金村義明
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県宝塚市 |
生年月日 | 1963年8月27日(60歳) |
身長 体重 |
185 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手、一塁手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト1位 |
初出場 | 1982年9月14日 |
最終出場 | 1999年9月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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金村 義明(かねむら よしあき、1963年8月27日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は野球解説者、タレント。
元在日コリアン3世で、旧名は金 義明(キム・ウィミョン、김의명)だった。現在は帰化して日本国籍を持っている。
来歴・人物
プロ入り前
- 中学・高校時代を通じて、報徳学園に在学。高校3年生だった1981年には、4番打者兼エースとして、甲子園の全国大会へ春夏連続出場を果たした。春の選抜大会では、大府高との1回戦で、槙原寛己との投げ合いに敗れた。しかし、夏の選手権大会では、チームを優勝に導いている。また、両大会では打者として、通算打率は.577、本塁打3本を記録している。
- 高校3年夏の全国大会では、「1回戦突破」という目標を盛岡工業高校戦で達成すると、前年優勝の横浜高校と対戦した3回戦で2打席連続本塁打を放った。3回戦で荒木大輔を擁する早稲田実業高校、準々決勝で藤本修二のいた今治西高校に勝利すると、名古屋電気高校との準決勝で、工藤公康から二塁打を含む3安打を記録。さらに、投手として、初戦から決勝戦までの全6試合で完投勝利を収めた[1]。夏の全国大会の優勝投手で、4番打者を務めながら全試合を1人で完投した選手は過去に8名いるが、この大会での金村を最後に現れていない。また、この大会で記録した通算打率.545(22打数12安打2本塁打)は、夏の全国大会優勝投手としては1939年の嶋清一(.550)に次ぐ歴代2位(春の全国大会を含めると3位)に当たる(いずれも2015年大会終了時点)[2]。このように投打とも大いに活躍したことから、現役を引退してからも、高校野球関連の番組・企画にたびたび登場している[3]。ただし、完投勝利を収めるたびにマウンド上で飛び上がりながらガッツポーズを披露したため、高野連の関係者から注意を受けたという[4]。
- 1981年のドラフト会議で、近鉄バファローズと阪急ブレーブスから1位で重複指名。抽選の末に、近鉄が交渉権を獲得した。なお、阪急は再指名を経て、山沖之彦を獲得している。
- 金村自身は、ドラフト会議の時点で阪急への入団を志望していた。阪急電鉄の沿線で生まれ育ったことや、少年時代から当時の主力打者・長池徳士(1979年限りで現役を引退)の大ファンだったことによる[5]。『在日魂』(現役引退後に著した自叙伝)によれば、ドラフト会議の前には、近鉄から挨拶を受けつつ水面下で阪急への入団交渉を進めていたという。しかし、重複指名の末に近鉄が独占交渉権を獲得したことを受けて、当時阪急の打撃コーチであった長池の自宅を泣きながら訪問。長池や当時の阪急スカウト・三輪田勝利から「近鉄で頑張れ」と言われたことから、近鉄への入団を決意した。
近鉄時代
- ドラフト会議では、阪急・近鉄の両球団から投手として指名。しかし、近鉄への入団直後に内野手へ転向した。金村本人は、現役からの引退後に、「高校3年生春の全国大会で投げ合った槇原が最速147km/hのストレートを投げている姿を見て、『俺はプロに入っても投手では通用しない』と悟った。夏の全国大会で優勝できたのは、カットボールと変化球で打者の打ち気をかわすことに徹したからに過ぎない」と明かしている[6]。ただし、内野手として一軍に定着していた1989年には、投手としてオープン戦1試合に登板している。
- 入団1年目の1982年には、ウエスタン・リーグ公式戦全試合へ出場。同リーグの選抜メンバーとしてスタメンで出場したジュニアオールスターゲーム(横浜スタジアム)では、第4打席までにサイクルヒット(二塁打 → 本塁打 → 西武ライオンズに入団した工藤からの三塁打 → 単打)を記録すると共に、MVPへ選ばれた。ただし、MVPの副賞として賞金139万円を獲得したことから、シーズン終了後の契約交渉では球団から賞金分の減俸を提示。金村は、一軍の公式戦にほとんど出場できなかったこともあって、この提示を渋々受け入れた[7]。なお、一軍公式戦でも、1986年7月17日の対阪急戦(西宮球場)でサイクルヒットを達成している。
- 1985年までは一軍に定着できなかったが、佐々木恭介コーチの指導で徐々に頭角を現すと、1986年からは羽田耕一に代わって三塁のレギュラーに定着。「いてまえ打線」と呼ばれた打線の中軸として活躍するとともに、その豪快なイメージから「いてまえ大将」と称された。引退後の現在も、「かつて豪快だったパシフィック・リーグのイメージを継承した最後の選手」という評価を受けている。
- 1991年には、9月26日の対福岡ダイエーホークス戦(藤井寺球場)に三塁手として出場したが、9回表に捕手としてマスクを被った。リーグの優勝戦線にいたチームが、一軍のベンチに入っていた捕手(山下和彦、古久保健二、光山英和)を全員起用したばかりか、8回裏の光山の打席で代打を出したことによる。なお、金村が捕手として出場したのは、現役時代を通じてこの試合だけだった。ただし、捕手として1点を失ったほか、チームも6-7というスコアで福岡ダイエーに惜敗している[8]。
- 1994年には、規定打席への到達を逃すも、打率.299と好調であった。その一方で、一軍監督の鈴木啓示や一軍作戦兼バッテリーコーチの梨田昌孝は、金村とポジションの重なる中村紀洋を育てる意向を持っていた。結局、中村の台頭、鈴木監督の指導方針[9]、コーチ陣や球団首脳部への不信感などが重なって、1994年のシーズン終了後に球団史上初めてFA権の行使を宣言。星野仙一などからの誘いを受けて、かつて星野が一軍監督を務めていた中日ドラゴンズへの移籍を決めた[10]。
- 13年間にわたった在籍期間中には、一軍公式戦でシーズン2桁本塁打を6回、全試合出場を3回記録。通算成績は打率.258、本塁打127本で、近鉄~大阪近鉄時代の中村や、「いてまえ打線」で共に中軸を担ったラルフ・ブライアント、石井浩郎、タフィ・ローズを下回った。金村自身も、「成績の面では一流ではなかった」と認めている。
中日時代
- FA権の行使で他球団から移籍した球団史上初の選手として、移籍当初は三塁のレギュラーとして起用されたが、故障で戦線を離脱。さらに、同じポジションを守る外国人選手(ダネル・コールズやレオ・ゴメス)に定位置を奪われたことから、期待されたほどの成績を残せなかった。
西武時代
- 1997年シーズン中の移籍直後から、主に代打・一塁手・指名打者として一軍公式戦に起用。3割を超える打率でチームのリーグ優勝に貢献したが、若手選手の起用を優先する首脳陣の方針で、日本シリーズにはほとんど出場できなかった。翌1998年には、横浜ベイスターズとの日本シリーズで、第1戦と第6戦に出場。しかし、第6戦の打席で佐々木主浩から併殺打に抑えられたことによって、チームのシリーズ敗退が決まった[11]。
- 1999年に現役を引退。引退試合になった9月30日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では、1打席限定でスタメンに起用された(詳細後述)。なお、近鉄時代を含めて3回出場した日本シリーズでは、3回すべて敗退し、いずれも日本一を経験できなかった。
解説者としての活動
- 現役引退の当初は、野球解説者・野球評論家としての専属契約を結べなかったことから、フリーランスの立場で「野球人」と称して『週刊ベースボール』でコラムを連載。その一方で、サンケイスポーツの記者に同行しながら、自分で仕事の依頼や出演交渉に当たっていた。この時期から現在に至るまで、NPBの春季キャンプ期間中には、解説者としての取材を目的に全球団の一軍キャンプ地を必ず訪問。また、個人事務所として有限会社カネムラ企画を設立した[12]ほか、近鉄時代のチームメイト・野茂英雄が代表を務めるNOMOベースボールクラブの理事に名を連ねている[13]。
- 2000年のシドニーオリンピック期間中には、『週刊プレイボーイ』からの依頼で、正式競技として日本代表が出場していた野球を取材[14]。さらに、『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)にゲストパネラーとして出演した際のトークの面白さが注目されたことから、2000年の途中から同局の解説者になった。2001年からは、J SPORTSの野球解説者や、スポーツ報知の野球評論家を務める。なお、解説・評論活動では、「現場主義」をモットーに掲げている[15]。
- 西武時代からの自宅がある東京を活動の拠点に置きながら、近鉄時代を過ごした大阪や、中日時代を過ごした名古屋でも地元局制作の情報・バラエティ・ラジオ番組へたびたび登場。関西テレビ制作の阪神タイガース・オリックスバファローズ公式戦中継に、ゲスト解説者として出演することもある。同局が平日の夕方に『FNNスーパーニュースアンカー』を放送していた時期には、木曜日第1部のレギュラーコメンテーターとして、メインキャスターの山本浩之と共に「野球漫談」と称されるほどのやり取りを展開した。同番組が終了した2015年4月からは、『上泉雄一のええなぁ!』(MBSラジオ平日夕方の生ワイド番組)に月曜パートナーとして出演中。2016年からは、同局の野球解説者としても活動する[16]。
エピソード
- 野球以外のスポーツでは、報徳学園中学校時代に、柔道で初段を取得した。また、実母が焼肉店を開くまで宝塚カントリークラブで長らくキャディーを務めていた縁で、少年時代から折に触れてゴルフをプレー[15]。現役引退後は、チャリティーゴルフコンペにたびたび参加している。
- 実家は裕福でなかったが、報徳学園高校が甲子園の全国大会でたびたび逆転勝利を収めてきた話を実母から聞いたことをきっかけに、プロ野球より同校に憧れを持つようになったという[5]。このような経験から、現役引退後は、高校野球の特待生制度に賛成する立場を表明している[17]。
- 『在日魂』によれば、近鉄からはドラフト前の時点で、「(東海大学から前年に読売ジャイアンツへドラフト1位で入団した)原辰徳の契約金(推定8,000万円)と年俸(推定840万円)を上回る金額と、(関連会社の近鉄不動産が扱っている)土地を用意する」という条件を出されていたとされる。しかし、ドラフト会議後に球団社長と代表が交代したことから、球団スタッフの顔触れも一新。実際の入団交渉では、以上の条件を白紙に戻したため、金村本人は「まるで詐欺やないか」と思ったという。そのため、交渉はしばしば決裂。在阪スポーツ紙などから実母がバッシングを受ける事態にまで至ったが、契約金6,000万円、年俸380万円(金額はいずれも推定)という条件で近鉄に入団した。入団決定後は、契約金を全額両親に渡したうえで、両親のために近鉄不動産から実勢価格より3%安い金額で土地を購入したという[18]。また実母は、金村の入団を機に、自宅のある宝塚市内で長らく焼肉店を営んだ(現在は閉店)。
- 近鉄入団当時、入団交渉のゴタゴタやルーキーながらパンチパーマといった出で立ちもあり、加えてドラフト一位というやっかみから、先輩から目を付けられ、寮では何度もお金が盗まれることまであったという。そんな中、厳しくも優しく接してくれたのが栗橋茂・平野光泰・森脇浩司等であった[19]。特に、森脇は、金村を大変気に入っていたという。
- 近鉄入団時の守備走塁コーチで、後に一軍監督を務めた仰木彬には、生前を通じて深い恩義を感じていた。
- 仰木がオリックスブルーウェーブの一軍監督を務めていた1990年代中頃に、仰木が肺癌を患っていることを知った。仰木から口止めを懇願されたことを機に、仰木が2005年12月15日に逝去するまで、その事実を誰にも言わなかった。また、仰木の晩年には、ゴルフなどで親交を続けていた。
- 仰木がオリックスの一軍監督を務めていた時期から、野球解説者への転身後は、春季キャンプ期間中にオリックスブルーウエーブおよび後継球団のオリックスバファローズの一軍キャンプを最初に取材。2015年までは毎年、キャンプインの初日(2月1日)から、キャンプ地の宮古島や宮崎市へ取材に赴いていた[20]。
- 仰木の逝去当時は、『ベリーベリーサタデー!』(関西テレビ制作土曜朝のワイドショー)内のスポーツコーナー「Weeklyベリスポ!」に、コメンテーターとしてレギュラーで出演。逝去翌々日(2005年12月17日)の「Weeklyベリスポ!」で仰木の生前葬を取り上げた際には、全国向けの生放送中にもかかわらず、思わず号泣した[21]。翌2006年には、仰木とのエピソードを記した著書『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』も出版している。
- メジャーリーガーとして来日入団したドン・マネーが、ロッカーや風呂場の汚さに失望し退団したこともあり、近鉄の選手会長を務めた時代に、待遇や施設の改善に尽力し、選手専用駐車場の確保(それ以前は選手専用のものはなく、開幕戦で予告先発だった野茂英雄が球団役員専用車のため駐車を拒否された)や風呂場の改装等が実現したという[22][23]。
- 自身と大塚光二が進行を務めるプロ野球バラエティ番組「ガンバレ日本プロ野球!?」(J SPORTS)では仰木は2度ゲストで出演、この縁から同番組のキャンプ編ではオリックスキャンプからスタートするのが恒例となっている。
- オールスターゲームのパリーグ三塁手は石毛宏典、松永浩美がメインだった為、仰木彬がパリーグ監督である1990年のみ監督推薦として出場できた。
- 1993年、西武と近鉄が最後まで優勝を争った際、ハタ山ハッチ(やくみつる)は自身執筆の『パロ野球ニュース』(1993年8月)で両人と思われるトランクス姿の人物を描き、「今年はウチが優勝だ」と宣言する四コママンガを描き、同じコマに登場する中日の星野仙一監督が「お前は近鉄の金村か?西武の鈴木健か、どっちだ」と突っ込むネタを描いている。なお、鈴木健とは西武移籍時にチームメイトとなり、この際にも『パロ野球ニュース』でネタにされた[24]。二人が似ていることは当人達も自覚していて、鈴木は金村を「お兄ちゃん」と呼んで慕い、金村は球場やキャンプ取材時に「鈴木健さんですよね?」と度々声を掛けられると証言している。
- 1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球が打者・山崎武司の頭付近を通過したことが発端となる乱闘に、“マスコットバットを持ち出し参戦した”とされる[25]。当事者のガルベスと山崎に加え、金村も罰金10万円と厳重注意を受けた。後年、自身がラジオパーソナリティを務める『ツー快!お昼ドキッ』(CBCラジオ)で「素振りをしているときに乱闘が起こり、何事が起こったかと見に行ったら乱闘に巻き込まれた。バットを持っていたことは、取り上げられるまですっかり忘れていた。」と語っている。
- 1999年9月30日の引退試合、対千葉ロッテマリーンズ戦の第1打席(現役最後の打席)であえなく凡退している。金村は前出のラジオ番組で「現役最後の打席でこれまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、マリーンズ先発の薮田安彦は容赦なくフォークボールを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。このシーンをモノマネする芸人は「現役最後の打席で涙に溢れながらもチンポジ(男性器の位置)を気にする金村選手」として演じている。
- 2000年、在日韓国人3世であることを自著「在日魂」で公表した。2009年12月24日の『FNNスーパーニュースアンカー』では、「民主党に投票した一人としては期待してたのに裏切られた」と発言するとともに、日本に帰化したことを表明している。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 近鉄 | 7 | 17 | 17 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | .118 | .118 | .118 | .235 |
1983 | 38 | 83 | 76 | 6 | 15 | 3 | 0 | 2 | 24 | 11 | 1 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 19 | 2 | .197 | .228 | .316 | .544 | |
1984 | 54 | 115 | 94 | 11 | 16 | 3 | 0 | 2 | 25 | 10 | 2 | 0 | 6 | 2 | 11 | 0 | 2 | 23 | 3 | .170 | .266 | .266 | .532 | |
1985 | 42 | 80 | 72 | 11 | 21 | 3 | 1 | 3 | 35 | 8 | 0 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 1 | 13 | 1 | .292 | .338 | .486 | .824 | |
1986 | 130 | 493 | 437 | 66 | 120 | 23 | 6 | 23 | 224 | 67 | 3 | 1 | 10 | 4 | 39 | 0 | 3 | 83 | 10 | .275 | .335 | .513 | .848 | |
1987 | 130 | 531 | 469 | 51 | 114 | 12 | 2 | 14 | 172 | 61 | 4 | 3 | 8 | 11 | 42 | 2 | 1 | 101 | 11 | .243 | .300 | .367 | .667 | |
1988 | 99 | 379 | 323 | 37 | 93 | 17 | 0 | 14 | 152 | 48 | 2 | 1 | 5 | 3 | 48 | 2 | 0 | 65 | 7 | .288 | .377 | .471 | .848 | |
1989 | 81 | 288 | 244 | 32 | 55 | 7 | 0 | 7 | 83 | 30 | 0 | 2 | 12 | 1 | 29 | 0 | 2 | 68 | 6 | .225 | .312 | .340 | .652 | |
1990 | 113 | 450 | 376 | 67 | 103 | 25 | 1 | 17 | 181 | 51 | 7 | 7 | 5 | 2 | 64 | 3 | 3 | 85 | 6 | .274 | .382 | .481 | .863 | |
1991 | 130 | 526 | 467 | 65 | 126 | 16 | 3 | 16 | 196 | 60 | 2 | 2 | 6 | 1 | 50 | 2 | 2 | 88 | 13 | .270 | .342 | .420 | .762 | |
1992 | 102 | 390 | 335 | 50 | 87 | 11 | 3 | 13 | 143 | 44 | 5 | 3 | 4 | 1 | 48 | 4 | 2 | 66 | 7 | .260 | .355 | .427 | .782 | |
1993 | 47 | 176 | 154 | 14 | 34 | 6 | 1 | 3 | 51 | 28 | 1 | 1 | 5 | 0 | 15 | 1 | 2 | 21 | 2 | .221 | .298 | .331 | .629 | |
1994 | 80 | 279 | 254 | 34 | 76 | 15 | 0 | 8 | 115 | 28 | 2 | 1 | 3 | 3 | 17 | 0 | 2 | 47 | 3 | .299 | .344 | .453 | .797 | |
1995 | 中日 | 28 | 88 | 79 | 4 | 14 | 4 | 0 | 1 | 21 | 5 | 0 | 1 | 2 | 0 | 7 | 0 | 0 | 15 | 6 | .177 | .244 | .266 | .510 |
1996 | 42 | 45 | 40 | 1 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 6 | 0 | .175 | .267 | .200 | .467 | |
1997 | 西武 | 73 | 152 | 124 | 13 | 38 | 10 | 1 | 3 | 59 | 26 | 3 | 0 | 0 | 2 | 22 | 0 | 4 | 28 | 6 | .306 | .421 | .476 | .897 |
1998 | 41 | 52 | 38 | 2 | 10 | 2 | 0 | 1 | 15 | 7 | 0 | 1 | 0 | 3 | 10 | 0 | 1 | 11 | 0 | .263 | .404 | .395 | .799 | |
1999 | 25 | 60 | 44 | 2 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 16 | 3 | 0 | 6 | 2 | .182 | .400 | .182 | .582 | |
通算:18年 | 1262 | 4204 | 3643 | 466 | 939 | 158 | 18 | 127 | 1514 | 487 | 34 | 23 | 73 | 33 | 430 | 17 | 25 | 752 | 85 | .258 | .337 | .416 | .753 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1982年)
記録
- 初記録
- 初出場:1982年9月14日、対西武ライオンズ後期8回戦(日生球場)、8回表に羽田耕一に代わり三塁手として出場
- 初先発出場:1982年9月21日、対日本ハムファイターズ後期11回戦(後楽園球場)、8番・三塁手として出場
- 初安打:同上、4回表に木田勇から中前安打
- 初打点:1983年5月12日、対ロッテオリオンズ4回戦(川崎球場)、8回表に仲根政裕の代打として出場、スティーブ・シャーリーから同点適時打
- 初本塁打:1983年10月21日、対阪急ブレーブス26回戦(藤井寺球場)、2回裏に木下智裕から3ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1992年4月21日、対ロッテオリオンズ1回戦(日生球場)、5回裏に園川一美からソロ ※史上169人目
- 1000試合出場:1994年6月11日、対日本ハムファイターズ11回戦(東京ドーム)、7番・三塁手として先発出場 ※史上319人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1990年)
- サイクルヒット:1986年7月17日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場) ※史上39人目
- 1982年7月23日のジュニアオールスターゲーム(横浜)でもサイクル安打を達成
背番号
- 28 (1982年 - 1986年)
- 6 (1987年 - 1997年途中)
- 24 (1997年途中 - 1999年)
出演番組
現在出演番組
- レギュラー
- 上泉雄一のええなぁ!(MBSラジオ)※2015年3月30日より月曜日パートナー
- BANZAI!野球好き(J SPORTS)
- enjoy! Baseball(フジテレビ・関西テレビ[26]・テレビ新広島)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE)
- プロ野球ニュース[27]
- バラいろダンディ(TOKYO MX)※2015年10月より木曜ダンディ(それ以前より単発ゲスト出演多数)
- 準レギュラー
- 水野真紀の魔法のレストランR(MBSテレビ)※隔月
- たかじん胸いっぱい(関西テレビ)
過去出演番組
- ジャンクSPORTS(フジテレビ)
- すぽると!(フジテレビ)
- ベリーベリーサタデー!(関西テレビ)
- FNNスーパーニュースアンカー(関西テレビ)
- こんちわコンちゃんお昼ですよ!(MBSラジオ)※月1回(出演終了)
- きになるオセロ(ABCテレビ)※隔週
- ツー快!お昼ドキッ(CBCラジオ)※水曜日担当
- 玉袋筋太郎のナイトスナッカーズ 西荻窪編
- ガンバレ日本プロ野球!?(J SPORTS)※シーズンオフの放送
- J SPORTS STADIUM※主にロッテ戦の解説を担当。2014年はテレビ新広島制作分(地上波同時放送)に出演。
テレビCM
- 国土リアルエステートテレビコマーシャルキャラクター(大阪府ローカル)
著書
- 『在日魂』(講談社、2000年、ISBN 4062103494/講談社文庫、2004年12月、ISBN 4062749378)
- 『元祖いてまえ男金村義明のプロ野球警戒警報!』(日本文芸社、2002年)ISBN 4537250909
- 『プロ野球勝てる監督、負けるボス』(実業之日本社、2004年)ISBN 4408395536
- 『仰木彬 パリーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』(世界文化社、2006年)ISBN 4418065369
関連項目
- 兵庫県出身の人物一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- あぶさん - 「あぶさんの中に自分を出してほしい」と水島新司の所まで自分で描いた作品を持っていったことがある。
脚注
- ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.05「1981年8月21日 全試合をひとりで投げ抜き、悲願の全国制覇達成」(『Web Sportiva』2010年8月16日付記事)
- ^ 【甲子園V腕座談会】(2)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)
- ^ 亀梨和也 NHK甲子園特番ナビゲーターに「感動体感したい」(『スポーツニッポン』2015年7月21日付記事)
- ^ 【甲子園V腕座談会】(4)3年生・水野VS1年生・桑田(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)
- ^ a b 【甲子園V腕座談会】(1)池田もPLも練習しなかった(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)
- ^ 【甲子園V腕座談会】(3)金村さんの秘技「おちょくり投法」(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)
- ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.04「1982年7月23日、ジュニアオールスターでサイクルヒット&MVP」(『Web Sportiva』2010年7月15日付記事)
- ^ あの金村も急造捕手経験 ロッテ・五十嵐は全ポジション出場達成(『スポーツニッポン』2014年12月10日付記事)
- ^ 現役引退後に著した『勝てる監督 負けるボス』では、「最低の監督」という表現で鈴木を批判している。
- ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.10「1995年2月14日 野茂英雄、ドジャース入団」(『Web Sportiva』2010年12月21日付記事)
- ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vo1.07「1998年10月26日 涙の横浜ベイスターズ、38年ぶり日本一」(『Web Sportiva』2010年9月21日付記事)
- ^ フーガキャスティングの講師一覧|金村義明
- ^ NOMOベースボールクラブ 運営役員紹介
- ^ 『金村義明 プロ野球人情派』vol.06「2000年9月17〜27日 シドニー五輪、初のプロ・アマ合同チームの裏側」(『Web Sportiva』2010年9月6日付記事)
- ^ a b 金村義明プロフィール金村義明オフィシャルサイト
- ^ ANAクラウンホテル大阪(金村義明オフィシャルブログ2015年12月20日付記事)
- ^ 【甲子園V腕座談会】(終)今だから話せる「蔦さん伝説」(『スポーツ報知』2015年8月9日付記事)
- ^ 『在日魂』P139~P140
- ^ 『在日魂』P142~P144
- ^ 2016年には、2月1日(月曜日)が『上泉雄一のええなぁ!』への出演日と重なっていたため、解説者への転身後初めて同月2日からキャンプを取材(取材先は宮崎市清武総合運動公園)。
- ^ 株式会社パートナーシステム・講師プロフィール 金村義明
- ^ “「お笑いワイドショー マルコポロリ」2013年12月15日(日)”. gooテレビ (2013年12月15日). 2014年5月28日閲覧。
- ^ 『在日魂』第3章「プロ野球狂想曲」
- ^ 1997年5月『パロ野球ニュース』。日本ハムの上田監督(当時)が「西武のベンチ入り人数が一人多い」と抗議したら、実は「右の鈴木健(金村)」と「左の鈴木健(本人)」という二人一組のスイッチヒッターだった、あるいは同じく上田が「西武の三塁手が二人いる」と抗議したら、実は「鈴木健1人だが、時々分身の術を使う(と称して金村が現れる)」という扱いだった、というもの
- ^ 【5月1日】1996年(平8) 32分中断 ガルベス“危険球”に山崎武司突進!大乱闘!(2011年5月1日、スポニチアネックス)2014年11月20日閲覧
- ^ 関西テレビローカルは『プロ野球中継(西暦)』の番組名
- ^ 2009年度より水曜のMCを担当