東京都の歴史

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東京都の歴史(とうきょうとのれきし)では、現在の東京都の区域における歴史について記述する。

概説[編集]

先史時代[編集]

多摩丘陵にある丸池遺跡、羽根沢台遺跡、出山遺跡、天文台構内遺跡(いずれも三鷹市)では、三万年から二万年前の黒曜石石器が検出されている。黒曜石産地は伊豆箱根長野県中央高地産である。また、伊豆諸島神津島は旧石器時代の重要な黒曜石の産地となっており、南関東で広く流通していた。

古墳時代[編集]

日本書紀には534年安閑天皇元年)に武蔵国で乱が起きたが、大和朝廷の助けにより笠原直使主が戦いに勝利し大和朝廷から武蔵国造であることを認知された(武蔵国造の乱)とあり、その際、笠原直使主は屯倉(大和朝廷の直轄領)を献上している。この事は、まだ大和朝廷の権力は関東までそれ程及んでいなかった事が伺える。

律令制の時代[編集]

武蔵国総社とされた大國魂神社

現代の東京都の領域は、令制国武蔵国の一角である。郡においては、東京都区部は豊島郡(中心部)、荏原郡足立郡の一部、下総国葛飾郡の一部に相当する。多摩地域は多麻郡となっていた。近世初期に、葛飾郡のうち、隅田川から利根川(現代の江戸川下流)の間が、下総国から分離されて武蔵国に編入された。武蔵国は、現在の東京都全域だけでなく、埼玉県全域と神奈川県東北部を含む広い版図であるが、国府国分寺はそれぞれ現在の府中市国分寺市にあった。当初の武蔵国は、五畿七道では東山道に属していたが、771年東海道所属に変更された。

延喜式神名帳』には多磨郡小野神社一宮論社)、足立郡に氷川神社(名神大社、一宮論社)、阿伎留神社、青渭神社等が見えるが、後世武蔵国総社とされた大國魂神社や、東京の神社として著名な神田明神日枝神社の名は見えない。

この時代、新羅高句麗からの亡命者が日本に居住していたが、朝廷が渡来人に武蔵国の一部への移住を命じ、移住することになった(現在の埼玉県地域にあった新羅郡高麗郡は、それに由来する地名である)。

中世[編集]

平安時代後期には中世には武蔵七党と総称される在地武士団が興り、関東に進出した畿内河内源氏の家人となった。後白河天皇皇子以仁王の令旨を受け伊豆国の源頼朝が挙兵した治承・寿永の乱においては豊島氏足立氏葛西氏らが活躍している。

12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。これ以後、当地は江戸と呼ばれるようになる。鎌倉時代には多摩地方に北関東から鎌倉へ至る鎌倉街道が整備され、鎌倉後期には上野国の新田義貞鎌倉幕府軍を破った分倍河原の戦いが起っている。

戦国時代には扇谷上杉氏の家宰であった太田氏が台頭し、江戸城を築いた太田道灌が武蔵国の掌握に力を注いだが暗殺され、相模国小田原城を拠点とする新興勢力である後北条氏が進出し、武蔵は後北条氏の領国となる。

後北条氏当主北条氏政の弟である北条氏照八王子城を築き、西方の甲斐国武田氏に備えた。後北条氏は豊臣秀吉小田原征伐によって1590年に滅んだ。

近世[編集]

後北条氏の滅亡後、豊臣政権下においては東海地方と武田遺領である甲信地方の5ヶ国を支配していた徳川家康は関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。

関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となる。幕府を開いた家康は進んで鷹狩りをやり、白金御殿などの御殿も造られた。江戸は人口の急増とともに拡大していき、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市へと発展を遂げていた。5代将軍徳川綱吉の時代には現在の23区内唯一の喜多見藩があったが、数年で消滅した。18世紀後半から19世紀初頭には、化政文化をはじめとする江戸独自の文化が発達し、上方に代わる文化の発信地となっていった。

多摩地方は甲州街道沿いを除いて大半が未開拓地域の乏水地帯であったが、近世には玉川上水野火止用水など用水路の開削が行われ新田開発が進展する。享保年間には将軍吉宗享保の改革において江戸町奉行大岡忠相が地方御用を兼任し武蔵野新田開発が行われ、江戸中後期には多摩地方に諸村落が成立する。

明治維新から第二次世界大戦まで[編集]

1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の徳川慶喜による大政奉還1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)の王政復古クーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日旧暦7月17日)に江戸が東亰(後に東京)と改称されると、江戸府も東京府と改称された。1869年明治天皇皇居(東京城、旧江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった(東京を首都とする法的根拠はないとする意見もある。東京奠都を参照)。

1868年(明治元年旧暦5月19日)、北町、南町両奉行所を廃し、町奉行管轄地を管掌する市政裁判所(市政民政社寺三裁判所)を旧南町奉行所に設ける。同年(旧暦7月17日)、市政裁判所を東京府と改名し、同年(旧暦8月17日)、東京府幸橋御門内(現在の東京都千代田区内幸町1丁目)の旧郡山藩屋敷に東京府庁を開庁する。東京には全国から新政府に仕える人々が集まり、多くは皇居周辺(後世の山手線内側)に住んだ。これが山の手族の起源である。また、築地には外国人居留地が設けられ、銀座には西洋風の煉瓦街が作られて、文明開化が進んだ。

廃藩置県後の1871年12月25日(明治4年11月14日)、東京府のほか現在の関東地方に存在していた各県が廃止され、武蔵国荏原郡豊島郡、および足立郡葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった。このとき旧来の東京府の区域については6大区の下に97小区を置く「大区小区制」が敷かれ、一方廃止された品川県浦和県小菅県、および世田谷に飛地を有していた長浜県からの行政の移管は半年ほどかけて順次行い、旧県時代の区割りのままとした。この際に神奈川県の管轄となった多摩郡のうち、現在の中野区、杉並区の区域が翌1872年(明治5年)東京府に移管され、管轄区域は現在の東京都区部(23区)のうち世田谷区西部(後の砧村及び千歳村)を除いた区域となった。その後1873年(明治6年)3月18日に大区小区の区割りが全域一貫したものとなり、総計11大区103小区となった。

1878年(明治11年)郡区町村編制法に基づき、東京府管下の中心部市街地に麹町区以下の15区が、同年11月2日に編成された。市街地に隣接する区域は荏原郡東多摩郡南豊島郡北豊島郡南足立郡南葛飾郡の6郡に編成される。(このうち、東多摩郡と南豊島郡は1896年(明治29年)4月に合併されて豊多摩郡となった。)また、同年1月11日より、伊豆諸島が東京府の管轄となった[1]1889年(明治22年)5月1日市制特例による特別市制により東京市が発足し、1899年(明治32年)10月1日には、市制特例を廃止し、東京市は一般市制による一般市となった。1893年(明治26年)4月1日、神奈川県に属していた三多摩を東京府に編入した。

大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年(大正13年)9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。近衛文麿政権以後の政権は、戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。

三多摩にも市ができた。1917年(大正6年)、東京府南多摩郡八王子町は市制を施行し、東京府八王子市となった。原内閣郡制廃止後の1940年昭和15年)、東京府北多摩郡立川町が市となり、東京府立川市となった。この時点で、東京府には、東京府東京市と八王子市と立川市の3市があった。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。初代東京都長官は、内務省出身の大達茂雄であった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲によって下町を中心に甚大な被害を受け、都庁舎も失った。その後の空襲による被害もあわせて、市街地の多くが焼け野原と化した。また、小笠原諸島硫黄島では地上戦が行われ、日米両軍が多大な犠牲を払った戦いとなった[2]。第二次世界大戦の終結により、旧日本軍の基地や施設は、連合国軍に順次接収された。208ヶ所あった都内の米軍基地は、多年にわたる取組みの歴史を経て、現在は8ヶ所になっている。

第二次世界大戦後[編集]

新宿の高層ビル群

戦後の政府は首都たる東京の復興を最優先した。1964年東京オリンピックによって戦後復興は終結し、東京は高度経済成長の中で新しい日本の政治・経済の中心として大発展を遂げる。高度経済成長期から、経済面で烈しい東京一極集中が進み、現在もこの傾向は加速する一方である。

1967年東京都知事選挙では革新政党の支持を受けた美濃部亮吉が当選し、以後3期12年間のいわゆる「革新都政」時代となった。美濃部知事時代には福祉・環境政策において一定の成果がみられたが、人件費膨張などから都財政が悪化し、1979年に美濃部の引退後の都知事選挙で当選して就任した鈴木俊一の下で財政再建が進められた。

1968年に米国から返還された小笠原諸島(小笠原群島および火山列島)が東京都へ編入され、小笠原支庁および小笠原村が再設置された。

1980年代後半、東京都はバブル経済の涛に飲まれ、異常な地価高騰に見舞われた。1987年から3期目に入っていた鈴木都政におけるいわゆる「箱物行政」の推進も影響を与えたという見方もある。1991年には、新宿都庁新庁舎が完成し、東京の新たな象徴となった。その後はバブル崩壊が進み、1996年に予定された世界都市博覧会は、1995年に就任した青島幸男知事によって中止された。

1999年石原慎太郎が都知事に就任して以降は、品川丸の内汐留および臨海副都心などの再開発が目覚しく、石原知事の東京至上構想や、I LOVE NEW TOKYO計画の立ち上げなど、新たな発展の動きが見られる。


年表[編集]

古代[編集]

武蔵国の位置

中世[編集]

江戸時代[編集]

明治から第二次大戦まで[編集]

1923年(大正12年)9月1日
関東大震災発生
1936年(昭和11年)11月7日竣工
国会議事堂完成
1945年(昭和20年)5月26日
東京大空襲
  • 1869年(明治2年)朱引内外地画定(3月25日。旧暦2月13日) / 名主制廃止(4月21日。旧暦3月10日) / 中、添年寄任命(4月22日。旧暦3月11日) / 市内50区制制定(5月2日。旧暦3月21日)/ 郡政方支配所村町を5区に分ける。大、中年寄設置(6月17日。旧暦5月8日) / 町年寄設置(7月30日。旧6月22日) / 武家地を府の管理下に置く。触頭設置(12月4日。旧暦11月2日) / 軍務官所轄市中取締兵隊をもって府兵を編成。府下を6大区に分けて取り締まる(12月17日。旧暦11月15日) / 明治天皇再び東京に行幸、東京城を皇城と改称 / 築地外国人居留地設置
  • 1870年(明治3年)武蔵国葛飾郡中2村を編入。町年寄罷免(5月27日。旧暦4月27日) / 常陸国鹿島郡居切村掘割場を編入(7月2日。旧暦6月4日) / 根室国花咲郡根室郡野付郡を編入(7月10日。旧暦6月12日) / 町年寄改置(10月29日。旧暦10月5日) / 根室国花咲郡、根室郡、野付郡を根室国へ移管(12月1日。旧暦閏10月9日)
  • 1871年(明治4年)朱引内44区、朱引外25区とする(7月30日。旧暦6月13日) / 廃藩置県(8月29日。旧暦7月14日) / 朱引外区称改正、朱引内44区に続けて45区より69区とす(10月3日。旧暦8月19日) / 品川県荏原郡豊島郡多摩郡の一部を編入(12月16日。旧暦11月5日) / 旧東京府廃止、新東京府設置(12月24日。旧暦11月13日) / 浦和県豊島郡中29村を編入(12月28日。旧暦11月17日)
  • 1872年(明治5年)触頭廃止(1月1日。旧暦明治4年11月21日)/ 多摩郡中32村を神奈川県へ移管(1月3日。旧暦明治4年11月23日) / 府下6小学校を文部省へ移管。(1月5日。旧暦明治4年11月25日) / 市内外を一括、6大区とする。戸長副戸長任命(1月8日。旧暦明治4年11月28日) / 利根川寄州開墾地を新治県(2月1日。旧暦明治4年12月23日) / 府下市街地に地券を発行、課税を布告。武家地廃止(2月5日。旧暦明治4年12月27日) / 彦根県所轄荏原郡中10村を編入(3月3日。旧暦1月24日) / 築地銀座大火(4月3日。旧暦2月26日) / 煉瓦街建設開始(4月20日。旧暦3月13日) / 旧戸長副戸長廃止、戸長新設(5月13日。旧暦4月7日) / 大小区事務扱所を大小区扱所へ改称(5月15日。旧暦4月9日) / 邏卒総長区長権区長設置(5月19日。旧暦5月13日) / 町会所廃止(6月4日。旧暦5月29日) / 営繕会議所設置(9月12日。旧暦8月10日) / 神奈川県多摩郡中32村を編入(9月21日。旧暦8月19日) / 邏卒を司法省に移管(9月25日。旧暦8月23日) / 営繕会議所附養育院設立(11月15日。旧暦10月15日) / 営繕会議所を会議所に改める(11月28日。旧暦10月28日) / 違式註違条例布達(12月8日。旧暦11月8日)
  • 1873年(明治6年)養育院を上野に設置(2月5日) / 朱引内外各区画変更(3月17日) / 浅草寺寛永寺増上寺富岡八幡飛鳥山の5公園を決定(3月25日) / 町用掛改定(4月17日) / 皇居火災により赤坂離宮を仮皇居とする(5月5日)
  • 1874年(明治7年)警視庁設置(1月15日) / 朱引内小区改定(1月25日) / 府下大小区画改定、11大区103小区とする(3月8日) / 銀座ガス灯点火(12月11日) /

東京府豊島郡岩淵町埼玉県北足立郡川口町間の従前の境界を廃し荒川の中央を持って境界とする。(12月22日)

昭和後期(第二次大戦後)[編集]

1958年、東京タワー完成
1964年、東海道新幹線開通
1964年、東京オリンピック開催

平成期[編集]

2012年、東京スカイツリー完成

行政区画の変遷[編集]

  • 1868年(慶応4年)江戸城下を管轄する江戸府を設置。江戸東亰、次いで東京と改称されると、江戸府も東京府と改称される。
  • 1871年(明治4年)廃藩置県後、翌年にかけて東京府がほぼ現23区の範囲に拡大。
  • 1878年(明治11年)伊豆諸島が静岡県から東京府に移管される[1]
  • 1878年(明治11年)郡区町村編制法施行。府内には15の区と南豊島郡北豊島郡荏原郡南足立郡南葛飾郡東多摩郡が発足。
  • 1880年(明治13年)小笠原諸島を東京府の管轄とし、小笠原出張所(のち支庁)を設置[3]
  • 1889年(明治22年)市制町村制施行。15区の区域に新たに東京市を設置。
  • 1891年(明治22年)埼玉県新座郡榑橋村新倉村字長久保を北豊島郡に編入。
  • 1891年(明治24年)硫黄島を含む火山列島を東京府に編入[2]
  • 1893年(明治26年)千歳村・砧村(現在の世田谷区の一部)を含む多摩地域(三多摩)が神奈川県から東京府に編入。
  • 1896年(明治29年)南豊島郡・東多摩郡が合併し豊多摩郡に。
  • 1898年(明治31年)東京市の「市制特例」が廃止され、一般市制に移行。東京市役所が開設される。
  • 1898年(明治31年)南鳥島を東京府に編入[5]
  • 1907年(明治40年)埼玉県北足立郡保谷村を北多摩郡に編入。
  • 1920年(大正9年)豊多摩郡内藤新宿町を東京市四谷区に編入。
  • 1931年(昭和6年)「内務省告示第百六十三号」により沖ノ鳥島を日本に編入[6]。(7月6日)
  • 1932年(昭和7年)5郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡および南葛飾郡)82町村を東京市に編入。東京市は35区に。
  • 1936年(昭和11年)北多摩郡砧村・千歳村を東京市世田谷区に編入。
  • 1943年(昭和18年)東京都制施行。東京市と東京府を廃止し、東京都を設置。
  • 1946年(昭和21年)SCAPIN-677により、伊豆諸島および小笠原諸島に対する日本の施政権が停止される[4](1月29日) / 伊豆諸島に対する日本の施政権停止が解除される(3月22日)
  • 1947年(昭和22年)地方自治法施行。区は23区となり、特別地方公共団体である「特別区」に。
  • 1952年(昭和27年)サンフランシスコ講和条約発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれる。
  • 1968年(昭和43年)米国との小笠原返還協定により、小笠原諸島がアメリカから返還される[3]

脚註[編集]

関連項目[編集]

参考[編集]

東京の歴史を見ることができる資料