週刊少年ジャンプ編集部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

週刊少年ジャンプ編集部(しゅうかんしょうねんジャンプへんしゅうぶ)とは、株式会社集英社にある、日本週刊少年漫画雑誌週刊少年ジャンプ』の編集を専門に行う部署である。

概要[編集]

編集部の位置づけ[編集]

集英社内においては第三編集部内の一部署である。少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』(以下『WJ』)の編集や『WJ』作品のアニメドラマなどの二次派生作品の監修なども行う。日本一売れている漫画雑誌で、最高部数は653万部、売上が落ちた1996年以降も安定して300万部弱を売り上げるなど、名実ともに集英社の看板雑誌である。

設立経緯[編集]

元々、集英社には創業以来から少年漫画としては月刊誌『少年ブック』があったが、月刊誌ということもあり、『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』、『週刊少年キング』に比べると劣勢が続いていた。これを挽回するために、『少年ブック』の当時の編集長長野規は週刊雑誌刊行の道を探す。しかし当時の集英社会長であり、集英社の親会社小学館社長の相賀徹夫が週刊漫画雑誌の刊行を渋っていたため、実現には相賀や当時の集英社社長陶山巌の度重なる説得が必要であった。

1968年、こうした努力により、隔週誌という条件付けで相賀も渋々承諾した。ところが最終的には、相賀の意向により、隔週ではなく月2回刊行になった。隔週ならば発刊曜日が月5日あるときは月3部刊行となるが、月2回刊行ならば発刊曜日に関わらず、月2回の発行になる。

新雑誌名が『少年ジャンプ』(後の『WJ』)に決まり、1968年7月11日に創刊号発行。

仕事[編集]

部署構成など[編集]

編集長1人をトップに、副編集長3人、班長、平社員で構成されている。班制度をとっており、各班の班長が平社員をまとめている。『WJ』の巻末コメントは班員毎にまとまっており、毎週コメントされる。副編集長以上はコメントしない。「少年漫画」の編集者であることから「少年の心を分かることが大切」としており現在は男性社員のみで構成されているが、女性を排除しておらず少年ジャンプ+には女性編集者が配属されている[1]

創刊当時はアルバイト編集者もいたが、現在の編集者はすべて集英社の正社員である。ただし、編集以外の業務(アンケート集計や事務作業など)では現在も派遣社員やアルバイトが雇用されている。

業務[編集]

漫画編集[編集]

連載漫画
『WJ』内の連載漫画の編集業務が主な仕事である。基本的に1作品に1人の担当がつく。編集者によっては複数の作品を同時進行で担当する場合もある。また、既に連載が終了し次回作の制作に入っている作家にも担当者が付けられる。
漫画家本人と打ち合わせをし、作品の内容や方向性を二人三脚で決める。漫画の編集の仕方は、各編集者に任せられており、作品に大きな影響を与える。長期連載作品では途中で担当者が交代するのが慣例で、引継ぎの際に前任者が後任者に編集方針を指導することがないため作品の傾向がガラリと変わって読者アンケートの成績を大きく落とし、連載打ち切りにつながったケースもある。
新人漫画
将来『WJ』で連載作家として活躍し得る人材を発掘するため、新人漫画家の持ち込みを担当する。より良い作品にするため、アドバイスをしたりもする。
『WJ』単独主催の新人賞では、連載作家に交代で審査員を務めてもらっているとはいえ編集部員の判断が選考のかなりの部分を占めるほか、『WJ』『SQ』合同主催の形を取る『手塚賞』『赤塚賞』でも選考に関わる。
『WJ』単独主催の新人賞で佳作以上を受賞した者に対してはその後、誌面でのデビューに向けて専属契約の手続きや執筆指導など深く関わっていく。『手塚賞』『赤塚賞』で佳作以上を受賞した者については、決定後に『WJ』『SQ』のどちらが担当するか部内で調整する。部内会議に出して連載登用が決定した場合は基本的にそのまま担当になるが、他作品の担当などの兼ね合いから連載時に担当者が変わる場合もある。

その他[編集]

雑誌掲載時のアオリ文を考え、アニメの監修などを漫画家に変わって行うなど他の仕事もある。看板漫画になると、アニメなど二次創作関連の監修を行う専門のメディア担当につくこともある。

他にも『WJ』内の懸賞の商品を買ったり、『WJ』内の企画に出演したりすることもある。

歴史[編集]

長野規体制[編集]

少年ジャンプ創刊まで[編集]

1968年昭和43年)、少年ブック編集長だった長野が異動し、少年ジャンプ編集部の初代編集長になったことで歴史がスタート。他にも少年ブック編集部からは中野祐介が副編集長待遇、西村繁男加藤恒夫が平社員として異動。さらに貝塚ひろしを担当させるために石井一郎も追加異動させた(貝塚は若手編集者を担当させると軽く見られていると思う性格のため)。しかし少年ブック編集部も人材が余っているわけではなく、集英社自体も前年『セブンティーン』を創刊していたことで社内全体で人材不足が深刻化しており、編集者の確保が問題となった。長野は集英社の親会社小学館から発行され先行していた『週刊少年サンデー』に協力を要請するが、「一ツ橋グループ内に週刊の少年漫画誌は2誌も要らない」と一蹴された。

長野は苦肉の策として、集英社外のフリー編集者を使うことを提案。応募した桜木三郎遠崎史朗、村上(すぐに退社したため名前は不明)の3人が編集助手として採用される。前述のように人手不足が深刻化しており、正社員と同じ仕事量でありながら、給与は諸手当込で3万円と不利な労働条件だったが、これが後に発生する労働争議の火種となってしまった。なお面接をした中野は3人の能力に疑問を持ちながらも、不利な条件にも関わらず働いてくる3人に対して将来の社員登用も考えていたが、長野はあくまで臨時採用と考えていた。採用後すぐに抜けた村上の代わりに山田和夫が編集助手に採用される。

正社員5名とアルバイト編集者3名の計8名が創刊時の編集部だった。創刊当時は月2回発刊で、3名加わったとは言え、人材不足は未だ解消されていなかった。

月2回発刊誌から週刊誌へ[編集]

1969年(昭和44年)、ライバルである講談社が幼年向け月刊誌『ぼくら』を『週刊ぼくらマガジン』として週刊化する方針が伝わる。これを受けて小学館ではそれに対抗する新しい週刊誌の発行を模索するが、当時の小学館には全くの新雑誌を創刊できる余力がなかったため、同じ一ツ橋グループである集英社の『少年ジャンプ』を週刊化して対抗することを決定。これにより少年ジャンプは当初の目標だった週刊誌化を果たす。

これに伴い『少年ブック』は休刊が決まり、少年ブック編集部は少年ジャンプ編集部に統合される。少年ブック編集部の編集者と宣伝課からの6名の異動により、8名だった少年ジャンプ編集部は14名になった。この時加わったメンバーには前年1968年に集英社に入社および少年ブック編集部配属になり、後に『トイレット博士』を担当する角南攻もいた。他週刊少年誌の編集部は当時でも20名以上で構成されており、14名と増えても以前と変わらず人材不足の状態であった。実際に2009年5月時点のWJ編集部の人数は22名とその後増えている。

長野体制において、専属契約制度やアンケート至上主義も考え出されるなど、基本となる構造はこの時期に培われた。

非正規労働者による労働運動[編集]

前述のとおり、創刊時より編集助手を使っていたが、これはWJ編集部に限ったことではなく、多くの編集部で非正規労働者が存在していた。中には正社員と全く同じ仕事をする者もいたが、給与や福利厚生は正社員のものより低待遇のものであった。正社員の労働組合は結成されていたが、非正規労働者のための組合はなかった。1969年頃、非正規雇用者の待遇改善を求める動きが高まって「集英社臨時労働者組合」が結成された。そのトップである初代委員長は遠崎であった。西村は遠崎と個人的に親しかったこともあり、長野から組合崩しの密命を受けて説得を試みるが失敗する。

組合運動が本格化すると、集英社は非正規雇用者の正規社員登用試験を組合の決起集会の日にぶつけることで、組合潰しは成功する。なお長野と西村によって少年ジャンプ編集部からは遠崎以外は組合加盟者はいなかった。正規社員登用試験へはジャンプ編集部からは5人受験し、桜木、山田、谷口忠男の3人が合格。一方で、遠崎は組合活動失敗によって自身の正社員登用の目がないと知ると、漫画原作者の道を志す。

生え抜き社員の登場[編集]

1970年(昭和45年)4月の定期採用で後藤広喜中野和雄の2人が集英社に入社し、WJ編集部に配属。正式にWJ編集部に新人が配属されたのは2人が初である(角南は少年ブック配属で掛け持ち)。同期入社であることから、2人はライバルとして編集長の地位を争っていく。後藤は『ドーベルマン刑事』などのシリアス方面で、中野は『キン肉マン』に代表されるギャグ方面でヒット作を送り出していく。

中野祐介体制[編集]

編集長が中野祐介に移ると、副編集長は西村と阿部高久の2人になる。

1975年(昭和50年)4月に堀内丸恵太田富雄が集英社に入社、WJ編集部に配属。

1976年(昭和51年)4月の定期採用では鳥嶋和彦が集英社に入社し、WJ編集部に配属。鳥嶋は後に鳥山明桂正和を発掘した敏腕編集者になる。

この年半ばに中野が病気で倒れ入院、胃の摘出手術を受ける。年末に中野が復帰するが、病気療養の兼ね合いもあり、以後実質的な采配は副編集長の西村が執ることになる[2]

西村繁男体制[編集]

主な出来事[編集]

西村体制においては、堀内が担当を務める秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』がスタート。アンケート至上主義の『WJ』において40年も連載をしていた。

1977年(昭和52年)4月に根岸忠、翌1978年(昭和53年)は鈴木晴彦が入社。鈴木は高橋陽一を発掘する。同年3月に中野が編集長を退き、西村が正式に編集長に昇格する。

1979年(昭和54年)4月の定期採用で堀江信彦椛島良介が集英社入社、WJ編集部に配属。5月、第三編集部部長であり2代目編集長の中野祐介が編集長となり『ヤングジャンプ』(後の『週刊ヤングジャンプ』)を創刊。これに伴いWJ編集部にも編集者の協力を求められ、中野祐介の指名で角南ら2名がYJ編集部に異動した[3]

1980年、鳥山の『Dr.スランプ』がアニメ化にも伴って大ヒット。メディアミックスが図られていくことになる。西村自身はブック編集部時代の経験から、漫画家・編集部の意思が反映されないアニメ化に抵抗感があったため、アニメ化に際しては編集部による監修を行った。また他にも『キャプテン翼』『キン肉マン』など連載漫画のアニメ化→ヒットが相次ぎ、テレビ局などから連載漫画の青田買いを行う動きが出てきたことから、「連載が1年未満の作品のアニメ化は許可しない」方針を打ち出した[4]

1982年7月、西村は新人育成を目的として『フレッシュジャンプ』を創刊。

ラブコメの排除[編集]

週刊少年サンデー』の『うる星やつら』『タッチ』のヒットにより、1980年代初頭はラブコメブームが起こっていた。当時のWJ編集部においても編集者たちはラブコメを意識した漫画を推したり、既存の連載作者にも例え非ラブコメ作品であってもキャラクター同士の恋愛関係といったラブコメ的な内容を描かせるケースまであった。

西村は"少年"漫画であることを重視し、『WJ』では意識的にラブコメ路線の排除をねらったが、『きまぐれオレンジ☆ロード』といったヒット作品も生まれたほか、北条司作品にもラブコメ的な要素が含まれており徹底は出来なかった。現在でも作中で恋愛的な内容を意識して描かないようにしている作家がいるが、西村が『SJ』に転出した後は、ラブコメ路線どころか少年誌における性描写の限界に挑んだことすらあった。

第4代編集長争い[編集]

西村の編集長昇格に伴い、加藤が副編集長になる。このまま順当に行けば加藤が編集長だが、中野祐介も西村も加藤の編集長就任には否定的だった。加藤は細かすぎる性格であり、漫画家とスタッフの個性が潰されると考えたためだった。

結果として、初の生え抜き社員の後藤、中野和雄が4代目の編集長候補となる。2人は入社から切磋琢磨してきて、両者ともに副編集長までは同時に昇進した。しかし、正反対の性格の副編集長が2人いることで、編集部内の意思統一が難しくなった。西村は後藤に編集長を譲る考えの元、その前準備として、中野和雄を『フレッシュジャンプ』の副編集長へと変える。なお、長野は2人を1年交代で担当を入れ替えて、その実績によって判断すべきと考えていた。次期編集長の実質上の決定は余計に2人の対抗意識を煽ることになり、後に中野和雄は『フレッシュジャンプ』成功のためにWJ連載中の漫画家を連載させるなど、新人育成という当初の目的から外れていくことになる。

後藤広喜体制[編集]

1986年(昭和61年)、8年間編集長を務めた西村が編集長から退き後藤が編集長に昇格。西村は『スーパージャンプ』を立ち上げ同誌の編集長となった。

1987年(昭和62年)、椛島が担当した荒木飛呂彦が『ジョジョの奇妙な冒険』連載開始。1988年(昭和63年)8月の株主総会で集英社社長に若菜正が就任、集英社内部の大改革が始まる。役員の若返り、大規模な横断的人事などである。WJ編集部も若菜の改革に晒されるが、担当役員の西村は拒絶する。当時の『WJ』は順調に発行部数を伸ばしていたこともあり、西村の意向が通る。

堀江信彦体制[編集]

1995年(平成7年)3号・4号において史上最高発刊部数653万部数を記録。しかし、順調に発行部数を伸ばしていた『WJ』にも、看板漫画の終了とともに陰りが見え始める。1995年に『ドラゴンボール』が連載終了し、1996年(平成8年)の発刊部数は前年を下回った。1996年の『スラムダンク』連載終了によって拍車がかかり、以降着実に部数を落としていく。その責任を取らされ、堀江は更迭。『メンズノンノ』編集長に転出する形でジャンプを去った。

堀江は2000年(平成12年)の『BART』廃刊をきっかけに退職し、コアミックスを設立。『コミックバンチ』『コミックゼノン』など、週刊ジャンプで連載経験のあった作家を起用した雑誌を手がけ編集者、経営者としての成功を手にした。

鳥嶋和彦体制[編集]

鳥嶋体制において、その復活が図られることになる。それまでWJ編集部の編集長交代時には、前編集長より後輩が選ばれていた。鳥嶋は堀江の3年先輩であり、編集長が先輩に受け継がれた初めての事例であった。また鳥嶋は1993年(平成5年)にゲーム雑誌『Vジャンプ』を立ち上げ同誌の創刊編集長となっており、それまで『少年ジャンプ』編集部内での内部昇格が基本だった編集長の座に、ジャンプ系列誌とはいえ別雑誌の編集長が横滑りしてくるという点でも異例の人事だった。さらに堀江が第三編集部を離れたため前任編集長の指定席的ポストといえる週刊ジャンプ発行人へ昇格できなくなり、鳥嶋は編集長兼発行人としてジャンプ発行の全責任を負っていくことになる。

1997年(平成9年)『ONE PIECE』、1999年(平成11年)『NARUTO -ナルト-』など、後の『WJ』の看板作品となる作品も鳥嶋体制で連載開始された。

こうした改革はなされたが部数下落は止まらず、ついに『週刊少年マガジン』に発刊部数1位の座を明け渡すことになる。

高橋俊昌体制[編集]

2002年(平成14年)、高橋体制において『週刊少年マガジン』に追い抜かれていた部数を抜き返してトップに返り咲く。しかし、WJ発刊部数は増えたわけではなく、1996年以来落ち続けていた。単に『週刊少年マガジン』の部数の落ちが、『WJ』のそれよりも急激だっただけである。

2003年(平成15年)1月、高橋がクモ膜下出血により急逝。

茨木政彦体制[編集]

2003年、急逝した高橋に代わり、副編集長の茨木が編集長に昇進。

売上不振であった『月刊少年ジャンプ』を2007年(平成19年)6月6日に発売した2007年7月号で休刊し、新しくジャンプスクエア編集部を立ち上げ、2007年11月2日に月刊誌『ジャンプスクエア』を創刊。茨木は週刊少年ジャンプ編集部とジャンプスクエア編集部の編集長を兼任する。

佐々木尚体制[編集]

佐々木体制においては、1996年以来下げ続けていた発刊部数の下落に歯止めがかかり、微増ながら部数上昇を果たす。

2009年(平成21年)4月よりテレビ東京系列で「サキよみ ジャンBANG!」の放送に協力。この番組は今までと違い、漫画紹介だけではなく、ジャンプ編集部や編集など漫画の作られ方にもスポットを当てた新しい形の番組であった。

週刊少年ジャンプ編集部を描いた作品[編集]

小説[編集]

  • 西村繁男『さらば わが青春の『少年ジャンプ』』(飛鳥新社)- 自身の集英社社員時代のWJ編集部を赤裸々に語った作品。
  • 西村繁男『漫画王国の崩壊』(ぶんか社) - 過激な内容のためフィクションと銘打ち、登場人物や雑誌名こそ架空の名前だが、西村の集英社社員時代の派閥闘争が露骨に描かれている。

漫画[編集]

  • 少年リーダム』(原作・西村、作画・次原隆二) - 西村の「さらば わが青春の『少年ジャンプ』」を原作とした漫画。1980年代のWJ編集部を舞台にしている。他社のため、編集者名や雑誌名は架空のものに変えられている。
  • バクマン。』(原作・大場つぐみ、作画・小畑健) - フィクションだが、佐々木体制時点での現実のWJ編集部の名称や編集者名がそのまま出てくる。

出典・脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 少年ジャンプ編集者は「少年の心」が必要? 企業説明会の真偽について集英社が回答 - ハフポスト
  2. ^ 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」p.225
  3. ^ 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」pp.235 - 236
  4. ^ 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」p.246

参考文献[編集]

  • 西村繁男『さらば わが青春の『少年ジャンプ』』(飛鳥新社)
  • 西村繁男『漫画王国の崩壊』(ぶんか社)