歩兵連隊
陸軍の単位 |
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概要
古今東西の陸軍では最も数が多く、戦力の基幹となるのが歩兵連隊であり、一般的に歩兵大隊を基幹として連隊本部、火力支援や雑務を行う特科中隊を組み合わせて編成される。 国や時代によって歩兵1個大隊編制と3個大隊編制があり、編制によって人数は大幅に異なり、おおむね1,000人から3,000人程度の兵力を指す。
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍には以下のような歩兵連隊があった。
歩兵連隊
冠称無しの「歩兵連隊(歩兵聯隊)」は第1から第524連隊(間に欠番多数を有す)まで置かれた。帝国陸軍における歩兵連隊(歩兵)の軍隊符号(部隊符号)はi。隊号(連隊番号)などは符号に冠し321i(歩兵第321連隊)などと表記し、近衛歩兵連隊は近衛のGと合わせ1Gi(近衛歩兵第1連隊)、歩兵旅団・歩兵団は旅団・団のBと合わせiBとした。
明治4年(1871年)に設置された鎮台が明治6年(1873年)に6個鎮台になり、隷下に第1から第14までの14個歩兵連隊が置かれ、その後明治19年(1886年)までに24個の歩兵連隊が置かれた。これら24個歩兵連隊は明治21年(1888年)5月、鎮台が師団に改編されると師団隷下となった。各歩兵連隊には衛戍地が定められており、基本的に永久にその土地に駐屯するものとされた(改編・移動・廃止・復古はままあった)。鎮台が師団に改編される時点の陸軍常備団隊配備表(明治21年5月12日勅令第31号)では下表のように衛戍地が定められていた。
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- 歩兵第1連隊(東京)
- 東京鎮台→第1師団
- 歩兵第2連隊(佐倉→水戸)
- 歩兵第3連隊(東京)
- 東京鎮台→第1師団→第28師団
- 歩兵第4連隊(仙台)
- 歩兵第5連隊(青森)
- 明治4年(1871年)に東北鎮台第20番大隊(弘前町)が置かれる。明治11年(1878年)5月1日に連隊が編成され、明治12年(1879年)1月16日に軍旗が授与される。当初仙台鎮台、第2師団に所属したが、明治31年(1898年)に新設された第8師団に所属、明治35年(1902年)に連隊の一部が八甲田山中で遭難する(八甲田雪中行軍遭難事件)。日清戦争・日露戦争・満州事変(連隊を基幹とする第14混成旅団)に参加する。太平洋戦争時の通称号は「杉4715」。
- 歩兵第6連隊(名古屋)
- 歩兵第7連隊(金沢)
- 当初は名古屋鎮台から第3師団に所属し、その後第9師団に所属、初代旗手は千田登文少尉。明治10年(1877年)2月22日に西南戦争への出兵が命ぜられ、第2大隊が西郷軍を追い詰める。明治27年(1894年)8月4日に日清戦争への動員令が下り、9月7日に広島を出航、同月13日仁川港に上陸する。日清戦争では赫々たる戦果を挙げ戦死者は36名である。日露戦争中の旅順攻略戦にて盤龍山東堡塁に突入し殆ど全滅、大内連隊長以下大隊長3名戦死。連隊旗が一時敵の手に渡るものの、荒島上等兵が自ら負傷しながらも奪還し第3軍司令官乃木希典大将から個人感状を受ける。第一次上海事変中の昭和7年(1932年)7月31日には林大八連隊長が戦死する。日中戦争では南京入城に参加する。連隊(長伊佐一男大佐)は、国際委員会の管理する安全区を厳重に守衛し、許可のない者は安全区内に立ち入らせなかった。太平洋戦争時の通称号は「武1524」、終戦時は台中にある。
- 歩兵第8連隊(大阪)
- 歩兵第9連隊(大津→京都)
- 当初は大阪鎮台から第4師団に所属し、その後第16師団に所属、「またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊」の9連隊として歌われていた歩兵連隊。昭和19年(1944年)レイテ島で玉砕。
- 歩兵第10連隊(大阪→姫路→岡山)
- 歩兵第11連隊(広島)
- 歩兵第12連隊(丸亀)
- 広島鎮台→第5師団→第11師団
- 歩兵第13連隊(熊本)
- 熊本鎮台→第6師団
- 歩兵第14連隊(小倉)
- 歩兵第15連隊(高崎)
- 東京鎮台→第1師団→第14師団。太平洋戦争時の通称号は「照7757」。
- 歩兵第16連隊(新発田)
- 明治17年(1884年)6月に編成され、仙台鎮台から第2師団に所属し、その後第13師団所属を経て、再度第2師団に所属。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件、太平洋戦争に参加する 。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」。
- 歩兵第17連隊(仙台→秋田)
- 歩兵第18連隊(名古屋→豊橋)
- 歩兵第19連隊(名古屋→敦賀)
- 名古屋鎮台→第3師団→第9師団→第16師団→第9師団
- 歩兵第20連隊(大阪→福知山)
- 大阪鎮台→第4師団→第10師団→第16師団
- 歩兵第21連隊(広島→浜田)
- 広島鎮台→第5師団→第17師団→第5師団。太平洋戦争時の通称号は「鯉5714」。
- 跡地は浜田第一中学校、島根県立浜田高等学校
- 歩兵第22連隊(松山)
- 歩兵第23連隊(熊本→都城)
- 熊本鎮台→第6師団
- 歩兵第24連隊(福岡)
- 熊本鎮台→第6師団→第12師団
- 歩兵第25連隊(豊平町月寒)
- 歩兵第26連隊(旭川)
- 明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。奉天会戦で連隊長戦死。
- 歩兵第27連隊(旭川)
- 明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。釧路で終戦。
- 歩兵第28連隊(旭川)
- 歩兵第29連隊(仙台→若松)
- 明治31年3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団。
- 歩兵第30連隊(新津→村松→高田)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団→第13師団→第2師団→第28師団。
- 歩兵第31連隊(弘前)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第8師団。
- 歩兵第32連隊(秋田→山形)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時の第8師団に所属、その後第2師団所属から再度第8師団所属を経て、太平洋戦争時は第24師団に所属し通称号は「山3475」、昭和20年(1945年)沖縄で玉砕。跡地は旧山形城跡の霞城(かじょう)公園。
- 歩兵第33連隊(守山)→久居)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時は第3師団隷下で日露戦争に参加。奉天会戦での三軒家の死闘(連隊長戦死)により奥軍司令官から全軍布告。宇垣軍縮により第16師団隷下へ。満州での警備、シナ事変での南京攻略戦、武漢攻略戦等に参戦。日米開戦後はフィリピン攻略戦に参加。バターン作戦後にはルソン島の警備に就くが、昭和19年(1944年)9月レイテ島に派遣、同年10月の米軍レイテ侵攻に際しては、米第10軍団の2個師団の上陸(正面約12キロ)を実質5個中隊で迎撃せざるを得ず数日で連隊主力は壊滅、連隊長戦死。なお、歩兵第33連隊が置かれていた久居に同じ番号を冠する陸上自衛隊第33普通科連隊が所在している。
- 歩兵第34連隊(静岡)
- 歩兵第35連隊(金沢→富山)
- 歩兵第39連隊(姫路)
- 歩兵第41連隊(広島→福山)
- 歩兵第42連隊(山口)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団。
- 歩兵第43連隊(徳島)
- 明治31年軍旗(1898年)授与。
- 歩兵第47連隊(小倉→大分)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第6師団→第48師団。
- 歩兵第48連隊(久留米)
- 明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第18師団→第12師団。
- 歩兵第49連隊(東京→甲府)
- 歩兵第51連隊(名古屋→久居)
- 第3師団隷下でシベリア出兵に参加。大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。廃止時の連隊長は小磯国昭。昭和13年(1938年)再編され第15師団隷下となる。昭和19年(1944年)インパール作戦に参加。師団の左突進隊として部署された。終戦時はタイで連合国軍の管理下へ。
- 歩兵第53連隊(大阪→奈良)
- 大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。
- 歩兵第54連隊(善通寺→岡山)
- 大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。
- 歩兵第55連隊(広島→佐賀)
- 大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。
- 歩兵第65連隊(若松)
- 石原莞爾によれば東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設したが、それが一致団結して日本の軍隊中に於いても最も緊張した活気に満ちた連隊であったという。
- 歩兵第68連隊(岐阜)
- 明治41年(1908年)5月8日軍旗授与。所属師団は第3師団。
- 歩兵第70連隊(篠山)
- 「丹波の鬼」と称された勇猛な歩兵連隊。
- 歩兵第124連隊(福岡)
近衛歩兵連隊
近衛歩兵連隊が第1から第10連隊まで置かれた。近衛歩兵連隊は、近衛師団創設後は同師団(後に近衛第1から第3師団に分かれた)に属した。
軍旗授与 | 衛戍地 | 創設時 | 師団創設後 | 第二次世界大戦中 | 大戦末期 | 最終位置 | |
近衛歩兵第1連隊 | 明治7年1月23日 | 東京 | 近衛局 | 近衛師団 | 近衛混成旅団 | 近衛第1師団 | 東京・皇居 |
近衛歩兵第2連隊 | 明治7年1月23日 | 東京 | 近衛局 | 近衛師団 | 近衛混成旅団 | 近衛第1師団 | 東京・皇居 |
近衛歩兵第3連隊 | 明治18年10月25日 | 東京 | 近衛 | 近衛師団 | 近衛師団 | 近衛第2師団 | スマトラ島メダン |
近衛歩兵第4連隊 | 明治20年5月24日 | 甲府 | 近衛 | 近衛師団 | 近衛師団 | 近衛第2師団 | スマトラ島メダン |
近衛歩兵第5連隊 | 昭和14年10月25日 | 佐倉 | 近衛師団 | 近衛第2師団 | スマトラ島メダン | ||
近衛歩兵第6連隊 | 昭和18年9月7日 | 東京 | 近衛第1師団 | 東京・皇居 | |||
近衛歩兵第7連隊 | 昭和18年9月7日 | 東京 | 近衛第1師団 | 東京・皇居 | |||
近衛歩兵第8連隊 | 昭和19年4月26日 | 東京 | 近衛第3師団 | 千葉県成東 | |||
近衛歩兵第9連隊 | 昭和19年4月26日 | 甲府 | 近衛第3師団 | 千葉県成東 | |||
近衛歩兵第10連隊 | 昭和19年4月26日 | 佐倉 | 近衛第3師団 | 千葉県成東 |
- 近衛歩兵第1連隊(東京)
- 明治7年(1874年)1月20日に編成され、同年同月23日に軍旗を親授される。編成に際して明治天皇より「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」との勅語を賜りそれに対して連隊長が「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」と奉答する。東宮は本連隊付となる通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・大正元年(1912年)9月以降は裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となっていた。西南の役に出征したほか、日清戦争では台湾の蕃族征討に当たる。日露戦争では第1軍隷下として奉天会戦等に参加する。日中戦争では昭和14年(1939年)11月2日に動員が下令される。大東亜戦争中には宮城の守護に当たる。昭和20年(1945年)5月25日に米軍機によって皇居が爆撃された際には消火に当たる。昭和20年(1945年)8月25日に軍旗奉焼。
- 日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、後備近衛歩兵第1連隊長須知源次郎陸軍歩兵中佐指揮の1100名以上の兵員を乗せた輸送船の常陸丸がロシア艦隊に遭遇し撃沈される(常陸丸事件)。
- 近衛歩兵第2連隊(東京)
台湾歩兵連隊
台湾歩兵連隊は2個置かれ、日中戦争開戦以前は台湾守備隊に属していた。太平洋戦争では第48師団に属しフィリピン攻略と蘭印作戦の主力を努めた。
- 台湾歩兵第1連隊
- 明治40年(1907年)11月7日軍旗授与。
- 台湾歩兵第1連隊(本隊)- 台北
- 台湾歩兵第1連隊(第3大隊)- 台中
- 連隊長
- 岩田正吉 大佐:1907年9月16日 - 1910年5月14日
- 奥村信猛 大佐:1910年5月14日 - 1912年11月30日
- 鈴木秀五郎 大佐:1912年11月30日 - 1916年1月21日
- 藤田直太郎 大佐:1916年1月21日 -
- 恒岡小文吾 大佐
- 台湾歩兵第2連隊
- 明治40年(1907年)11月7日軍旗授与。
支那駐屯歩兵連隊
北清事変(義和団の乱)に際して、清朝による外国公館保護が十分でなかったことから、列強は自国の公館を防衛するため軍隊を駐屯させる権利を得た。これに基いて、日本も天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍に改称)を駐屯させ、その隷下に北平駐屯歩兵隊と天津駐屯歩兵隊を置いた。その後、昭和11年(1936年)4月18日に支那駐屯軍を強化したのにともない、北平駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第1連隊に、天津駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第2連隊に改編した。
昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発、同年8月31日に支那駐屯軍を第1軍に改編し廃止した際直轄部隊は支那駐屯混成旅団に改編され、翌昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯兵団と改称した際に支那駐屯歩兵第3連隊が設けられた。 支那駐屯軍廃止以前は支那駐屯歩兵旅団、廃止後は支那駐屯混成旅団、昭和13年(1938年)3月12日から支那駐屯兵団に、同年6月21日からは第27師団に属した。
独立歩兵連隊
独立歩兵連隊は関東軍の独立混成第11旅団に属していたが、後に第26師団に属することとなった。各独立歩兵連隊は第26師団に属して以降も「独立歩兵第○○連隊」を称し続けた。
その他の歩兵連隊
以上のほか、部隊名に「歩兵連隊」が含まれるが、特殊な性格のものとして以下がある。
歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)
明治23年(1890年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。
- 連隊本部(連隊長以下41名、乗馬5匹)
- 大隊本部(大隊長以下16名、乗馬3匹)
- 中隊(中隊長以下136名)
この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。
よって、連隊全体では、将校70名、准士官下士145名、兵卒1,440名、各部66名の総計1,721名、軍馬14匹が定員となっていた。
行事
軍旗祭等の行事も行われた。
陸上自衛隊
アメリカ陸軍
第二次世界大戦時
第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍の歩兵連隊は総員3,068名で、編制は以下の通り。
- 連隊本部および本部中隊(HHC: Headquarters and Headquarters Company)
- 3個歩兵大隊
- 本部中隊
- 対戦車砲小隊(M1 57mm対戦車砲×3門)
- 3個小銃中隊
- 中隊本部
- 3個小銃小隊
- 火器小隊
- 小隊本部(ブローニングM2重機関銃×1丁、バズーカ×5門)
- 迫撃砲分隊(M2 60mm 迫撃砲×3門)
- 機関銃分隊(ブローニングM1919中機関銃×2丁)
- 重火器中隊
- 1個迫撃砲小隊(M1 81mm 迫撃砲×6門)
- 1個機関銃小隊(ブローニングM2重機関銃×4丁)
- 本部中隊
- 対戦車砲中隊(M1 57mm対戦車砲×9門)
- 火砲中隊(M3 105mm榴弾砲×6門)
- 後方支援中隊
- 衛生分隊
- 歩兵装備
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- ブローニング自動小銃M1918×135丁
- ブローニングM1919重機関銃×60丁
- ブローニングM2重機関銃×35丁
歩兵中隊は小銃3個小隊と火器小隊1個から編成され、火器小隊はM2 60mm 迫撃砲班3個と機関銃分隊2個からなっており、歩兵3個小隊を3門のM2 60mm 迫撃砲が支援するようになっていた。 M1 81mm 迫撃砲は重火器中隊の迫撃砲小隊に6門が配備され、3個歩兵大隊で1個連隊を構成していたので、合計で18門となった。
朝鮮戦争時
- 3個歩兵大隊(823名)
- 3個小銃中隊
- 3個小銃小隊
- 武器小隊
- 迫撃砲分隊(M2 60mm 迫撃砲×3門)
- 無反動砲分隊(M18 57mm無反動砲×2門)
- 重火器中隊
- 1個迫撃砲小隊(M1 81mm 迫撃砲×4門)
- 1個無反動砲小隊(M20 75mm無反動砲×4門)
- 1個機関銃小隊(ブローニングM2重機関銃×4丁)
- 3個小銃中隊
- 1個重迫撃砲小隊(M2 107mm迫撃砲×12門)
- 1個戦車小隊(戦車×22両)
- 1個後方支援小隊
1950年代中盤以降
1957年、アメリカ陸軍は、ペントミックとして知られる新しい編制を採用した。この編制では、従来の歩兵連隊の枠組みは解体され、かわりに、5個の連隊戦闘群が編制された。この連隊戦闘群は5個小銃中隊と戦闘支援中隊から編成されており、従来の歩兵連隊と歩兵大隊の中間的な規模であった。
ペントミック編制は1960年代初頭には見直され、ROAD再編成計画が発動された。これによってペントミック式の連隊戦闘群は解体されたが、歩兵連隊が再編されることはなく、大隊を基幹とする編制法に移行した。ただし、連隊の戦歴を継承するため、それぞれの歩兵大隊は、かつての所属連隊の名前を冠することとされた。ROAD計画以後も数度にわたって編制の見直しが行なわれたが、大隊を基幹とするという点は変化しておらず、現在、アメリカ陸軍には、常時編成される戦闘単位としての歩兵連隊は、第75レンジャー連隊(アメリカ特殊作戦軍指揮下)が存在するのみとなっている。また、第503歩兵連隊は、その名前を冠する大隊がいずれも第173空挺旅団戦闘団に所属していることから、事実上、連隊の編制が存続していると見なされることもある。
脚注
- ^ 『官報』第2673号、大正10年6月29日。