ノーム・チョムスキー

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エイヴラム・ノーム・チョムスキー
Avram Noam Chomsky
チョムスキー
生誕 (1928-12-07) 1928年12月7日(95歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
時代 20世紀の哲学
21世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 分析哲学
無神論
研究分野 言語学言語哲学
論理学
認識論
心理学心の哲学
倫理学
社会哲学政治哲学
主な概念 生成文法
普遍文法
チョムスキー階層
文脈自由文法
刺激の貧困
チョムスキー標準形
プロパガンダ・モデル
言語獲得装置
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エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国哲学者[1][2]言語哲学者言語学者社会哲学者論理学者[3][4]。 彼は50年以上在籍するマサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授である[5]。言語学者・教育学者キャロル・チョムスキーは彼の妻である。

彼の業績は言語学分野にとどまらず、戦争政治マスメディアなどに関する100冊以上の著作を発表している[6]。1992年のA&HCIによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは、存命中の学者としては最も多く、全体でも8番目に多い頻度で引用された[7][8][9][10]。彼は文化論における巨魁と表現され、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選ばれた[11][12]

チョムスキーは「現代言語学の父」と評され[13][14]、また分析哲学の第一人者と見なされる[1]。彼は、コンピュータサイエンス数学心理学の分野などにも影響を与えた[15][16]

言語学関連の初の書籍を発行した後、チョムスキーはベトナム戦争の有名な批判家となり、政治批評の本を発表し続けた。彼はアメリカの外交政策[17]国家資本主義[18][19]報道機関等の批判で有名になった。エドワード・S・ハーマン英語版との1988年の共著『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』など彼のマス・メディア批判は、マスメディアなどにおけるプロパガンダ・モデル理論を明確に分析した。彼は自らの視点を「啓蒙主義古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べた[20]

来歴

1928年の生誕から1945年まで

ノーム・チョムスキーは1928年12月7日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアイースト・オーク・レーン英語版近郊で生まれた[21][22]。父ウィリアム・チョムスキー英語版は当時ロシア帝国支配下のウクライナで生まれたが、戦乱を避けて1913年にアメリカへ渡った。メリーランド州ボルチモアの搾取工場で働き、貯蓄してジョンズ・ホプキンス大学で学んだ甲斐もあり市のヘブライ人系小学校教師の職を得た。現在のベラルーシで生まれアメリカで育ったエルシー・シモノフスキーとの結婚を期にフィラデルフィアに移り、夫妻はミクッバ・イスラエル宗教学校で教鞭を取った。「とても温和で紳士、そして魅力的な人物」を評された[23]ウィリアムはここの校長にまで出世し、1924年にはグラッツ大学英語版教師養成講座に最年長の教授に就任、1932年からは教授長職を勤めた。1955年からはDropsie Collegeでも教鞭を取ったウィリアムは、別に中世ヘブライ語の研究にも取り組み、一連の著作も発表した[24]

ノーム・チョムスキーは夫妻初の子供として生まれた。5年後に生まれた弟デビッドとは仲が良い兄弟だったが、気楽な弟に対し兄は負けず嫌いの性格だった[25]。両親の母語イディッシュ語だったが、それを家庭内で使う事は戒められた。夫と異なり、エルシーはごく普通のニューヨーク訛りの英語英語版を喋った[22]。兄弟はユダヤ人社会で育り、ヘブライ語を習い、アハド・ハアムの著作など労働シオニズムに影響を受けていた一家にあって、よくシオニズムの政治理論について語り合った[25]。子供の頃からユダヤ人として、特にフィラデルフィア在住のアイルランド系やドイツ系共同体から受ける反ユダヤ主義に直面し、ナチス・ドイツのフランス侵攻を祝うドイツ人のビア・パーティは忘れられないものとなったという[26][27]

ノームは両親を、政治的にはフランクリン・ルーズベルト率いる民主党を支持する中道左派だと言及したが、彼自身は国際婦人服労働組合英語版 (ILGWU) に所属する社会主義者の親族らから影響を受けて極左思想を持つようになった[28]。また特に、あまり教育を受けていなかったがニューヨーク市で所有する新聞販売スタンドで集まった左派ユダヤ人たちと毎日のように議論を交わす彼のおじに大きく影響された[29][30]。一家で街中に出かけると、ノームは左翼やアナキスト系の書店に行っては政治に関する本を熱心に読んだ[29][30]。後に振り返って彼は無政府主義思想と出逢えた事は「幸運なる偶然」であり、急進党を制御して平等な社会を実現する選択肢だと信じられていたマルクス・レーニン主義という他の急進的左翼思想に対する批判的態度を形成することができたという[31]

ノームは初等教育を、競争をさせず生徒の興味を伸ばす事に重点を置き設立された独立系のOak Lane Country Day Schoolで受けた。ここで10歳の時、彼はスペイン内戦によるバルセロナ陥落を受けてファシズムの拡散を取り扱った初めての記事を書いた。12-13歳の頃にはそれまで以上に無政府主事政治への傾倒を強めた[32][33]。12歳の時にCentral High Schoolの中等部へ進学し多くのクラブや共同体に参加したが、そこでの階層的で厳しい管理が行き届いた指導方法に当惑させられた[34]

大学時代:1945年から1955年まで

アナルコ・サンディカリストのルドルフ・ロッカー(左)とイギリス人社会民主主義者ジョージ・オーウェル(右)。若きチョムスキーはふたりから強い影響を受け、アナルコ・サンディカリストは実現可能かつ望ましいものという考えを持った。 アナルコ・サンディカリストのルドルフ・ロッカー(左)とイギリス人社会民主主義者ジョージ・オーウェル(右)。若きチョムスキーはふたりから強い影響を受け、アナルコ・サンディカリストは実現可能かつ望ましいものという考えを持った。
アナルコ・サンディカリストルドルフ・ロッカー(左)とイギリス人社会民主主義ジョージ・オーウェル(右)。若きチョムスキーはふたりから強い影響を受け、アナルコ・サンディカリストは実現可能かつ望ましいものという考えを持った。

高校卒業後の1945年ノーム・チョムスキーはペンシルベニア大学へ進学し、C・W・チャーチマン英語版ネルソン・グッドマンらから哲学を、ゼリグ・ハリスらから言語学を学んだ。ハリスの講義は、ノームに言語構造の線型写像(文章の中の部分的な集まりから他の集まりへの対応付け)といった解析法の発見をもたらした。1951年の修士論文『The Morphophonemics of Modern Hebrew (現代ヘブライ語における形態音素論)』で、彼は形態音素の規則を示した[35]。そして1955年、ペンシルベニア大学大学院博士課程を修了し、言語学博士号を取得した。

1951-55年にチョムスキーはハーバード大学のジュニアフェロー[36]に選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。

チョムスキーはニューヨーク市を訪れては、イディッシュ語の無政府主義系雑誌『フライエ・アルバイテル・シュティンメ英語版』の事務所へ頻繁に足を運び、同誌に寄稿していたアナルコ・サンディカリストルドルフ・ロッカーに傾倒する。後に記したところによると、ロッカーの仕事から無政府主義と古典的自由主義の関係に気づき、後に研究の対象にしたという[37]。他にも、政治思想家では、アナキストのディエゴ・アバド・サンティラン英語版社会民主主義者のジョージ・オーウェルバートランド・ラッセルドワイト・マクドナルド英語版、また非ボリシェヴィキマルキシストのカール・リープクネヒトカール・コルシュローザ・ルクセンブルクらの著作を精読した[38]。これらに目を通す中で、 チョムスキーはアナルコ・サンディカリスト社会に共感し、オーウェルの著作『カタロニア賛歌』で知ったスペイン内戦の期間に結成されたアナルコ・サンディカリスト共同体に惹かれるようになった[39]

チョムスキーは1944年から1949年にかけてドワイト・マクドナルドが発刊した左翼系雑誌『Politics』を愛読した。当マクドナルドは当初こそマルキシストの観念を堅持していたが、1946年にこれを捨てて「無政府主義と反戦という奇妙な神に耽る」ようになった。チョムスキーは後に、無政府主義に対する興味が「応報と発達をなした」と同誌に書いた[40]。20代の終わり頃には、マルキシスト思想家で評議会共産主義者のポール・マティック英語版が発行する定期刊行誌『Living Marxism』の読者になった。この雑誌はヨシフ・スターリンソヴィエト連邦第二次世界大戦後の発展を批判的に評した。チョムスキーはマルキシストの理論根拠を受け入れなかったが、協議会共産主義者運動からは強い影響を受け、アントン・パンネクークカール・コルシュらなどの「生きたマルキシスト」の著作を貪欲に読み漁った[41]。チョムスキーはマティックと個人的な知り合いになるが、後に彼を指して「私の考えにぴったりな正統派マルキシスト」と評した[42]。また彼は、アメリカのレーニン主義者同盟英語版にも加わっていたジョージ・スピーロが率いた「Marlenites」という曖昧な反スターリン的なアメリカ人マルキニスト集団が持つ政治理論に大きく関心を持った。この集団は、第二次世界大戦は、西側の資本家と国家資本主義の政府であるソヴィエト連邦が主導し、ヨーロッパのプロレタリアートを潰そうとした「いかさま」だったと主張し、この観点にチョムスキーは同意した[43]

チョムスキーはミクヴェ・イスラエル学校の同門で幼馴染のキャロル・ドリス・シャッツと恋仲になり[44]、1949年に結婚し、彼女が2006年12月に癌で亡くなるまでの59年間連れ添った[45]。夫妻には2人の娘アビバ・チョムスキー英語版とダイアン、息子ハリーを得た。1953年に一時イスラエルキブツハゾレア英語版に住んだ。この滞在について聞かれた際、チョムスキーは「失望でした」と答え、「そこは好きだが、イデオロギー臭い雰囲気には我慢できなかった」と言い1950年代初頭のキブツにあった「熱狂的愛国心」とスターリンの助けを受けたキブツ在住の多くの左翼系メンバーが、ソヴィエト連邦の可能性に満ちた将来と現在の関係をバラ色に染める様子も同様に見ていた[46]

人物

チョムスキーの提唱する生成文法とは全ての人間の言語に普遍的な特性があるという仮説をもとにした言語学の一派である。その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説を唱え、言語を人間の生物学的な器官と捉えた。初期の理論である変形生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。チョムスキー以前の言語学ではフェルディナン・ド・ソシュールの学説やレナード・ブルームフィールドのアメリカ構造主義を基盤とする言語形式を観察・記述する構造主義的アプローチ(構造主義言語学、または構造言語学という)が支配的であったが、これに対し生成文法は言語を作り出す人間の能力(あるいはそのメカニズム)に着目した点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力(linguistic competence: 言語能力)と、実際に産出された言語形式(linguistic performance: 言語運用)とを厳密に区別し、前者を研究の焦点としている。

チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。

彼以降、言語学は認知科学情報処理と強い親近性を獲得した。また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。この生成文法はチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。

酒井邦嘉[47]は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。

もしあなたが孤立して、世の中の誰とも全く違っているとしたら、自分の気が変になったか、どうかしたに違いないと思い始めるでしょう。あなたが他の人々と何か違ったことを言っているという事実に負けないためには、強い自我(a big ego)が必要です。

一方で、生成文法の徹底した演繹的な手法や言語の自律性を強調する点に関して、いくつかの立場から批判がなされている。たとえば、認知言語学は言語を人間の認知体系から自律させて考えることに批判的な立場であり、人間の脳内に自律的に言語を司るモジュールが存在するとする生成文法の仮説を批判している。

現代の言語学を語る上でチョムスキーの言語理論を避けて通ることはできず、その影響は自然言語研究だけでなくコンピュータ言語哲学数学などの分野にも及んだ。

社会哲学的にはヴィルヘルム・フォン・フンボルトジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判する自由至上社会主義アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻イラク侵攻やアメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。特に2001年アメリカ同時多発テロ事件以降はその傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラウーゴ・チャベス大統領が国連総会でブッシュ大統領を「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して「アメリカ国民はぜひこの本を読むべきだ」と語り、翌日のアマゾンベストセラーランキングで1位になるなど、ベストセラーになった[要出典]

ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明されるが、現在ではそれは完全な誤解であるという見方もある[48]。この件についてチョムスキー自身は、「私は国連においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している[49]。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして常々非難している[50]

イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている[51]。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている[52]。1980年代にはホロコースト否認論者であるロベール・フォリソンフランス語版が自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった際にも、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている[53]

昭和天皇は「最大の戦争犯罪人」であると主張しており、戦後にわたって昭和天皇の戦争責任をタブー化し、問題にしなかったとして日本の知識人を批判している[54]

主な受賞歴

邦訳著書

以下、著作者名がノーム・チョムスキーの場合は著作者名を省略する。

言語学・言語哲学関係

政治批評

メディア論

DVD

脚注

  1. ^ a b "Noam Chomsky", by Zoltán Gendler Szabó, in Dictionary of Modern American Philosophers, 1860–1960, ed. Ernest Lepore (2004).
  2. ^ ケンブリッジ哲学辞典英語版 (1999), "Chomsky, Noam," ケンブリッジ大学出版局, pg. 138.
  3. ^ Edwin D. Reilly (2003). Milestones in Computer Science and Information Technology. Greenwood Publishing Group. pp. 43–44. ISBN 9781573565219 
  4. ^ H. L. Somers (2003). Sergei Nirenburg, H. L. Somers, Yorick Wilks. ed. Readings in Machine Translation. マサチューセッツ工科大学出版局. p. 68. ISBN 9780262140744 
  5. ^ MIT Department of Linguistics: People: Faculty: Noam Chomsky”. Web.mit.edu. 2011年8月16日閲覧。
  6. ^ Books”. chomsky.info. 2011年8月30日閲覧。
  7. ^ Noam Chomsky”. Web.archive.org (2010年5月28日). 2010年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月16日閲覧。
  8. ^ “Chomsky is Citation Champ”. マサチューセッツ工科大学 News Office. (1992年4月15日). http://web.mit.edu/newsoffice/1992/citation-0415.html 2007年9月3日閲覧。 
  9. ^ Hughes, Samuel (July/August 2001). “Speech!”. The Pennsylvania Gazette. http://www.chomsky.info/onchomsky/200107--.htm 2007年9月3日閲覧. "According to a recent survey by the Institute for Scientific Information, only Marx, Lenin, Shakespeare, Aristotle, the Bible, Plato, and Freud are cited more often in academic journals than Chomsky, who edges out Hegel and Cicero." 
  10. ^ Robinson, Paul (1979年2月25日). “The Chomsky Problem”. ニューヨーク・タイムズ. "Judged in terms of the power, range, novelty and influence of his thought, Noam Chomsky is arguably the most important intellectual alive today. He is also a disturbingly divided intellectual." 
  11. ^ http://www.guardian.co.uk/world/2005/oct/18/books.highereducation
  12. ^ Matt Dellinger, "Sounds and Sites: Noam Chomsky", The New Yorker, Link, 3-31-03. Retrieved 1-26-09
  13. ^ Fox, Margalit (1998年12月5日). “A Changed Noam Chomsky Simplifies”. New York Times. http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20B1FFA3A5F0C768CDDAB0994D0494D81&n=Top%2fReference%2fTimes%20Topics%2fPeople%2fC%2fChomsky%2c%20Noam 2008年8月2日閲覧. "... Noam Chomsky, father of modern linguistics and the field's most influential practitioner; ..." 
  14. ^ Thomas Tymoczko, Jim Henle, James M. Henle, Sweet Reason: A Field Guide to Modern Logic, Birkhäuser, 2000, p. 101.
  15. ^ Michael Sipser (1997). Introduction to the Theory of Computation. PWS Publishing. ISBN 0-534-94728-X 
  16. ^ The Cognitive Science Millennium Project”. Cogsci.umn.edu. 2011年8月16日閲覧。
  17. ^ "The Accidental Bestseller, Publishers Weekly, 5-5-03. Retrieved 05-03-11. "Chomsky's controversial political works...became mainstream bestsellers."
  18. ^ http://www.chomsky.info/interviews/1991----02.htm
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  20. ^ Chomsky 1996, p. 71
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  27. ^ Kreisler 2002
  28. ^ Barsky 1997, p. 14
  29. ^ a b Barsky 1997, p. 23
  30. ^ a b Conversation with Noam Chomsky, p. 1 of 5”. Globetrotter.berkeley.edu. 2011年8月16日閲覧。
  31. ^ Barsky 1997, pp. 17–19
  32. ^ Barsky 1997, pp. 15–17
  33. ^ Kreisler 2002, Chapter 1: Background
  34. ^ Barsky 1997, pp. 21f
  35. ^ Barsky, Robert Franklin (1997). Noam Chomsky: a life of dissent. ECW Press. pp. 47. ISBN 978-1-55022-281-4. http://books.google.com/books?id=GhwvCoZBFoYC&pg=PA47 2011年8月16日閲覧。 
  36. ^ 3年間財政支援を受けながら何の義務無し(論文作成も講義への出席も不要)で研究できる制度。多数の天才を輩出している。
  37. ^ Barsky 1997, p. 24
  38. ^ Barsky 1997, pp. 24f
  39. ^ Barsky 1997, p. 26
  40. ^ Barsky 1997, pp. 34f
  41. ^ Barsky 1997, pp. 36–40
  42. ^ Barsky 1997, p. 36
  43. ^ Barsky 1997, pp. 43f
  44. ^ Barsky 1997, p. 13
  45. ^ Marquard, Bryan (2008年12月20日). “Carol Chomsky; at 78; Harvard language professor was wife of MIT linguist”. Boston Globe. 2008年12月20日閲覧。
  46. ^ Noam Chomsky interviewed by Shira Hadad”. Chomsky.info. 2011年8月16日閲覧。
  47. ^ 酒井邦嘉『科学者という仕事』(中公新書 2006年)pp.68-74.
  48. ^ Noam Chomsky - Extremist of the Left and Right”. 2008年2月20日閲覧。
  49. ^ The Treachery of the Intelligentsia: A French Travesty”. 2008年2月20日閲覧。
  50. ^ Hot Type on the Middle East”. 2008年2月20日閲覧。
  51. ^ On the Future of Israel and Palestine
  52. ^ Solomon, Deborah (2003年11月2日). “Questions for Noam Chomsky: The Professorial Provocateur”. The New York Times Magazine (The New York Times). http://www.nytimes.com/2003/11/02/magazine/way-we-live-now-11-02-03-questions-for-noam-chomsky-professorial-provocateur.html 
  53. ^ The Faurisson Affair, by Noam Chomsky
  54. ^ ノーム・チョムスキー「メディア・コントロール」、辺見庸との対談より。[要ページ番号]

参考文献

関連項目

外部リンク

映画

ビデオ