板花義一
板花 義一 | |
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生誕 |
1889年1月29日 大日本帝国 長野県 |
死没 | 1961年10月18日(72歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日[1][注 1] - 1961年(昭和36年)10月18日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)[3]に農業・板花茂一郎の二男として生まれる[1]。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる[1][4]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した[1][2][5]。
1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ[1]。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進[1]。1927年(昭和2年)12月、陸大教官となり、第3師団参謀仰付を経て、1930年(昭和5年)8月、輜重兵中佐に進級[1]。1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍参謀仰付となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍自動車学校教官を経て関東軍自動車隊長に就任し、1935年(昭和10年)3月、輜重兵大佐に昇進[1][5]。
1936年(昭和11年)8月、輜重兵監部員に転じ、第1軍兵站参謀長、同軍参謀を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し下志津飛行学校付となる[1][2][5]。1938年(昭和13年)11月、熊谷陸軍飛行学校幹事に就任し、第7飛行団長を経て明野陸軍飛行学校長となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた[1][2][5]。
1942年(昭和17年)11月、新設の第6飛行師団長として出征[1][2][5]。ラバウルに赴任し東部ニューギニア方面での航空戦を指揮[2]。1944年(昭和19年)4月、陸軍航空本部付に転じ、陸軍航空通信学校長を経て、1944年8月、第2航空軍司令官に発令され満州に赴任[1][2][5]。1945年(昭和20年)6月、予備役編入となった[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
栄典
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』80頁では1月24日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263。