濃姫

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「濃姫之像」(清洲城模擬天守横)

濃姫(のうひめ、天文4年(1535年[1] - 弘治2年(1556年9月19日? / 慶長17年7月9日1612年8月5日)?)は、戦国時代の女性。織田信長の正室で、斎藤道三の娘。名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)とされる。

呼び名[編集]

「鷺山殿」 と呼ばれていたとされるが[1]、彼女は稲葉山城で生まれ育っていると推測されており、「稲葉山城」がこの当時「井口城」「金華山城」と呼ばれていたことからして「井口殿」「金華山殿」などと呼ばれていたとの推測も可能である[要出典]

「濃姫」という通称は「美濃国出身の高貴な女性」という意味であり、結婚後のものとされる。[要出典]

生涯[編集]

斎藤道三の三女。母は明智光継の娘・小見の方。当時、明智家は東美濃随一の名家であったため小見の方は正室として迎えられ、濃姫は正室唯一の子であったという[1]明智光秀とは従兄妹同士とされる[2]

天文4年(1535年)に生まれ、天文13年(1544年)の加納口の戦いの後、織田家との和睦により信長の許嫁となったとされる[1]。美濃方の交渉役は明智光安であり[1]平手政秀の才覚で政略結婚がまとまったという[3]。 実際に信長に嫁いだ時期は天文18年(1549年)の2月24日1549年3月23日)とされ[1]、天文22年(1553年)4月には、織田信長と斎藤道三が正徳寺にて会見を行っている[3]

2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供は生母不明の者が多く、本当に子がいなかったかどうかは確認できない。『近江國輿地志』には御台出産の記事が存在する。濃姫の最期は正確には不明である。斎藤家の菩提寺常在寺に父道三の肖像を寄進した後は、歴史から姿を消している。また濃姫の菩提寺は特定されていない。

信長は夫婦別居した部下を叱ったり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)夫妻の喧嘩に仲裁に出たりと、家庭における妻の内助の役割を高く評価していた言動が多いものの、実際の自身の妻である濃姫(正室)の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。そのため歴史家は、父・道三が存命中で生駒氏(吉乃)が嫡男・信忠を生む以前に、

  1. 殺された。
  2. 病気で美濃へ返された。
  3. 病死した。

と推察する者もいるが、斎藤家の菩提寺に名はなく、斎藤家へ帰ったとは考えづらい。『信長公記』には入輿については記述があるが、その後については記述がない。また、その他の史書にも記載が見つかっていない。このため濃姫の最期については様々な推測がなされている。

生涯に関する諸説[編集]

前述のようにその人物像は不明である。織田氏に嫁いだ後の消息は早世説・離婚説など諸説に分かれている。

離縁・早世説[編集]

  • 寛永15年(1638年)成立の『濃陽諸士伝記』には、道三を殺した道三の息子・義龍1561年に病没したすぐあとに濃姫が既に死去していると窺わせるような文章がある。その理由として、政略結婚の意義を失った濃姫との婚姻は無用のものとなり、生駒氏懐妊(弘治2年夏ころ)を契機に織田家を追放され、実父の敵の義龍を嫌って母方の叔父・明智光安の明智城に身をよせたが、義龍の美濃統一戦の時に攻撃を受け、城とともに滅んだためと推測されている(津本陽の小説『下天は夢か』はこの説を採用している)。
  • 『学研・歴史群像20巻 激闘織田軍団「天下布武」への新戦略』においては、道三の死後政略結婚の意味がなくなり、信長によって、美濃の母方の実家である叔父の明智光安明智城に返された。しかし、斎藤義龍が弘治2年(1556年)9月19日に明智城を攻め落とした。この時、光安ら明智一族は自害して滅んだが、濃姫もこの時明智一族と運命を共にしたとの推察がある。明智城は再興されず明智一族も滅んだため墓所も口伝も残らず、また『信長公記』など当時の記録に入輿は記載されているが最後が記載されていないのも織田家と縁が切れていたためとされる。この説[4]をとれば濃姫は22歳で没したことになる。

離縁否定説[編集]

  • 婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状[5]がある以上は、濃姫を正室としておくことが信長にとっても必要不可欠であったこともあり、その道三と対立した、兄・斎藤義龍筋の斎藤氏との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられず、美濃攻略を推し進めて行った背景には、道三の息女であり土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫の(義龍が道三実子であった場合、土岐氏と血縁関係はないことになる)、婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分があったため、という推測も成り立つこと、美濃攻略後に美濃衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に病気などで亡くなったという可能性も少ないと思われる。
  • 信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として、道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、斎藤氏、土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であれば、より円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できるためではないかと思われる。事実、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。
  • 勢州軍記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ織田信忠(幼名、奇妙または奇妙丸)を養子とし嫡男とした、などの記述も見られる。

早世否定説[編集]

  • 濃姫の生存を示すのではないかと考えられる史料として、信長が足利義昭を擁しての上洛の後の永禄12年(1569年)7月の『言継卿記』に斎藤義龍後家を庇う信長本妻の記述がある。また、同年の日記に「姑に会いに行く信長」の記述も見られる。
  • 『近江國輿地志』にも、信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述もあり、おそらく永禄11年(1568年)頃の記述と思われ、前述の『言継卿記』の記事の前年であることから帰蝶のことと考えられる。なお当該記事には、御台出産が書かれている。
  • 明智軍記』にも尾張平定後の饗膳の際に、信長内室(正室の濃姫)が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、家臣達にたくさんのあわびなどを振舞ったという記載がある。『明智軍記』は元禄年間(最古の元版は1693年版)の幕府作成のものであるので、史実と異なる点や歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも作成時の段階では一般的に濃姫は尾張平定後も信長の正室として存在しており、道三亡き後濃姫が離縁された、亡くなったというような事実はなかった、という認識だったのではないかと推測できる。

本能寺の変死亡説[編集]

  • 岐阜県岐阜市不動町には濃姫遺髪塚(西野不動堂)がある。この地に伝わる伝承によると、本能寺の変の際、信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したと伝わる。

本能寺の変生存説[編集]

  • 氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に御台所北の方の記述が見られ、安土殿(または御局)と同一人物とも推測できる。この「御台所」「北の方」が濃姫だったとすると、本能寺の変の翌日であることから考えて、変時に彼女が本能寺にいたとするのは時間的に無理がある。

長寿説[編集]

  • 織田信雄分限帳』に安土殿という女性が、600貫文の知行を与えられているのが記載されており、女性としては信雄正室、岡崎殿(徳姫)に続き3番目に記載され、信長生母・土田御前と推測される「大方殿様」よりも先に記載されていること、安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、信雄の亡き父・信長の正室にあたるのではないかとも考えられる。また(「局」が「妻子の居住する空間」を示すことから、奥でもっとも権威のあった正室を「御局」と称したとも考えられ)、『織田信雄分限帳』に記載されているもっとも知行の多い御局という人物が濃姫という可能性もある。あるいは、信雄から見て父信長の正室である濃姫は、「大方殿様」の立場にあたるため、大方殿様が土田御前はなく濃姫だとも考えられる。「安土殿」「御局」「大方殿様」のいずれかが濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。
  • 更に、『妙心寺史』には、天正11年6月2日(1583年7月20日)に信長公夫人主催で一周忌を執り行った記事があり、秀吉主催とは別の一周忌法会であるため、興雲院(お鍋の方)とは別人と推測され、「安土殿(または御局)」である可能性が高い。「安土殿(または御局)」が濃姫であった場合、慶長17年7月9日1612年7月26日)に78歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている事となる。根拠記録である安土総見寺『泰巌相公縁会名簿』9頁の記述「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」は寛延3年以後、同寺で編纂されたものである。

人物・逸話[編集]

  • 結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説、奥を取り仕切るだけの器量がなかったなどという評価がなされることがあったが、実際は信長の閨房における醜聞が一切表に出ず、きちんと取り仕切られていたことから、決して無能な女性ではなく、一正室・多側室・多愛妾・多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だったと考えることもできる。

登場作品と俳優[編集]

映画
テレビドラマ

(大河ドラマ)

(各局ドラマ)

小説
  • 中島道子『濃姫と熈子—信長の妻と光秀の妻』(河出書房新社、1992/08)
  • 阿井景子『濃姫孤愁』(講談社文庫、1996/3)
  • 桜田晋也『戦国武将の妻たち』(コスモ文庫、2002/1)
  • 勝見秀雄『宿曜師濃姫と信長』(東京新聞出版局、2002/4)
  • 岩井三四二『戦国女人十一話(帰蝶の項)』末国善己編(作品社、2005/10)
  • 富田源太郎『濃姫のひざまくら』(コスモ文庫、2007/7)
  • 山本惠以子『濃姫春秋』(文芸社、2013/1)

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d e f 『美濃国諸旧記』巻之2(p.33-64)
  2. ^ 但し、光秀の出自や前半生には諸説があり特定されていない。
  3. ^ a b 『信長公記 首巻』
  4. ^ 阿井景子『学研・歴史群像20巻 激闘織田軍団「天下布武」への新戦略』p193より(歴史の舞台から消えた薄幸の女ー(正室)斎藤氏の内訌と濃姫失踪の謎を解くー)より
  5. ^ 『江濃記』

外部リンク[編集]