多良間村
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たらまそん ![]() 多良間村 | |||||
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国 |
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地方 | 九州地方、沖縄地方 | ||||
都道府県 | 沖縄県 | ||||
郡 | 宮古郡 | ||||
市町村コード | 47375-8 | ||||
法人番号 | 4000020473758 | ||||
面積 |
22.00km2 | ||||
総人口 |
1,065人 [編集] (推計人口、2023年2月1日) | ||||
人口密度 | 48.4人/km2 | ||||
隣接自治体 | なし | ||||
村の木 | フクギ | ||||
村の花 | タラマバナ(ベニバナ) | ||||
村の鳥 村の魚 |
ウズラ ミーバイ(ハタ) | ||||
多良間村役場 | |||||
村長 | 伊良皆光夫 | ||||
所在地 |
〒906-0602 沖縄県宮古郡多良間村字仲筋99-2 北緯24度40分10秒 東経124度42分06秒 / 北緯24.66933度 東経124.70158度座標: 北緯24度40分10秒 東経124度42分06秒 / 北緯24.66933度 東経124.70158度 ![]() | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
多良間村(たらまそん)は、沖縄県宮古郡の村である。宮古島と石垣島の中間に位置する多良間島及び水納島の2島を行政区画とする。
地理[編集]
主島の多良間島は、宮古島の西方約67km、石垣島の北東約35kmに位置する、平坦で楕円形をした島である。面積約20km2、最高点は島の北側にある八重山遠見台で32.8m。水納島は、多良間島の北方12kmに浮かぶ東西約2.5km、南北約1km、面積約2.5km2の島。
2005年(平成17年)10月1日に、城辺町・下地町・伊良部町・上野村が平良市と合併して宮古島市となり、宮古郡から離脱したため、宮古郡は多良間村1村のみとなった。
字[編集]
- 塩川(しおかわ)
- 仲筋(なかすじ)
- 水納(みんな)
人口[編集]
高齢化率30.3%と高く、若年層の流出が激しい[1]。
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多良間村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 多良間村の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 多良間村
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
多良間村(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
歴史[編集]
- 15世紀末 - 土原豊見親春源(宇曽利(おぞろ))[2]が多良間島を統一。
- 1500年(尚真王24年) - 首里王府の応援を受けた宮古島の仲宗根豊見親が、八重山のオヤケアカハチを討伐。土原豊見親春源は王府・仲宗根の軍に加わり[3]、その功により多良間島主に任じられる[4]。
- その後、土原豊見親春源の子孫による統治が17世紀初めまで続く[4]。
- 1637年(尚豊王17年) - 八重山地方で人頭税制度始まる[5]。
- 1628年(寛永5年) - 宮古に平良、下地、砂川の三間切が置かれる。多良間島はどの間切にも属さない特別行政区とされた[4]。
- 1637年(寛永14年) - 先島地方に人頭税導入[4]。
- 1771年(明和8年) - 明和の大津波。多良間島は3,324人の住民のうち362人の死者を出した。
- 1855年(安政2年) - アコーメー事件が起きる。役人の横暴を王府に訴えたもの[4]。
- 1859年(安政6年) - 岩手県宮古市の難破船が流れ着き、これを保護した[4]。
- 1879年(明治12年) - 琉球藩を廃止し沖縄県を置く。宮古島庁が設置され、宮古島庁の下に仲筋村、塩川村、水納村が置かれる。
- 1903年(明治36年) - 人頭税廃止[5]。
- 1908年(明治41年) - 宮古には平良、下地、城辺、伊良部の4村が置かれ、多良間は平良村の一部となる。
- 1913年(大正2年) - 平良村から分村し、多良間村となる[4]。
- 1931年(昭和6年)8月 - 台風のため校舎2棟が全半壊。
- 1932年(昭和7年) - 多良間郵便局が営業を開始する[4]。
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年) - 宮多製糖が糖業振興法に基づき製糖業の許可を受けて増設を行い、公称能力が120t/日になる[6]。
- 1967年(昭和42年) - 南西航空の運航が始まる。
- 1971年(昭和46年)9月 - 合併により、宮多製糖株式会社が宮古製糖株式会社多良間工場となる[6]。
- 1972年(昭和47年) - 沖縄航空の6人乗りエアタクシーの運航が始まる[4]。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年) - 多良間空港開港式挙行[4]。南西航空の19人乗りが運航を開始する。
- 1976年(昭和51年) - 宮古製糖多良間工場が新築移転し、公称能力が250t/日になる[6]。
- 2003年(平成15年)10月 - 新多良間空港供用開始[4]。
- 2004年(平成16年) - 前泊港旅客待合所(シードリームたらま)供用開始[4]。
- 2010年(平成22年)
- 3月 - 村議会で県内初となる「ヤシガニ(マクガン)保護条例」を可決[8]。
- 9月27日 - 日本で最も美しい村連合の総会で多良間村の加盟が承認される。
行政[編集]
多良間村では1994年を最後に職員採用試験が実施されていない。採用試験を実施していないのは沖縄県の30町村で唯一であり(2017年時点)、縁故採用が横行しているとの指摘がある[10]。
姉妹市村[編集]
1859年(安政6年)に多良間島に漂着した岩手県宮古の商船の乗組員が、島民から手厚い看護を受けて全員無事に帰還したという史実が1974年(昭和49年)に発見されたことから交流が始まり、1996年(平成8年)2月6日に姉妹市村締結の調印が行われた[11]。
経済[編集]
中心的産業はサトウキビ、子牛繁殖などの農業。また、数は多くないが観光客が訪れ、観光産業として、宿泊施設の他、ダイビングの会社がある。
- JAおきなわ - 営農に関する諸活動、金融、購買を行っている。
- 宮古製糖多良間工場 - 村内産サトウキビからの製糖作業を行っている。沖縄県内でも数少ない含蜜糖(黒糖)製糖である[12]。
- 日本郵政グループ
- 沖縄電力
教育[編集]
- 中学校 - 多良間村立多良間中学校
- 小学校 - 多良間村立多良間小学校
- 幼稚園 - 多良間村立多良間幼稚園
- 児童福祉施設(保育所) - 多良間村立多良間保育園
文化[編集]
祭事[編集]
- スツウプナカ[14][15][16]
- スツウプナカは「節祭」を意味し、5月20日ころの「壬辰(みずのえたつ)」と「癸巳(みずのとみ)」の2日間にわたって行われる。豊年の感謝と豊穣を祈願する伝統祭祀である。祭場(シュニ)では、魚料理や神酒を供えて豊年を祈願する。
- 村には8つの字(あざ)があり、2字ずつが1つの祭祀集団を作り、4つの祭場で祭りを実施する。祭場は、仲筋字にナガシガー(土原区、宮良区)とフダヤー(天川区、津川区)、塩川字にパイドニ(大木区、吉川区)とアレーキ(嶺間区、大道区)がある。祭場ごとに、ウイピトゥ(老人)座(祭事の中心をになう係)、カンジン(幹人)座(幹事を担当)、プシャ座(神酒を作る係)、イム(海)座(供え物の魚を準備する係)、クバン(供番)座(料理を作る係)といった組織を持ち、村人はそのいずれかの「職」につく。ニィリ(祭歌)もいくつかあ。
- イム座の男性たちは干潮時を見計らって、追い込み漁でイラブチャー、タマン、カワハギなどの魚を水揚げする。また、クバン座は、神様への供物・客(各ウタキの司、二才頭、村の要人)の弁当などを用意する。ブシャ座は、スツウプナカの数日前にミシュ(神酒)を仕込む。
- 祭の壬辰(みずのえたつ)の日が神ガウェ(神への祈願とおもてなし)、その翌日が人ガウェ(お客のもてなし)、その次の日がキダリ(神を送る)となる。
- 「アカツキヌニガイ(暁の願い)」は、1日目の夜から行われる。村内4つの祭場で、男衆が芋や米を発酵させたミス(神酒)を角皿(ツヌザラ)に入れてまわし飲みし、竜宮の神への感謝と祈願を行う。
- 2日目は、ナガシガーから始まる。昼から供物とミシュ(神酒)を捧げて祈りが始まり、その供物が客に振る舞われたあと、ミシュを飲んでヤッカヤッカが始まる。一番ブシャ2人のうち1人は、ミシュを入れたバタスを、もう1人は盆に載せたツヌジャラ(お椀の左右に取っ手がついたもの)を持って来て祈ったあと、司から順に囃していく。
- 囃子は「ウヤキツヌジャラヲ ピャーシバドゥユヤナウリ(見事な角皿を持って囃せば豊作になる」ということばで始まる。次に2番ブシャがユナウスジャラ(大きめのお椀)で同じように囃してまわる。全体が終わって弁当をいただいた客は、司を先頭に次のフダヤーへと歩いて行く。各祭場で同じように繰り返し、フダヤー、パイジュニ、アレーキへと4祭場をめぐる。
- 八月踊り[17][18]
- 八月踊り豊年祭は、旧暦8月8日から3日間にわたって催される。かつては、「八月お願」「皆納祭」と呼ばれていた。この行事は、1637年に先島諸島で実施された人頭税によって苦しみを味わった人々が、神に人頭税をすべて納め終えたことを報告するとともに翌年の豊年を祈願することを年中行事としたことから始まったものと言われる。
- 字塩川にあたる集落と、字仲筋にあたる集落にわかれて、2か所の踊り場で行われる。両字とも、それぞれの初日には、芸能を上演する前に、御獄(うたき)にその年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願する。仲筋は多良間神社・運城(うんぐすく)御獄・泊(とまり)御獄に、塩川は嶺間(みねま)御獄・塩川御獄・普天間(ふてんま)御獄に参拝する。
- 祭の初日は仲筋の土原御願所(ンタバルウガンジュ)で、2日目は塩川のピトマタ御願所で芸能上演がある。3日目は「ワカレ」と言って、両字の御願所で演じる。
御獄・神社[編集]
御獄(うたき)は沖縄固有の信仰。部落を守る祖先神(守護神)が宿る神聖な場所で、拝所(うがんじゅ)になっている。沖縄には仏教も神道もなく、その代わり精霊信仰と先祖信仰が深く信じられ、儀式・行事化されていた。
- 嶺間御獄(みねまうたき)
- 字塩川嶺間区の北方に隣接した小高い丘にあり、嶺間按司(みねまあじ)を祭る。嶺間御獄の祭神である嶺間按司は、成化年間(1470年頃)の人である。
- 按司は「キムンデバティビキ、ティンデバキムピキ」物語りの教訓を残したと伝えられる。遺漏説伝(球陽外巻)に、兼城間切糸満村のこととして、幸地村の美殿なる者と倭人(薩摩人)との問答に「心怒れば則ち手を動かす勿れ、手動けば則ち当に戒心すべし」とある。
- 按司はまた、「神なしぎ祭」といわれる「神名遊び」の伝授でも名高い。白装束で男20人、女10人が13年廻りの子、丑、寅に当たる毎に10月中に13昼夜にわたり神歌を高唱して神眞似遊びをするもので、「宮古史伝」によれば中世まで行われていた。
- 按司は嶺間丘(ツヅ)に起居し、境内の北よりにあるミネマガー(泉)を整備して住民の飲料水に供したり、神名遊びを伝授するなど人心教化に努めた功績は著大であった[19]。
- 東隣りには、嶺間公民館がある。
- 泊御獄
- 塩川御獄
- 普天間御獄
- 運城御獄(うんぐすくうたき)
- 運城御獄の神名を「オトガフセライ神ニフセライ」と唱える。300年前の創設。
- 水納御嶽
- もと集落があった地区の北方、小高い丘にある。15世紀後半に水納島を統治したミンナペーユヌスを祭る。島のすべての年中行事の中心で、島の繁栄や航海安全などを祈る拝所であった。
- 多良間神社
交通[編集]
航空[編集]
- 多良間空港
- 宮古空港
- 琉球エアーコミューター(1日2往復)
- 宮古空港
船舶[編集]
- 港湾
- 航路
陸路[編集]
- 道路
- 沖縄県道205号多良間多良間港線(一般県道)
- 国道・主要地方道はなし。かつては沖縄県道233号塩川仲筋線があったが、県道としては廃止された。
- 信号は交通教育目的を兼ねて島内に1か所のみ設置されている[23]。
- 村内の交通機関
放送[編集]
ラジオ[編集]
- RBCiラジオ(RBCi)とラジオ沖縄(ROK)の民放AM2局、NHK沖縄FM放送と、コミュニティ放送のエフエムみやこが、それぞれ中継局を島内に置いている(民放AMは混信対策のためFMでの放送、NHKFMは石垣島北東部でも放送エリア)。FM沖縄およびNHKのAM放送は多良間島内に中継局がなく、それぞれ宮古島市内の中継局からの電波を受信する。
- ラジオ中継局周波数一覧
所在地 | RBCi | ROK | NHKFM | FMみやこ |
---|---|---|---|---|
多良間 | 82.2 | 83.6 | 86.2 | 76.5 |
- 周波数単位はMHZ、出力は民放AM3W、NHKFM30W、FMみやこ10W
テレビジョン[編集]
- テレビ中継局周波数一覧
所在地 (ID) |
総合 (1) |
教育 (2) |
RBC (3) |
OTV (8) |
QAB (5) |
---|---|---|---|---|---|
多良間 | 22 | 18 | 43 | 45 | 47 |
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]
名所・旧跡[編集]
- 2007年(平成19年)4月、多良間村の宮古遠見、八重山遠見、水納遠見を含む宮古島・八重山諸島の10の遠見番所(火番盛)が、国の史跡に指定された。遠見番所は、1638年(寛永15年)に長崎港外に設置されたのが始まりとされ、異国船の侵入を監視するためのものだった。火をたいて警戒したことから、火番盛とも呼ばれた。琉球における遠見番制度は1644年が始まりで、宮古・八重山諸島はフィリピン・台湾に近接していることもあり特に重要視された。他にも航海の安全や王府への伝令などの役割を果たした。
- 八重山遠見台
- 仲筋集落の北西、標高約30mの丘の上にある。底面の周囲約22.7m、高さ約2.5mに石が積み上げられ、頂上は円形で、昇降路は螺旋階段になっている。島で最も高い場所にあり、景勝の地でもある[2]。近くには、鉄筋コンクリート製の展望台が造られている。
- 宮古遠見台
- 泊御嶽から南方150mほどの道路沿い、南に向かって右側の小高い丘にある。底面の周囲約28.0m、高さ約3.7mに石が積み上げられ、頂上は直径約2mの円形で、昇降路は螺旋階段である[2]。周囲には木が生い茂っている。
- 水納遠見
- 湧水
- 昔は、飲み水を得ることが大切な仕事だった。多良間に水道設備ができたのは昭和の初めで、それまでは、自然洞穴の内にある泉が生活のための水源地になっていた。洞穴の入口から泉まで下っていく。奥に行くにしたがって暗くなるので、足で探って水を汲んだという。
- 夢パティオたらま - 村営の宿泊施設。
- すまむぬたらま - 多良間村地域振興拠点施設。島の特産品や土産品等を販売する直売所で、地元食材を使った料理を提供する食堂もある。外壁にはラテンバンド・ディアマンテスのメンバーであるアルベルト城間らによる壁画が描かれている[25][26][27][28]
- 里子之墓 - 処刑された平敷屋朝敏の長男が水納島に流され、次男が多良間島に流された[4]。その次男の子孫一族の墓で、後に平敷屋朝敏の遺骨もここに納められたと伝えられる[29][30]。
著名な出身者[編集]
- 島袋脩 - 元プロバスケットボール選手(bjリーグ・大分ヒートデビルズ)
脚注[編集]
- ^ “観光客の来島自粛求める/多良間村の伊良皆村長”. 宮古毎日新聞. (2020年4月4日)
- ^ a b c d e f 沖縄総合事務局平良統計情報出張所『図でみる 多良間村の農業と漁業』沖縄農林水産統計情報協会、1992年
- ^ 『八重山歴史読本』南山舎、2004年、p.41
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “多良間村の歴史”. 多良間村. 2020年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月10日閲覧。
- ^ a b 『八重山歴史読本』南山舎、2004年、p.295, p.297
- ^ a b c d 会社概要 宮古製糖株式会社
- ^ 図典 日本の市町村章 p.240
- ^ 全国初のヤシガニ(マクガン)保護条例制定 多良間村
- ^ “多良間村長選 伊良皆氏が再選”. 琉球新報. (2017年6月26日). オリジナルの2017年9月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ “多良間村議会一般質問で職員採用試験実施へ”. 宮古新報. (2017年9月12日)
- ^ 他の地域との交流 > 沖縄県多良間村 宮古市
- ^ 黒糖を使った地域との交流活動の試み 沖縄県
- ^ 多良間郵便局 (沖縄県) 日本郵政
- ^ “スツウプナカ”. 多良間公式ウェブサイト (2013年5月31日). 2018年11月18日閲覧。
- ^ “スツウプナカ”. 沖縄祭祀資料データベース. 神戸女子大学古典芸能研究センター. 2018年11月18日閲覧。
- ^ “多良間島で伝統のスツウプナカ始まり豊年を願う”. 宮古新報. (2018年5月1日)
- ^ “八月踊りの概要”. 多良間公式ウェブサイト (2009年3月22日). 2018年11月18日閲覧。
- ^ “八月踊り(詳細)”. 多良間公式ウェブサイト (2009年3月22日). 2018年11月18日閲覧。
- ^ 多良間村教育委員会が1991年(平成3年)3月に設置した解説板による
- ^ 多良間港(普天間地区) (PDF) 沖縄県土木建築部港湾課
- ^ “前泊港浮き桟橋が完成/多良間”. 宮古毎日新聞. (2015年5月1日)
- ^ 多良間島/水納島 アクセス (PDF) 沖縄県企画部地域・離島課
- ^ “信号を守り渡ろう/宮古島署”. 宮古毎日新聞. (2015年4月30日)
- ^ 沖縄総合事務局陸運事務所『平成27年版業務概況 (PDF) 』、p.35、「自家用自動車有償運送登録一覧表」を参照
- ^ “島の魅力、目を引く多色で大壁画に 多良間村「すまむぬたらま」でアルベルト城間さんら制作”. 琉球新報. (2020年7月19日). オリジナルの2020年7月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ “多良間村地域振興拠点、観光協会に指定管理”. 宮古新報. (2020年8月17日)
- ^ “交流、魅力発信の拠点に/多良間村”. 宮古毎日新聞. (2020年9月26日)
- ^ “地域拠点施設に壁画制作へ/多良間”. 宮古毎日新聞. (2020年8月26日)
- ^ “平敷屋朝敏家族 多良間島で供養/「語る会」の12人”. 沖縄タイムス. (2017年10月31日). オリジナルの2021年1月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ 里子之墓の脇にある村教育委員会設立の説明板による。1983年5月村指定文化財・史跡