杉内俊哉
福岡ソフトバンクホークス #47 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 |
福岡県大野城市 (春日市生まれ) |
生年月日 | 1980年10月30日(43歳) |
身長 体重 |
175 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2001年 ドラフト3巡目 |
初出場 | 2002年4月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2000年、2008年 |
WBC | 2006年、2009年 |
この表について
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杉内 俊哉(すぎうち としや、1980年10月30日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。
プレイスタイル・特筆
セットポジションからゆったりしたモーションで投球する、非常にバランスのとれたフォームが特徴。その綺麗なフォームから、投手の手本として取り上げられることも多い。武器は抜群の制球力により低めコーナーに決まるカーブや、スラーブ、スライダー、サークルチェンジ、無回転のチェンジアップ、高めのストレート(最速は148km/h)。
成績の良いシーズンと悪いシーズンの差が非常に顕著である。また成績の良いシーズンが続いたことが少ないため、「隔年投手」と呼ばれることがある。[1]本人もそれを気にしていたが、2008年に10勝をあげて自身初の2年連続二桁勝利を達成、最多奪三振のタイトルも獲得し、「隔年投手」の称号を返上した。
松坂世代の1人。松坂大輔(レッドソックス)、和田毅、新垣渚(ともにソフトバンク)とはライバル。また斉藤和巳、和田毅、新垣渚とともにホークス投手の四本柱と呼ばれる。 斉藤が故障でシーズンを棒に振った2008年には「ホークスのエース」と言われた。
来歴
福岡県春日市生まれ、大野城市育ち。大野城市立大野小学校、大野城市立大野中学校、鹿児島実業高等学校卒業。小学4年生の時に大野城少年野球に所属し野球を始めた。当時は外野手で、5年生で一塁手。6年生の時に投手に転向し、エースとして全国大会に出場した(ベスト16)。中学時代は市の少年硬式野球チーム(大野城ガッツ)のエースで、チームを全国準優勝に導いた。鹿児島実業高等学校時代には3度甲子園に出場。高めに伸びる直球と落差の大きいカーブを武器に活躍した。
1998年(高校3年次)の夏の鹿児島予選決勝では、共に当時から注目を集めていた川内高校の木佐貫洋と投げ合い、3-1で勝利し甲子園出場。第80回全国高等学校野球選手権大会の1回戦で八戸工大一(青森)相手にノーヒットノーランを達成。同2回戦で松坂大輔、小山良男、小池正晃らを擁する横浜(東神奈川)と対戦するもカーブをことごとく見極められ、松坂に本塁打を喫するなど8回6失点で敗れた。
高校卒業時点でのプロの評価は良くて4位と高校の監督を通じて知らされたことから社会人野球へ進路を決めた。当初はJR九州への入社が内定していたというが、三菱重工長崎に就職。肩痛に苦しみながらもトレーニングに励み、130km/h台だった球速がMAX149km/hとなる。
2000年には後藤隆之とのダブルエースで都市対抗野球大会出場に貢献。準々決勝の三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)戦でベテラン斉藤秋博に同点3ラン、続く渡部英紀(三菱重工横浜より補強)に勝ち越しソロを浴び降板した。直後にシドニーオリンピック野球日本代表として招集され、オリンピックに出場。(4位)
2001年の日本選手権準決勝日産自動車戦で8回1失点の好投で勝利に貢献。その後チームも初優勝を達成した。同年秋ドラフト会議3巡目指名で福岡ダイエーホークスに入団した。憧れていた工藤公康と同じ背番号47番を与えられる。
プロ入り後
1年目の2002年は2勝に終わるが、制球難の克服のためフォームをノーワインドアップからセットポジションに変更したことが功を奏し、2003年に入団した同学年の和田毅、新垣渚に負けじと先発ローテーションに定着し2桁勝利を達成する。日本シリーズでも阪神相手に2勝を挙げ日本一に貢献し、シリーズMVPを獲得した。シーズンオフにはTV番組とべとべホークスのレポーターを担当していた上葉えりかと入籍。
2004年6月1日、ロッテ戦に2回7失点で降板後、自らの不甲斐なさに両手でベンチを殴打し骨折。プロの投手としての自覚を欠くこの行為に対して球団から罰金100万円を科せられた。
2005年には前年の屈辱をばねに奮闘。4月、5月と2ヶ月連続の月間MVPを獲得。自己最速で10勝目を挙げ、チームでは杉浦忠以来4人目となるシーズン200奪三振(218)も達成した。18勝4敗・防御率2.11で初の最多勝・最優秀防御率・沢村賞(パ・リーグの左腕投手の受賞は史上初)のタイトルを獲得。MVPに選ばれた。またこの年は死球・暴投・ボーク・失策がいずれも0と、安定したピッチングを見せた。
2006年WBC日本代表に選ばれ、2試合に登板し0勝1敗防御率5.40。2次リーグ韓国戦で決勝トーナメントへの自力進出が消滅した試合の敗戦投手となった。レギュラーシーズンでは中盤以降失速し、規定投球回数に届かず7勝に終わった。プレーオフでも第2ステージ第1戦で先発したものの、3回2失点で降板し敗戦投手になっている。
2007年には二年振りの二桁勝利となる15勝を記録するなど、先発陣の軸として活躍。 2008年も二年連続となる二桁勝利を達成し、隔年投手の名を返上した。北京オリンピック野球日本代表に選出されシーズン中の登板回数が不利な中、三年振りの200奪三振を達成している。
10月1日、京セラDでの清原和博の引退試合に先発登板し、8回完投も自責点4で敗戦投手。清原の打席では全球ストレートで勝負し、4打数1安打1打点2三振。最終打席で三振したボールに清原が『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』というメッセージを添えて杉内に贈った。
王ホークス最終戦となった10月7日の楽天戦では田中将大と投げ合い、互いに9回無失点の投手戦となった。杉内は11奪三振を奪い、ダルビッシュ有を抜いて最多奪三振のタイトルを決めたが、試合は12回裏に守護神馬原孝浩が打たれサヨナラ負け。試合終了後には「(王監督最後の試合で)なんとしても勝ちたかった」と心中を吐露した。
2009年には、グラブの位置を上げ、左手が隠れるようにした新フォームに変更。これは今までのフォームでは「打者に"握りが分かる"と言われたことがある」ためである。[2]
2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、5試合でリリーフとして登板し、2次リーグ・敗者復活戦の対キューバ戦では好投した岩隈久志に代わり、3回をパーフェクトリリーフ、決勝戦の対韓国戦はワンポイントとしてキッチリ抑える。主にリリーフとして登板、6回1/3を無安打無失点と完全に抑え、日本の優勝に貢献した。
人物像
- 投球は左投げだが、筆記・食事では右手を使う。
- 現在チームメイトである本多雄一は、大野城ガッツ、鹿児島実の後輩でもある。
- 1998年、全国高等学校野球選手権大会の1回戦で八戸工大一を相手にノーヒットノーランを達成しているが、この日は母親の誕生日で、試合前に「20奪三振と完全試合をやる」と宣言したという。宣言通りとは行かなかったが、16奪三振を記録。与えた四球は1つだった。
- 2004年のベンチ殴打事件の際、日刊スポーツのインターネット版の速報では、当時同僚でキャッチャーの城島健司(現シアトル・マリナーズ)が「利き手はやめろブルガリア!ブルガリア 」と声をかけた、と報道されたことがあった[3]。ブルガリアという記述は数時間後に削除されたが、キャンプの時に体調管理のために毎晩ヨーグルトを食べており、 近しい人にはブルガリアと呼ばれていたという話が、2004年のホークスキャンプレポートに掲載されている。
- 家族(結婚前は母、姉、祖父母)を非常に大切にし、前述の甲子園のエピソードに表されるように特に母親を大事にしていたことから、同僚の斉藤和巳からは「マザコン」と冷やかされもした。ダイエーとの契約金で母と祖父母のためにマンションをそれぞれ購入し、自分は残った契約金の中から子犬を買った。社会人時代も給料はほとんどを実家へ仕送りしていたという。社会人野球を経験したことから自分で稼ぐことの大変さを学んだと述べている。2004年のベンチ殴打事件に関して杉内の祖父は「俊哉は背負っているもの(家族のこと)が大き過ぎるから」と擁護した。
- メジャーリーグ志向の強い選手が多い中、杉内は否定的な立場を取っている。本人の弁では「英語がわからないから」。
- 筋力トレーニングに「加圧トレーニング」という方法を利用している。以前はプロでやっていくには体が小さすぎると言われていた。そのため早急に筋肉量を増やす必要があったからだという。
- 5月に強く、『ミスター・メイ』の異名をとる。2005年には5勝、2007年も5勝、2008年は4勝でいずれも無敗で月間MVPを獲得している。また、2007年から連勝中。
出囃子(テーマソング)
- 『every little thing every precious thing』LINDBERG - 2006年
- 『Torero』Chayanne - 2007年
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2002 | ダイエー ソフトバンク |
11 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 204 | 44.0 | 48 | 5 | 23 | 3 | 4 | 46 | 1 | 0 | 29 | 29 | 5.93 | 1.61 |
2003 | 27 | 24 | 3 | 2 | 0 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 675 | 162.2 | 148 | 13 | 55 | 1 | 3 | 169 | 4 | 0 | 64 | 61 | 3.38 | 1.25 | |
2004 | 10 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 216 | 45.2 | 56 | 8 | 27 | 1 | 2 | 51 | 2 | 0 | 36 | 35 | 6.90 | 1.82 | |
2005 | 26 | 26 | 8 | 2 | 2 | 18 | 4 | 0 | 0 | .818 | 765 | 196.2 | 150 | 14 | 43 | 1 | 0 | 218 | 0 | 0 | 51 | 46 | 2.11 | 0.98 | |
2006 | 22 | 21 | 0 | 0 | 0 | 7 | 5 | 0 | 0 | .583 | 558 | 132.2 | 130 | 15 | 44 | 2 | 5 | 114 | 2 | 0 | 57 | 52 | 3.53 | 1.31 | |
2007 | 28 | 28 | 5 | 3 | 3 | 15 | 6 | 0 | 0 | .714 | 793 | 197.2 | 166 | 12 | 46 | 1 | 5 | 187 | 1 | 0 | 58 | 54 | 2.46 | 1.07 | |
2008 | 25 | 25 | 8 | 1 | 3 | 10 | 8 | 0 | 0 | .556 | 776 | 196.0 | 162 | 15 | 36 | 1 | 2 | 213 | 3 | 0 | 63 | 58 | 2.66 | 1.01 | |
通算:7年 | 149 | 142 | 24 | 8 | 8 | 64 | 36 | 0 | 0 | .640 | 3987 | 975.1 | 860 | 82 | 274 | 10 | 21 | 998 | 13 | 0 | 358 | 335 | 3.09 | 1.16 |
- 2008年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
タイトル・表彰・記録・その他
タイトル
- 日本シリーズMVP:1回(2003年)
- 最優秀選手:1回(2005年)
- 最多勝:1回(2005年)
- 最優秀防御率:1回(2005年)
- 最多奪三振:1回(2008年)
- 沢村賞:1回(2005年)
- ベストナイン:1回(2005年)
表彰
- 月間MVP:5回(2003年8月、2005年4月、2005年5月、2007年5月、2008年5月)
- オールスターゲーム出場:2005年、2007年、2008年
- 最多奪三振賞(JA全農GO・GO賞 2008年5月度)
- 月間MIP賞(2008年5月)
記録
その他
- 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表(2006年)
- 北京オリンピック野球日本代表(2008年)
- 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表(2009年)
個人記録
- 初登板・初勝利:2002年4月1日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(福岡ドーム)
- 初奪三振:同上、1回表にサブローから
- 初完封:2003年3月30日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(福岡ドーム)
- 初安打:2005年5月31日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)
背番号
- 47(2002年 - )
関連項目
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