軍艦冲鷹は[6]、大鷹型航空母艦の三番艦である[23][24]。 1940年(昭和15年)3月に三菱重工業長崎造船所で竣工後[25]、貨客船として太平洋航路で運航されていた日本郵船の新田丸級貨客船1番船新田丸(にったまる)を[26][注釈 5]、1941年(昭和16年)9月に日本海軍が徴用[28][29]。運送船として使用後、太平洋戦争開戦後に空母へ改造した艦艇である[30][31]。
1942年(昭和17年)中旬より呉海軍工廠で空母改造に着手[28]。同年8月20日の軍艦籍編入および艦艇類別等級表への類別時に[3]、新田丸から冲鷹に改名された[6]。 新田丸級貨客船としては1番船-新田丸、2番船-八幡丸、3番船-春日丸だったが、大鷹型航空母艦としては1番艦-大鷹(春日丸)、2番艦-雲鷹(八幡丸)、3番艦-冲鷹(新田丸)となった[23][32]。 大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程度しか発揮できず、機動部隊同士の戦闘には参加せず航空機輸送任務に従事した[33][34]。 同年11月、冲鷹は空母として竣工[22]。翌月より、ただちに航空機輸送任務に投入された[22]。最初の任務は、日本陸軍航空隊の九九式双発軽爆撃機だった[35]。
1943年(昭和18年)の大鷹型3隻(冲鷹、雲鷹、大鷹)は、航空機輸送任務に奔走する[36]。4月上旬には三式戦闘機を海上輸送した[37]。同年12月4日、日本本土へ帰投中の冲鷹は、八丈島沖合でアメリカ海軍潜水艦セイルフィッシュの魚雷攻撃により撃沈された[38][注釈 6]。
歴史
[編集]建造前
[編集]冲鷹の前身である新田丸は[34]、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で[40]、またイタリアの貨客船コンテ・ヴェルデ (Conte Verde) やドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、グナイゼナウ、ポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで[41]、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船である[42][43]。 新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり[44]、日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んで、それぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[45]。本船の場合は、新田義貞にちなむ新田神社に由来する[注釈 7]。
新田丸は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工[注釈 8]。 1939年(昭和14年)5月20日、進水[48]。1940年(昭和15年)3月23日に竣工[49]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[50]。
建造時、新田丸級貨客船は純国産豪華貨客船と宣伝されていた[51][52]。いわゆる国策型優秀船の先駆である[注釈 9] 天洋丸、浅間丸、氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は中村順平(大阪商船の天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾、山下寿郎、松田軍平ら建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞と髙島屋が担当した新日本様式だった[注釈 10]。
一等ラウンジは六歌仙をエッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた[注釈 11]。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された[54]。
進水から半年も経たないうちに第二次世界大戦が勃発して欧州航路は中止され、新田丸級三姉妹船は太平洋航路に就役することになった[55][52]。 1940年(昭和15年)3月23日、竣工[56]。長崎から神戸港に移動し[46]、4月3日より神戸から横浜までの試乗航海を実施する[57]。 4月10日、久邇宮大妃、梨本宮、同妃閑院若宮妃、賀陽宮恒憲王など皇族多数の台臨を仰いだ[46]。 5月18日、ホノルル経由でサンフランシスコへむかうべく、横浜港を出発した[58]。
既述のように第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航したが、日米関係の悪化に伴い航路は休止される[59]。1941年(昭和16年)6月の時点で、海軍側は「新田丸」の空母改造を要望していた[60]。空母改造は規定路線だったが、日米交渉使節団輸送のため改装工事着手は延期された[61]。 8月4日、日本郵船は「新田丸」と「氷川丸」の出港を中止した[62]。同月、近衛文麿内閣総理大臣や吉田善吾(海軍側首席随員)は「新田丸」に乗船、最上型巡洋艦4隻に護衛され、ハワイ諸島オアフ島の真珠湾に入港する計画がたてられた[63]。近衛首相はフランクリン・ルーズベルト大統領と会談する予定だったという[64]。だが、近衛とルーズベルトの会談は実現しなかった[64]。9月12日、「新田丸」は日本海軍に徴用された[29]。
10月中旬以降、日米兩政府は貨客船3隻を北米航路に投入することで同意、「新田丸」はバンクーバーとシアトルに寄港する予定だった[65]。だが「新田丸」のシアトル行きは中止され、「氷川丸」に置き換えられた[66]。
新田丸
[編集]太平洋戦争開戦当初、「新田丸」は運送艦として用いられた[22]。 1941年(昭和16年)12月中旬、ウェーク島の戦い終結後の日本軍守備隊を増強するため[67]、上海海軍特別陸戦隊(長光少佐、海兵55期)をウェーク島(大鳥島)へ輸送することになった[68][69]。 「新田丸」は上海市を出発、横須賀とロンゲラップ島を経由して、1942年(昭和17年)1月12日ウェーク島に到着した[69][70]。第六十五警備部隊が新編され、ウェーク島守備部隊となった[注釈 12]。
帰路の「新田丸」は、米兵捕虜約1,000-1,200名をウェーク島から本土へ輸送した[72]。この捕虜輸送任務にあたり、豊田副武呉鎮守府長官は「必要ならば武力を行使して良い」と指示していた[73]。斎藤利夫大尉以下の警戒隊は58名しかおらず、船内で幾度か小競り合いが起きた[74]。1月18日、横浜港に到着した[69]。この様子がニュース映像として残っている[75]。なお報告を受けた軍令部部員のK中佐は斎藤大尉を厳しく叱責し、船内取締規約を破ったとみなされた捕虜5名の処刑を命じた[76]。「新田丸」は米兵捕虜を上海に輸送したが、その際に捕虜5名が処刑され、遺体は米国旗に包まれて水葬に伏された[注釈 13]。
その後も、「新田丸」は兵員輸送任務に投入された[79]。4月18日のドーリットル空襲時には、横浜および横須賀に所在[80]。5月1日、解傭される[81]。6月9日、呉に向けて横須賀を出発した[82]。
冲鷹
[編集]1942年
[編集]1942年(昭和17年)6月21日、「新田丸」を特設航空母艦に改造するよう、艤装工事の指令が出される[83]。 7月17日の時点で、空母改造工事は相当進捗していた[84]。 8月、日本海軍は「新田丸」を買収する[85]。一般には、8月10日より呉海軍工廠で航空母艦への改装に着手する[85][86]。 8月20日、新田丸は冲鷹(チュウヨウ)へと改名した[6][87]。 航空母艦に類別される[注釈 14]。 改名と共に軍艦として類別されたため[29]、本艦には先行2隻(春日丸=大鷹 、八幡丸=雲鷹)と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。同日付で海軍は、春日丸・橿原丸艤装員長等を歴任した石井芸江(石井藝江)大佐を、冲鷹艤装員長に任命する[88]。
新田丸級三隻の中で最後の改造艦となった「冲鷹」は[89]、姉妹艦の運用経験から[87]、当初より飛行甲板を10m延長した[85][90]。幅も先行2隻の23.5mから23.7mに増した[90]。対空火器も12cm単装高角砲四基から12.7cm連装高角砲四基に変更、機銃も増強されている[85][90]。一方で、日本海軍の空母用カタパルト開発失敗と低速力により、大鷹型の航空機運用能力はカタパルトを装備したアメリカ軍の軽空母や護衛空母のそれと比較して限定的なものとなる[91]。結局、隼鷹型航空母艦をのぞく日本海軍の商船改造空母が最前線に投入される事はなかった。
1942年(昭和17年)11月20日、石井芸江大佐(冲鷹艤装員長)は冲鷹艦長(初代)に任命される[92]。 11月25日、空母改装完了[49]。同月付で横須賀鎮守府籍[4]。さらに連合艦隊付属となり[86][93]、航空機輸送任務に投入される事になった[85]。 駆逐艦「山雲」(横須賀鎮守府警備駆逐艦)に護衛されて内海西部を出発[94]、11月28日横須賀港に到着した[86]。
航空機輸送任務に従事する空母にとって最大の敵は、日本近海にも進出していたアメリカ軍の潜水艦だった[95]。 12月上旬、本艦は潜水母艦から空母に改造されたばかりの「龍鳳」(元大鯨)と共に、航空機輸送任務に従事する[96]。12月4日、連合艦隊は空母2隻(龍鳳、冲鷹)及び護衛の駆逐艦「時津風」と駆逐艦「卯月」に対し、トラック島への進出を下令した[97][98]。 輸送物件は、日本陸軍第六飛行師団(師団長板花義一陸軍中将)[99]隷下の白城子教導飛行団が保有する九九式双発軽爆撃機だった[100][注釈 15]。「冲鷹」は飛行第四十五戦隊の九九双軽23機を飛行甲板に露天繋止、戦隊長をふくむ隊員203名を乗船させた[35]。「龍鳳」は九九双軽22機と飛行団長をふくむ133名を乗船させた[102]。 ところが本艦で機関故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、「龍鳳」と「時津風」が先行して出発することになった[89][103]。
12月11日、先行隊(龍鳳、時津風)は横須賀を出発する[104]。12月12日午前10時前後、「龍鳳」は八丈島東160浬で米潜ドラムに雷撃され[105]、右舷中部に魚雷1本が命中した[106][107]。同艦は「時津風」や、横須賀から応援にかけつけた駆逐艦「旗風」等に護衛され、出撃したばかりの横須賀へ引き返している[95][注釈 16]。 龍鳳隊より遅れて出港した冲鷹隊(冲鷹、卯月)は[102][111]、サイパン北西で駆逐艦「朝雲」(第9駆逐隊)と駆逐艦「時雨」(第27駆逐隊)と合流、12月18日トラック泊地へ到着した[112][113]。 横須賀への帰路と[114]、翌年1月2日からのトラック再進出の際も[89]、「朝雲」と「時雨」に護衛された[115]。
1943年
[編集]1943年(昭和18年)2月1日、冲鷹艦長は石井芸江大佐から加藤与四郎(加藤與四郎)大佐に交代する[86][116]。 2月7日、「冲鷹」は駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出港、ラバウル方面航空機輸送任務に従事する[117]。 12日、冲鷹隊はトラック着[86][118]。冲鷹隊はカビエン、ラバウル方面への航空機輸送任務に従事する[28]。2月20日、横須賀に戻った[86][112]。大鷹型空母3隻は、引き続き航空機輸送任務に従事した[119]。
4月上旬、「大鷹」とともに陸軍第十四飛行団第六十八戦隊(三式戦闘機)のトラックへの輸送に従事した[120]。「冲鷹」と「大鷹」は4月4日に重巡洋艦「鳥海」と駆逐艦4隻に護衛されて横須賀を出発する[121]。 4月8日夜、アメリカ潜水艦「タニー」が日本の空母3隻を発見した[注釈 17]。距離800mの「大鷹」に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した[122]。「大鷹」に魚雷命中と誤認した「タニー」は、今度は「冲鷹」に魚雷6本を発射するも、同じく早爆に終わった[123]。10日、トラック泊地に到着して任務を終えた[124]。 4月21日、「冲鷹」と「大鷹」は横須賀に戻った[125]。
4月25日、「雲鷹」とともに横須賀を出発し、トラックへの航空機輸送に従事[125]。 5月8日、「冲鷹」と「雲鷹」や戦艦「大和」、第五戦隊(妙高、羽黒)などはトラックを出発[126]。5月13日に「大和」は呉に、「冲鷹」他は横須賀に入港した[126]。
5月24日から再びトラックへの航空機輸送に従事した[125]。6月5日、「冲鷹」と「雲鷹」は、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀に帰投することになった[127][128]。 6月5日にトラックを出発し、本土へ向かう[129]。6月9日、横須賀に到着する[86][130]。
6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[131]、第三戦隊(金剛、榛名)[132]、第七戦隊(熊野、鈴谷)[133]、軽巡五十鈴[134](第十四戦隊)[135]、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)[136]、駆逐艦部隊は横須賀を出発する[137][注釈 18]。 6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スピアーフィッシュが空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった[139][注釈 19]。6月21日、栗田部隊はトラック泊地に到着した[135][140]。便乗していた航空隊関係者は、同地で別の輸送船に移乗した[141][142]。その後、一旦内地に戻る[86][130]。
「冲鷹」は7月10日に翔鶴型航空母艦などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに着いた[143]。この時「冲鷹」は五五二空や八〇二空関係の輸送に従事した[144]。また、「冲鷹」にはマーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や重火器も積載されていた[145][注釈 20]。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、複数のアメリカ軍潜水艦がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた[146][147]。潜水艦「ティノサ」は距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され[148]、小沢部隊は被害なくトラック泊地に到着した[149]。任務を終えた本艦は内地に戻る[130]。
9月7日[150]、空母2隻(大鷹、冲鷹)は[151]、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を出発する[152]。11日、トラック泊地に到着した[153][154]。 9月21日、駆逐艦「島風」に護衛された空母2隻(冲鷹、大鷹)はトラック泊地を出発した[150][155]。 24日、艦隊は先頭より島風-冲鷹-大鷹という単縦陣を形成し、速力20ノットで航行していた[156]。悪天候の中、父島の北東200浬で、輸送艦隊は敵潜に襲撃される[157][158]。午前7時前後、暗号解読により日本艦隊を捕捉したアメリカ軍潜水艦「カブリラ」が魚雷6本を発射する[150]。「大鷹」の右舷に3本〜5本が命中したが、起爆した魚雷は艦尾への1本のみで、沈没には至らなかった[159][160]。 しかし、機関部と舵を破壊されて航行不能となった[161]。爆雷攻撃をおこなった「島風」は『敵潜撃沈』を報告しているがカブリラは沈んでおらず[162]、またカブリラも日本側の反撃と悪天候により目標を見失った[161]。「大鷹」の曳航を、「冲鷹」が担当する[注釈 21]。午後2時すぎに曳航準備を完了、姉妹艦を速力8-11ノット程で曳航し、横須賀へ向かった[164]。また応援の駆逐艦部隊とも合同し、共同で空母2隻を護衛した[165]。26日16時30分、大鷹曳航部隊は横須賀に到着した[166]。 9月27日、冲鷹艦長は加藤与四郎大佐から大倉留三郎大佐[167](前職、潜水母艦迅鯨艦長)[168]に交代する。
沈没
[編集]1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で日本海軍の母艦航空隊は大幅に消耗し[169]、補充のため第一航空戦隊所属の小型空母「瑞鳳」がトラック泊地より横須賀に帰投する[170]。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦複数隻に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した[注釈 22]。 11月30日、瑞鳳艦長服部勝二大佐指揮下の艦隊は[171][注釈 23]、空母瑞鳳(艦長服部勝二大佐、海兵44期)、空母冲鷹(艦長大倉留三郎大佐、海兵43期)、空母雲鷹(艦長関郁乎大佐、海兵43期)、重巡洋艦摩耶(艦長加藤与四郎大佐、海兵43期。前職は、冲鷹2代目艦長)[167][173]、駆逐艦部隊(第7駆逐隊[注釈 24]、浦風)という戦力でトラックを出港し[174]、日本へ向かった[175][176]。 各空母にはソロモン・ニューギニアからの人員・機材が搭載されており、民間人を含む多数の便乗者も乗艦していた[177][178]。さらに駆逐艦「山雲」の攻撃で撃沈されたアメリカ軍潜水艦「スカルピン」の捕虜41名が[179]、内地の捕虜収容所へ送られるため空母に分乗していた[180]。また重巡「摩耶」は11月5日のラバウル空襲で大破しており[181]、本格的な修理を行うため本土回航を命じられていた[182]。
その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦に輸送船団の襲撃を命じる[183]。潜水艦「スケート」と「ガンネル」による襲撃は失敗した[184]。
12月3日深夜、瑞鳳隊は八丈島東方海面(約360km)を航行していた[185]。荒天のため、各艦は互いの位置すら掴めていなかったという[186]。一方、船団を追跡していたアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」は、悪天候の最中にレーダーで目標を探知した[187][188]。当時の瑞鳳隊は、摩耶 - 瑞鳳 - 冲鷹 - 雲鷹の単縦陣だったという[184]。 日本側記録12月3日午後11時10分[174](アメリカ軍記録12月4日午前零時12分)、八丈島の東方海域でセイルフィッシュは4本の魚雷を発射して命中音2本を確認した[188]。これに対し「冲鷹」は北緯32度30分 東経143度40分 / 北緯32.500度 東経143.667度地点で、前部に魚雷1本が命中したと発信する[注釈 25]。瑞鳳以下他艦艇は、被雷した「冲鷹」と、警戒役の駆逐艦「浦風」を残して内地へ向かった[190]。セイルフィッシュは落伍艦を追跡し、浮上すると5時50分(日本時間4時50分)に魚雷3本を発射、命中2本を記録しているが[187]、実際の命中は1本であった[191]。機関室への命中により、多数の死傷者を出す[185]。セイルフィッシュは「冲鷹」の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分(日本時間8時40分)に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射[187]。2回の命中音と破壊音を確認した[191]。第三撃を受ける直前、駆逐艦「曙」が接近してきたという証言もある[178]。第三撃は艦橋付近に命中[192]。セイルフィッシュは爆雷攻撃により深深度潜航を余儀なくされ、目標の沈没を目撃しなかった[193]。
夜明け前、「瑞鳳」は指揮下艦艇に沖鷹曳航と護衛命令を出していたが[194][189]、「冲鷹」は姉妹艦の到着を待たず、魚雷合計3本の命中により沈没[174]。随伴していた「浦風」の報告によれば北緯32度30分 東経144度0分 / 北緯32.500度 東経144.000度の地点で午前8時47分に沈没した[195]。アメリカ軍によれば 北緯32度37分 東経143度39分 / 北緯32.617度 東経143.650度の地点で沈没[188]。強風と波浪のため駆逐艦から内火艇や短艇を海面におろすことが出来ず、救助作業は難航した[196]。「浦風」は冲鷹副長以下約130名を救助、続いて到着した駆逐艦「漣」が運用長以下約30名を救助した[197][注釈 26]。他の乗組員・便乗者は総員戦死[注釈 27]。冲鷹便乗中の第一航空戦隊の熟練整備員や機械工員も多数が戦死したため、海軍航空隊の整備や修理能力にも影響を与えた[200]。またスカルピンの捕虜21名も、救助されたのは1名であった[201]。
12月4日、瑞鳳隊は横須賀に到着した[182]。12月9日、軍令部において瑞鳳・摩耶・雲鷹・第7駆逐隊司令、高松宮宣仁親王(海軍大佐、軍令部部員、昭和天皇弟宮)等関係者があつまり、護衛および対潜水艦に関する研究をおこなう[172]。日本海軍の潜水艦では襲撃できない悪天候下での雷撃であったことから、(一)水中聴音発射、(二)電探(レーダー)発射、(三)聴音魚雷の可能性が指摘された[202][203]。
1944年(昭和19年)2月5日、大鷹型航空母艦[204]、帝国軍艦籍より除籍された[5]。
年表
[編集]- 1938年(昭和13年)5月9日 - 貨客船新田丸として起工。
- 1939年(昭和14年) 5月20日 - 進水。
- 1940年(昭和15年) 3月23日 - 竣工。
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1月2日 - 朝雲および時雨と横須賀発[206]。1月8日[86]、トラック着[207]。
- 1月10日 - 村雨(第四水雷戦隊旗艦、第2駆逐隊)および浦波(第19駆逐隊)[208]とラバウル方面経由[104]。艦爆16、艦戦24を搭載。1月12日、駆逐艦秋風(第34駆逐隊)と合同し基地人員・物件を移載[209]。
- 1月13日 - カビエン北方で航空機発艦、14日トラック帰着[210]。燃料補給後横須賀回航[86]、20日着[211]。
- 2月7日 - 横須賀発、ラバウル方面輸送[104]。12日トラック着[86]。
- 2月15日 - トラック発[104]。20日横須賀着[104][119]。
- 2月28日 - 横須賀発[86]。3月5日トラック着[130]。
- 3月8日 - トラック発[86]。3月13日横須賀着[130]。
- 4月4日 - 大鷹等とともに横須賀発[130][212]。4月10日、トラック着[213]。
- 4月16日 - 大鷹・時雨・有明とトラック発[214]。21日横須賀着[130]。
- 4月25日 - 雲鷹[130]や軽巡那珂(第十四戦隊、司令官伊藤賢三少将)等と横須賀発[215]、4月30日トラック着[216]。
- 5月8日 - 雲鷹および戦艦大和等とトラック発[217]、5月13日横須賀着[130]。
- 5月24日 - 雲鷹と横須賀発[86]、5月29日トラック着[130]。
- 6月5日 - 雲鷹とトラック発[86]、6月9日横須賀着[130]。
- 6月16日 - 第三戦隊や水上機母艦日進等と横須賀発[86]。21日トラック着[140]。
- 6月28日 - 雲鷹とトラック発[86]、7月2日横須賀着[130]。
- 7月10日 - 小沢機動部隊と合流し、内地出発[86]。7月15日トラック着[130]。
- 7月19日 - トラック発[86]。7月24日横須賀着[130]。
- 9月7日 - 大鷹と横須賀発[151]、9月11日、トラック着[86]。
- 9月24日 - 大鷹・島風と横須賀回航中、米潜カブリラから雷撃されて大鷹が大破、冲鷹が大鷹を曳航し[218]、応援艦艇と共に26日横須賀着[86]。
- 10月4日 - 島風および白露[219]と横須賀発[注釈 29]、10月9日トラック着[220]。
- 10月15日 - トラック発[86]。
- 10月18日 - サイパン島北方で米潜フライングフィッシュが魚雷6本を発射、1本命中を報告するも冲鷹に被害なし[221]。20日、横須賀帰投[86]。
- 10月27日 - 横須賀出発[86]。10月31日[218]もしくは11月1日、トラック着[86]。
- 11月5日 - トラック発[86]。10日、横須賀着[86]。
- 11月16日 - 瑞鳳・雲鷹等と横須賀発[86]。11月21日トラック着[222]。
- 11月30日 - 瑞鳳・雲鷹・摩耶・浦風等とトラック発[197]。
- 12月3日 - 米潜セイルフィッシュの雷撃で大破[197]。
- 12月4日 - セイルフィッシュの再度の雷撃により沈没[86]。生存者を浦風と漣が救助[197]。
- 1944年(昭和19年)
艦長
[編集]- 艤装員長
- 艦長
- 石井芸江 大佐:1942年11月20日[92] - 1943年12月1日[116]
- 加藤与四郎 大佐:1943年2月1日[116] - 1943年9月27日[167]
- 大倉留三郎 大佐:1943年9月27日[167] - 12月4日戦死(海軍少将に進級)[199][223]
同型艦
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1943年5月、駆逐艦潮より撮影、特設艦船を挟んで姉妹艦雲鷹も写っている[1]。
- ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
- ^ #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
- ^ 戦時中の史料[20]、戦後の二次資料など、一部で「沖鷹」と表記するが、海軍の法令上はニスイの「冲鷹」である[6]。
- ^ 新田丸級貨客船はヨーロッパ航路に投入予定だったが、第二次世界大戦の勃発で太平洋航路に投入された[27]。
- ^ この時、冲鷹に乗艦していた米潜水艦スカルピン(前月11月に沈没)の捕虜20名も戦死した[39]。
- ^ 船名の由來 正に紀元二千六百年の船[46] 新田丸の船名は建武鴻業の柱石 新田義貞公を祀る群馬縣太田町鎭座新田神社の祀號を奉戴するものであるが、曠古の非常時局に際し國を擧げて新東亞建設に邁進するの時、海運報國の旗幟のもとに五大洋に雄飛する我が「日の丸船隊」の先驅をなす新國策船の負ふ名として蓋し相應しい船名といふべきである、漸く事多からんとする世界海運界の爭覇戰に堂々太平洋の春波を蹴つて強豪を壓せんとするわが新田丸の威容こそ、方に光輝ある「紀元二千六百年の船」である(記事おわり)
- ^ 新優秀船新田丸 六月に來航…… 仕上げ入念のため三ヶ月遲る[47] 日本郵船會社の歐洲航路用優秀客貨船新田丸は一九三八年五月九日長崎造船所で起工、三九年五月二十日無事進水を了し、艤装を終へ次第來る四月二十日ごろ桑港に向け處女航海の壮途にのぼるはずであつたが、物資の不足、仕上げに際し入念を期してゐるため豫定より遲れて來る六月初旬來航することになつた旨桑港郵船支店へ入電があつた。(記事おわり)
- ^ 造船日本 世界に誇る豪華客船 純國産新田丸竣工 陽春四月、晴れの處女航海[53](東京二十五日同盟)三菱長崎造船所で建造を急いでゐた郵船の新造客船新田丸(一万六千五百トン)はいよ〱來月二十九日竣工の運びとなつた、同船は一等客室三百および食堂に世界最初の冷房装置を施した豪華船で、速力二十二ノツト船長百八十メートル、船巾二十二メートル、竣工と共に桑港航路に就航する筈である。新田丸は事變以來日本郵船が鋭意建造に當つてゐる國策型優秀船隊の先驅をなすもので、姉妹船八幡丸、春日丸と共に船型、推進器、機關、航海用具、船客設備貨物設備等あらゆる部門に世界最優秀最高の設備を具へてをり、世界いづれかの國において既に試みられ優れた性能を有し優秀最新なりと目せられる機器、設備にして同船に備へられざるものは一つもなく、しかもそれらは前部國産品である點に異彩を放つてゐる、例えば世界でも數える位しかない須式第十四型ジヤイロコンパスも國産品であり、船舶用無線電話も國産品である、また大西洋の超豪華客船クヰン・メリー號やノルマンデー號にもない一等客室全部の冷房を斷行し世界の客船設備に一新天地を開拓してゐるのである(記事おわり)
- ^ 新田丸装飾説明[46]
- ^ 新田丸装飾説明[46]
- ^ 第六十五警備隊司令は川崎進大佐(海兵46期)、12月31日に新設[71]。第六根拠地隊麾下であった[70]。
- ^ 太平洋戦争終結後、捕虜処刑命令を出したK中佐は既に戦死していたので、GHQは斎藤大尉を責任者とみなした[77]。だが斎藤が逃亡生活に入り、1952年(昭和27年)2月に逮捕令状を取り消した[78]。
- ^ 内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス[3] 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)
- ^ 白城子教導飛行団(飛行団長白銀重二陸軍少将)と隷下の軽爆二戦隊……飛行第四十五戦隊(戦隊長濱田龍太郎陸軍大佐)と飛行第二百八戦隊(戦隊長於田秋光陸軍大佐)である[101]。
- ^ 龍鳳の被雷により、第四十五戦隊隊員は45名が戦死[102]、合計百余名の死傷者を出した[108]。「龍鳳」が輸送するはずだった九九双軽爆は、空母「瑞鶴」(第一航空戦隊)が輸送した[109][110]。
- ^ 空母2隻は「大鷹」と「冲鷹」だが、「タニー」は「鳥海」も空母と誤認していた[122]。
- ^ 第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)、陽炎型駆逐艦(雪風、浜風、谷風)、白露型駆逐艦涼風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波[138]。
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』496ページの編成表では同行艦に駆逐艦江風(第24駆逐隊)を加えるが、同艦はスピアーフィッシュと交戦して損傷、トラック泊地で修理中。
- ^ この部隊のトラック進出時には陸軍南海第四守備隊の輸送が行われているが、『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』372ページによれば「冲鷹」はそれには従事していない。
- ^ ○二十四日、「大鷹」ハ父島北東ニテ敵潜水艦ノ雷撃ニヨリ舵取機械ヲヤラレ航行不能、「冲鷹」曳航(11kt)「横」ニ向フ。護衛駆逐艦ハ敵潜水艦ヲ捕捉、撃沈セルコト略確実。[163]
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』532ページでは同行艦を駆逐艦4隻(秋雲、曙、朧、漣)と記述するが、朧は1942年10月17日に沈没している。
- ^ 各艦艦長の姓名と海軍兵学校卒業期は、『高松宮宣仁親王日記第七巻』158ページの欄外解説より引用[172]。
- ^ 第7駆逐隊司令は山本岩多大佐、海兵46期。『戦史叢書62巻』529ページでは、護衛の駆逐艦を第7駆逐隊(曙、朧、漣)および浦風と記述する。
- ^ ○「冲鷹」(三-二三三〇)2310我魚雷一本命中、前部兵員室ニ火災、32°-30′N 143′E(野島崎灯台127°240′)。/○「瑞鳳」(四-〇六四五)0500「冲鷹」再度魚雷命中、航行不能。「雲鷹」ハ救難ニ行ケ《荒天ノタメ航行困難ノ状況ニテ曳航セントシタリシテテヰル間ニ第二回攻撃サル》。[189]
- ^ 漣乗組員の記録によれば、同艦は93名を救助、戦死者1名であった[198]。
- ^ 『戦史叢書62巻』529ページでは戦死者約1250名とする[197]。一部資料では乗員533名と便乗者3000名中、生存者170名[178]。冲鷹乗組員は本倉艦長[199]以下513名戦死[200]。
- ^ 『戦史叢書62』216ページの冲鷹輸送経過では「12月11日横須賀発、龍鳳が米潜に攻撃され分離した」と記述する[205]。
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』531ページと『戦史叢書62巻』の経過表では、冲鷹の護衛を「島風、漣」と記載する[218]。
出典
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- ^ #S17.07横防日誌(2) p.27〔 二十七日(天候略)(略)一八三〇山雲播磨灘着|三、海上保護直接護衛部隊(略)(三)山雲ハ播磨灘ヨリ冲鷹ノ直接護衛 〕
- ^ a b #S17.12横防日誌(1) pp.4-5〔 (イ)而シテ本月ハ上中下旬ヲ通ジ三陸ヨリ犬吠埼ニ至ル海面ニ於テ敵潜水艦ノ出現頻繁ニシテ其ノ數別表ノ如ク味方艦及船團ニ對シテ雷撃或ハ砲撃ヲナシ神護丸ノ沈没其ノ他ニ商船損害ヲ受ケタルモ其ノ都度直率部隊ノ艦艇ヲ始メ東京湾部隊三陸部隊ノ艦艇及館空飛行機ヲ以テ之ヲ捜索掃蕩攻撃セリ中旬ニハ北緯三十二度十分東経百四十二度三十二分ニ於テ南下中ノ龍鳳雷撃ヲ受ケ軽微ノ損害ヲ蒙リ直率部隊艦艇及館空機ハ同艦ノ警戒護衛ヲ實施シ東京湾ニ入港セラレタリ 〕
- ^ 日本空母戦史 1977, pp. 430a-433龍鳳の竣工(十一月三十日)
- ^ #S1712四水戦日誌(1) p.30〔 4日0850GF長官→各隊GF電令作第405号/一.龍鳳、冲鷹ハ龍鳳艦長之ヲ指揮シ大海機密第201059番電(11月ニ依ル陸軍航空部隊及航本機密第021622番電ニ依ル飛行機ノ輸送ニ従事スベシ。二.龍鳳ヲ右輸送期間中主隊ニ編入ス。三.左ノ各指揮官ハ指定駆逐艦ヲシテ龍鳳艦長ノ指揮ヲ承ケ第一輸送ノ護衛ニ従事セシムベシ 外南洋部隊卯月横須賀「トラック」間、機動部隊駆逐艦1隻横須賀「サイパン」間、前進部隊駆逐艦2隻「サイパン」「トラック」間。四.日進(以下略) 〕
- ^ 戦史叢書62 1973, pp. 215–217航空母艦による航空機輸送
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- ^ #S1712四水戦日誌(2) p.16〔 11日1116龍鳳→各隊/発竜鳳艦長 一.竜鳳ハ時津風ヲ率ヒ竜鳳キデ101301番電通行動ス。二.冲鷹ハ主給水ポンプ故障ノ為出港ヲ延期シ12日復旧後卯月ヲ率ヒ艦長所定ニ依リ行動セシム。三.朝雲時雨ハ15日1200竜鳳ニ会合予定ノ通警戒ニ任ズ 〕
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- ^ #S17.12横防日誌(1) p.23〔 敵潜水艦發見記録|一二|一〇一八|N三十二度十分 E百四十二度五〇分|龍鳳|雷撃|損害アリ旗風 駆潜三十三、三十四警戒直衛 館空飛行機捜索攻撃 〕-〔 一三|〇六二〇|N二十四度〇分 E百四十二度二十分|〃(龍鳳)|〃(雷撃)|命中セズ 〕
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- ^ #S1712四水戦日誌(1) p.13〔 …更ニAdB電令作第90号4sd電令作第1号ニ依リGF電令作第405号ニ依ル輸送任務ニ従事スル冲鷹警戒任務ノ為21日1024「トラック」発26日1250横須賀着。 〕
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- ^ #S1801二水戦日誌(6) pp.34-35〔 AdB指揮官|29日2330 2sd4sd各司令官4dg司令(GF 4F 横鎮各司令長官 大臣 総長 雲鷹 冲鷹 潮|AdB電令作第208號 雲鷹冲鷹「トラック」ヨリ横須賀回航ニ際シ2sd司令官ハ麾下驅逐艦1隻ヲ、4sd司令官ハ4dg(萩風)ヲ派遣シ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦ノ警戒ニ任ゼシムベシ 〕-〔 29日2330 2sd司令官→二水戦〔2F、2KEg、4F司 雲鷹 冲鷹 潮〕|AdB電令作第208號ニ依ル駆逐艦ヲ清波ニ指定ス」
- ^ #S1805四水戦日誌(1) p.55〔 27日0822(将旗)GF→27日1500(将旗)2F(将旗)7dg雲鷹大鷹冲鷹潮|GF電令作第578号 一.雲鷹冲鷹潮現任務終了後雲鷹艦長指揮ノ下ニ横須賀ニ回航スベシ/二.AdB指揮官ハd×2(萩風ヲ含ム)ヲシテ雲鷹艦長ノ指揮ヲ受ケ右部隊ノ護衛ニ任ズベシ/三.7dg(曙)ハ現任務終了後横須賀ニ回航スベシ 〕
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- ^ #S1704七戦隊日誌(7) p.5〔 (五)六月十五日前進部隊ニ編入セラレ六月十六日第三戰隊司令官指揮ノ下ニ第三戰隊第七戰隊(最上欠)第二航空戰隊(龍鳳)五十鈴雲鷹沖鷹第七駆逐隊第十六駆逐隊(雪風)第二十七駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀發二十一日「トラック」着 〕
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- ^ #S1709大鷹詳報(3) p.19〔 (ロ)(略)次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者840名托送品零戦6其ノ他若干ヲ搭載ノ上21日0400「トラック」港出港(以下略) 〕
- ^ #S1709大鷹詳報(3) p.18〔 (二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次 島風 冲鷹 本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ 〕
- ^ 戦史叢書62 1973, pp. 403–404「大鷹」被雷航行不能
- ^ #S1709大鷹詳報(3) p.24〔 (三)天候及戦場ノ状況 天候曇雨量9風向北東風速10米波浪4驟雨屡々来襲シ水平線附近特ニ視界不良ナリ本艦ノ北緯28度2分東経145度59分 〕
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- ^ #S1709大鷹詳報(3) pp.20-21〔 0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ 〕
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- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.9〔(二)作戦指導(略)12日朝「カビエン」ノ15度200浬ノ地点ニ至リ秋風ト合同秋風ハ冲鷹ヨリ基地人員物件等ヲ移積シ(秋風ハ0900分離「カビエン」ニ向フ 〕
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参考文献
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- 元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『鷹型ミニ空母五隻が辿った薄幸の生涯 客船改造の大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹の船団護衛と潜水艦との戦い』
- 戦史研究家塚田享、戦史研究家丹羽年雄、元「海鷹」甲板士官・海軍中尉徳富敬太郎、元「大鷹」飛行長・海軍少佐五十嵐周正『悲運の護衛輸送空母たちの航跡』/『特設空母「大鷹」の思い出 五十嵐周正』
- 戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争』
- 別冊歴史読本特別増刊『戦争裁判 処刑者一千 勝者は敗者をいかに裁いたか』新人物往来社〈戦記シリーズ Vol.23〉、1993年8月。
- (148-158頁)ノンフィクションレポート(3)渡辺大助(福島テレビ)『「戦犯」を拒否して逃亡潜行七年 元海軍少佐を支えた妻の愛』
- 歴史群像編集部編「雨倉孝之 人物抄伝/太平洋の群像 駆逐隊司令・駆逐艦艦長列伝(1)」『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768--9。
- (144-151頁)「漣」砲手の海戦秘話―吹雪型駆逐艦「漣」後部三番砲塔・右砲一番砲手が綴る海の戦いの生々しい実相と「漣」の最期。―文=川島俊英
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 東京日日新聞社「水上交通 交通界の王者」『世界交通文化發達史』東京日日新聞社、1940年12月 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “なにわ会(海軍兵学校第72期、海軍機関学校第53期、海軍経理学校第33期合同クラス会):戦記その003 桂理平「空母冲鷹の遭難」”. 成果物情報. なにわ会. 2015年1月5日閲覧。
- “戦前日本の最優秀客船 新田丸”. 成果物情報. 日本財団図書館. 2015年1月5日閲覧。