角南攻

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角南 攻(すなみ おさむ、1944年1月1日[1] - 2014年8月7日)は、日本の男性漫画編集者愛知県名古屋市出身。早稲田大学卒業。『週刊ヤングジャンプ』2代目編集長、『ビジネスジャンプ』初代編集長。『トイレット博士』のスナミ先生のモデルとして知られる。

経歴[編集]

先祖代々より医者の家系であり9代前の先祖は杉田玄白とも面識があったという。叔父は長崎大学医学部で形成外科として名を馳せるほどであり生粋の医者の家系であった。母親は岡山県の鏡野町の豪農の家系で6世紀から大和朝廷が一目置くタタラ製鉄と薬師の秘宝が伝わった現在も続く由緒正しき家柄。父親の先祖は同県の児島の出身であり材木屋と塩田経営を行う豪商であったという。また父親は京都帝国大学経済学部を卒業するが就職難に遭い倉敷の市役所に勤めていた際に先輩から誘われて名古屋の市役所に務める事になったという逸話があり定年になるまで出世していった[2]

両親が岡山出身のため岡山に生家があり(親族も岡山に居るとのこと)それなりに資産もあって裕福であったが敗戦後に農地改革として土地を没収され没落していったという。

1945年に先祖の地である岡山で疎開した際は当時1歳だったのにも関わらず記憶が鮮明に残っているそうだ。

子供の頃から父の友人がきっかけで漫画に興味を持ち『おもしろブック』を愛読書とし気がつけばノートに落書きとして漫画ばかり描いてるような少年であった。また運動会の際に騎馬戦で相手の馬にぶらつき8人総崩れとなり全治六ヶ月の複雑骨折を負い入院中に書いた彼の作文「手術の日」は愛知県知事賞を獲得したという[3]

市役所に勤めていたお役人気質な父とは喧嘩をする事もあり一度だけだが殴り合いにも発展した。これが唯一の父と喧嘩した時であった。[4]

高校時代は人間や動物学に興味があり一時期は「アフリカのゴリラに餌をやる」という事も考えていた。ただし将来については完全に定まっておらず「小説家」や「医者」なども頭にあった。最終的に進路については完全に自分の判断で決め高校卒業時には父の出身校である京大を受験するが点数が足りずに失敗する。早稲田大学教育学部大阪外国語大学に合格し早大に入学するが京大への夢を諦めきれず浪人して中退。そして再び受験するが点数が足りずに落ちてしまいやむを得ず早大に復学する。1964年の時であった[5]

復学した際は早大の学園祭で友人達と共に喫茶店を経営しその利益は数百万に及んだとされ相模大野駅前で坪一万円で80坪を購入し家を建てようとするがそれは土地ブローカーによる詐欺であり大損をする。それが悔しかった角南は宅地建物取引主不動産鑑定士、教員免許…など結果として十数個の資格を取っていった。大学卒業後は物書きになりたいという意思で新聞社に入社しようとするが就職部から「君は早大闘争の際に写真をバッチリ撮られてるから駄目だよ」と反対に遭い集英社への入社を決意する。

紆余曲折あり1968年(昭和43年)に集英社に入社。縁あって子供の頃に馴染みのあった少年ブックの編集を務める。1969年(昭和44年)に集英社初の青年漫画雑誌『ジョーカー』に携わる[6]。その後、『少年ジャンプ』(後の『週刊少年ジャンプ』)編集部に異動、同誌で『トイレット博士』(とりいかずよし)、『ハレンチ学園』(永井豪)の担当を務める。

1979年(昭和54年)、『週刊少年ジャンプ』の元編集長の中野祐介と共に『ヤングジャンプ』(後の『週刊ヤングジャンプ』)を立ち上げ、初代副編集長として参加する。1983年(昭和58年)に中野の跡を継いで編集長に就任し、1992年(平成4年)まで務める[6]

その後、集英社の系列会社である白泉社に異動、『ヤングアニマル』の立ち上げに関わった。白泉社では常務取締役顧問を務める。2009年の定年退職後はフリーランスの作家として活動した。

2014年8月7日、肺癌のため死去した[7]。享年70。

人物[編集]

  • 名前を「すなみ いさお」と間違って読まれることが多く、『週刊ヤングジャンプ』においてもこの誤読でルビが振られることが多かった。
  • プロ野球・中日ドラゴンズの大ファンでもあり、マスコミ界の中日ファンの集まりである「われらマスコミドラゴンズ会(通称:マスドラ会)」では2012年より死去時まで会長に就任していた[8]。そのため東海地方出身の漫画家や中日ファンの漫画家を重用していた、と自ら告白している。
  • 学生時代、赤塚不二夫のスタジオ「フジオ・プロ」に学園祭への無償協力を求めに行ったことがあり、赤塚はその経験を元に『天才バカボン』の○○研究会のキャラクターを生み出した[9]
  • 目立ちたがりの人物であり、様々な作品にパーマ頭、ギョロ目、あごひげの濃い剃り跡など角南自身をモデルとしたキャラクターを登場させている[10]
    • 同郷のとりいかずよしの『トイレット博士』にスナミ先生として出演[6]、連載後半では事実上の主人公となった。スナミ先生の奥さんや子供の登場は、角南の私生活をそのままトレースしたものである。
    • 小林よしのりの『東大一直線』が『少年ジャンプ』で打ち切られた後、続編『東大快進撃』を『ヤングジャンプ』で連載させた。このため『ヤングジャンプ』時代の小林の漫画にも時々脇役で登場する。
    • マッド★ブル34』に34分署のスナミ署長として登場[6]
  • 雑誌『ムー』編集長の三上丈晴によると、口裂け女の仕掛け人こそ角南自身であり、当時あるラジオ局と協力し「ポマードと唱えると逃げる」などの設定を考案し、その噂を伝播させることに成功したと三上に対しカミングアウトしたという[11]
  • 漫画評論家の米澤嘉博とは一時期同じ町内に住み、子供が同じ小学校に通っていたため運動会その他の行事で面識があった。
  • 子供の頃は虚弱体質であり気がつけば漫画ばかり読んでいるような少年だった。また身体も小さく身長は130cmしかなかった(最終的に170cmまで到達した)
  • 下宿先に当時大スターだった森繁久弥がいて『空席の法則』について教わったという

著書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ メタクソ団の団長スナミちゃんは少年誌を再興させたスーパーマンだった
  2. ^ メタクソ編集王 2014年5月1日出版、竹書房、16頁より
  3. ^ メタクソ編集王 2014年5月1日出版、竹書房、20頁-21頁より
  4. ^ メタクソ編集王 2014年5月1日出版、竹書房、24頁より
  5. ^ メタクソ編集王 2014年5月1日出版、竹書房、29頁-34頁より
  6. ^ a b c d 「BEARS 30th LEGEND 週刊YJクロニクルズ」『週刊ヤングジャンプ』2009年7号(1月29日号、31巻5号、通巻1424号)集英社、434 - 435頁
  7. ^ 訃報 われらマスコミドラゴンズ会 2014年8月12日
  8. ^ 2012年3月22日付中日スポーツ3面
  9. ^ ラディカル・ギャグ・セッション (1988年、河出書房新社)
  10. ^ さらば、わが青春の『少年ジャンプ』 (西村繁男著、1994年、飛鳥新社)
  11. ^ 2013年10月4日放送 法円坂ホラー研究会 谷町第二高等学校

外部リンク[編集]

先代:
中野祐介
1979年 - 1983年
週刊ヤングジャンプ編集長
2代目(1983年 - 1992年
次代:
山路則隆
(1992年 - )