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|casualties2=不帰還者 84,000~141,290人<!--元軍兵力を140,000人とした場合の6割~9割=不帰還者84,000~126,000人・元軍兵力を156,989人とした場合の6割~9割=不帰還者94,193~141,290人--><ref name = "世祖八 至元十八年八月">『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年八月壬辰の条「忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。」</ref><ref name = "李庭伝">『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 李庭「十七年、拜驃騎衞上將軍、中書左丞、東征日本、十八年、軍次竹島、遇風、船尽壞、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師、士卒存者十一二。」</ref><ref name = "阿塔海伝">『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。」</ref><ref name = "相威伝">『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」</ref><ref>『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年)閏(八)月(中略)忻都(洪)茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」</ref><br />(うち高麗兵及び東路軍水夫の不帰還者7,592人/生還者19,397人)<ref name = "高麗軍"/><ref name = "高麗兵内訳">東征軍九千九百六十名とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」</ref><br /> |
|casualties2=不帰還者 84,000~141,290人<!--元軍兵力を140,000人とした場合の6割~9割=不帰還者84,000~126,000人・元軍兵力を156,989人とした場合の6割~9割=不帰還者94,193~141,290人--><ref name = "世祖八 至元十八年八月">『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年八月壬辰の条「忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。」</ref><ref name = "李庭伝">『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 李庭「十七年、拜驃騎衞上將軍、中書左丞、東征日本、十八年、軍次竹島、遇風、船尽壞、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師、士卒存者十一二。」</ref><ref name = "阿塔海伝">『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。」</ref><ref name = "相威伝">『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」</ref><ref>『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年)閏(八)月(中略)忻都(洪)茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」</ref><br />(うち高麗兵及び東路軍水夫の不帰還者7,592人/生還者19,397人)<ref name = "高麗軍"/><ref name = "高麗兵内訳">東征軍九千九百六十名とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」</ref><br /> |
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捕虜<br />20,000~30,000人<ref name = "日本伝">『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島か)、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、 謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。」</ref>|}} |
捕虜<br />20,000~30,000人<ref name = "日本伝">『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島か)、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、 謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。」</ref>|}} |
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'''元寇'''(げんこう)とは、[[日本]]の[[鎌倉時代]]中期に、当時大陸を支配していた[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])及びその服属政権となった[[高麗]]王国によって二度に亘り行われた対日本[[侵攻]]の呼称である。一度目を'''文永の役'''(ぶんえいのえき・[[1274年]])、二度目を'''弘安の役'''(こうあんのえき・[[1281年]])という。'''蒙古襲来'''とも。主に[[九州]]北部が戦場となった。 |
'''元寇'''(げんこう)とは、[[日本]]の[[鎌倉時代]]中期に、当時大陸を支配していた[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|大元ウルス]])及びその服属政権となった[[高麗]]王国によって二度に亘り行われた対日本[[侵攻]]の呼称である。一度目を'''文永の役'''(ぶんえいのえき・[[1274年]])、二度目を'''弘安の役'''(こうあんのえき・[[1281年]])という。'''蒙古襲来'''とも。主に[[九州]]北部が戦場となった。 |
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== 名称 == |
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* [[1271年]]([[文永]]8年・[[至元 (元世祖)|至元]]8年)9月、高麗に反乱を起していた[[三別抄]]から、軍事的援助を求める使者が来日<ref name="三別抄">『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」とある</ref>。 |
* [[1271年]]([[文永]]8年・[[至元 (元世祖)|至元]]8年)9月、高麗に反乱を起していた[[三別抄]]から、軍事的援助を求める使者が来日<ref name="三別抄">『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」とある</ref>。 |
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この時、三別抄は自らを高麗王朝と称していた。朝廷は既に高麗からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状がモンゴル帝国側を非難し[[珍島]]への遷都を告げ、さらには |
この時、三別抄は自らを高麗王朝と称していた。朝廷は既に高麗からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状がモンゴル帝国側を非難し[[珍島]]への遷都を告げ、さらにはモンゴル帝国と対抗するため兵力や兵糧の援助を請う内容であったため、非常に不可解と感じられてこれも黙殺した<ref>この文永8年の「高麗牒状」については『吉続記』文永8年9月2日条、その対応を伝える同9月4日条の記述しか知られていなかったが、その「牒状」についての不審点を箇条書きしたメモ「高麗牒状不審条々」が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。「牒状」本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この時の「高麗牒状」は江都(江華島)・開京の高麗国王・元宗政権からのものではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出したものであるとほぼ確実視されている。 石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。 </ref>。 |
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なお、一方で三別抄は、同年にモンゴル帝国に対して「駐屯する |
なお、一方で三別抄は、同年にモンゴル帝国に対して「駐屯する蒙古軍を退けてほしい。そうすれば帰順する。しかし、蒙古の将軍・[[忻都]](ヒンドゥ)が要請に従おうとしない。皇帝にお願いする。私たちに[[全羅道]]を任せたうえで、蒙古朝廷の直轄地としてほしい」<ref>『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条「乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸郡退屯、然后内附。而忻都從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」</ref>と要請している。 |
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* [[1273年]](文永10年・至元10年)4月、元は高麗軍を主力とする軍船160艘、12,000人(高麗軍6千、屯田軍2千、漢軍2千、武衛軍2千)の軍をもって[[三別抄]]を平定([[三別抄|三別抄の乱]])<ref name="『高麗史』元宗十四年四月庚戌の条">『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条「庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、」</ref><ref>『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。」 </ref><ref>『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」 </ref>。 |
* [[1273年]](文永10年・至元10年)4月、元は高麗軍を主力とする軍船160艘、12,000人(高麗軍6千、屯田軍2千、漢軍2千、武衛軍2千)の軍をもって[[三別抄]]を平定([[三別抄|三別抄の乱]])<ref name="『高麗史』元宗十四年四月庚戌の条">『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条「庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、」</ref><ref>『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。」 </ref><ref>『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」 </ref>。 |
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* また、[[モンゴル帝国]]第4代皇帝・[[モンケ]]の時代に服属していた[[ベトナム]]北部の[[陳朝]]大越国でも、元によるベトナム南部の[[チャンパ王国]]侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・[[陳聖宗]]が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵(元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵(海南島の黎族兵)1万5千)を派遣した<ref>『元史』巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國「二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。」</ref> 。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は[[雲南]]へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている([[白藤江の戦い]])。 |
* また、[[モンゴル帝国]]第4代皇帝・[[モンケ]]の時代に服属していた[[ベトナム]]北部の[[陳朝]]大越国でも、元によるベトナム南部の[[チャンパ王国]]侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・[[陳聖宗]]が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵(元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵(海南島の黎族兵)1万5千)を派遣した<ref>『元史』巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國「二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。」</ref> 。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は[[雲南]]へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている([[白藤江の戦い]])。 |
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これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤンの反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ |
これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤンの反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ王国、また1290年代に侵攻があった[[ジャワ島]]の[[マジャパヒト王国]]でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、クビライ治世末期には南方への元からの軍事的脅威はほぼ解消した。 |
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=== 第三次日本侵攻計画(クビライ晩年) === |
=== 第三次日本侵攻計画(クビライ晩年) === |
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『[[高麗史]]』によると1272年に、[[高麗]]の[[王世子]]の諶(しん、後の[[忠烈王]])が、[[元 (王朝)|大元朝]]の[[クビライ]]に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」<ref name="高麗史">『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の[[中書省]]が発送した[[牒]]にある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 {{近代デジタルライブラリー|991068/217}} 。</ref>と具申したとある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた<ref>森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。</ref>。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお抵抗を続けていた。これが[[三別抄]]である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。 |
『[[高麗史]]』によると1272年に、[[高麗]]の[[王世子]]の諶(しん、後の[[忠烈王]])が、[[元 (王朝)|大元朝]]の[[クビライ]]に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」<ref name="高麗史">『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の[[中書省]]が発送した[[牒]]にある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 {{近代デジタルライブラリー|991068/217}} 。</ref>と具申したとある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた<ref>森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。</ref>。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお抵抗を続けていた。これが[[三別抄]]である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。 |
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=== 日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」 |
=== 日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」の解釈 === |
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{{See|日蓮}} |
{{See|日蓮}} |
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日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている<ref>関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54-(1)、2005年12月、219頁</ref>。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、[[日朝]]の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した[[日澄 (一如房)|円明院日澄]]([[1441年]]-[[1510年]])『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった<ref>新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月</ref>。『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる<ref>新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁</ref>。 |
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている<ref>関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54-(1)、2005年12月、219頁</ref>。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、[[日朝]]の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した[[日澄 (一如房)|円明院日澄]]([[1441年]]-[[1510年]])『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった<ref>新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月</ref>。『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる<ref>新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁</ref>。 |
2013年7月28日 (日) 12:50時点における版
元寇・文永の役 | |
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文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』) | |
戦争:元寇 | |
年月日:1274年11月4日-19日(文永11年10月5日-20日:至元11年10月5日-20日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本勝利、モンゴル帝国軍の撤退 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 九州の地頭・御家人 |
ファイル:White Sulde of the Mongol Empire.jpgモンゴル帝国(大元ウルス) モンゴル・高麗連合軍 |
指導者・指揮官 | |
鎮西奉行 少弐資能[1] 鎮西奉行 少弐経資
対馬守護代 宗資国
壱岐守護代 平景隆
|
総司令官
東征左副都元帥 劉復亨
以下三翼軍内訳
都督使 金方慶
左軍使 金侁
右軍使 金文庇 |
戦力 | |
不明 |
(千料舟126[11]~300艘、抜都魯(バートル)軽疾舟300艘、汲水小舟300艘)[12] |
損害 | |
不明
|
不帰還者 13,500余人[20] |
元寇・弘安の役 | |
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弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』) | |
戦争:元寇 | |
年月日:1281年6月9日-8月21日(弘安4年5月21日-閏7月7日:至元18年5月21日-8月7日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本勝利、モンゴル帝国軍の壊滅・一部逃亡 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 主に九州の地頭・御家人 |
ファイル:White Sulde of the Mongol Empire.jpgモンゴル帝国(大元ウルス) モンゴル・高麗連合軍(東路軍および江南軍) |
指導者・指揮官 | |
総司令官
鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政
引付衆 宇都宮貞綱(到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加) |
総司令官
東征都元帥 忻都(ヒンドゥ)
日本行省右丞 范文虎
|
戦力 | |
不明 (江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎[24]。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある[25]。)
60,000余騎(到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加)[26] |
東路軍約40,000[28][29]~56,989人[30]
江南軍100,000人[32] |
損害 | |
不明 | 不帰還者 84,000~141,290人[34][35][36][37][38] (うち高麗兵及び東路軍水夫の不帰還者7,592人/生還者19,397人)[31][39] 捕虜 |
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に亘り行われた対日本侵攻の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。主に九州北部が戦場となった。
名称
鎌倉時代・室町時代の呼称
モンゴル帝国(大元朝)・高麗連合軍による二度の日本侵攻について、鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異國合戦などと表記していた。「異賊」という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、『八幡愚童訓』等鎌倉時代前後の文献では、刀伊の入寇や神功皇后による三韓征伐についても用いられている。その他、「凶徒」という呼称も用いられた。
また、1274年の第一次侵攻は文永合戦、1281年の第二次侵攻は弘安合戦などと表記されていた。
一方、元や高麗の文献では、日本侵攻を「征東(または東征)」、「日本を征す」、「日本之役」などと表記している。
元寇という呼称
「元寇」という呼称は徳川光圀編纂『大日本史』が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒『蒙古寇紀』、小宮山昌秀『元寇始末』、19世紀の大橋訥庵『元寇紀略』など、「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。
幕末に流行した頼山陽の『日本外史』では、弘安の役について「元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚(ふんい)して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、茫文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現している。
「寇」は「他人の家に入り込んで棒で打つ」様を表した文字で、「外敵」「(外敵が)かすめ取る」という意味で、侵略者の野蛮さや不当さを非難する感情が込められた表現であるとされる。川添昭二は、この表現が江戸後期に出現した背景としては、アヘン戦争で清がイギリス帝国に敗れたことや日本近海に西洋列強の船舶の来航が頻発したため、当時の日本の知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識」昂揚があり、過去の蒙古襲来についてもその文脈で見るようになったと指摘している[41]。なお、近年では「元寇」の他にも「蒙古襲来」、「モンゴル襲来」なども使用される[42]。
この他、「文永の役」・「弘安の役」についても、元・高麗側資料とも共通の名称をはかるため、一部で1274年と1281年の干支にちなんで「甲戌・辛巳の役」という呼称が提案されているが[43]、一般的ではない。
蒙古・元の呼称
モンゴル帝国第5代皇帝・クビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古國皇帝」とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称は1268年(文永5年・至元5年)正月に、クビライの命によって高麗から派遣された使者が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時の公家の日記にも「蒙古」の呼称が用いられている。
なお、1271年12月18日(文永8年・至元8年)、クビライは国号を漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、鎌倉時代の日本では蒙古という呼称が一般化していたため、「元・大元」等の呼称は用いられなかった。
江戸時代に入ると『元史』などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である「元」という呼称、また、クビライを指して「胡主」「胡元」といった遊牧勢力に対する貶称も日本においても用いられるようになる。
第一次日本侵攻までの経緯
※暦はユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦、宣明暦の長暦による。
モンゴル帝国の高麗併合
- 1260年(文応元年・中統元年)、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)に即位した後の「大元朝」[44]の皇帝・クビライ・カアン(世祖)は、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する[45]。高麗への懐柔策の採用は、日本侵攻に高麗を協力させるためだったとされる[45]。
モンゴル帝国の樺太侵攻
- 1264年(文永元年・至元元年)、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、すでにモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族の吉里迷(ギレミ)の要請を受けて[46]、モンゴル帝国は、アイヌ族の骨嵬(クイ)を攻撃している[47]。
日本招諭の発端
趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章・政治に嘉するに足る者があります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」[49]と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる[50]。クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした[48] 。
なお、クビライが日本へ関心を抱いたのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によると、以下のように日本の富のことを聞かされ着目したからだとしている。
「ジパング(日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も二ドワの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した」[51]
南宋遺臣の鄭思肖もまた「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭の主が来臣しないのを怒り、土(南宋)の民力をつくし舟艦を用意して、往きて攻める」[52]と述べており、クビライが日本の豊かさを聞知したことを日本招諭の発端としている。
他方、モンゴルによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴルは海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である[53]。ただし、クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」[54]と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」[55]と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。
第一回使節
クビライは使節の派遣を決定すると、翌1266年(文永3年・至元3年)付で日本宛国書である「大蒙古國皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎の黒的と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣した[48]。使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内される予定であった。
しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を懼れていた[57]。 そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、黒的ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬をのぞみ、海の荒れ方を見せて航海の危険であること、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた[58]。これを受けて使節らは、高麗の官吏とともにクビライのもとに帰朝する。
しかし、報告を受けたクビライは予め「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや[59]、元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨した[60]。
怒ったクビライは、今度は高麗が自ら日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを高麗国王・元宗に約束させた[61]。
命令に逆らうことのできない高麗国王・元宗はこの命令に従い、元宗の側近であった起居舎人・潘阜らを日本へ派遣する[61][62]。
第二回使節
大宰府の鎮西奉行・少弐資能は大蒙古國皇帝奉書(日本側呼称:蒙古國牒状)と高麗国王書状[63]、使節団代表の潘阜の添え状の三通を受け取り、鎌倉へ送達する。
鎌倉幕府ではこのような危機を前にして、この年の3月に北条時宗が8代執権に就任した。
当時の外交担当は朝廷であったため、鎌倉幕府は朝廷に蒙古国書を回送する[64]。 朝廷と幕府の仲介職である関東申次の西園寺実氏は幕府から国書を受けとると、後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した[57]。朝廷では亀山天皇が即位していたが、実際に政務を担当したのは院政を布く後嵯峨上皇であった[64]。蒙古国書への対応を巡る朝廷の評定は連日続けられた。
幕府では蒙古人が凶心を挿んで本朝(日本)をうかがっており、近日牒使を派遣してきたとして、蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した[65]。鎌倉の建長寺などには南宋より禅僧が渡来しており、これらの僧侶による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる[66]。
日本側からの反応がなかったため、太宰府来着から7ヶ月後に使節団は高麗へ帰還しており、高麗は遣使の失敗の旨をクビライに報告している。
- 同1268年(文永5年・至元5年)5月、なお、クビライは使節団の帰還を待たずに「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と日本征服の意思を表明しており、高麗に戦艦1,000艘の造船を命じている[54]。
- 同年10月、また、クビライは高麗に厳命した軍兵10,000と戦艦1,000艘の軍備が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べ、さらに元の官吏を派遣して朝鮮半島の黒山島より日本侵攻ルートを調査させた[55]。
同年、モンゴル帝国は、第2代皇帝・オゴデイ以来の懸案であった南宋の侵攻を開始。1273年(文永10年・至元10年)に南宋の襄陽・樊城が陥落するまで激戦が展開された(襄陽・樊城の戦い)。
大蒙古國皇帝奉書
蒙古国書の内容は、次の通りであった。
天の慈しみを受ける
大蒙古国皇帝は書を
日本国王に奉ず。朕(クビライ)が思うに、いにしえより小国の君主は
国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が
祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(中国)を悉く領有し、遠方の異国にして
我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した
当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので
命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが
その歓びは父子のようである。
この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の
東藩である。日本は高麗にごく近い。開国以来
また、時には中国と通交している。朕の代に至ったが
一度の誼みを通じようという使者もない。なお恐れるは
王国(日本)はその事を未だ審らかに知らないのではないかと。ゆえに特に使いを遣わして書を持参し
朕の志を布告させた。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
もって互いに親睦を深めたい。かつ、聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
家となすものである。互いに誼みを通じさせないというのは一家の理と言えるだろうか。
もって、兵を用いることは誰が好むことであろうか。
王よ、その点を考慮されよ。不宣。
※wikisource:蒙古皇帝国書も参照。
蒙古國牒状 |
上天眷命 |
宗性筆『蒙古國牒状』(『調伏異朝怨敵抄』より) 南都東大寺尊勝院所蔵 |
このクビライが最初に送った蒙古国書は日本に服属ではなく通好を求めたものであったが、場合によっては武力を用いることを仄めかすなど恫喝を含んだものであった。この蒙古国書の内容については諸説あるが、末尾の「不宣」という語は、友人に対して用いられるものであり、日本国王を「臣」とする、すなわち服属の要請ではないなど[64]、蒙古皇帝が他国の君主に与える文書としては前例のないほど鄭重なものとする見解がある一方[68]、高圧的であるという見解もあり、歴史小説家陳舜臣は、冒頭の「朕惟自古小國之君…」の「小国」は日本を指し、最後に「兵を用いることは誰も好まない」と武力で脅すなど、歴代中国王朝国書と比較しても格段に無礼としている。
第三回使節
- 1269年(文永6年・至元6年)2月、クビライは再び正使・黒的、副使・殷弘ら使節団を日本へ派遣。高麗人の知門下省事・申思佺、侍郎・陳子厚および起居舎人・潘阜らの案内で、総勢75名を伴って日本の対馬に上陸した[69][70]。
これを受けて、朝廷は返書の草案を作成して幕府に伝えたが、第二回使節の時と同じく幕府は「返牒遣わさるべからずの旨」を朝廷に通告し返書しないことに決した[70]。
モンゴル使節らは日本側から拒まれたため対馬から先には進めず、対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を捕らえて、これらと共に帰還した[71]。
第四回使節
- 1269年(文永6年・至元6年)7月、国王元宗の廃位事件の最中であった高麗を経由し、大都から弥二郎らを護送する使者として金有成・高柔らの使節が江都を経て、9月に対馬へ到着した。この時、使節はクビライ皇帝本人の書状でなく、中書省からの牒状と高麗国書を携えて再び来た[72]。
- 中書省牒
2回目の国書が「中書省牒」だったことについて、クビライ政権側も「皇帝」の国書では日本側からの返書はし難かったと判断し皇帝本人からの書状よりも下部機関である「中書省」からの書状にすれば返書し易いと考えたのではないかとされる。この中書省牒はクビライ国書と異なり、蒙古皇帝に明確に服属を勧める内容だったとされる[72]。
- 朝廷による太政官牒案草案
大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送した。朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の服属の要求を拒否する事に決し、拒絶の返牒を出す事にし、文書博士・菅原長成に文案を起草させ、中書省牒に対して返書「太政官牒案」草案を作った。草案には「蒙古という国はいままで知られず、何ら因縁もないのに武力をもって臣従を迫ることは非常に無礼である。日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」と自国の独立性を主張した内容だった[73]。また、高麗国王にも返書案を作成しており、そこでは拘束されていた弥二郎らの送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。
しかし、幕府はこの拒否の返牒も出すことも取り止めて使節を帰国させるよう上奏した。朝廷は幕府の提案を受け入れ、蒙古・高麗からの使節は三度返牒を得られず帰還した。
三別抄の援助要請
この時、三別抄は自らを高麗王朝と称していた。朝廷は既に高麗からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状がモンゴル帝国側を非難し珍島への遷都を告げ、さらにはモンゴル帝国と対抗するため兵力や兵糧の援助を請う内容であったため、非常に不可解と感じられてこれも黙殺した[75]。
なお、一方で三別抄は、同年にモンゴル帝国に対して「駐屯する蒙古軍を退けてほしい。そうすれば帰順する。しかし、蒙古の将軍・忻都(ヒンドゥ)が要請に従おうとしない。皇帝にお願いする。私たちに全羅道を任せたうえで、蒙古朝廷の直轄地としてほしい」[76]と要請している。
- 1273年(文永10年・至元10年)4月、元は高麗軍を主力とする軍船160艘、12,000人(高麗軍6千、屯田軍2千、漢軍2千、武衛軍2千)の軍をもって三別抄を平定(三別抄の乱)[77][78][79]。
第五回使節
今津に上陸した趙良弼は、日本に滞在していた南宋人と三別抄から妨害を受けながらも大宰府西守護所に到着した。日本側が大宰府以東への訪問を拒否したため、趙良弼はやむなく国書の写しを手渡し、11月末の回答期限を過ぎた場合は武力行使も辞さないとした。これに対して朝廷は評定を行い、一旦は前回に作成された文書博士・菅原長成の返書草案を少々手直しの上で渡すことに決定する[83]。しかし、三別抄から再三に渡り蒙古の侵略を警告されていた幕府が難色を示し、返書の代わりとして日本の使節が派遣されることになった[81]。
日本使の大都訪問
元側は日本使の意図を元の軍備の偵察だと判断し、クビライへの謁見は許さなかった[81]。趙良弼から高麗の金州に駐屯する元軍が日本側を警戒させていると報告があったため、元の丞相・安童(アントン)らは日本使に対し、その軍は三別抄に備えたものだと説明した[85]。大都を後にした日本使は、4月に再び高麗を経由して日本へ帰国した。
第六回使節
趙良弼らは再び日本に服属を迫ったが、南宋に渡っていた禅僧・瓊林が帰国して日宋間の国交回復を告げたため、返蝶を得ることはできなかった。翌1273年(文永9年・至元9年)6月に元へ帰還した趙良弼は、日本の君臣の爵号、州郡名数、風俗土宜を報告した。
クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する。
第一次日本侵攻計画
元朝では日本侵攻に関して3つの案が検討された[87]。
- 日本は島国で攻略が難しいので、高麗に兵を置き、国書により属国にする。この案では損害も出ず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
- まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき、蒙古人高官が支持していた。
- 高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本への侵攻が決定されたとされる。
クビライは高麗に命じて日本へ派兵する艦船を作らせ、半島南部を中心に兵站基地となる采邑・奥魯(アウルク)を設けて食糧などを供給させた。この時の艦船の建造費は高麗が負担し、当初は南宋侵攻に用いるはずであったものや耽羅島侵攻にも使われた分も合わせて、大小900艘と言われる船を半年で用意した。
異国警固体制
執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して次々と対策を練っていった。
- 1271年(文永8年・至元8年)、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴いて、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた[88][89]。当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として下向を命じたのであった[90]。これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次九州に土着していくこととなる[90]。九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている。
- 1272年(文永9年・至元9年)、北条時宗は異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた[91][92][93][94][95]。
- 同年2月、さらに北条時宗は後嵯峨上皇没の直後の二月騒動で庶兄・北条時輔等を粛清し統制を強化、諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。
このような防衛対策を次々と行いえた背景には、日本側が大陸の情勢に関して積極的に諜報活動を行っていたことがあげられる。『高麗史』によると、日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件が記載されている。
- 同年7月、高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた。曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した。高麗国王・元宗は張暐を派遣してクビライに曹子一の無実を訴え解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された[96] 。
- 1273年(文永10年・至元10年)11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した[97]。
文永の役
元・高麗連合軍の出航
- 1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[98]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[99]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[17]。
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[11]~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[12]。
対馬侵攻
- 10月5日午後4時頃、元軍は対馬の小茂田浜に上陸。
対馬守護代・宗資国[100]は80余騎で応戦するが戦死し[18]、元軍は対馬全土を制圧して島人を多く殺害したという[101]。
同日、対馬守護代・宗資国は元軍の襲来を伝達するため、佐須浦から小太郎・兵衛次郎を博多へ出航させた。
この時の対馬の状況について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている[102]。
(前略)去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし):「一谷入道御書」 |
この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
この時代、捕虜は概して各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵のあいだで下賜や贈答、献上したりされていた[103]。元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している[104]。この時の戦闘では日蓮書簡以外でも対馬や壱岐等の住民の一部が捕囚され連行されたことが日本側の資料でも伝えられており、献上されたこれらの捕虜もその一部と考えられる。
壱岐侵攻
『高麗史』金方慶伝には、以下のように壱岐島での戦闘の模様が記されている。元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。蒙古・漢軍の右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し日本兵を1,000余り討ち取ったという[105]。
日蓮の建治元年8月の書簡では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》[106]とある。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。
肥前沿岸襲来
松浦党の佐志房と佐志直(嫡男)・佐志留(二男)・佐志勇(三男)父子や石志兼・石志二郎父子[107]らが応戦したものの松浦党の基地は壊滅した[108]。この戦闘で佐志房及び息子の直・留・勇はみな戦死した[109]。
室町時代の日澄によれば[110]、松浦党は数百人が伐たれ、あるいは捕虜となり、松浦党管轄基地の惨状は壱岐や対馬のようであったという[111]。
日本側の迎撃態勢
対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに、日本側は少弐氏や大友氏を始め、九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。
ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人たちは大宰府に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋を渡らなければならず、元軍の上陸までに大宰府に到着することは難しかった。これに対して、筑後の神代良忠は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員した。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして幕府から感状を与えられている[112]。
こうして集結した九州の御家人ら日本側の様子を、『八幡愚童訓』では鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦党、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている[113][114]。
博多湾上陸
- 10月20日、元軍は博多湾のうちの早良郡(さわらぐん)に襲来[115]。なお、元軍の上陸地点については諸説ある[116]。
- 捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日に早良郡の百道原へ上陸したのは、この年の3月13日に元を出発した元軍の主力部隊である蒙古・漢軍であった[117]。
赤坂の戦い
早良郡から上陸した元軍は、早良郡の百道浜より3キロ東の赤坂を占領し陣を布いた。博多の西部に位置する赤坂は丘陵となっており、古代には大津城が築かれ、近世に至っては福岡城が築かれるなど博多攻防の戦略上の重要拠点であった[118]。
一方、日本軍は総大将少弐景資のもと、博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた[119]。日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった[120]。
ところが、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍に対して肥後の御家人・菊池武房の軍勢がこれを襲撃し、赤坂の戦いで元軍を撃破し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[121]。
なお竹崎季長一党は元軍との会敵を求めて西へ移動中に、赤坂での戦闘で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇している[122]。
鳥飼潟の戦い
赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、小高い丘である麁原山(そはらやま)がある麁原へと向かい、小勢は別府(べふ)の塚原に逃れた[121]。塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟(とりかいがた)[125]を通って逃れようとしたが、肥後の御家人・竹崎季長ら日本軍がそれを追撃した[126] 。しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて転倒したため、元軍小勢を取り逃がしてしまったという[126]。
麁原一帯に陣を布いていた元軍は、銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らしてひしめき合っていた[126]。これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて参りましょう。お待ちになって、戦功の証人を立ててから御合戦をなされよ」と諫言したものの、竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と叫んで、元軍に先駆けを行った[126]。元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した[127]。
竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長、三井資長、若党以下三騎が負傷するなど危機的状況に陥ったが[128]、後続の肥前の御家人・白石通泰率いる100余騎が到着し、元軍に突撃を敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと引き退いた[127]。
同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人・福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう武士らに下知が下り、早良郡へと馳せ向かった福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で元軍と遭遇して衝突した[115]。豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は鳥飼潟の戦いにおいて奮戦。後にその功績により豊後守護・大友頼康から書下を与えられた[129]。これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟において日本軍に敗れ、同じく早良郡のうちにある百道原[125]へと敗走を始めたため、日本軍はそれに追撃をかけた[115]。追撃する福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に馳せ入り、元軍と矢戦になり、鎧の胸板・草摺などに三本の矢を受けて負傷したという[115]。
『日田記』や『財津氏系譜』によると、その後も豊後の御家人・日田永基らが百道原へと敗走した元軍を追って、百道原で再び元軍と戦ってこれを破り、さらに同じく早良郡のうちにある姪浜[125]へと後退した元軍をも再び戦い破り、一日に二度、元軍を大いに破ったとしており、鳥飼潟の戦い以後も元軍は後退を重ねつつ、日本軍と戦闘があったことが確認できる[130][131]。『日田記』によると百道原と姪浜における戦闘は「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」[131]といった戦況であったという。
また、『少貳武藤系図』の少弐景資の伝では、百道原における矢戦の際に左副元帥・劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止められたとしており[132]、中華民国期に編纂された『新元史』にも百道原で少弐景資により劉復亨が射倒されたため、元軍は撤退したとある[133]。これらの史料から、元側の史料『高麗史』の「劉復亨、流矢に中(あた)り先に舟に登る」[134]とは、この戦いにおいての負傷であったとも考えられる。
この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ[135]、この戦闘に参加した武士も豊後、肥前、肥後、筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されることから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた文永の役における一大決戦であったという見解がある[136]。なお、文永の役の戦闘で、現存している当時の古文書で記録があるのは、この鳥飼潟の戦いのみであり[137]、合戦に参加した竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘だったとみられる[136]。
『八幡愚童訓』による戦況
八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である『八幡愚童訓』によると上陸し攻めかかって来た元軍に対して、鎮西奉行・少弐資能の孫・少弐資時がしきたりに則って音の出る鏑矢を放ったが、元軍はこれを馬鹿にして笑い、太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声を発したため、日本の馬は驚き跳ね狂ったという。また、元軍の弓矢は威力が弱かったが、鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かうすべがなかったという。元軍に突撃を試みた者は元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて、皆殺された。元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食し、また、射殺した軍馬も食したという[138]。
『八幡愚童訓』は、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」としている。また、退く時は「てつはう」を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害した。「てつはう」は爆発時、轟音を発したため、肝を潰し討たれる者が多かった。また、武士が名乗りを上げての一騎打ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍相手に駆け入った武士で一人として討ち取られない者はなかったとしている。その中でも勇んで戦いに臨んだ松浦党の手勢は多くが討ち取られ、原田一類も沢田に追い込まれて全滅し、青屋勢二三百騎もほとんど討ち死にした。肥後の御家人・竹崎季長や天草城主・大矢野種保兄弟は元軍船に攻めかかり、よく奮戦したものの、この所に至って形勢は不利となっていた。また、肥前の御家人・白石通泰の手勢も同様に形勢は不利となっていった。元軍は勝ちに乗じて今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、赤坂の松原の中に陣を布いた。これほど形勢が不利になると思っていなかった武士たちは妻子眷属を隠しておかなかったために、妻子眷属らが数千人も元軍に捕らえられた[139]。
元軍に戦を挑もうという武士が一人もいなくなった頃、肥後の御家人・菊池武房は手勢100騎を二手に分けて、元軍が陣を布く赤坂の松原の陣に襲撃をかけ散々に駆け散らしたが、菊池武房の手勢は多くが討ち取られて、菊池武房のみが討ちとられた死体の中から這い出して、討ち取った元兵の首を多数つけて帰陣した[140]。
大将の少弐景資を始め、大矢野種保兄弟、竹崎季長、白石通泰らが散々に防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となった。日本軍は水城に篭って防戦しようと逃げ支度を始め、逃亡するものが続出する中、敗走する日本軍を追う左副元帥・劉復亨と思われる人物を見止めた少弐景資が弓の名手である馬廻に命を下して劉復亨を射倒すなどして奮戦したものの[141][142]、結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して水城へと敗走した[143]。
日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが兵火によるものか出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から怪しき火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船二艘が突如現われて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた者は大風に吹きつけられて敗走した、としている[144]。
そして、「もし、この時に日本の軍兵が一騎なりとも控えていたならば、八幡大菩薩の御戦とは言われずに、武士達が我が高名にて追い返したと申したはずだろう」としながら「元軍がひどく恐れ、あるいは潰れ、あるいは逃亡したのは、偏に神軍の威徳が厳重であったからで、思いがけないことがいよいよ顕然と顕われ給ったものだと、伏し拝み貴はない人はなかった」と結んでいる[145]。 戦法、「てつはう」などについては軍事面参照。
『元史』による戦況
『元史』では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」[146]としている。
また、『元史』左副元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」[10]とのみ記載し、劉復亨が戦闘で負傷し戦線を離脱していたことには触れていない。
『元史』右副元帥・洪茶丘伝では「都元帥・忽敦(クドゥン)等と舟師2万を領し、日本を征す。対馬・壱岐・宜蛮(平戸島か)などの島を抜く」[147]とあり、文永の役における元軍の戦果を対馬、壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、博多湾上陸以後の状況については触れられていない。
その他、『元史』世祖本紀では文永の役の元軍の軍容について「鳳州経略使・忻都(ヒンドゥ)、高麗軍民総管・洪茶丘等の将が屯田軍及び女直軍(女真族の軍)、并びに水軍、合せて15,000人、戦船大小合せて900艘をもって日本を征す」[13]と記している。
『高麗史』による戦況
『高麗史』金方慶伝によると、元軍は三郎浦に船を捨てて、道を分れて多くの日本人を殺害しながら進軍した。進軍中の都督使・金方慶率いる高麗軍(三翼軍)の一翼である中軍に日本兵が攻撃を仕掛けてきたが、金方慶は少しも退かず、一本のかぶら矢を抜き厲声大喝すると、日本兵は辟易して逃げ出した。追撃した高麗軍中軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・李唐公・金天禄・辛奕等が奮戦したため、逃げ出した日本兵らは大敗を喫し、戦場には日本兵の死体が麻の如く散っていたという。元軍の総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍中軍の働きに比べて何をもって加えることができるだろう」と高麗軍中軍の奮戦に感心した[105]。
合流した高麗軍は元軍諸軍とともに協力して日本軍と終日、激戦を展開した。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた。やがて、日が暮れたのを機に、元軍は戦闘を解して帰陣した[134][148]。
元・高麗連合軍軍議と撤退
『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)や右副元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。
- 金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』[149]とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」
- 忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』[150]とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[134][148]
このような議論があり、また左副元帥・劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)。このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出しながらも11月27日に合浦(がっぽ)まで帰還した[134][151]。
元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」と記している。また、公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によれば、伝聞として「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、俄かに逆風(南風)が吹き来たり、本国に吹き帰った」[152]という。
なお、『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。 万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」[153]とあり、元・高麗連合軍軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、渡海が困難なため元軍に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。
『高麗史』表では「十月、金方慶、元の元帥の忽敦(クドゥン)・ 洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」[154]と文永の役を総評している。
元・高麗連合軍撤退後の状況
- 10月21日、元軍は博多湾から撤退し姿を消していた[155]。また、多くの元軍の軍船が陸上に座礁していた[156]。『朝師御書見聞 安国論私抄』によると、10月24日に聞いた情報として「蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる」とし、座礁した船数は、確認できたものだけで、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘であった[157]。
『歴代皇紀』では、10月20日に日本側の兵船300余艘が追撃したところ、沖合で漂流する元軍船200余艘を発見したことが記されており[158]、また、『朝師御書見聞 安国論私抄』によれば、11月9日にユキノセトという津に漂着した元軍と日本軍の間で戦いがあり、死たる元兵150人、捕虜27人、頭取ること39人、その他の元軍側損害を数知れずとする一方、日本側の損害については死者195人、下郎は数を知れずとしており、元軍の博多湾からの撤退後も戦闘があったことが確認できる[157]。『勘仲記』にも、陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が豊後守護・大友頼泰の手勢に捕えられ、京都に連行されてくるという伝聞を載せている[152]。また、『八幡愚童訓』によると志賀島に元軍船1艘が座礁しており[159]、その兵船の大将は入水自殺し、他の兵たちは武器を捨てて船から投降し生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺された[155]。
関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した報せが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後であった。元軍撤退後に元軍襲来の報せが関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためである[160]。『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である報せを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている[161]。
また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に元軍の博多湾上陸及び撤退の報が伝わっていなかったため、時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して国中の地頭御家人並びに本所・領家一円の住人等を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発している[162][163][164]。このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、本所・領家一円地への幕府の影響力は増大した。
幕府は戦勝の報に接すると論功行賞を行い、文永の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えた[165]。
元・高麗の損害・状況
文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上った[154]。さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った。僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、使用に堪られるものではなかった[166]。
また、文永の役において戦艦・軍隊・兵糧などを支給した高麗は、国力を極度に悪化させ疲弊した。
高麗からクビライのもとへ派遣された金方慶、印公秀は、その上表のなかで、三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐ者があるなど、「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子を伝えている。そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は戦艦・兵糧の支給には耐えられないとクビライに訴えている[167]。
元は撤退後、対南宋戦争が佳境に入ったことから、主力は江南に向けられる事になった。
神風
神風と元軍撤退理由
元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて日本側が勝利したという言説が教科書等に記載されているが[168]、元側と日本側の史料ともに博多湾で元軍が暴風雨を受け敗北したという記載はなく事実ではない。
通常、上陸作戦を決行した場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、再び上陸作戦を決行するなどは戦術的に有り得ないとされる[169]。また、元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっており[134]、暴風雨は勝敗要因とは無関係の事象であった。この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨について気象学的には、過去の統計から、この時期に台風の渡来記録が無いため台風以外の気象現象という見解もとられている[170]。
また、元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他、日本側の史料でも同様の記載が確認できる。日本側の史料『五檀法日記』では、19日と20日の2日に亘って武士と元軍との間で戦闘があり、結果、元軍兵は退散したとしており[171]、『帝王編年記』においても、20日に武士と元軍とで合戦があり、日本軍は元軍軍船一艘を取り志賀島に押し留め、その他の元軍をすべて追い返したとしている[172]。また、他の史料と日にちに差異はあるが『関東評定伝』でも「文永十一年十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。同24日、 大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、異賊(元軍)は敗北した」[173]と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できる。
以上のように神風は元軍の敗退要因とは関係なく、撤退中に暴風雨に遭ったのであり、勝敗要因とは直接関係のない事象である。
鎌倉期の神風観
文永の役において元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布した背景として、当時の日本国内では、元寇を日本の神と異賊の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識され(天人相関思想)、元軍を撃退できた要因は神力・神風であると考える者も多くいた。
例えば、公家の広橋兼仲は、その日記『勘仲記』の中で「逆風の事は、神明のご加護」[152]と神に感謝している。また、1276年(建治2年・至元13年)の官宣旨の文言の中にも「蒙古の凶賊等が鎮西に来着し合戦をしたのだが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない」[156]とあり、当時から元軍を襲った暴風雨を神風とする認識が存在していたことがうかがえる。
また、敵国調伏や加持祈祷によって日本の神や仏も戦闘に動員され元軍を撃退できたとする観念は、各社による「神々による軍忠状」という形で現われ、戦後も幕府に対して各社による恩賞の要求も激しかった[174]。元寇における神々の活躍例を挙げると以下のようなものが見受けられる。
寺社縁起『八幡愚童訓』によると、日本軍が水城へ敗走した後、松原に陣を布く元軍に八幡神の化身30人ほどが矢を射掛け、恐れ慄いた元軍は海に逃げ、さらに海から炎が燃え巡り、その中から現われた八幡神を顕現したと思われる兵船二艘が突如現われて元軍を皆討ちとり、辛うじて沖に逃れた者には大風が吹き付けられて元軍は敗走したという[144]。同様の話は『一代要記』にもあり、大宰府軍(日本軍)が敗北した後、神威を顕現したと思われる兵船二艘が現われて元軍と戦い、これを退散させたとしている[175]。
また、肥前国武雄社では、戦後の論功行賞から漏れたため、幕府に以下のように文永・弘安の役における勲功を訴えている。『武雄神社文書』によれば、文永の役の際の10月20日の夜、武雄社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、結果、元軍は逃げていったとしており、また、弘安の役に際しても、上宮から紫の幡(のぼり)が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたという[176]。
幕府は、こういった各社による軍忠状に対して神領興行令と呼ばれる徳政令を各社に対して三度も発布し、恩賞に当てた[177]。
戦前・戦後の神風観
1910年(明治43年)の『尋常小学日本歴史』に初めて文永の役の記述が登場して以来、戦前の教科書における文永の役の記述は武士の奮戦により元軍を撃退したことが記載されており、大風の記述は無かった[178]。その後、第二次世界大戦が勃発し日本の戦局が悪化する中での1943年(昭和18年)の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初めて登場した。以来、戦後初の教科書である『くにのあゆみ』以降も大風の記述は継承され、代わって武士の奮戦の記述が削除されることとなる[178]。
戦後の教科書において、文永の役における武士の奮戦の記述が削除された背景としては、執筆者の間で武士道を軍国主義と結びつける風潮があり、何らかの政治的指示があったためか執筆者が過剰に自粛したのではないかとの見解がある[178]。また、戦時中や現代の教科書においても文永の役において元軍は神風で壊滅したという言説が依然として改められなかった背景としては、戦時中は「神国思想の原点」ゆえに批判が憚られたことによるという見解がある[179]。この観念は戦時中の神風特別攻撃隊などにまで到ったとされる。戦後は敗戦により日本の軍事的勝利をためらう風潮が生まれたことにより、文永の役における日本の勝因を神風ゆえによる勝利であるという傾向で収まってしまったのではないかとの見解がある[179]。
また、文永の役は大風で勝利したという戦後の常識は寺社縁起『八幡愚童訓』における記述がベースになっているといわれている[180]。
第二次日本侵攻までの経緯
第一次高麗征伐計画
元・高麗連合軍の侵攻を撃退した鎌倉幕府は、高麗へ侵攻して逆襲することを計画した[181][182][183]。高麗出兵計画は再度の元の襲来に備えるための石築地(元寇防塁)の築造と同時に進められ、高麗出兵に動員される者を除いた鎮西の者が石築地の築造にあたることになっていた[184]。
幕府は1276年(建治2年・至元13年)3月に高麗出兵を行うことを明言し、少弐経資が中心となって鎮西諸国などに動員令を掛けて博多に軍勢や船舶を集結させた。
梶取りや水手は鎮西諸国を中心に召集され、不足の場合は山陰・山陽・南海各道からも召集した[185]。幕府は動員催促した武士に水手、梶取りなどの年齢や動員数、兵具、船数などを注進させ、逃亡者には厳罰を科すなどして着々と出兵準備を進めたが[186][187][188][189][190][191]、突然出兵計画は中止となった。詳細は不明ながら、同時に進められていた石築地の築造に多大な費用と人員を要したことと、兵船の不備不足などの理由により計画は実行されなかったとされる[192]。
第七回使節
- 1275年(建治元年・至元12年)2月、クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した[193][194]。通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・徹都魯丁(サトウルテン)、果の三名が同行した[193][194]。
使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下五名を斬首に処した[194]。
これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している。
「門を出ずるに妻子は寒衣を贈りたり、我に問う西に行き幾日にして帰ると、来たる時もし黄金の印を佩びたれば、蘇秦(中国戦国時代の弁論家)を見て機を下らざるなかりしを」[194]
(家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)[195]
第二次日本侵攻計画(1275年~)
一方でクビライは使節派遣と並行して、再び日本侵攻の準備に取り掛かっていた。
- 1275年(建治元年・至元12年)9月、クビライは、高麗から直ちに日本へ渡ることができる航路があることを知ると、元使を高麗へ派遣して調査させた[196]。
- 同年10月、再度の日本侵攻計画のために、高麗において戦艦の修造を開始[197]。
- 同年11月、文永の役で多くの矢を喪失していたため、高麗の慶尚道・全羅道の民に矢の羽や鏃の増産に取り掛からせた[198]。
- 1276年(建治2年・至元13年)1月、ところが元と南宋の戦争が最終段階に入ると、クビライは南宋と日本との二正面作戦を行うことを避けて南宋に全力を集中させるため、高麗に日本侵攻用の戦艦と矢の増産を停止させた[199]。
同月、南宋の第7代皇帝・恭帝は元に降伏し、南宋の首都・臨安は無血開城する。これにより事実上、南宋は滅亡した。なお、張世傑・陸秀夫ら一部の者は第8代皇帝・端宗や第9代皇帝・祥興帝を擁して、1279年(弘安2年・至元16年)まで元に抵抗を続けた。
同年、南宋を滅ぼしたクビライは早速、日本侵攻の是非を南宋の旧臣らに問うた。これに対して、南宋の旧臣・范文虎、夏貴、呂文換、陳奕らは皆「伐つべし」と答えたという。しかし、クビライの重臣・耶律希亮は以下のように反対した。
クビライは南宋の旧臣らの進言を退けて、耶律希亮の意見を採用した。こうして、日本侵攻計画は当分の間、延期された[200]。
第八回使節
耶律希亮の進言により、日本侵攻計画が延期されてから3年が経過した1279年(弘安2年・至元16年)、再びクビライは日本侵攻を計画する。
そこで南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵する事を提案したため、クラビイはその提案を受け入れた[201]。こうして、杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を正使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した[202]。
第二次日本侵攻計画(1279年~)
クビライは杜世忠ら使節団の帰還を待つ一方、出兵準備を開始する。
- 1279年(弘安2年・至元16年)2月、クビライは楊州、湖南、贑州、泉州四省において日本侵攻用の戦艦600艘の造船を命じる[203]。そのうち、200艘の建造をアラブ系イスラム教徒である色目人・蒲寿庚に命じた[204]。
- 同年6月、さらにクビライは高麗に900艘の造船を命じる[27]。
しかし、建造は思うようには進まず、200艘の建造を命じられた蒲寿庚はクビライに「海船を200艘造るよう詔がありましたが、いま完成している船は50艘です。民は実に艱苦しています」と造船により民が疲弊していることを上奏した。これを受けて、クビライは蒲寿庚に命じた200艘の建造を中止させている[204]。このように造船により江南地方の民が疲弊する中、クビライに仕えた賈居貞は民の疲弊が乱を招くことを危惧して、クビライに日本侵攻を止めるよう諫言したが、聞き入れられなかった[205]。
- 同年8月、逃げ出した水夫より杜世忠ら使節団が処刑されたことが高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した[206]。元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥である忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘は直ちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における会議の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった[207]。
- クビライ「そもそもの始めは、彼の国(日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに汝らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである』と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、汝らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が汝らのもとに至って、汝らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ」[208]
無学祖元による進言
1281年(弘安4年)弘安の役の一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え[209]、さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[209]。これはのち「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる[209]。なお無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた頃の1275年に元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[209]。
弘安の役
1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人・軍船3500艘、合計、約140,000~156,989人・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出発した。
クビライに仕えた元朝の官吏・王惲は、この日本侵攻軍の威勢を「隋・唐以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」[210]とその記事『汎海小録』の中で評している。
また、高麗人の定慧寺の禅僧・冲止は、日本侵攻軍の威容を前にして以下のような漢詩を詠み、クビライと元軍を讃えた。
「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は堯(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」[211]
さらに、冲止は元軍の戦勝と戦勝後の天下太平の世を想像し、以下のように詠んでいる。
「元軍は一瞬のうちに日本軍の軍営を打ち破り、勝報は朝夕のうちに伝わるだろう。玉帛で修貢を争い、戦争で紛争を解決する。元帥は宝玉と酒器を賜わり、兵卒は田畑へ帰れるだろう。三尺の快剣は剣箱に、百斤の良弓は弓嚢に。四方に歌声が響き、世相の音楽に満ち溢れる。辺境の警備で、戦争を告げる狼煙が収まり、辺方に風塵(騒乱)の気が絶たれるのだ。聖なる天子(クビライ)を拝見し、万歳まで南薫太平歌を奏でよう」[211]
東路軍と江南軍は6月15日までに壱岐島で合流し両軍で大宰府を攻める計画を立てていた[212][213]。まず先に東路軍が出発した。
東路軍の出航
- 5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、女真人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)から成る東路軍900艘が朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航[214]。
対馬侵攻
壱岐侵攻
- 5月26日、東路軍は壱岐に上陸。なお、東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すという事態に遭遇している[217]。
長門襲来
- 東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来する。
広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月14日条)によると、東路軍の軍船と思われる軍船300艘が中国地方の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している[218]。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月15日条)にも「異國賊船襲来長門」とあり長門に元軍が現れたことが確認できるが[219]、 長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。
博多湾進入
東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した[220]。
対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃とうとする者もいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された[221]。
この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置していた[221]。『予章記』によれば、海上から見た博多湾は「危峰の江に臨むが如し」[221]外観であったという。
志賀島の戦い
東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した[223]。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった[223]。
海の中道を通って陸から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦[223]。志賀島の東路軍は日本軍に300人ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走する[225][224]。東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた[225]。しかし、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたという[225]。
海上から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って敵船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てた[229]。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長[226]や肥前御家人の福田兼重・福田兼光父子らも参加し活躍した[228]。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。
東路軍軍議
ところが東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である6月15日を過ぎても現れず[212]、さらに東路軍内で疫病が蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まった[230]。高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」[231]と漢詩に詠んでいる。
このような状況に至り、戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した。
- 忻都、洪茶丘「皇帝(クビライ)の命令では『江南軍をして、東路軍と必ず6月15日までに壱岐島に合流させよ』とおっしゃった。未だに江南軍は壱岐島に到着していない。我が軍(東路軍)は、先に日本に到着して数戦し、船は腐れ兵糧は尽きた。このような事態に到って、いったいどうしたものだ」
この時、金方慶は黙ったまま反論しなかった。10日余り後、同じ様な議論が繰り返された時、今度は以下のように反論した。
- 金方慶「皇帝の命令を奉じて、3ヶ月の兵糧を用意した。今、後1ヶ月の兵糧が尚ある。江南軍が来るのを待って、両軍合わせて攻めれば、必ず日本軍を滅ぼすことができるだろう」
忻都(ヒンドゥ)、洪茶丘は敢えて反論せず、江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った[212]。
江南軍の出航
- 6月中旬頃、元軍総司令官の日本行省左丞相・阿剌罕(アラハン)と同右丞・范文虎、同左丞・李庭率いる江南軍は、総司令官の阿剌罕(アラハン)が病気のため総司令官を阿塔海(アタハイ)に交代したこともあり[232][233]、東路軍より遅れて慶元(寧波)・定海等から出航した。総司令官の阿塔海(アタハイ)は乗船し渡航した気配がないため、実質の江南軍総司令官は右丞・范文虎であったとみられる[28][32][34]。
- なお、江南軍の正確な出航時期は不明。唯一確認できるのは管軍万戸・葛剌歹(カラダイ)率いる軍船が6月18日に出航したことがわかるのみである。管軍万戸・葛剌歹(カラダイ)率いる軍船が6月18日に江南軍全軍と共に出航したかは明らかではない[234]。
- 出航した江南軍は、東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した[28]。江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである[235]。
- 先立って江南軍は、東路軍に向けて平戸島沖での合流を促す先遣隊を派遣し、壱岐島で先遣隊が東路軍と合流した[28]。
江南軍の先遣隊かは不明であるが、広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月24日条)によると対馬に宋朝船(南宋型の船)300余艘が現れたことが伝聞として記載されている[236]。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月27日条)にも「異國又襲来」とあり、詳細は不明ながら元軍と日本軍との間で合戦があったという早馬による報告があったことが記されている[237]。
- 6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島近海に到着した[37]。平戸島に上陸した張禧率いる4,000人の軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた[238]。
壱岐島の戦い
この戦闘で薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄らが奮戦し活躍した[240][241]。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている[242]。
龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦[243]。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた[244]。 一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている[245]。
壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、鎮西奉行・少弐経資、少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している[246]。
京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(7月12日条)によると、壱岐島の戦いにより元軍が壱岐島を放棄したため、元軍が退散し撤退したという風聞が日本側にあったことが確認できる[247]。
東路軍・江南軍合流
- 平戸島に向けて移動した東路軍は江南軍と合流し、平戸島に上陸した[28][37]。
- 7月中旬[248]~7月27日[249]、合流を完了させ平戸島周辺にしばらく停泊していた元軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢4,000人に守らせ[238]、続いて鷹島へと主力を移動させた[40]。新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画[235]を実行に移すための行動と思われる。
壱岐島の戦いにより元軍が撤退したという風聞に接していた京都の官務・壬生顕衡は、その日記『弘安四年日記抄』で、元軍が平戸島方面から再度襲来したという飛脚の情報に接して「怖畏無きに非ざるか、返す返すも驚き」[250]と恐怖と驚きの念をもって日記を記している。
鷹島沖海戦
- 7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった[249]。
この鷹島沖海戦については日本側に史料は残っておらず、戦闘の詳細については詳らかではない。 元軍はこれまでの戦闘により招討使・忽都哈思(クドゥハス)が戦死するなどの損害を出していた[251]。 そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、突如、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した[37]。鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた[248]。
一方、日本側は六波羅探題から派遣された引付衆・宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった[26][252]。
台風
- 7月30日夜半[248][253]、台風が襲来し[254]、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。東路軍が日本を目指して出航してから約3ヶ月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2ヶ月後のことであった。なお、北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3ヶ月もの間、海上に停滞していた元軍にとっては、偶発的な台風ではなかった[255]。
元朝の文人・周密の『癸辛雑識』によると、元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け、約4,000隻の軍船のうち残存艦船は200隻であったという[256] 。ただし、後述のように、管軍万戸・也速䚟兒(イェスダル)率いる江淮戦艦数百艘や都元帥・張禧、囊加歹(ナンギャダイ)率いる戦艦群が台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船900艘の台風による損害も軽微であったことから『癸辛雑識』の残存艦船200隻というのは誇張である可能性もある。 『元史』には台風を受けた元軍の将校たちの様子が以下のように記されている。
江南軍の左丞・李庭は台風により自身の乗船する軍船が沈没し、壊れた船体の破片に掴まりながらも、岸に辿り着いた[35]。江南軍の1千余人の兵を率いた管軍総管・楚鼎も船が壊れ、三昼夜漂流した末に江南軍総司令官の右丞・范文虎と合流している[257]。また、将校の中には実際に溺死する者もいた。大元朝に人質に出されていた高麗国王・高宗の子息・王綧の子で東路軍の左副元帥・阿剌帖木兒(アラチムル)は台風を受けて溺死している[4]。なお、溺死が確認できる将校は、阿剌帖木兒(アラチムル)のみである。
范文虎や李庭率いる軍船が大損害を被ったのとは対照的に、一方で台風の被害を受けなかった部隊もあった。
平戸島に在陣していた江南軍の都元帥・張禧の軍勢は、艦船同士距離を空けて停泊させるなど風浪対策を施していたため、被害を受けなかったとされる[238]。また、『元史』囊加歹伝によると江南軍の都元帥・囊加歹(ナンギャダイ)率いる戦艦群は、至らずして帰ったとだけあり台風の被害は確認されない[258]。東路軍の管軍万戸・也速䚟兒(イェスダル)率いる江淮戦艦数百艘も台風の圏外にいたか何らかの理由により被害を受けず、後に全軍撤退した。也速䚟兒(イェスダル)は、その功績により帰還後、クビライから恩賞を与えられている[259][260]。このように諸将によって台風の被害が異なることから、約4,400艘の大船団は平戸島・鷹島周辺だけでなく、海域広く散開していたものと思われる。
東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった[31][36]。その理由を弘安の役から11年後の第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは第二次日本侵攻の利を失する所以である。もし、高麗をして船を造らせて、また再び日本に遠征すれば、日本を取ることができる」[261]と発言しており、高麗で造船された戦艦に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」[262] と述べており、高麗船が頑丈だったことがわかる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と高麗人水夫の生還者は7割を超えていた[31]。なお、考古学においても、多くの元軍船が沈んだ鷹島沖海底で見つかっている陶磁器などの元軍の遺物は、ほとんどが江南地方で作られていたことが判明しており、高麗産の遺物は発見されておらず、高麗船が頑丈だったとする諸史料を裏付けている[263]。
元軍軍議と撤退
- 張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」
このような議論の末、結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は頑丈な船を軍船を失っていた范文虎に与えて撤退させることにした[238]。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した[40][264]。平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4,000人を軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった[238]。
この時の元軍諸将の逃亡の様子を『蒙古襲来絵詞』の閏7月5日の記事の肥前国御家人・某の言葉の中に「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」[264]とある。
御厨海上合戦
- 閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。
午後6時頃、御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け[265]、筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船三艘の内の大船一艘を追い掛け乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵とともに海中に没した[266]。また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した[267]。
日本軍は、この厨子(みくりや)海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。
鷹島掃蕩戦
厨子海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した[268]。一方、台風の後、鷹島には元軍の兵士10余万が籠っていたが、諸将が逃亡していた為、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした[40]。
- 閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。
文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した[269]。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を二人生け捕るなどした[267]。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦し活躍した[270][271][272]。
一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った[273]。
これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000~30,000人の元の兵士を捕虜とした[40]。現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている[274][275]。
高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」[231]と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」[231]とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」[231]と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している。
『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の三人のみであったという[40]。他方、『高麗史』では、鷹島に取り残された江南軍の管軍捴把・沈聰ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる[234]。
南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。
- 「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」[248]
戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。
元・高麗連合軍の損害
- 閏7月9日、日本軍は捕虜20,000~30,000人を八角島(博多か)に連行する。
『元史』によると、日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという[40]。博多の唐人町は旧南宋人の街であるともいわれる。他方、『高麗史』では命を助けられた捕虜は、工匠及び農事に知識のある者となっている[234]。
この時に処刑された者や奴隷とされた者の他に、すぐには処分の沙汰を下されず、各々に預けられた捕虜も多数おり、捕虜の処分はその後も継続して行われた[276]。幕府は捕虜が逃げ出さないように、昼夜問わず往来の船の監視を御家人に命じている[276]。
また、九州からの使者により戦勝の報が京都にも続々と伝わり、京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風により元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したこと[277]、その2日後の公家・広橋兼仲の日記『勘仲記』(閏7月14日条)には台風を受けて元軍船の多くが漂没し、元兵の誅戮ならびに捕虜が数千人に及んだこと[278]、さらにその7日後の『弘安四年日記抄』(閏7月21日条)には残留していた元軍の殲滅が完了したことが記載されている[279]。
- 元軍のうち帰還できた兵士は、『元史』の中でも、全軍の1~4割と格差が見受けられる[34][35][36][37]。元軍140,000~156,989人のうちの1~4割とした場合、帰還者の数はおよそ14,000~62,796人。また、『高麗史』によると、高麗兵及び高麗人水夫の帰還者は26,989人のうち、19,397人[31][39]。
この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。
マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役
マルコ・ポーロの『東方見聞録』には史実とかなりの隔たりがあるが、以下のようにマルコ・ポーロが伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。
「…さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン(阿剌罕:アラハン)、もう一人はジョンサインチン(范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島(鷹島)があり、船団はいやおうもなくこの小島にぶつかって破壊されてしまった。軍隊の大部分は滅び、わずかに3万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食糧も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人の将軍が互いに憎み合い、そねみ合っていたのである。一人の将軍は嵐を逃れたのだが、小島に残された同僚の将軍の救援には赴こうとしなかった。大風は長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カアンの軍隊が残されたこの小島には人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。さて、逃げ帰った者たちと小島に残された者たちがどうなったか、次にお話してみよう。
さて、すでに申し上げたように、小島に残された3万の兵士たちはどのようにして脱出してよいかわからず、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。ジパング(日本)の王は、敵の一部が運命に見放されて小島に残され、他はちりぢりに逃げ去ったと聞くとおおいに喜び、ジパング中の船をこぞって小島に赴くと四方八方から攻め寄せた。タタール人(モンゴル人)たちは、戦いに慣れていないジパングの人々が船に警戒の兵を残さず、みな上陸してしまったのを見た。思慮に富んだタタール人たちは一気に動き出し、逃げると見せかけて敵の船に殺到すると、すぐさま乗り込んでしまった。船を守る兵がいなかったので極めて容易なことであった。さて、タタール人たちは船を奪うと、すぐさま本島に向けて出立した。彼らは上陸し、ジパング王の旗をなびかせて進んだ。首都を守る人々はこれに気付かず、てっきり味方が帰って来たのだと思って中に入れてしまった。それでタタール人たちは入城し、すぐさま城郭を占領し、住民たちをすべて外に追い払ったのである。もちろん美しい女たちだけは手元に留めた。さて、大カアンの軍隊はこうして首都を占領したのであったが、これを知ったジパングの王と軍隊とは大いに悲しみ、残された何艘かの船に乗って本島に戻ると、兵を集めて首都を囲んだ。一人として出ることも入ることもできなかった。中に籠もったタタール人たちは7ヶ月の間持ちこたえた。その間、ことの次第をいかに大カアンに知らせるか、夜となく昼となく努めたのだが、結局、知らせることはできなかった。もはや持ちこたえられなくなって、命を助けるかわりに一生ジパングの島から出ないという条件で降伏した。これは1268年に起こったことである(文永の役は1274年、弘安の役は1281年)。大カアンは逃げ帰った将軍の首を刎ねた。もう一方の将軍に対しても、武人にあるまじき振る舞いとして、処刑の命令を出した。
さて、私は今一つ、次のような驚異についてお話しするのを忘れるところであった。それは、戦いの初め、大カアンの軍隊がジパングに上陸して平野を占領した時のことであった。一つの塔を落とすと、中にいた人々は降伏を肯じなかったので、その首を刎ねたのであったが、どうしても八人だけは首を切り落とすことができなかった。その八人は、うまく隠れて外からは見えなかったが、腕の肉と皮膚の間に石を埋め込んでいた。その石には魔術が施れ、決して刃物では殺されぬという効能を帯びる。これを聞いたタタール人の将軍たちはその八人を棒で殴り殺し、その死骸から石を取り出すと大事にしまったのであった」[280]
以後の動向
第二次高麗征伐計画
元軍に大勝した鎌倉幕府は、直ちに高麗出兵計画を発表した [281]。
『東大寺文書』によると、幕府は少弐経資か大友頼康を大将軍として、三ヵ国の御家人を主力に大和・山城の諸寺の悪徒(僧兵)をも動員して高麗への出兵を計画した[282]。しかし第二次高麗出兵計画は突然中止となった。詳細は不明ながら、御家人の困窮などの理由により実行されなかったともいわれる[283]。
第三次日本侵攻計画(1282年~)
第二次侵攻(弘安の役)で敗北した元は、翌年の1282年(弘安5年・至元19年)1月に一旦は日本侵攻の司令部・日本行省を廃止したものの[284]、クビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。
- 同年7月、クビライの再侵攻の意向を知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けたい旨をクビライに上奏する[285]。
- 同年9月、第二次日本侵攻(弘安の役)で大半の軍船を失っていた元は、平滦、高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州において新たに大小3,000艘の軍船の建造を開始した[286]。しかし、こうした大造船事業は大量の木材を必要としたため、平滦では山は禿山となり、寺や墳墓からも木を伐採しなければならない状況であったという[287]。また、平滦の五台山造寺や南城の新寺の建立も造船に木材を集中させるために中止となった[288]。このような軍船の不足から、民間から商船を徴発し、日本侵攻用の軍船へと転用した[289]。
- 1283年(弘安6年・至元20年)1月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。阿塔海(アタハイ)を日本行省丞相に任命して日本再侵攻の総司令官として、徹里帖木兒(チェリチムル)を右丞、劉国傑を左丞に任命し、兵を募り造船の指揮を執らせ日本侵攻を急いだ[290]。この出兵計画には、兵員の不足から、重犯罪者の囚人部隊も動員する計画であったという[291]。また、第二次日本侵攻(弘安の役)で軍船の大量喪失とともに多くの海事技術者も失ったため、海事技術者の養成が急務となっていた。そのため、阿塔海(アタハイ)は都元帥・張林、招討使・張瑄、管軍総管・朱清など軍官に水練を行うよう命じて出征に備えさせた[292]。また、右丞・徹里帖木兒(チェリチムル)と管軍万戸35人が中心となって水練を施した兵士の中には蒙古軍2,000人や深馬赤軍10,000人などの元朝精鋭部隊も含まれ、そのうち500人には水練の他に海上戦闘での訓練を施している[293]。日本侵攻は江南地方から徴発した軍勢を主力に、この年の8月に実行することが予定された[294] 。
一方、鎌倉幕府はこうした元側の動向を察知し、元朝領内の造船を担った江南地方に間者を送り込み、情報収集に努めていた。江南地方で鎌倉幕府の間者が捕らえられたことが『元史』において確認できる[295][296]。
このような急激な日本侵攻準備は、元に大きな負担を齎すものであった。日本侵攻用の軍船の造船を担った江南地方では盗賊が蜂起し、元は軍隊を派遣するなどして鎮圧に苦心した[297]。また、江南地方の盗賊の続発は、元朝領内の遠近を問わず広がりをみせ、騒然としたという[298]。このような状態の中でクビライに日本侵攻計画を中止、あるいは延期するよう諫言する者も現われた。『元史』崔彧伝には、日本侵攻計画の延期を訴えた御史中丞・崔彧とクビライとの間で以下のようなやりとりがあったとされる。
- 崔彧「江南地方で相次いで盗賊が起こっています。およそ200余所にです。皆、かつては水手として拘束され、海船を造り、人民の生活は安んずることができなかったため、激情して盗賊として変を為しています。日本の役は暫く止めるべきです。また、江南地方四省の軍需は、民力を量って、土地の産物が無い所の者には労働を強いるべきではありません。およそ労働に対して物価を給して民に与えるのは、必ず実をもってしなければなりません。水手を召募するのは、その労働を欲する土地に従わなければならないのです。そして、民の気力がやや回復して、我が力がほぼ備わるのをうかがい、2、3年後に東征(日本侵攻)しても未だ遅くはないでしょう」
崔彧の諫言を退けて、クビライは次のように言った。
淮西宣慰使・昂吉児(アンキル)もまた、民が疲弊していることを上奏して、クビライに日本侵攻を取り止めるよう諫言した[290]。これらの諫言を退けたクビライであったが、考えを改めて同年5月には日本侵攻計画を一旦取り止めた。高麗は侵攻計画が中止となったことを受けると、造船、徴兵を停止させた[300] 。
第三次日本侵攻計画(1283年~)
一旦白紙となった当初の出兵予定の1283年(弘安6年・至元20年)8月の頃、再び出兵計画が持ち上がった。
- 同年8月、民間から日本侵攻用に徴発していた民間船500艘を民が困窮したため返還し、換わりにモンゴル人の大船主・阿八赤(アバチ)が所有する船を徴発して修理を行い、日本行省丞相・阿塔海(アタハイ)の日本侵攻用の艦船群に組み入れた[301]。
- 同年9月、江南地方の広東で大規模な盗賊の蜂起が起こった。元朝はただちに兵10,000でこれを鎮圧[302]。
- 同年10月、続いて江南地方の福建で宋王朝の復興をスローガンに黄華率いる100,000人ともいわれる群衆が蜂起。反乱軍は自らを頭陀軍と称して宋朝の年号を用いた。元はただちに22,000の軍勢を鎮圧に派遣した[303]。この反乱には日本行省左丞・劉国傑が日本侵攻部隊を率いて鎮圧に乗り出している[304]。
- 1284年(弘安7年・至元21年)2月、クビライは、このような国内情勢の不安定化のなかで高麗における造船を停止させた[305]。さらに敵対関係にあったベトナム南方のチャンパ王国との情勢が思わしくないため、第三次日本侵攻計画の総司令官・阿塔海(アタハイ)に命じて、日本侵攻部隊のうちから15,000の兵と軍船200艘をチャンパ王国に派遣した[306]。
このように元の国内情勢やチャンパ王国との敵対関係による不安定化のため、同年5月、クビライは日本行省を廃止し、再び日本侵攻計画を中止した[307]。
第三次日本侵攻計画(1284年~)
ところがクビライは再び日本侵攻準備を開始する。
- 1284年(弘安7年・至元21年)10月、クビライは日本侵攻用の船と水夫の募集を開始[308]。
- 1285年(弘安8年・至元22年)4月、江淮地方に日本侵攻用の兵糧と軍船を運び、そこで海戦訓練を実施する[309]。
- 同年6月、クラビイは実体は不明なものの、「迎風船」なる軍船の建造を女真族に命じる[310]。
- 同年10月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。阿塔海(アタハイ)を日本行省左丞相、劉国傑・陳巖を左丞、洪茶丘を右丞に任命し、日本侵攻部隊の指揮を執らせた[311]。さらに水夫の募集方法も航海に従事する者を通して、水夫を千人集めたものには千戸の軍職、百人集めたものには百戸の軍職を与える事にした[312]。また、囚人を赦免する代わりにその顔に入墨をあてて水夫とし、南宋の時代に私塩を販売して航海技術のある者も水夫とするなどした[313]
- 同年11月、第三次日本侵攻の作戦計画が発表される。今回は、第二次日本侵攻(弘安の役)の反省から、来年の三月から八月までに、朝鮮半島の合浦(がっぽ)に全軍を集結させてから日本侵攻を行うという計画であった。兵糧は江淮地方より米百万石を徴発し、高麗と東京(遼陽)に各々、十万石貯蔵させた[314]。この作戦に高麗が課された軍役は兵10,000、軍船650艘であった[315]。
- 同年12月、軍籍条例を施行。日本侵攻の兵士として全国から壮士および有力者を選抜し日本侵攻部隊に充てた。さらに五衛軍を各自、家に帰らせて装備を整えさせ、翌年正月一日に元の首都・大都に集結するよう命令じた。また、江淮行省では軍船1,000艘に水上戦闘の訓練を施した。さらに最新鋭の投石器である回回砲の砲手として50人が軍に加えられた[316]。
- 1286年(弘安9年・至元23年)1月、ところが計画は一変し、突如日本侵攻計画は中止となった。その理由は、日本侵攻計画が元の軍民に重い負担を強いるものであり困窮が極度に達していたこと、さらに外征であるベトナムの陳朝大越国とチャンパ王国との戦況が思わしくなかったためである。
クビライが第三次日本侵攻計画を中止したのは、以下のようなクビライと礼部尚書・劉宣とのやりとりがあったためである。
劉宣は、かつて隋が高句麗に侵攻してたびたび敗北した例を引用し「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。 万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」と述べ、かつての隋の高句麗侵攻以上に日本侵攻が困難であるとして、クビライに日本侵攻をとりやめるよう諫言した[153]。
これに対して、クビライは「日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ」[317]と述べて、日本侵攻計画を取りやめた。この知らせが江浙の軍民に伝わると、軍民は歓声を上げ、その歓声は雷のようであったという[318]。
日本侵攻を諦めたクビライは「日本は今までに我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾(ベトナム北部の国。陳朝大越国)が我が国の辺境を犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾を事とするがよい」[319] として、日本から陳朝大越国に目を転じた。
元の内乱と外征
- 1287年(弘安10年・至元24年)、高麗北方の遼陽行省を中心にクビライ政権の支柱のひとつである東方三王家の首班・乃顔(ナヤン)が反乱を起こした。クビライの親征により反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、この戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族・哈丹(カダアン)が蜂起。1290年代には哈丹(カダアン)軍が高麗領に侵入し、いくつかの城塞が占拠し、一部は高麗の首都・開城より南の忠州まで侵入した。哈丹(カダアン)ら反乱軍も元からの援軍もあって鎮圧されたが、乃顔(ナヤン)の反乱の時には西方の海都(カイドゥ)もカラコルムを目指して進撃しており、1287年から1291年にかけて、元の東部全域から北部、特に高麗内外では騒乱が続いた(ナヤン・カダアンの乱)。
- また、モンゴル帝国第4代皇帝・モンケの時代に服属していたベトナム北部の陳朝大越国でも、元によるベトナム南部のチャンパ王国侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・陳聖宗が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵(元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵(海南島の黎族兵)1万5千)を派遣した[320] 。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている(白藤江の戦い)。
これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤンの反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ王国、また1290年代に侵攻があったジャワ島のマジャパヒト王国でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、クビライ治世末期には南方への元からの軍事的脅威はほぼ解消した。
第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)
クビライは5年にわたる内乱が鎮まると、再び日本侵攻を考え始めた。
- 1292年( 正応5年・至元29年)、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは第二次日本侵攻の利を失する所以である。もし、高麗をして船を造らせて、また再び日本に遠征すれば、日本を取ることができる」と進言した。これを受けてクラビイは近臣らに日本侵攻の是非を問うたという。それに対して、洪茶丘の弟・洪君祥は「軍事は至大なり。宜しく先に遣使し、これを高麗に問い、然る後に之を行うべし」と進言し、ひとまず高麗に日本侵攻の是非を問うべきだとしたため、クラビイはそれを了承した。
高麗に遣わされた洪君祥は、7年間、元に勾留されていた漂着した日本人の護送を高麗に命じるとともに日本侵攻の是非を高麗国王・忠烈王に問うた。忠烈王は「臣、既に不庭の俗に隣りす。庶わくは、当に躬自ら致討し、以て微労を効すべし」と答えて、日本侵攻に積極的姿勢をクビライに示した[321]。それを受けて、クビライは再び、戦艦の造船を高麗に命じる[322]。ところが、この頃には相次ぐ造船により、すでに高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船できるような状況では無かったという[323]。
- 1294年( 永仁2年・至元31年)1月、大元朝初代皇帝・クビライが没する。クビライが死去したことに伴い、高麗での造船は停止し、幾度も持ち上がっては消えた日本侵攻計画はようやく中止となった[323]。
- 1298年( 永仁6年・大徳2年)、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムルに対して、江浙省平章政事・ 也速䚟兒(イェスダル)が日本を征すことを乞うたが、テムルは「今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん」と述べて也速䚟兒(イェスダル)の進言を退けた。以後、元において日本侵攻計画が持ち上がることは無かった[324]。
瑠求侵攻と正安の蒙古襲来
- 1291年( 正応4年・至元28年)9月、元は6,000人の大軍で瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画をたて[325]、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻[326]。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおこの「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説ある[327]。
- 1301年(正安3年・大徳5年)11月、薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり[327]、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある[327]。
元寇の影響
元側における状況と影響
浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた[328]。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする[328]。
1292年(正応5年、至元29年)、日本の商船が貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、検査により船内から武具が見つかり、日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官哈剌帯に海防を固めさせた[329]。
1304年(嘉元2年、大徳7年)、江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ[330]、市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した[331]。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする[328]。
日本脅威論の形成
さらに、王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している[332]。
例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」[333]と述べ、また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」[334]と述べ、日本征服は無益としている。
また、明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことがうかがえる[335]。
元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった[336]。 元の後に起こった明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋(洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された[336]。
そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという[337]。
日本側の状況と影響
文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。
弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。
貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。
宗教・思想への影響
日蓮は、外国の侵攻という『立正安国論』における自己の予想の的中として元寇を受け止め、『法華経』の行者としての確信をますます強めた。 浄土教を民間に広めた一遍の踊念仏にみられる熱狂の背景に、元寇の脅威による緊迫感・終末感があったという見解もある[338]。
この当時、仏・神の国土守護の存在意義が寺社側によって宣伝され布教に利用された。各地の寺社縁起では、朝鮮半島を征服したとされる神功皇后の三韓征伐が想起され、日本の軍事力や神々の力の優越性が主張された。同時に、外国とりわけ元寇で主要な役割を果たした高麗が存在した朝鮮半島は征伐される悪人の地として位置づけられた[339]。
伝承
その後の日本では、元寇の際、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことから、「蒙古・高句麗の鬼が来る」といって怖れたため、転じて恐ろしいものの代名詞として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の元寇の記憶を子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。
また元寇への復讐や、元や高麗によって連行された日本人を取り返すために倭寇の活動がおこったという説がある。
軍事面
かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。また元軍は『八幡愚童訓』によれば毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われていた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、実際は日本側も集団戦術を取っていたと考えられている。
集団戦法・一騎打ち
『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎打ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の神徳によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある[340]。一騎討ちに関しても、『蒙古襲来絵詞』絵5に描かれているように日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、また、平安後期から鎌倉時代にかけて武士に関する文献で一騎打ちの記述があるのは、『今昔物語集』の源充と平良文との騎射による一騎打ちの場面と『前九年合戦絵巻』の一騎打ち直前の絵のみである。このように、特別な場合を除いて一騎打ちは行われておらず、一騎打ちは日本の武士の通常の戦闘方法ではない[340]。
また、元朝の官吏・王惲は、武士の特徴をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」[123]と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。
『元史』においても、日本の特性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。 万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」[153]とあり、一騎打ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。
てつはう
正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20cm、総重量は4~10kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。
2001年、鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばす事ができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。
「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている[341]。
和弓と蒙古弓
和弓の第一の特徴は、弓が約2.2mもあり世界最大の長弓であったことにある。長弓であることは矢を引く長さ(矢尺)を伸ばし弓矢の威力が増大することを意味し、現存している鎌倉時代の矢から80~90cm前後の矢尺を引いたと推測される。 第二の特徴は弓を握る位置にある。日本以外の弓では握りの位置が弓の中央であるのに対して、和弓は上から三分の二の中央より下の方を握るようになっており、短下長上という構造になっていた。これは弥生時代には確認できる日本独特の弓の特徴であった。中央より下方を握ることで以下の利点があった。同一の弓でも弓力(弓が矢を放つ力)が増大すること。短下長上という構造上、矢の角度が仰角となり、結果、射程距離をより長くできた。さらに弓幹の振動がこの握りの近辺では少なく、操作しやすいことなどが挙げられる。
第三の特徴としては「弓返(ゆがえ)り」といわれるものがある。これは、矢が発射された直後に、弓を握る左手の中で、弓が反時計回りにほぼ一回転することをいう。これも日本独特のものであり、鎌倉期~南北朝期の射術の進歩、弓の改良によって新しく起こった現象である。この「弓返り」により、弓の復元力(弓が矢を発射する前の本来の形状に戻ろうとする力)は速さを増し、矢はさらに加速され威力を増した。ただし、実戦では矢の連射性を重視したため、復元に手間がかかる「弓返り」はさせなかった。
一方、蒙古弓は、長さが1.5m~0.6mで短弓である。弓は牛の角と腱と木を組み合わせて作られている。弓全体の芯となっているのは木であり、弓の弦側には圧縮に強い牛の角を加工したものを張り付け、その反対側には伸張に対して強度のある腱を張り付けてある。そして、弓全体を接着力強化のため樹皮で巻き、また湿気予防のために塗料が塗られた。また、弓は弦を外すと反対側に大きく反る形に作られており、矢の速度及び飛距離が増すよう工夫されている。矢の先には鏃がつけられ、その形状には各種ある。弓の弦は鹿(アンテロープ)の首の皮で作られ、丈夫にできている。
筑波大学体育科学系助教授・森俊男によると和弓と蒙古弓を比較した場合、日本の弓の方が射程距離、威力は優っているとしている。 まず、矢の比較だが、和弓と蒙古弓とも矢の長さは80~90cmとほぼ同じ長さである。しかし、日本の矢は竹製の矢柄を材料として、それを火で焼き、まっすぐに矯めると同時に矢柄の硬度を高め、竹の肉厚が均一になるよう削って作られている。そのため、矢の重量や重心位置が一定となる。また、「箆張り(のばり)」といわれる、矢の中央部を押した時の反発力が、蒙古軍の使用する矢よりも強い。できあがった矢柄に鷲・鷹類の羽が三枚付けられ、鉄製の鏃を矢先に差し込んで戦闘用の矢(征矢)となる。一方、蒙古弓の矢は日本の矢のような複雑な製作過程は無く、矢は木を削って作られた。矢の飛行を安定させるため、飛行中に矢が回転するように三枚の羽が付けられている。矢を同じように発射した場合、使用する矢の重量、重心位置、箆張りなどの規格が均一でなければ、矢の着点や飛行状態は異なってくる。着点は命中と密接な関係があり、その飛行状態は矢が命中した際の威力の大小に関係する。これらの理由により、森俊男は日本の矢の方が性能は良かったと指摘している。
次に弦の比較であるが、日本の弦は麻を材料とし、それを縒り合わせて松脂(まつやに)をしみ込ませ、絹糸を全体に巻き締めて、その上に漆を塗って作られている。現在、通常使用されている弦の重さは二匁(7.5g)くらいである。糸を巻いて漆を塗り、重さが三倍になったとしても22.3gである。一方、蒙古弓の弦は動物の皮を使用し、重さは46gと日本の弦の2倍以上の重さがあった。したがって、矢が発射され弦が復元する過程では、弦の重さや空気抵抗などから、同じ強さの弓だとしても、矢の速度に差が生じるため、日本の弦の方が性能が優っているとしている。
鏃及び矢柄の重量は発射される矢の飛行速度に大きく関係するが、両軍の使用する矢の重量はほとんど差はなかった。矢の速射性に関しても、引く矢の長さが同じため、運動量も同じであり、差はなかったものとみられる。以上の点から射程距離、威力に関しては和弓が若干優位であったと森俊男は結論付けている[342]。
なお、和弓と蒙古弓についてそれぞれ言及されている史料もあり、日本側の史料『八幡愚童訓』によると蒙古弓は威力が弱いが毒を塗ってそれを補っていたとしており[138]、元側の史料『汎海小録』によれば和弓は威力は強力だが遠くには届かないとあり[123]、史料によれば和弓は威力で蒙古弓に優っているが、射程では蒙古弓が和弓に優っているとしている。
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鎌倉時代~南北朝時代の日本の矢『征箭』
重要文化財・大山祇神社所蔵 -
鎌倉時代~南北朝時代の日本の矢『征箭』
重要文化財・大山祇神社所蔵 -
鎌倉時代~南北朝時代の日本の矢『雁股箭』
重要文化財・大山祇神社所蔵 -
鎌倉時代~南北朝時代の日本の矢『中差箭』
重要文化財・大山祇神社所蔵
騎馬兵
文永の役で元側が馬を戦場で使用したことは『蒙古襲来絵詞』や『八幡愚童訓』からも窺え、『高麗史』にも高麗南部に日本侵攻に用いる軍馬のための糧抹を配給する奥魯(アウルク)が設置されている事からも、軍馬が文永の役で使用されたことは間違いないが正確な軍馬数は不明。『蒙古襲来絵詞』絵8の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍左副元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」[143]とあり、騎乗率を約15~17%ほどとしている。 なお、日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている[117]。
また、対する日本軍は、陸戦においては騎兵を密集させた集団で戦っていた。そのことは、クビライに仕えた・王惲が日本軍の様子を「騎兵は結束す」[123]と記していることや『蒙古襲来絵詞』絵五に騎兵を密集させて突撃する日本軍の様子が描かれていることからもうかがえる。
両軍が使用した軍馬は、日本在来馬とモンゴルのモウコウマ共に体高としては120㎝~140㎝ほどであり、差は無かった。
元軍船
- 文永の役の元軍船
元軍が撤退中に暴風雨を受けた文永の役においては、高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船(竜骨を持ち、隔壁構造の船)にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている[343]。
- 弘安の役の元軍船
弘安の役において台風により元軍船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に造らせたことにあるという粗製乱造説がある。彼らはモンゴル人支配に不満を募らせていたという前提のもと、造船が急務であったこともあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたのではないかという説である。しかし、手抜きを裏付ける史料は無く、むしろ元朝の官吏・王惲の記事『汎海小録』や『高麗史』には高麗船が頑丈だったことが指摘されており、実際に高麗船での生還者は多かった。詳しくは弘安の役・台風を参照。
また、長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」で発見された元軍沈没船の琉球大学と松浦市教委による調査の結果、元軍船の船底は二重構造となっており、頑丈に造られていたことが判明した。調査を主導した琉球大学教授の池田栄史によると、船底に内側から木材を張って二重に補強することで水が入り込まないように工夫していたとみられ、当時の貿易船では見られない頑丈な構造であった。これらの新発見の結果、池田栄史は「(元軍船は)丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と粗製乱造説に否定的見解を示した[344]。なお、発見された元軍船の全長は、25~27mほどと推定されている[345]。また、船体とは別に発見されていた最も大きい碇の一部から推定できる最大級の元軍船は40mに達するという見解もある[346]。
研究と評価
日本侵攻理由の諸説
文永の役は征服を目的とした侵攻では無く、威力偵察ではなかったかとの説もある[347]。モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、チンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金王朝侵攻では、数度に亘り「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった[348]。 また、『元史』には文永の役において、元軍の矢が尽きたという記述が見られ、当時の主力武器である矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくいこと、日本を征服するには33,000人程度という少ない兵力であることを威力偵察の根拠に挙げている。しかしながら、元軍の日本以外の派兵兵力は、渡海侵攻である三別抄の乱鎮圧戦では凡そ12,000[77]、樺太侵攻でも最大で10,000[349]、ジャワ侵攻で20,000[350]であり、文永の役の兵力はその他の侵攻と比べて、決して規模の小さいものでは無かった。また、偵察目的であることを裏付ける史料は無く、『元史』の矢が尽きたという記述の前に、撤退理由として「官軍(元軍)整わず」とあり、日本軍との戦闘に及んで編成を乱し、撤退することに決した元軍の様子の記述があり、予定通りの撤退であったとは書かれていない[146]。また、『高麗史』においても、元軍は日本軍の頑強な抵抗に遭い、兵力不足を勘案した結果、元軍の総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は撤退を決断したことが記されている[134]。
一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。
旧南宋軍が主力となった江南軍10万人については軍隊兼移民団だったのでは、との見解がある[351][352]。元々、南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったのではないかとしている。旧南宋軍の新たな雇用先として受け入れたことも元朝にとって負担であり、また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである[要出典]。
海底調査
近年の海底調査では、長崎県の鷹島の南部の海底から元軍の刀剣や碇石などが発見されている。 また、発掘された物の中には、元軍中隊長クラスの管軍総把の証である「管軍総把印」と刻まれている青銅印が発見されている。管軍総把印は、元朝の国字パスパ文字で刻まれており、印面の裏の左側には漢字で「中書礼部 至元十四年(1277年)九月造」の字がみえる[353]。
2011年10月24日、琉球大学教授・池田栄史の研究チームが、伊万里湾の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇の時の船と判定したと発表した。元軍船が発見された鷹島東部沖合は「鷹島神崎(こうざき)遺跡」として国史跡に指定され、日本初の水中遺跡となった。
日本の封建制
今谷明は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している[354]。今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝[355]や神聖ローマ帝国[356]と日本の三つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘し[354]、中央集権では中枢部への恫喝や制圧で全体を降伏させることが可能であるが、封建制の場合力関係が複雑な並立する諸侯を全て同時に屈服させる必要があったことなどを指摘している[354]。
高麗の関与
この記事の正確性に疑問が呈されています。 |
『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の諶(しん、後の忠烈王)が、大元朝のクビライに「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」[357]と具申したとある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた[358]。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。
日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」の解釈
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている[359]。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、日朝の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した円明院日澄(1441年-1510年)『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった[360]。『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる[361]。
『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における元寇関係の研究書では、津田元貫(1734-1815)『参考蒙古入寇記』や群書類従の編者でもある塙保己一(1746年-1821年)の『螢蠅抄』、橘守部(1781年-1849年)『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている[362]。本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては(日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように)二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、橘守部が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった[363]。『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、明治24年(1891年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない[364][365]。明治期に入り、小倉と同じ1891年11月に山田安栄は日本内外の元寇関係の史料を収集した『伏敵編』を著した[366]。『伏敵編』は『善隣国宝記』や『異称日本伝』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、大橋訥庵『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く元寇史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件(1886年)を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった[367]。
山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『太平記』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている[368]。さらに山田は、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで[368]、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。
翻って、日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している[369]。
しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたものという推測がされている[370]。
元使殺害
文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためという見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」[371]とある。『元史』でも、趙良弼はほぼ1年間、太宰府に留まっていたが、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗、産物」などの情報収拾を行い[372]、帰還して後にクビライに報告した。ただし、趙良弼は日本侵攻については、住人の風俗や性格は悪く、地勢も山水が多く耕作が困難であるため富みを得られず、渡海も困難であるため、遠征は無益である旨を奏上した[373]。
こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、「大日本史」や頼山陽らは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。
神国思想
異国調伏祈祷
文永の役に先立つ1271年(文永8年・至元8年)10月25日に、後深草上皇が石清水八幡宮へ行幸して異国の事について祈願しており、文永に際して、亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。
弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿殿上人、北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。
朝廷や幕府は、元からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮、住吉大社、厳島神社、諏訪大社、東大寺、延暦寺、東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。
幕府は弘安4年から翌5年にかけて、これら九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布し、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ 返還するよう命じている。
史料
以下、一次史料を記す。
日本側史料
- 『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長)
- 『福田文書』
- 『朝師御書見聞 安国論私抄』(日朝)
- 『五代帝王物語』
- 『五檀法日記』
- 『関東評定衆伝』
- 『鎌倉年代記』
- 『帝王編年記』
- 『深心院関白記』(近衛基平)
- 『吉続記』(吉田経長)
- 『勘仲記』(広橋兼仲)
- 『弘安四年日記抄』(壬生顕衡)
- 『調伏異朝怨敵抄』(宗性)
- 『金剛仏子叡尊感身学正記』(叡尊)
- 『日田記』
- 『一代要記』
- 『歴代皇紀』(洞院公賢)
- 『八幡愚童訓』
- 『日蓮聖人註画讃』(日澄)
- 『予章記』
- 『武藤少弐系図』
- 『宇都宮系図』
- 『深堀系図証文記録』
- 『龍造寺系図』
- 『江上系図』
- 『財津氏系譜』
- 『歴代鎮西要略』
- 『鎌倉遺文』
元朝側史料
- 『元史』
- 『元文類』
- 『新元史』
- 『元高麗紀事』
- 『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌(鄭思肖)
- 『癸辛雑識』続集下(周密)
- 『隣交徴書』二篇巻一 論倭(呉莱)
- 『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録(王惲)
- 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』
- 『元朝名臣事略』野斎季公撰墓碑(蘇天爵)
高麗側史料
ヨーロッパ側史料
- 『東方見聞録』(マルコ・ポーロ及びルスティケロ・ダ・ピサ)
参考文献
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- 山本光朗「元使趙良弼について」『史流』第40巻 北海道教育大学史学会 2001年4月 1-48頁
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- 川添昭二『日蓮と鎌倉文化』 平楽寺書店 2002.4
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- 大葉昇一「弘安の役における東路軍の編制--とくに兵力と海上輸送の有り様について-- (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、24-37頁、NAID 40005736729。
- 太田弘毅「日本再征時の東路軍艦船隊--早急の合浦出港問題(特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、38-56頁、NAID 40005736730。
- 佐藤鉄太郎「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、57-73頁、NAID 40005736731。
- 山形欣哉「元寇時の蒙古船(江南船)についての一考察 (特集 元寇)」『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月、74-85頁、NAID 40005736732。
- 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』 (錦正社史学叢書)錦正社、2005年4月
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- 大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年1月
- 太田弘毅「第二次蒙古襲来時、鷹島南岸海域の元艦船--"吹き返し"南風による壊滅」『政治経済史学』第487巻、日本政治経済史学研究所、2007年3月、1-27頁、NAID 40015785349。
- 新井孝重『蒙古襲来』(戦争の日本史 7)、吉川弘文館、2007年4月
- 服部英雄『歴史を読み解く・さまざまな史料と視角』「文永十一年・冬の嵐」http://hdl.handle.net/2324/17117
- 松浦市教育委員会 編『松浦市鷹島海底遺跡 --平成13・14年度鷹島町神崎港改修工事に伴う緊急調査報告書』(第2集)長崎県松浦市教育委員会、2008年
- 太田弘毅「弘安役時、東路軍支隊の長門沖での遊弋--関門海峡西方口哨戒の意味」『政治経済史学』第499巻、日本政治経済史学研究所、2008年3月、18-49頁、NAID 40016409304。
- 外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社、2008年。ISBN 9784404035165。
- 舩田善之「日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の展開--冒頭定型句の過渡期的表現を中心に」『史淵』第146巻、九州大学大学院人文科学研究院、2009年3月、1-23頁、NAID 120001164451。
- 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(世界史リブレット 99)山川出版社、2011年5月
元寇を題材にした創作作品
- 元寇(1892年、軍歌、永井建子の作詞・作曲)
- 科戸風元寇軍記(かとのかぜげんこうぐんき)(元寇軍記)、歌舞伎、竹柴諺蔵(げんぞう)=三代目勝諺蔵(1844-1902)作[374]。
- 「元寇」(昭和15年(1940年)、長唄、二代目稀音家浄観作曲、北原白秋作詞)
戦後
- 海音寺潮五郎の歴史小説「蒙古来る」(現在は文春文庫全2巻) - 1953年(昭和28年)『読売新聞』に連載。日本の再軍備を正当化するものとの批判を受ける。
- 映画『日蓮と蒙古大襲来』(1958年大映 監督:渡辺邦男)
- 風雲児北条時宗(1960年代初頭のテレビ連続ドラマ)
- 井上靖「風濤」講談社,1963年 (新潮文庫) - 第15回読売文学賞受賞
- 北条時宗 (NHK大河ドラマ)(2001年)
- 漫画「暗殺鬼フラン衆伝 ユーラシア1274」石川賢,小学館(BIC COMICS IKKI),2001年 -フビライ・ハン率いる蒙古の軍勢と、日蓮率いる腐乱衆の戦いを描く。全1巻。
- 天野純希「青嵐の譜」歴史小説、集英社(2009年)
元寇に関する資料館・史跡
福岡県
- 元寇史料館(福岡市博多区東公園)
- 亀山上皇銅像(福岡市博多区東公園)
- 日蓮聖人銅像(福岡市博多区東公園)
- 今津元寇防塁(福岡市西区今津)
- 今宿元寇防塁(福岡市西区今宿)
- 西新元寇防塁(福岡市早良区西新)
- 生の松原元寇防塁(福岡市西区生の松原)
- 姪浜元寇防塁(福岡市西区小戸)
- 地行元寇防塁(福岡市中央区地行)
- 箱崎元寇防塁(福岡市東区筥松)
- 筥崎宮(福岡市東区箱崎)
- 櫛田神社(福岡市博多区上川端町)
- 祖原元寇古戦場跡(福岡市早良区昭代)
- 蒙古塚(福岡市東区志賀島)
- 火焔塚(福岡市東区志賀島)
- しかのしま資料館(福岡市東区志賀島)
- 九州国立博物館(太宰府市石坂)
長崎県
- 壱岐神社(長崎県壱岐市芦辺町)少弐資時の墓
- 新城神社(長崎県壱岐市勝本町)平景隆の墓
- 新城の千人塚(長崎県壱岐市勝本町)
- 松浦町立鷹島歴史民俗資料館(長崎市松浦町鷹島)
- 安国寺 (壱岐市) (長崎県壱岐市)
脚注
- ^ 長崎県史編集委員会 編『長崎県史』中世編、1980年、266頁
- ^ 外山幹夫『肥前松浦一族』新人物往来社、2008年3月、63頁
- ^ 外山幹夫『肥前松浦一族』、63頁
- ^ a b c 大元朝に人質に出された高麗国王・高宗の子息・王綧の子。『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王綧・附阿剌帖木兒「十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。」
- ^ 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳(三日)の条「冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵二の墨書「太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵三の墨書「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」
- ^ 赤坂の戦い直後の兵力。赤坂の戦い以前の兵力は不詳。『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」
- ^ a b 『元史』巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨「十年(十一年)、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、竊念、小國戸口、自來凋弊、往歳東征之時、大船一百二十六艘梢工水手、猶爲未敷、況今三百艘、何以盡數應副、以此至於農民、徴發丁壯、凡一萬五千人、其不敷水手三千人、於何調發、有東寧府所管諸城及東京路沿海州縣、多有梢工水手、伏望、發遣三千人補乏、」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。」 各艦船の用途については山形欣哉・石井謙治『歴史群像シリーズ64―北条時宗―蒙古襲来と若き執権の果断--元寇軍船』(学研出版 2000年 36~39頁)を参考。
- ^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年三月庚寅の条「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」
- ^ 『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、」
- ^ 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していた忻都(ヒンドゥ)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、忻都(ヒンドゥ)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。他方、歴史学者の大葉昇一は『元史』至元十一年三月庚寅の条「合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は『元史』至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。(大葉昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅(濟州島)征討から元寇へ--』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、同元宗十五年五月己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
- ^ 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300(『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、5,458(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、5,600(『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、8,000(『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。なお、歴史学者の池内宏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数を約6,000という見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額。」、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。」、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」、『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一)三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍五千六百人、助征日本。」
- ^ a b 『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女真軍、女真後期、乃發船」
- ^ a b 『八幡愚童訓』文永11年10月5-6日条に「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」とある(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)。 萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183。
- ^ 同じく『八幡愚童訓』文永11年10月14-15日条に「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。(中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。(中略)異敵ハ大勢也。可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」とある。 萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183-184。
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一「(元宗十五年、冬十一月)己亥、東征師還合浦。遣同樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条「以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、」
- ^ 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、值颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」
- ^ 『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思「十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、」
- ^ 外山幹夫 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。
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- ^ a b 『深堀系図証文記録』「弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)
- ^ a b 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年六月辛丑(二十五日)の条「忠烈王五年 東征元帥府承省旨、令造戦艦九百艘。」
- ^ a b c d e 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「十七年、授龍虎衞上將軍、征東行省右丞、十八年、與右丞欣都、將舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海、期至日本一岐、平戸等島合兵登岸、兵未交、秋八月、風壞舟而還。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
- ^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。『元史』世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して高麗国王が元に3万の軍勢を要請したとあり、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したとあり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王睶来朝、且言將益兵三万征日本。」及び『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 八月乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏」(大葉昇一 2003, p. 25)
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- ^ a b 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月丙辰(二十二日)の条「范文虎亦以戦艦三千五百艘、蛮軍十餘萬来」
- ^ 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。江南軍が10万であったことは『高麗史』や『元史』から確認できるが、『元史』洪茶丘伝では「時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海」とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くは無かった。なお、東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。大葉昇一 2003, p. 37
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- ^ a b c d e 『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年)閏(八)月(中略)忻都(洪)茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」
- ^ a b 東征軍九千九百六十名とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」
- ^ a b c d e f g 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島か)、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、 謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。」
- ^ 川添昭二 1977.
- ^ 佐伯弘次(2003)他。
- ^ 舩田善之 2009.
- ^ 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号を漢語で「大元」と改められた。「元」とは後世の略称。
- ^ a b 『日本歴史大系2 中世』山川出版社、1985年,269頁。
- ^ 中村和之「北からの蒙古襲来」をめぐる諸問題」(『北東アジアの歴史と文化』(菊池俊彦編、北海道大学出版、2010、414-415頁)。『元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝。
- ^ 『元史』巻五 本紀第五 世祖二 至元元年十一月辛巳の条「辛巳、征骨嵬、先是、吉里迷内附、言其國東有骨嵬、亦里于兩部、嵗來侵疆、故往征之。」
- ^ a b c 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「元世祖之至元二年、以高麗人赵彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。」
- ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「蒙古遣黒的殷弘来、詔曰、今爾國人趙彝来告、日本與爾國為、近隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故今遣黒的等往日本、欲與通和」
- ^ 黒田俊雄(1973),56頁。
- ^ 月村辰雄・久保田勝一訳『マルコ・ポーロ東方見聞録』岩波書店 2012年 197~198頁
- ^ 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「元賊聞其豊庶、怒倭主不来臣、竭此土民力、弁舟艦、往攻焉、」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 212頁
- ^ 新井2007,pp.20-23
- ^ a b 『高麗史』巻一百ニ 列伝十五 李蔵用 元宗九年五月二十九日の条「又勑蔵用曰、爾還爾國、速奏軍額、爾將討之、爾等不知出軍將討何國、朕欲討宋與日本耳、今朕視爾國猶一家、爾國若有難、朕安敢不救乎、朕征不庭之國、爾國出師助戰亦其分也、爾歸語王、造戰艦一千艘、可載米三四千石者、蔵用對曰、敢不承命、但督之、則雖有船材、恐不及也、」
- ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十月)庚寅(十三日)の条「庚寅、蒙古遣明威將軍都統領脱朶兒武徳將軍統領王國昌武略將軍副統領劉傑等十四人來、詔曰、卿遣崔東秀來奏、備兵一萬造船一千隻事、今特遣脱朶兒等、就彼整閲軍敷、點視舟艦、其所造船隻、聽去官指晝、如耽羅已與造船之役、不必煩重、如其不與、即今別造百艘、其軍兵船隻、整點足備、或南宋或日本、逆命征討、臨時制宣、仍差去官先行、相視黑山日本道路、卿亦差官、護送道達。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)丙辰(二十八日)の条「丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。」
- ^ a b c 新井2007「蒙古襲来」,21-22頁
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年 正月の条「元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丙辰(一日)の条「八月丙辰朔、黑的殷弘及宋君斐等復來、帝喩曰、向者遣使招懷日本、委卿嚮導、不意、卿以辭爲解、遂令徒還、意者日本既通好、則必盡知爾國虛實、故托以他辭、然爾國人在京師者不少、卿之計亦疎矣、且天命難諶、人道貴誠、卿先後食言多矣、宣自省焉、今日本之事、一委於卿、卿其體眹此意、通喩日本、以必得要領爲期、卿嘗有言、聖恩天大、誓欲報効、此非報效而何。」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「四年六月、帝謂王禃以辭爲解、令去使徒還、復遣黑的等至高麗諭禃、委以日本事、以必得其要領爲期、禃以爲、海道險阻、不可辱天使、九月、遣其起居舍人潘阜等持書往日本、留六月、亦不得其要領而歸。」
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑(二十三日)の条「遣起居舎人潘阜、齎蒙古書及國書如日本、」
- ^ 東大寺宗性筆の『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古國牒状」に続いて記載されている。「高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」『鎌倉遺文』9770号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年(1265)-至文永5年(1268)、東京堂出版、1985年、285頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図2-4、(下)1-2頁。東大寺宗性によって『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古國牒状」、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。
- ^ a b c 山口修「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社1974年,195頁
- ^ 『○新式目』関東御教書「一 蒙古国事 蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐國御家人等状、依仰執達如件、 文永五年二月廿七日 駿河守殿(北条有時?) 相模守(北条時宗)左京権大夫(北条政村)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九八八三号)
- ^ 新井2007,p25
- ^ 南都東大寺尊勝院所蔵で東大寺宗性筆の蒙古國牒状『調伏異朝怨敵抄』(奥書に国書が京都に送達された直後の文永5年2月(22日)に亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に書き留めた旨が書かれている)。なお同一の記載が『元史』日本伝にもある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。『鎌倉遺文』9564号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年(1265)-至文永5年(1268)、東京堂出版、1985年、199頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図1-2、(下)1-2頁。
- ^ 山口修、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。田中健夫、岩波講座世界歴史9,1970年。杉山正明もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。他、村井章介、奥富敬之など。
- ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十ニ月)庚辰(四日)の条「庚辰、知門下省事申思佺侍郎陳子厚起居舎人潘阜、偕黑的殷弘如日本。」
- ^ a b 『蒙古来使記録』<○賜芦文庫古文書所収称名寺文書>「文永六-ニ-十六-蒙古高麗使等渡海事<蒙古人官人三人<同従人五人、>高麗人六十七人船四艘着対馬嶋豊岐浦云々> 同二-廿二日馳申了、同三-廿四日、逃帰本審事(畢カ)云云、文永六年-十-十七-、蒙古牒一通、高麗牒一通持之、牒使二人、令着対馬嶋之由申之云々、 彼至元六-六-日、而如院宣者、通好之義、准唐漢之例、不可及子細、但彼国与我国、 自昔無宿意、用兵之条、甚以不義之旨、可被遣返牒也、且草者可長成卿之由、諸卿評 定之由云々、而関東評定了、先度牒使来朝之時、不可返牒之由、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇三八〇号)
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還。」
- ^ a b 張東翼 2005.
- ^ 大元朝中書省宛ての文永七年正月付太政官牒案。『鎌倉遺文』 古文書編 第14巻 自文永六年(1269年)至文永九年(1272年)、東京堂出版、1983年、(『鎌倉遺文』10571号 「日本國太政官牒 贈蒙古國中書省牒」)pp.117-118。
- ^ 『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」とある
- ^ この文永8年の「高麗牒状」については『吉続記』文永8年9月2日条、その対応を伝える同9月4日条の記述しか知られていなかったが、その「牒状」についての不審点を箇条書きしたメモ「高麗牒状不審条々」が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。「牒状」本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この時の「高麗牒状」は江都(江華島)・開京の高麗国王・元宗政権からのものではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出したものであるとほぼ確実視されている。 石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条「乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸郡退屯、然后内附。而忻都從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」
- ^ a b 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条「庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、」
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」
- ^ 『五代帝王物語』「同(文永)八年九月十九日筑前国今津に異国人趙良弼を初として百余人来朝の間、軍船と心得て宰府さはぎけれども、其儀はなくて是も蝶状也、但辛櫃に納て金鎖を指て王宮に持参して帝王に献れ、それ叶はずば時の将軍に伝えて参らすべし、其儀もなくば持て帰べき由王勅を承たれば、手をはなつべからずとて、案を書て出したり、是も返蝶に及ず、此国後は大元国と号す、威徳のまさるに従て名を改とかや、されば始終いかなるべきかと恐しく覚侍、」
- ^ a b c d 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「九年二月、樞密院臣言、奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸來言、去歲九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所、守者云、曩為高麗所紿、屢言上國來伐、豈期皇帝好生惡殺、先遣行人下示璽書、然王京去此尚遠、願先遣人從奉使回報、良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見、帝疑其國主使之來、云守護所者詐也、詔翰林承旨和禮霍孫以問姚樞、許衡等、皆對曰、誠如聖算、彼懼我加兵、故發此輩伺吾強弱耳、宜示之寬仁、且不宜聽其入見。從之、」
- ^ 『元朝名臣事略』野斎季公撰墓碑「既至、宋人与高麗・耼羅共沮撓其事。留公太宰府、専人守護。第遣人応返議事、数以兵威相恐。或中夜排垣破戸、兵刃交拳。或火其隣舎、喧呶叫号。夜至十余発。公投牀大鼾、恬若不聞。如是者三日、彼詐窮変索公、呼守護所、大加詬責。彼来請受国書。公言、国書当俟見国主日致達。数欲脅取、公以辞拒之。嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。」
- ^ 『吉続記』十月廿四条「今度蝶状、朝使直可持参帝都、不然者不可放手之由申之、蛮夷者参帝闕事無先例、蝶状之趣可承之由、少卿問答、就之、彼朝使書写蝶状、与少卿、彼状自関東進之、其趣、度々雖有蝶状、無返蝶、此上以来十一月可為期、猶為無音者、可艤兵船云々、可有返蝶云々、先度長成卿草少々引直可被遣云々、」
- ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年五月丁丑の条「丁丑、趙良弼還自日本、遣書狀官張鐸、率日本使十二人如元、王遣譯語郞將白琚、表賀曰、盛化旁流、遐及日生之域、殊方率服、悉欣天覆之私、惟彼倭人、處于鰈海、宣撫使趙良弼、以年前九月、到金州境、裝舟放洋而往、是年正月十三日、偕日本使佐一十二人、還到合浦縣界、則此誠由聖德之懷綏、彼則嚮皇風而慕順、一朝涉海、始修爾職、而來萬里瞻天、曷極臣心之喜、玆馳賤介、仰賀宸庭。」
- ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条「諭旨中書省、日本使人速議遣還。安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。」
- ^ 『元朝名臣事略』野斎季公撰墓碑「日本遂遣使介十二人入覲。上慰論遣還。其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。公還、以疾請帰老樊川。」
- ^ 『元史』高麗伝による
- ^ 『肥後小代文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人(名越時章)、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、 文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 小代右衛門尉(重俊)子息等」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七三号)
- ^ 『薩摩二階堂文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所下遣御家人等於鎮西也、早速差下器用代官於薩摩国阿多北方、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、 文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 阿多北方地頭(二階堂行景妻忍照)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七四号)
- ^ a b 川添昭二『元寇防塁編年史料―注解異国警固番役史料の研究』福岡市教育委員会 1971年 57頁
- ^ 『尊敬閣所蔵野上文書』大友頼泰書下「「(付箋)大友出羽守頼泰」「(端書)守護所廻文<筑前・肥前両国要害警固事 到来文永九二十六>」筑前・肥前両国要害守護事、東国人々下向程、至来三月晦日、相催奉行国々御家人、可警固之由、関東御教書到来、仍且請取役所、且為差御家人御代官等、已打越候畢、不日相尋亍彼所、無懈怠、可令勤仕候也、恐々謹言、 文永九年二月朔日 (大友)頼泰(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇九六四号)
- ^ 『薩摩延時文書』平忠俊・同忠恒連署譲状「(端裏書)「□かおかにし太郎とのゝくますにゆつ□(花押)」たゝしかのなりをかのミやうてん(名田)のうち(内)、のたそのら、しよ□くらにゆつ(譲)りあた(与)ふるふん(分)にをいてハ、かくへつの□をたいするあいた、これをのそ(除)くところなり、(花押) ゆつ(譲)りあた(与)ふるあさ(字)なくますまろ(熊寿丸)かところに、平たゝとし(忠俊)か□(せんカ)そ(先祖)そうてん(相伝)のそりやう(所領)、なりおかの名のてんはく(田畠)薗、ならひにさんや(山野)かりくら(狩倉)の事、た(田)のつほ/\(坪々)・はくち(畠地)の四至・その(薗)ゝさかい、しんふ(親父)平忠恒ゆりしやう(譲状)、たゝとし(忠俊)か所帯のしやう(状)にめいはく(明白)也、 右、くたん(件)のてんはく(田畠)・その(薗)・さんや(山野)のかりくら(狩倉)にをいてハ、忠俊をちやくし(嫡子)として、ゆつ(譲)りあた(与)へられおはぬ(畢)、こゝに、異国の人襲来せしむへきあいた(間)、関東の御けうしよ(教書)のむね(旨)にまか(任)せて、親父たゝつね(忠恒)のたいくわん(代官)として、上府(太宰府)して、やく(役)所をうけとりて、きんし(勤仕)せしむへきによりて、参府するところなり、これによ(仍)て、かつハ海路のなら(習)いなり、かつハ軍庭におもむくあいた(間)、若たゝとし(忠俊)しせん(自然)の事もあらハ、件ミやう(名)のてんはく(田畠)・さんや(山野)・かりくら(狩倉)にをいてハ、たゝつね(忠恒)のゆつ(譲)りをあいそ(相副)へて、くますまろ(熊寿丸)をちやくし(嫡子)として、しゝそん/\(子々孫々)にいたるまで、た(他)のさまた(妨)けなく、ちきやう(知行)せしむへきなり、後日のゐらん(違乱)をとゝ(停)めむかために、しよはんを給ハるところ也、よ(仍)てゆつりしやう(譲状)、くたんのことし、 文永九年<歳次/壬申>卯月三日 平忠俊「盛岡次郎」(花押)平忠恒(花押) (裏)「為証人 平忠重(花押) 湛西(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇〇三号)
- ^ 『諸家文書纂野上文書』小田原景泰書遵守状「肥前、筑前両国要害警固事、并、豊後国中悪党沙汰事、今年二月廿五日、守護所御書下如此子細被載状候、早且守状、且無左右不可棄件要害役所給候、仍、為其沙汰、景泰、令下向候也、恐々謹言、 文永九年卯月廿三日 藤原(小田原)景泰(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇一五号)
- ^ 『薩藩旧記五延時文書』少弐資能博多津番役請取状「被下 関東御教書候異国警固事、自去四月十七日被上府候、迄今月十六日、博多津番役、被勤仕了、恐々謹言、 文永九年五月十七日 覚恵(少弐資能)(花押) 盛岡二郎殿「平忠俊」 」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇三四号)
- ^ 『比志島文書』「(折紙)被下 関東御教書候異国警固事、自去六月廿四日迄今月廿四日、博多津番役、被勤仕候了、恐々謹言、 (文永九年カ)七月廿五日 覚恵(少弐資能)(花押) 薩摩国千島太郎(佐範)殿代河田右衛門尉(盛資)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一〇六八号)
- ^ 『高麗史』 巻一ニ六 列伝三十九 姦臣 洪福源「明年(元宗十三年)、倭船泊金州、慶州道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還去、茶丘聞之、嚴鞫子一、鍛錬以奏曰、高麗與倭相通、王遣張暐、請繹子一囚、一日茶丘遽還元、人莫知其故、王慰鍮之、」『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年七月甲子(八日)の条「秋七月甲子、倭船至金州、慶尚道道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還國、洪茶丘聞之、嚴鞫子一、馳聞于帝。/己亥、洪茶丘殺曹子一。」
- ^ 『肥前松浦家文書』少弐資能施行状「今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、(文永十年)十一月十六日 沙彌(少弐資能)(花押)山代孫三郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号)
- ^ 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「忻都」としているが、『高麗史』『高麗史節要』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、忻都ではなく「忽敦」という人物であった。『元朝秘史』及び『華夷訳語』「韃靼館訳語」雑文などによると、「忻都」という単語は、『元朝秘史』巻11・261段に「忻都思(Hindus)」と見え、「インド」を意味するペルシア語の“Hind”ないし“Hindū”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記のひとつであるという。『元史』の至元十一年三月庚寅の条に「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」とあり、忻都が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』の元宗十五年八月己酉の条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。」とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは「忽敦」であった。『元史』洪茶丘伝に「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も「忽敦」と書かれている。『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「忽敦」であり、「忻都」とは書かれていない。上述のように、「忻都」と「忽敦」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、「忻都」と「忽敦」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。
- ^ 蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、 1269年10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とする高麗領の北半分が東寧府として元朝の直轄領となって接収された。これに伴い東寧府内の鳳州など各地に屯田軍が設置されている。文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本侵攻に派遣された。「蒙漢軍二万五千」とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はモンゴル人、契丹人、女真人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。
- ^ 江戸時代に対馬藩で編纂された『十九公実録』『宗氏家譜』などの資料では「宗助国」としているが、日蓮書簡や『八幡愚童訓』などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、「宗資国」と書かれる。
- ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」
- ^ 『鎌倉遺文』110905号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第16巻 自文永十二年(1275)至建治二年(1276)、東京堂出版、1983年、37-38頁。
- ^ 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月
- ^ 『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」
- ^ a b 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
- ^ 同建治元年8月の「乙御前御消息」『鎌倉遺文』11980号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第16巻 自文永十二年(1275)至建治二年(1276)、東京堂出版、1983年、93頁。
- ^ 『石志文書』源兼譲状案「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志(肥前松浦郡)土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、(裏書)又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号)
- ^ 『八幡愚童訓』では「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。なお、『八幡愚童訓』の現存諸本のうち、対馬・壱岐攻撃について記述があるもの(甲種一類)とほとんどないもの(同二類)などが存在するが、多くの場合(甲種一類でも)、「同十六日、十七日」に続く、平戸、能古、鷹島などでの捕虜、松浦党の敗北について、菊大路本(鎌倉時代末期)、東大寺上生院本(文明12年)、文明本(愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)など、主要な諸本では記述がない。『八幡愚童訓』諸本のうち、橘守部が『八幡愚童訓』の文永・弘安の役部分の原本と看做している『八幡ノ蒙古記』には「同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す、」とある。小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 --論考と資料』「二 橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について--付・翻訳--」三弥井書店、2002年、194頁
- ^ 『有浦文書』関東裁許状「(前略)蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、(後略)」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百三十号)
- ^ 円明院日澄撰『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』。日蓮の書簡や『八幡愚童訓』に依拠しつつ執筆されている。
- ^ 「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」『類纂高祖遺文録』、改題「類纂日蓮聖人遺文集平成版」)
- ^ 『築後高良神社文書』将軍家政所下文案「将軍家政所於博多津、去文永十一年蒙古襲來之刻、肥後・薩摩・日州・隅州之諸軍馳參之砌、筑後河神代浮橋、九州第一之難處之處、神代良忠以調略、諸軍轍打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥慮、扶桑永代爲安利之由、所仰如件、 建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣(北条時宗)判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二〇七八号)ただし、『鎌倉遺文』の編者である竹内理三氏はこの書状を稍疑うべしとしている。
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)
- ^ なお『大友文書』関東御教書案によれば、この時の武士らは自らの所領を守るとして大宰府に赴かなったり、戦場に臨んでも進んで戦おうとしない者が多数いたことが記されているが、近年の研究により、この文書は偽文書であったことが判明している。この文書は文永の役の際における武士らの怠慢を幕府が批判し、今後もし同様のことがあるならば罪科に問うことを大友家に対して全国の御家人等に普く伝えるよう命ずる文書である。歴史学者・村井章介によれば、通常の関東御教書は名宛人が守護職を持つ国名が書かれているのが通例であり、その記載が無く「普」文言を使う場合は、名宛人の権限が全国に及ぶ場合のみであり、この文書では大友頼泰の指揮権が全国の御家人に及んでいることや弘安年間に出家した大友頼泰が兵庫入道と称され出家しているなど当時の実情とは合わない記述があることから、偽造された文書であることを明らかにしている。村井章介は偽書が作成された背景として、1350年(観応元年)に肥前守護職を失い豊後国一国のみの領域に限定されるなど衰退していた後世の大友家が、鎌倉時代の自家の指揮権が全国の御家人らに亘っていたことを主張する意図があったとしている。 村井章介『遥かなる中世18号--具書案と文書偽作 「立花家蔵大友文書」所収「鎌倉代々御教書」についての一考察--』中世史研究会 2000年3月 『大友文書』関東御教書案「異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、 建治元年七月十七日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)同 大友兵庫入道(頼泰)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号)
- ^ a b c d 『福田文書』福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 334頁)
- ^ 1931年に著された歴史学者の池内宏による『元寇の新研究』以降、通説では元軍の上陸地点は、今津、百道原、博多の三ヶ所であり、百道原から上陸したのが高麗軍、今津と博多から上陸したのが蒙古・漢軍であったとされているが(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 149~150頁)、元軍が今津、博多、百道原の三ヶ所から分かれて上陸したとする史料は存在しない。史料としては、蒙古・漢軍が博多から上陸したとする史料は無く、今津から上陸したことがうかがえるのが宗教書である『八幡愚童訓』の1点史料のみである。対して百道原があった早良郡から上陸したとする史料は、参戦していた肥前国御家人・福田兼重の書状である『福田文書』福田兼重申状に「去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」とあり、他に捕虜の元兵の証言が収録されている日朝『朝師御書所見聞 安国論私抄』にも「モモミチハラニオルルナリ」と記載され、鎌倉時代末に編纂された『一代要記』においても「攻來筑前國早良郡」とある。また、元側の史料『高麗史』にも「三郎浦」なる地点から上陸したことが記されており、「三郎」という単語と「早良」が音が通じるため、「三郎浦」とは「早良郡」であった可能性もある。以上のように百道原があった早良郡から上陸したとする史料が他を圧倒しており、元軍は百道原を中心に上陸したとみられる。また、通説である百道原から上陸したのは高麗軍であるとする説は、『朝師御書所見聞 安国論私抄』に蒙古・漢軍に属していた捕虜の元兵が百道原から上陸していたことを証言しており、事実ではない。
- ^ a b 日朝『朝師書所見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事「或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古ノ物三人生殘リ了、又四日ニ當ニ船一艘燒亡出來テ燒ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ數ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、」( 『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 17頁)
- ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 58.
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞七「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ(少弐三郎左衛門景資)、はかた(博多)のおき(息)のハま(浜)をあひかた(固)めて、一とう(一同)にかせん(合戦)候へしと、しきりにあひふれられ候しによて、すゑなか(季長)ゝ一もん(門)そのほか(他)、たいりやく(大略)ちん(陣)をかた(固)め候なかをいて候て、」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞一「あかさか(赤坂)はむま(馬)のあしたち(足立ち)わろく候。これにひか(控)へ候ハゝ、さためてよ(寄)せきたり候ハんすらん。一とう(一同)にかけて、をものい(追物射)にい(射)るへきよし申さるゝにつきて、けんしち(言質)のやくそく(約束)をたか(違)へしとて、をのゝゝ(各々)ひか(控)へしあいた、」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞四「たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をか(駆)けお(落)とされて、ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)にむ(向)きてひ(退)く。こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「はかた(博多)のちん(陣)をう(討)ちいて、ひこ(肥後)のくに(国)[ ]一はん(番)とそん(存)し、すみよし(住吉)のとりゐ(鳥居)の[ ]す(過)き、こまつはら(小松原)をうちとを(通)りて、あかさか(赤坂)には[ ]かふところに、あしけ(芦毛)なるむま(馬)に、むらさきさかおもたか(紫逆沢潟)のよろひ(鎧)に、くれなゐ(紅)のほろ(母衣)をか(懸)けたるむしや(武者)、そのせい(勢)百よき(余騎)はか(計)りとみへて、けうと(凶徒)のちん(陣)を[ ]り、そくと(賊徒)を(追)ひお(落)として、くひ(首)二たち(太刀)となきなた(長刀)のさき(先)につら(貫)ぬきて、さう(左右)にも(持)たせてま[ ]とゆゝしくみ(見)へしに、たれ(誰)にてわたらせ給候そ、すゝ(涼)しくこそみ(見)え候へと申に、ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)の二郎たけふさ(武房)と申すもの(者)に候、かくおほせられ候ハたれ(誰)そとと(問)ふ、をな(同)しきうち(内)たけさき(竹崎)の五郎ひやうへすゑなか(兵衛季長)、か(駆)け候、御らん(覧)候へと申ては(馳)せむ(向)かふ。」
- ^ a b c d e 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「兵仗有弓刀甲、而無戈矛、騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。」(川越泰博 1975, p. 28)
- ^ 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁
- ^ a b c 文永の役の激戦地ともなった鳥飼、百道原、姪浜はいずれも早良郡に属している。角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第40巻 福岡県』1988年 949、1343、1356頁
- ^ a b c d 『蒙古襲来絵詞』詞四「つかハら(塚原)よりとりかひ(鳥飼)のしほ[ひ]かた(汐干潟)を、おほせい(大勢)になりあハむとひ(退)くをお(追)かくるに、むま(馬)ひかた(干潟)にはたハ(倒)して、そのかたき(敵)をのハ(逃)す。けうと(凶徒)ハすそはら(麁原)にちん(陣)をとりて、いろゝゝ(色々)のはた(旗)をた(立)てなら(列)へて、らんしやう(乱鐘)ひま(暇)なくして、ひしめきあ(合)ふ。すゑなか(季長)は(馳)せむ(向)かふを、とうけんたすけみつ(藤源太資光)申す。御かた(味方)ハつゝき候らん、御ま(待)ち候てせう人をた(立)てゝ御かせん(合戦)候へ、と申を、きうせん(弓箭)のみち(道)さき(先)をも(以)てしやう(賞)とす、たゝか(駆)けよとて、をめいてか(駆)く。」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞四「けうと(凶徒)すそハら(麁原)より、とりかいかた(鳥飼潟)のしほや(塩屋)のまつ(松)のもと(下)にむ(向)けあハせてかせん(合戦)す。一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られては(跳)ねを(落)とさる。すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られては(跳)ねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきて、すそはら(麁原)にあ(上)かる。むま(馬)もい(射)られすして、ゐてき(異敵)のなか(中)にか(駆)けい(入)り、みちやす(通泰)つゝ(続)かさりせハ、し(死)ぬへかりしみなり、」
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞七「はかた(博多)のちん(陣)をう(打)つい(出)て、とりかひ(鳥飼)のしおひかた(汐干潟)には(馳)せむ(向)かひ候て、さき(先)をし候てかせん(合戦)をいたし、はたさ(旗指)しのむま(馬)、おな(同)しきの(乗)りむま(馬)をいころ(射殺)され、すゑなか(季長)、三井の三郎、わかたう(若党)一人、三き(騎)いたて(痛手)をかうふ(被)り、ひせん(肥前)のくに(国)の御け(家)人しろいし(白石)の六郎せう(証)人にた(立)て候て、かけすけ(景資)のひきつ(引付)けに一はん(番)につき候し事、」
- ^ 『都甲文書』大友頼泰勘状写 「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、 文永十一年十二月七日 (大友)頼泰 都甲左衛五郎(惟親)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七七一号)
- ^ 『財津氏系譜』日田永基伝「文永十一年十月二十日、拒異賊於筑前國姪濱百路原両所一日二度大破之。」(芥川 竜男・福川 一徳編校訂『西国武士団関係史料集 〈1〉財津氏系譜』文献出版 1991年 29頁)
- ^ a b 『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡ニ軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処ニ於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」(財津 永倫 、芥川 竜男、 財津 永延『日田記』文献出版 1977年 61~62頁)
- ^ 『武藤系圖』 少弐景資の伝「弘安(文永カ)蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル」(『続群書類従』巻百四十九 系図部)
- ^ 『新元史』巻一百四十三 列傳第四十 劉復亨「戰于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本將三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還、」
- ^ a b c d e f 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
- ^ 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付(参陣・戦功を記録すること)を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。佐藤鉄太郎 2003, p. 61
- ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 61.
- ^ 『福田兼重申状』及び『大友頼泰勘状写 都甲文書』(『鎌倉遺文』一一七七一号) (佐藤鉄太郎 2003, p. 61)
- ^ a b 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫」(4オ)わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷をたゝき、とらを打て鬨をつくる事おひたゝし、日本の馬も、これにおとろき、をとり、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ」(4ウ)ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあらす、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者あれは、中に包て引退て、左右より端をまはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其中に、よくふるまひ死したるをは、腹をさき肝をとりてそ、のみにける、もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる□馬をも、とりて」(5オ)食とせり、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194~195頁)
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり、大将は高き所にあかりゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、その引ときに、てつほうとて、鉄丸に火を包て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ」(5ウ)し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つきて、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそなかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ」(6オ)て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、かの手に、したかふものとも、つゝいて、かけ入たりけるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすくなく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しられたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主大矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」(6ウ)とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、されとも、とくにけ延し事、一町あまりなりしかは、蒙古ちからなく、せめての事にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、をとりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」(7オ)き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたるへき事あらんと、貴はさる人なく、うれし(7ウ)さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まて乱入して、松原の中に陣を取てそ居たりける、かほとの事あるへしとは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属をかくしもおかすして、数千人そ捕られにたる、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 195~196頁)
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「はしめより軍立、思ひしにたかひて、おもてを、むくへきやうもなく、御方追々に引退て、一人も、かゝる者こそ、なくなりに」(8オ)けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞あるならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(8ウ)との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ(ママ)より注進して、京都より賜はりし甲冑を當社へそ納めける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 196~197頁)/東大寺上生院本『八幡愚童記』「蒙古ハ、次第ニ、勝ニ乗(ノリ)テ責入テ、赤坂マテ乱入ル、松原ノ中ニ陣ヲトル、(中略)爰ニ菊地ノ次郎ハ、思切テ、百騎計ヲ二手ニ分テ押寄セ、散々ニ、カケ散シ、取重ナリテ勝負ヲス、蒙古ニ、郎等多ク打セテ、イカゝシタリケン、菊池計ハ死人ノ中ヨリ、ヲキ挙リ、頸共アマタ取テ、 城内ヘ入シコソ、名ヲ後代ニ留ケレ」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 442頁)
- ^ 『高麗史』金方慶伝に「(劉復)亨、中流矢、先登舟」とある。『八幡愚童訓』甲種本に「少弐入道ガ子三郎右衛門景資、(中略)究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。(中略)葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ」(「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.185)とあり、この『八幡愚童訓』のいう「流将公」は「劉復亨(流将公?)」の訛伝であろうと考えられている
- ^ 明治時代以前に指摘されている「流将公=劉復亨」説の一例としては、大橋訥庵『元寇紀略』では『東国通鑑』の「劉復亨中流矢」という記述を引用して、『八幡愚童訓』で少弐景資が射倒したという「賊将」は劉復亨のことであり、『八幡愚童訓』が「流将公」としているのは「国音」が近いための誤りである、としている。
- ^ a b 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「小貳入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」(9オ)たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あなつりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、なけくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬人を奪取けん、みな人々(カ)、はしめは、ふんとりせんとするに、御方多くして、一人に一人は當つかすあるへきにやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、はしまりしか、日もくれかたに、なりしかは、あなたこなたに、さゝやき事こそ、多くなり」(9ウ)にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」(10オ)あか(カ)鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」(10ウ)たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の方へ引かへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、皆人かんしける、さて、水木城と」(11オ)申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつゝきて、水木おほく、ゆたかなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高くきひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立たり、今は礎石はかりになりたり、南山近くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、これ、いにしへの、みよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝしき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入けれは、末は、いかになり行ものかと、あやしの賤山かつまて、泣まと(カ)ひ、かなしまさるそ、なかりける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 197~198頁)
- ^ a b 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、かゝる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危きかきりなりき、今はかうと見えし、夕過(カ)る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た]」(16ウ)る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あやまり有へからす、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 200~201頁)
- ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ 建○○○ 此下、紙四五枚うせににけり」(17ウ)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 201頁)
- ^ a b 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其國敗之、而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸、」
- ^ 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島、」。なお、洪茶丘伝にある「宜蠻」については、江戸時代の『蒙古寇紀』の著者・長村靖斎は平戸島と音が通じているために「宜蠻」とは平戸島であるとしている(長村靖斎『蒙古寇紀』2巻)。一方で歴史学者の池内宏は「イマツの對音であらう」としており、「宜蠻」とは島では無く、博多湾の今津であるという説を挙げている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 150頁)。
- ^ a b また、『高麗史節要』巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条にも「諸軍終日戰、及暮乃解、方慶、謂忽敦茶丘曰、『我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰』。忽敦曰、『小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也』而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、」とあり、ほぼ同じ内容があるが、『高麗史』とは若干の相違がある。
- ^ 該当部分の出典不明。『旧唐書』などに近似した文言が見られる。『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」
- ^ 『孫子』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
- ^ a b c 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月六日条「晴、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫(大友頼泰)郎從等凶賊五十餘人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、(裏書)六日下、召具之。可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 85頁)
- ^ a b c 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「况日本海洋萬里、疆土濶遠、非二國可比、今次出帥、動衆履險、縱不遇風、可到彼岸、倭國地広、徒衆猥多、彼兵四集、我帥無援、万一不利、欲發救兵、其能飛渡耶、隋伐高麗、三次大擧、數見敗北、喪師百万、唐太宗以英武自負、親征高麗、雖取數城而還、徒增追悔、且高麗平壤諸城、皆居陸地、去中原不遠、以ニ國之衆加之、尚不能克、况日本僻在海隅、與中国相懸萬里哉、帝嘉納其言、」
- ^ a b 『高麗史』 巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
- ^ a b /橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「廿一日なり、あしたに松原を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもてを見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへまて、いねもらやれす、(中略)よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝりて、逃のこれるも見えにけり、さりけれと、あまり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにもゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名かほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見きゝて、蒙古退散しにけり(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.200.)
- ^ a b 『薩藩旧記 前編巻五 国分寺文書』大宰府庁下文「就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二一二号)
- ^ a b 『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事「又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」( 『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 21頁)
- ^ 『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」(近藤瓶城編『改定史籍集覧 第18冊 (新加通記類 第1)』臨川書店 1984年2月 275頁)
- ^ 東大寺上生院本『八幡愚童記』「廿一日ノ朝、海ノ面ヲ見遣ニ、蒙古ノ舩、一艘モ无、皆馳モトリケリ、是ヲ見テコハイカニ、此方(コナタ)ハ此方ヘ、彼方(カナタ)ハ彼方ヘ、後合ニ落ル事ソ、心得ネ、(中略)異賊ノ舩一艘、鹿ノ嶋ニ懸テ、迯ヤラテ有シモ、余ニヲチテ、左右ナク、向者无、蒙古カ方ヨリ手ヲ合テ、助ヨト云ケレトモ、我レ行カントハ、云ハサリケリ、助舩ヲ寄ヌハ、降ヲユルサヌニコソト思テ、大将(ハ)、海ニ入テ失ニケリ、歩兵共ハ、此方(コナタ)ノ地ニ渡リ付、弓矢ヲ捨テ、甲ヲヌク、其時ニ當テ、我モゝゝト寄合セ、高名容(カホ)ニ生取ケリ、ミツキ岸ノ前ニテ引並テ、首ヲ切者、百二廿人ト聞ヘケリ、蒙古ノ已ニ退散シヌト云シカハ(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.444.)
- ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 64頁
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十月二十九日条「廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月)
- ^ 『東寺百合文書ヨ』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、 文永十一年十一月一日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号)
- ^ 『長府毛利家文書』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、 文永十一年十一月三日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号)
- ^ 『諸家文書纂十一』関東御教書案「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、 文永十一年十一月三日 武蔵守長時判 相模守時宗判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号)
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞八「御ふんの御くた(下)しふみ(文)は、ちき(直)にしん(進)すへきおほ(仰)せに候、いま百二十のくゑんしやう(勧賞)ハ、さいふ(宰府)におほ(仰)せくたされ候、」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元年正月庚辰(八日)の条「庚辰、遣侍中金方慶大将軍印公秀如元、上表曰、小邦近因掃除逆族(三別抄)、惟大軍之糧餉、既連歳而戸収、加以征討倭、民修造戦艦、丁壮悉赴工役、老弱僅得耕種、早旱晩水、禾不登場、軍國之需、斂於貧民、至於斗升、罄倒以給、已有採木實草葉而食者、民之凋弊、莫甚此時、而況兵傷水溺不返者多、雖有遺噍、不可以歳月期其蘇息也、若復擧事於日本則其戦艦兵糧、實非小邦所能支也、」
- ^ 2010年度時点における日本文教出版、帝国書院、扶桑社、日本書籍出版協会、清水書院などの出版社の歴史教科書。包黎明 & 2010年, p. 98
- ^ 陸上自衛隊福岡修親会 編集『元寇―本土防衛戦史』1964年 96頁
- ^ 荒川秀俊 1958.
- ^ 『五檀法日記』「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」(塙保己一 編『続群書類従』26上 釈家部 巻第七百三十六 続群書類従完成会 1957年)
- ^ 『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二50頁)
- ^ 『関東評定伝』「文永十一年十月五日 蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日 寄來太宰府與官軍合戰。異賊敗北。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之ニ29頁)
- ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館 2001年 99頁
- ^ 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫(流布本)『一代要記』後宇多天皇 文永十一年十月条「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、 宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」
- ^ 『肥前武雄神社文書』武雄社大宮司藤原国門申状「<是/五>又永則十月廿日夜、鏑矢音出、自御神殿差賊船方響、廿一日賊徒退散、<是/六弘安>亦七月廿九日、午時、紫幡三流、出自上宮、懸飜青天上、飛テ行賊船方之間、緇素驚目、尊卑合掌畢、其時大風吹賊船、悉漂波、異国降伏ノ霊瑞、自御在世之音、迄御垂跡之今掲焉也、争無御帰敬哉、<是/七>武雄武内共以勝軍之名称置而不論、随而宇佐香椎武雄三所大菩薩号也、尤是武家御尊敬之準的<是/八>重訪故実、至異国合戦者、不謂京家凡下浪人非御家人、令致忠者、可被行賞之旨、被定置之間、不論貴賎、所被忠賞也、誠不被捨一土之功勲之条、令相叶先世之兵法歟、然者、上下潤恵、遠近欹徳、人倫恩賞巳無用捨、神明忠勤争被棄置哉、雑掌抱理運、多年雖疲長訴為仰 上裁、少為重述短慮悲哀之至、勒事状、言上如件、 延慶二年六月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第三十一巻 東京堂出版 二三七二一号)
- ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館 2001年 101頁
- ^ a b c 包黎明 & 2010年, p. 101.
- ^ a b 佐藤和夫 2003, p. 14.
- ^ 関幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館 2001年 43~45頁
- ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月五日 (島津)久時在判 大隅五郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号)
- ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月五日 (島津)久時在判 吉富次郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号)
- ^ 『肥前武雄神社文書』少弐経資書状案「爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、 建治二年三月廿一日 (少弐)經資在判 武雄大宮司殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号)
- ^ 『肥前深江文書』少弐経資石築地役催促状「異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、 建治二年三月十日 少貳(少弐経資)(花押) 深江村地頭殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号)
- ^ 『東寺文書』関東御教案「明年三月比、可被征伐異國也、梶取・水手等、鎭西若令不足者、可省充山陰・山陽・南海道等之由、被仰太宰少貳經資了、仰安安藝國邊知行之地頭御家人・本所一圓地等、兼日催儲梶取・水手等、經資令相觸者、守彼配分之員數、早速可令送遣博多也者、依仰執達如件、 建治元年十二月八日 武蔵守(北条義政)相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二一七〇号)
- ^ 『野上文書』大友頼泰書下「異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、 一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、 建治二年三月五日 前出羽守(大友頼泰)(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号)
- ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉請文「爲異國征伐、可注申勢幷兵具・乘馬等之由事、今月廿五日當所御施行、同廿九日至來、謹以令拝見候畢、仰任被先度仰下候旨、愚身勢幷兵具員數、去十日既雖令付于押領使河□□(尻兵カ)衛尉之候、今重任被仰下候旨、所令注進之候也、以此旨、可有御被露候哉、定愉恐惶謹言、 建治二年三月卅日 窪田庄(肥後飽田郡)預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七一号)
- ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉注進状「肥後國窪田庄(飽田郡)預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、 建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号)
- ^ 『石清水文書』井芹秀重西向請文「(前略)一 人勢弓箭兵杖乘馬事 西向年八十五、仍不能行歩、嫡子越前房永秀年六十五在弓箭兵杖、同子息彌五郎經秀年三十八弓箭兵杖、腹卷一□(領カ)、乘馬一疋、親類又二郎秀尚 年十九弓箭兵杖、所從二人、 一 孫二郎高秀 年樠四十弓箭兵杖、腹卷一領、乘馬一疋、所從一人、 右、任御下知状、可致忠勤也、仍粗注進状言□(上カ)如件、 建治二年壬三月七日 沙彌西向(裏花押)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九七号)
- ^ 『石清水文書』尼眞阿請文「建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、 (建治二年)閏三月三日 北山室地頭尼眞阿(裏)「花押」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号)
- ^ 『石清水文書』持蓮請文「異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳(経資)殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎(肥後守護代城盛宗)殿御使鎌倉(へ脱カ)まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、 (建治二年)三月十一日 持蓮(花押) 進上 惣公文殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号)
- ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 61頁
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元)十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往、使復致書、亦不報、」
- ^ a b c d 『鎌倉年代記裏書』「今年四月十五日、大元使着長門国室津浦、八月、件牒使五人被召下関東、九月七日、於龍口刎首、一 中須大夫礼部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、二 奉訓大夫兵部郎中何文着、年卅八、唐人、作頌云、四大元無主、五蘊悉皆空、両国生霊若(苦カ)、今日斬秋風、三、承仕郎回々都魯丁、年卅二、回々国人、四、書状官薫畏国人杲(果)、年卅二、五、高麗訳語郎将徐、年卅三、作詩云、朝廷宰相五更寒、寒甲将軍夜過関、十六高僧甲(由カ)未起、算来名利不如閑、今度刎首事永絶、窺覦不可攻之策也、其後警固事有沙汰、鎮西撰補守護人、器用之発遣、海辺国々、止京都大番役、被差置左(在カ)京人、公家武家減省公事、行倹約、休民庶、皆是為軍旅用意也、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 53頁)
- ^ 蘇秦が外交交渉に失敗して家に帰ってきた際、蘇秦の妻は機織りの手を休めず、出迎えもしなかったという逸話を元にしている
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(九月)戊子(二十一日)の条「元遣使、與劍工内來、古内在元言、高麗有路可徑至日本、故遣之。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十月)壬戌(二十五日)の条「以元將復征日本、遣金光遠爲慶尚道都指揮使、修造戰艦。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十一月)癸巳(二十七日)の条「癸巳、分遣部夫使于諸道。/元遣使來作軍器、以起居郎金?(石偏に單)、偕往慶尚全羅道、斂民箭羽鏃鐵。」
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王ニ年(正月)丙子(十日)の条「丙子、帝命除造戰船及箭鏃。」
- ^ 『元史』巻一百八十 列傳第六十七 耶律希亮「十二年、既平宋、世祖命希亮問諸降將、日本可伐否、夏貴、呂文換、范文虎、陳奕等皆云可伐、希亮奏曰、宋與遼金攻戰且三百年、干戈甫定、人得息肩、俟數年、興師未晩、世祖然之、」
- ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年八月戊子の条「戊子、范文虎言、臣奉招征討日本、比遣周福、欒忠與日本僧齎詔往諭其國、期以來年四月還報、待其從否、始宜進兵、又請簡閲舊戰船以充用、皆從之、」
- ^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安二年)六月廿五日、大元将軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋暁房霊杲、通事陳光等差岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
- ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年ニ月甲申の条「以征日本、敕楊州、湖南、贑州、泉州四省造戰船六百艘、」
- ^ a b 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年二月己丑の条「福建省左丞蒲壽庚言、詔造海船二百艘、今成者五十、民實艱苦、詔止之。」
- ^ 『元史』巻一百五十三 列傳第四十 賈居貞「十七年、朝廷再征日本、造戰艦於江南、居貞極言民困、如此必致亂、將入朝奏罷其事、未行。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年八月の条「梢工上左引海一沖等四人、自日本逃還言、至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎將徐賛及梢水三十人、送至其國、使者及賛等見殺、王遣郎將池瑄、押上左等如元以奏。」
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条「日本國殺國使杜世忠等、征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之、」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。二月、諸將陛辭。帝敕曰、始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。彼遂留我使不還。故使卿輩爲此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。」
- ^ a b c d 『禅の世界』世界文化社,ほたるの本シリーズ,2006
- ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「省(征日本行省)大帥欣都、都副察灰(洪茶丘)、次李都帥牢山(李庭)、次降将范殿帥文虎惣二十三、南(江南軍)一十三。隋唐以来出師之盛未之見也。」(川越泰博 1975, p. 28)
- ^ a b 冲止『圓鑑国師集』東征頌「皇帝御天下、神功超放勲、徳寛包有截、沢広被無垢、車共千途轍、書同九域文、唯残島夷醜、假息鼎魚羣、但恃滄溟隔、仍図疆場分、苞茅曾不入、班瑞亦無聞、帝乃赫斯怒、時乎命我君、一千龍鵲舸、十万虎貔軍、問罪扶桑野、鼓聲轟巨侵、旌旆拂長雲、(中略)斫営應瞬息、献捷在朝曛、玉帛争修貢、干戈尽解紛、元戎錫圭卣、戦卒返耕耘、快劒匣三尺、良弓嚢百斤、四方歌浩浩、八表楽欣欣、烽燧収辺警、風塵絶塞氛、当観聖天子、万歳奏南薫、」(南基鶴『蒙古襲来と鎌倉幕府』臨川書店 1996年 230-232頁)
- ^ a b c 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「忻都茶丘等、以累戦不利、且范文虎過期不至、議回軍曰、聖旨令江南軍、與東路軍、必及是月望、会一岐島、今南軍不至、我軍先至数戦、船腐糧尽、其将奈何、方慶黙然、旬余又議如初、方慶曰、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来、合攻必滅之、諸将不敢復言」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。」
- ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦」 武田 幸男(翻訳)『高麗史日本伝(下)』(岩波文庫、2005年)によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。
- ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥(二十八日)の条「是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、」
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月十四日条「自武家邊内々申云、今日宰府飛脚到來、異賊舟三百艘着長門浦了、云々、閣鎭西直令着岸之条、怖畏之外無他、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 229頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月十五日条「異國賊船襲來長門□(興)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月壬午の条「日本行省臣遣使來言、大軍駐巨濟島、至對馬島、獲島人言、太宰府西六十里、舊有戌軍、已調出戰、宜乘虚擣之、詔曰、軍事、卿等當自權衡之、」
- ^ a b c 『予章記』「通有。弘安四年。蒙古襲來ス。志賀、鷹、能古等島々海上ニ充満セリ。夷國退治之事ハ家ノ先例ナル間。大將トテ筑前國ニ進發ス。日本ノ諸勢、博多、筥崎、上下三十里ノ海涯ニ築地ヲ高ク築キ。此方面々馬ニテ馳上ル様ニ土ヲ築キ上テ。面ニ亂杭逆茂木ヲ付タリ。海上ヨリ見ハ危峰ノ江ニ臨ムカ如シ。然レ共河野ノ陣ニハ海ノ面、幕一重ニテ後ニ築地ヲツカセタリ。是敵ヲ轍ク引入一戦ノ勝負ヲ可決ト也。背ニ逃道アラハ。味方ヤ逃。トカクシテ一人モ引セシト也。從是河野ノ後築地ト云付タリ。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
- ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 66.
- ^ a b c d e 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(至元)十八年、樞密院檄君、仍管新附□□(軍百?)率所統、堦千戸岳公琇、往征倭、四月□(發?)合浦登海州、以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□來襲、君與所部據艦戦、至暁、賊船廻退、八日、賊遵陸復來、君率纏弓弩、先登岸迎敵、奪占其□要、賊弗能前、日晡、賊軍復集、又返敗之、明日、倭大會兵來戦、君統所部、入陣奮戦、賊不能□(支?)殺傷過□(當?)賊敗去。」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 229頁)
- ^ a b c 『高麗史節要』巻二十 十四葉 忠烈王七年六月壬申(八日)「六月壬申(八日)、金方慶金周鼎朴球朴之亮荊萬戸等、與日本兵力戰、斬首三百餘級、官軍潰、茶丘乗馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
- ^ a b c d なお『高麗史節要』では東征都元帥・洪茶丘は馬に乗って敗走したことになっている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「六月、方慶周鼎球之亮荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級、日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
- ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞十四「陣にをしよせて合戦をいたしきすをかふり候事、ひさなか(久長)のて(手)の物信濃國御家人ありさかのいや(弥)二郎・ひさなか(久長)のをい(甥)しきふ(式部)の三郎「のて(手)の物いはや(岩谷)四郎さゑもんかねふさ(左衛門兼房)、これをせう(証)人にた(立)つ」頼承てお(手負)ひてのち(後)、ゆみ(弓)をす(捨)てなきなた(長刀)をと(取)りてを(押)しよ(寄)せよ、の(乗)りうつ(移)らむ、とはや(逸)りしかとも、これも水手ろ(櫓)をす(捨)てを(押)さゝりしほとに、ちからなくのりうつ(移)らさりし物なり。同日むま(午)の時、季長なら(並)ひにて(手)の物、きす(疵)をかふ(被)るものとも、き(生)のまつはら(松原)にて、守護のけさむ(見参)にい(入)りて、當國一番にひきつ(引付)けにつ(付)く。鹿嶋にさ(差)しつか(遣)はすて(手)の物、同日巳剋に合戦をいた(致)し、親類野中太郎なかすゑ(長季)郎従藤源太すけミつ(資光)いたて(痛手)をかふ(被)り、の(乗)りむま(馬)二疋ゐころ(射殺)されし證人に、豊後國御家人はしつめ(橋詰)の兵衛次郎をた(立)つ。土佐房道戒うちし(討死)にの證人にハ、盛宗の御て(手)の人たまむら(玉村)の三郎盛清をた(立)てけさむ(見参)に入て、同御ひきつ(引付)けにつ(付)く。」
- ^ 『筑前右田家文書』大友頼泰書下案「豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号)
- ^ a b 『福田文書』平国澄起請文写「以去年六月八日押寄于志賀嶋、抽合戦之忠、国澄被二疵候之時、兼重子息兼光類船令致合戦候之刻、下人云、被疵子細云、被射折弓子細如申状無相違候、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 335頁)
- ^ 『蒙古襲来絵詞』絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。佐藤 鉄太郎『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』櫂歌書房 1994年 171-177頁
- ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「軍中又大疫、死者三千餘」
- ^ a b c d 郭預『感渡海』「扶桑之海遠不極。萬里蒼蒼接天色。有夷生寄海中央。水道纔通變難測。聖明本自置度外。邊將貪功謀欲得。受命東征自往年。東南師期在六月。千艘駕浪會一岐。十丈風帆檣欲折。相望渉夏不交鋒。辛苦何須爲君說。炎氣瘴霧熏著人。滿海浮屍寃氣結。淫舒虧盈潮落生。九月(七月)已當三十日。是時八極顚風來。擊碎夢衝何太疾。蒼皇誰借千金壺。枉敎壯士探蚊室。哀哉十萬江南人。攀依絶嶼赤身立。如今恨骨與山高。永夜羈魂向天泣。當時將帥若生還。念此能無增鬱悒。壯哉萬古烏江上。恥復東歸棄功業。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四63頁)
- ^ 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中、」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事、」
- ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑(一日)の条「蠻軍捴把沈聰等六人、自白本逃來言、本明州人、至元十八年六月十八日、従葛剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗、衆軍十三四萬、同栖一山、十月初八日、日本軍至、我軍飢不能戰、皆降日本、擇留工匠及知田者、餘皆殺之、王遣上將軍印侯郎將柳庇、押聰等送干元。/(八月)甲午(九日)、蠻軍五人、自日本逃來」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「今年(至元十八年)三月、有日本船爲風水漂至者、令其水工畫地圖、因見近太宰府西有平戸島者、周圍皆水、可屯軍船、此島非其所防、若徑往據此島、使人乘船往一岐、呼忻都茶丘來會、進討爲利、帝曰、此閒不悉彼中事宜、阿剌罕輩必知、」
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月廿四日条「自宰府飛脚到來、宋朝船三百餘隻、着對馬嶋云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月二十七日条「異國又襲來、鎮西合戦之由、早馬先□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ a b c d e f g 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「十七年、加鎭國上將軍、都元帥、時朝廷議征日本、禧請行、即日拜行中書省平章政事、與右丞范文虎、左丞李庭同率舟帥、泛海東征、至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸擊、八月、颶風大作、文虎、庭戰艦悉壞、禧所部獨完、文虎等議還、禧曰、士卒溺死者半、其脱死者、皆壯士也、曷若乘其無回顧心、因粮於敵以進戰、文虎等不從、曰、還朝問罪、我輩當之、公不與也、禧乃分船與之、時平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰、我安忍棄之、遂悉棄舟中所有馬七十匹、以濟其還、至京師、文虎等皆獲罪、禧獨免、」
- ^ 『歴代鎮西要略』外山幹夫 2008, p. 70
- ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
- ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
- ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、 弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)
- ^ 『龍造寺系図』龍造寺季時伝「弘安中蒙古襲来時、季時合戰壱岐島瀬戸浦、顕高名討死」(『大宰府・太宰府天満宮史料』第8巻 太宰府町 (福岡県) 1972年)
- ^ 『肥前龍造寺文書』肥前守護北条時定書状「去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、 弘安五年九月九日 時定(花押) 龍造寺小三郎左衛門尉(家清)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号)
- ^ 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「行中書[省]賜賞有差、賜君幣帛二、軍還至一岐島、六月晦(二十九日)、七月二日、賊舟兩至、皆戰敗之、獲器仗無□(算?)」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 290頁)
- ^ 『武藤少弐系図』「資時。弘安四年。與蒙古戦於壹岐島前討死。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四19頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月十二日条「異國賊船等退散之由、風聞、實説可尋記之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ a b c d 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。山上素無人居、唯多巨蛇。相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。故曰白骨山。又曰枯髏山。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 212頁
- ^ a b 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(七月)二十七日、移軍至打可島(鷹島)、賊舟復集、君整艦、與所部、日以繼夜、鏖戰至明、賊舟始退、」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 308頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月二十一日条「異國賊船重襲來之由、昨日飛脚來云々、□(事)躰非無怖畏歟、返々驚□(遂)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 忽都哈思(クドゥハス)がどの戦闘で戦死したかは定かではない。『伏敵編』の著者山田安栄は、江南軍が到着した後から台風以前の間の鷹島沖海戦と思われる戦いで忽都哈思(クドゥハス)が戦死したとしているが、根拠は挙げていない。(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四5頁)『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思「十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、」
- ^ 『宇都宮系図』「貞綱。弘安四年正(五)月。蒙古以十萬兵爲攻日本。兵船六萬艘著肥前平戸島。于時自六波羅爲大將。引率中國之勢赴筑紫。蒙古既雖聞敗亡。猶至九州。異賊襲來爲防戰之備。而歸洛。」(塙保己一 編『続群書類従』6下 系図部 巻第百五十二 続群書類従完成会 1957年)
- ^ 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安四年)七月、大元賊徒、自宋朝、高麗数千艘船寄来、数日漂対馬海上而後群集肥前国鷹島之処、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千万、但将軍范文虎帰国云々、大元船二千五百余艘、兵士十五万人、除水手等、高麗船千艘云々、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
- ^ 広橋兼仲の日記『勘仲記』(弘安四年閏七月一日条)によると、翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮して台風であったと比定されている。広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月一日条「一日、甲子、雨降、參祖母禪尼、入夜暴風大雨如沃如叩、終夜不休、匪直也事也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
- ^ 気象庁. “台風の平年値”. 2013年6月27日閲覧。
- ^ 『癸辛雑識-続集下』「至大(元)十八年、大軍征日本。船軍已至竹島、與其大宰府甚邇。方號令翌日分路以入。夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。葢天意也。」(周密撰/呉企明点校/『癸辛雑識』唐宋史料筆記叢刊 中華書局 1997年 191頁)
- ^ 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎「十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、」
- ^ 『元史』巻一百三十一 列傳第十八 囊加歹「召爲都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還、」
- ^ 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒「江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戶、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還、有旨、特賜養老一百戶、衣服、弓矢、鞍轡、有加、」
- ^ 『高麗史』によると也速䚟兒(イェスダル)は朝鮮半島の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯(二十九日)の条「丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(八月)丁未(十九日)の条「忠烈王十八年 丁未、世子謁帝于紫檀殿、鄭可臣柳庇等随入、有丁右丞者奏、江南戦船、大則大矣、偶觸則毀、此前所以失利也、如使高麗造船、而再征之、日本可取、帝問征日本事、洪君祥進言曰、軍事至大、宣先遣使問諸高麗、然後行之、帝然之。」
- ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「大小戦艦多為波浪揃触而砕、唯勾麗(高麗)船堅得全、遂班師西運、」(川越泰博 1975, p. 28)
- ^ 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版 2012年 55頁
- ^ a b 「たかしまのにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候をはらいのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候、と申に…」(『蒙古襲来絵詞』後巻・詞11・第9紙:大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年 145頁)
- ^ 『蒙古襲来絵詞』詞十一「閏七月五日、御くりや(御厨)のかいしやうかつせん(海上合戦)は、とりのとき(酉の刻)にをしむかて、かつせん(合戦)をいたす」
- ^ 『筑後五條文書』少貳景資書状写「筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申、□弘安四年閏七月五日於肥前国御厨子(千カ)崎海上、蒙古賊船三艘内、追懸大船致合戦、乗移敵船、度景令分取、舎弟廣度異賊入海中、親類□被□被疵、郎従或令打死、或負手、令分取候子細、致見知候由、所立申證人也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一五一五〇号)
- ^ a b 『肥前武雄神社文書』黒尾社大宮司藤原経門申状「肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上 欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞去弘安四年遺賊合戦事、 右、遺賊襲来之時、於千崎息乗移于賊船、資門乍被疵、生虜一人分取一人了、将又攻上鷹嶋棟原、致合戦忠之刻、生慮二人了、此等子細、於鎮西談議所、被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、到越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩、皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞、空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場、或自身被疵、或分取生慮之条、証人等状幷宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、 永仁四年八月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十五巻 東京堂出版 一九一三〇号)
- ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 71.
- ^ 『豊後都甲文書』大神惟親軍忠状「豊後国御家人都甲左衛門五郎大神惟親法師法名寂妙謹言上、欲早任傍例、預御注進、蒙抽賞、去弘安四年後七月七日、肥前国鷹嶋蒙古合戦事、 右、蒙古凶徒、着岸肥前国鷹嶋之間、馳向当国星鹿、彼七日、寂妙渡当嶋、於東浜、依致合戦忠、寂妙子息四郎惟遠、令分取畢、其上、郎従三郎二郎重遠被疵旗差下人一人弥六末守被疵畢、此次第、同国志手筑後房円範、上総三郎入道所令見知也、早預御注進、為蒙抽賞、恐々言 上如件、 弘安九年三月 日 「(自著)沙弥寂妙(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十一巻 東京堂出版 一五八六七号)
- ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「次月七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事、爰時範依合戦之忠勤、爲預御裁許、粗言上如件、 弘安五年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
- ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「同閏七月七日鷹嶋合戦之時、五郎次郎自陸地馳向候之条、令見知候了、若此條僞申候者、日本國中大少神罸可罷蒙長久之身候、恐惶謹言、 弘安五年四月十五日 大炊助長久」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
- ^ 『江上系図』「西牟田彌次郎永家。弘安四年。大元大將督六万艘十万人。寇鎭西。此時永家戰于松浦之鷹島抽功。於是爲之賞。肥前國神崎郡中數箇。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
- ^ 『福田文書』丹治重茂起請文写「以去年後七月七日押寄于鷹嶋之賊船、抽合戦之忠候之時、兼重同押寄于彼所致合戦、令焼払賊船候之条、令見知候畢、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 336頁)
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第42巻 長崎県』1987年 588頁
- ^ 山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四40頁
- ^ a b 『諸家文書纂野上文書』六波羅御教書「(前略)一 異国降人等事、各令預置給分、沙汰未断之間、津泊往来船、不謂昼夜不論大小、毎度加検見、如然之輩、輙浮海上、不可出国、云海人漁船、云陸地分、同可有其用意矣、(後略)弘安四年九月十六日 左近将監(北条時国)(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四五六号)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』閏七月十二日条「十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々、冥助之至、不能□□(左右)事也、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月十四日条「丁丑、自夜雨降、參殿下申条々事、參近衛殿、自宰府飛脚到來、去朔日大風(動波)、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之、所下居異賊多以殞命、或又被生虜、今度事神鑑炳焉之至也、天下之大慶何事可過之乎、匪直也事也、雖末代猶無止事也、弥可尊崇神明佛陀者歟、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 257頁)
- ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』閏七月廿一日条「自関東差遣鎮西使者両人、今日上洛、異國賊、無残誅了之由、申上云々、実説猶可尋之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
- ^ 月村辰雄・久保田勝一訳『マルコ・ポーロ東方見聞録』岩波書店 2012年 198~202頁
- ^ 『兼仲卿記弘安五年七月・九月巻裏文書』某事書「爲異國征伐、大和國寺僧國民被召之間、可蒙免許事、副衆徒申状(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四六〇号)
- ^ 『東大寺文書』聖守書状「可被征伐高麗之由、自關東其沙汰候歟、少貳乎大友乎爲大将軍、三ヶ國御家人、悉被催立、幷大和・山城惡徒五十六人、今月中可向鎭西之由、其沙汰候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四二二号)
- ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 63頁
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年正月丙寅の条「丙寅、罷征東行中書省。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌の条「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月壬申の条「敕平滦、高麗、耽羅及揚州、隆興、泉州、共造大小船、三千艘。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年五月庚辰の条「庚辰、議於平滦州造船、發軍民合九千人、令探馬赤伯要帶領之、伐木於山、及取於寺觀墳墓、官酬其直、仍命桒哥遣人、督之。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年三月己未の条「御史臺臣言、平滦造船、五臺山造寺伐木、及南城建新寺、凡役四萬人、乞罷之、詔伐木建寺、即罷之、造船一事、其與省臣議。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年七月丙辰の条「諭阿塔海、所造征日本船、宜少緩之、所拘商船、其悉給還。」
- ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十年、命阿塔海爲日本省丞相、與徹里帖木兒右丞、劉二拔都兒左丞、募兵造舟、欲復征日本。淮西宣慰使昂吉兒上言民勞、乞寢兵。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年五月甲戌の条「甲戌、發征日本重囚、往占城、緬國等處、從征。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年四月壬辰の条「壬辰、阿塔海求軍官習舟楫者、同征日本、命元帥張林、招討張瑄、總管朱清等行。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年正月壬申の条「命右丞闍里帖木兒及萬戸三十五人、蒙古軍習舟師者二千人、探馬赤萬人、習水戰者五百人征日本。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年三月卯朔(一日)の条「中郎將柳庇還自元、言、帝徴江南軍、將以八月東征日本。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月庚申の条「建宣慰司獲倭國諜者、有旨、留之。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月戊寅の条「戊寅、給新附軍賈祐衣糧。祐言、爲日本國焦元帥婿、知江南造船、遣其來候動靜、軍馬壓境、愿先降附。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年六月戊子の条「戊子、以征日本、民間騷動、盜賊竊發、忽都帖木兒、忙古帶、乞益兵御寇、詔以興國江州軍、付之。」
- ^ 『元史』巻一百七十 列傳第五十七 申屠致遠「時寇盜竊發、加之造征日本戰船、遠近騷然、致遠設施有方、衆賴以安。」
- ^ 『元史』巻一百七十三 列傳第六十 崔彧「又言、江南盜賊、相挻而起、凡二百餘所、皆由拘刷水手、與造海船、民不聊生、激而成變。日本之役、宜姑止之。又江西四省軍需、宜量民力、勿強以土産所無、凡給物價及民者、必以實、召募水手、當從其所欲、伺民氣稍蘇、我力粗備、三二年后、東征未晩。世祖以爲不切、曰、爾之所言如射然、挽弓雖可觀、發矢則非是矣。」
- ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年五月己卯(二十六日)の条「鄭仁卿等還自元言、帝寢東征之議、王命罷修艦調兵等事。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年八月丁未の条「浙西道宣慰使史弼言、頃以征日本船五百艘、科諸民間、民病之、宜取阿八赤所有船、修理、以付阿塔海、庶寛民力、并給鈔於沿海募水手。從之。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年九月辛未の条「辛未、以歳登、開諸路酒禁、廣東盜起、遣兵萬人討之。」
- ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年十月庚子の条「建寧路管軍總管黄華叛、衆几十萬、號頭陀軍、僞稱宋祥興五年、犯崇安、浦城等縣、圍建寧府。招卜怜吉帶、史弼等將兵二萬二千人討平之。」
- ^ 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 劉国傑「會黄華反建寧、乃命國傑以征東兵會江淮參政伯顏等討之。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月辛巳の条「罷高麗造征日本船。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年ニ月丁未の条「命阿塔海、發兵万五千人、船二百艘、助征占城、」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年五月壬子の条「拘征東省印。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月月甲戌の条「甲戌、詔諭行中書省、凡征日本船及長年篙手、并官給鈔增價募之。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年四月丙午の条「丙午、以征日本船運粮江淮及教軍水戰。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年六月庚戌の条「六月庚戌、命女直、水達達、造船二百艘及造征日本迎風船。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月癸丑の条「癸丑、立征東行省、以阿塔海爲左丞相、劉國傑、陳巖并左丞、洪茶丘右丞、征日本。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条「仍敕習泛海者、募水工至千人者爲千戸、百人爲百戸。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月丙申の条「丙申、赦囚徒、黥其面、及招宋時販私鹽軍習海道者爲水工、以征日本。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月癸巳の条「癸巳、敕漕江淮米百萬石、泛海貯於高麗之合浦、仍令東京及高麗各貯米十萬石、備征日本。諸軍期於明年三月以次而發、八月會於合浦。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月戊寅の条「戊寅、遣使告高麗發兵萬人、船六百五十艘、助征日本、仍令於近地多造船。」
- ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十二月己亥の条「增阿塔海征日本戰士萬人、回回砲手五十人。己亥、從樞密院請、嚴立軍籍條例、選壯士及有力家充軍。敕樞密院、向以征日本故、遣五衞軍還家治裝、今悉選壯士、以正月一日到京師。江淮行省以戰船千艘習水戰江中。」
- ^ 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年正月甲戌の条「甲戌、帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本、」
- ^ 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「連年日本之役、百姓愁戚、官府擾攘、今春停罷、江浙軍民、歡聲如雷。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十三年、帝曰、日本未嘗相侵、今交趾犯邊。宜置日本、專事交趾。」
- ^ 『元史』巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國「二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。」
- ^ 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(九月)壬午(二十四日)の条「壬午、元遣洪君祥來、命我護送日本人還其國、君祥以帝旨、問征日本事、王對曰、臣既隣不庭之俗、庶當躬自致討、以効微勞、君祥獻馬、遂宴干香閣。」
- ^ 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十九年八月の条「八月、元遣萬戸洪波豆兒來、管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍糧、將復征日本也、」
- ^ a b 『高麗史』巻三十一 世家三十一 忠烈王四 忠烈王二十年(正月)癸酉(二十二日)の条「癸酉、世祖皇帝崩。/罷造戰艦、時王入朝、欲陳東征不便、且以甲戌辛巳兩年之役、濱水材木、斫伐殆盡、造艦實難、冀緩其期、會帝晏駕、洪君祥白丞相完澤、遂寢東征。」
- ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「成宗大徳二年、江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。帝曰、今非其時、朕徐思之。」
- ^ 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「世祖至元二十八年九月、海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。」
- ^ 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「二十九年三月二十九日、自汀路尾澳舟行、至是日巳時、海洋中正東望見有山長而低者、約去五十里。祥稱是瑠求國、鑒稱不知的否。祥乘小舟至低山下、以其人衆、不親上、令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘、載軍器、領三嶼人陳煇者登岸。岸上人衆不曉三嶼人語、爲其殺死者三人、遂還。」
- ^ a b c 海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社現代新書 1995年 19頁
- ^ a b c 王勇『中国史の中の日本像』人間選書 2000年 第六章第二節
- ^ 『元史』巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年十月戊子朔の条「日本舟至四明、求互市、舟中甲仗皆具、恐有異圖、詔立都元帥府、令哈剌帶將之、以防海道。」
- ^ 『元史』巻二十一 本紀第二十一 成宗四 大徳八年夏四月丙戌の条「夏四月丙戌、置千戶所、戍定海、以防歲至倭船。」
- ^ 『元史』巻九十四 志第四十三 食貨二「(大徳)七年、以禁商下海罷之。」
- ^ 王勇『中国史の中の日本像』人間選書 2000年 第六章第三節
- ^ 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。不戦死帰、亦為倭王主所殺。倭婦甚烈不可犯。幼歳取犀角、刔小珠種額上。善水不溺、倭刀極利。地高嶮難入、可為戦守計。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 213頁
- ^ 呉莱『隣交徴書』二篇巻一 論倭「今之倭奴、非昔之倭奴也。昔雖到弱、猶敢拒中国之兵。況今之恃険、且十此者乎。郷自慶元、航海而来、艨艟数千、戈矛剣戟、莫不畢具。銛鋒淬鍔、天下無利鉄。出其重貨、公然貿易、即不満所欲、燔炳城郭、抄掠居民、海道之兵、猝無以応、(中略)喪士気弱国体、莫大於此。然取其地不能以益国、掠其人不可以強兵、」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 216頁
- ^ 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海巻六「備按、中国征伐四夷、自古有之、然而征伐夷、海外之夷倭、不嘗有也、抑伐倭者考、自呉大帝・晋慕容廆・元忽必烈而巳、(中略)抑呉・晋・元勒兵漲海之外、得其民安焉、用之喪兵足以為恥、」(太田弘毅 2006, p. 20)
- ^ a b 太田弘毅 2006, p. 19.
- ^ 『明史』巻三百二十二 外國三 日本國「十四年、復來貢。帝再却之、命禮官移書責其王、并責其征夷將軍、示以欲征之意。良懷上言、臣聞三皇立極、五帝禪宗。惟中華之有主、豈夷狄而無君。乾坤浩蕩、非一主之獨權。宇宙寛洪、作諸邦以分守。盖天下者、乃天下之天下、非一人之天下也。臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。陛下作中華之主、爲萬乘之君。城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絶之意。夫天發殺機、移星換宿。地發殺機、龍蛇走陸。人發殺機、天地反覆。昔堯、舜有德、四海來賓、湯、武施仁、八方奉貢。臣聞天朝有與戰之策、小邦亦有禦敵之圖。論文有孔、孟、道德之文章。論武有孫、呉韬韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。水澤之地、山海之洲、自有其備。豈肯跪途而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前、聊以博戲。臣何懼哉。倘君勝臣負、且滿上國之意。設臣勝君負、反作小邦之羞。自古講和爲上、罷戰爲強。免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。帝得表慍甚、終鑑蒙古之轍、不加兵也。」
- ^ 『概説日本思想史』吉原健雄
- ^ 『概説日本思想史』吉原健雄
- ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 63.
- ^ 山形欣哉 2003, p. 14.
- ^ 森 俊男『歴史群像シリーズ64 北条時宗 蒙古襲来と若き執権の果断ー比較検証 日本の弓VS蒙古の弓』 学研出版 2000年 48~51頁
- ^ 『高麗史』巻百四 列伝巻十七 金方慶伝 元宗十五年条「造船若依蛮様、則工費多将不及期。(中略)用本國船様督造」NDLJP:991070/125
- ^ 「元寇船の底は二重構造、粗製乱造説見直しか」『読売新聞』、2012年10月10日閲覧。
- ^ 「「元寇船」調査終了、新たに沈船探し…琉球大・池田教授」『読売新聞』、2012年10月15日閲覧。
- ^ 山形欣哉『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』農山漁村文化協会2004年 52-54頁
- ^ 杉山正明「モンゴル帝国、アジア征服の猛威(総力特集 北条時宗と蒙古襲来)」『歴史と旅』Vol.28、2001年2月号、秋田書店、30-35頁。奥富敬之『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年、178-189頁などを参照。
- ^ 例えば、1214年尾金朝の旧都・中都陥落と接収以前のモンゴル帝国軍の軍事行動の場合、「もともとモンゴルは、軍事行動を行ってきた金朝領の漢地において、一度戦勝しあるいは降伏させて占領しても、一時的に人と者を収奪すれば、あとは放置して立ち去り、長期的に領有・統治するという意思を示していなかった」。(海老沢哲雄「モンゴルの対金朝外交」『駒澤史学』52号、1998年6月、p.203-204.)
- ^ 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条「己酉、遣塔塔兒帶、楊兀鲁帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。」
- ^ 『元史』 巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 爪哇「至元二十九年二月、詔福建行省除史弼、亦黑迷失、高興平章政事、征爪哇。會福建、江西、湖廣三行省兵凡二萬、設左右軍都元帥府二、征行上萬戸四、發舟千艘、給粮一年、鈔四萬錠、降虎符十、金符四十、銀符百、金衣段百端、用備功賞。」
- ^ 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書 1307、1996年6月20日、pp.129-135。
- ^ 『八幡愚童訓 下』(甲種)「降伏事」の弘安四年夏条に「今度ハ一定可勝、可居住料トテ世路ノ具足。耕作ノ為トテ鋤鍬マデモ持セタリケリ」萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.190.などを参照。
- ^ 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版2012年 57頁
- ^ a b c 今谷明「封建制の文明史観」(PHP新書)
- ^ マムルーク朝は1260年、現パレスチナのアイン・ジャールートの戦い、および弘安の役と同年の1281年のダマスコの近郊ヒムスでの戦闘のいずれにおいても、蒙古軍を破った。今谷明は、マムルーク朝軍が、当時世界最強であったとしている。今谷同書
- ^ 神聖ローマ帝国は、1241年4月のワールシュタットの戦いで蒙古軍に敗北するが、6月のオルミュッツ城での攻防戦で、蒙古軍を撤退させた。今谷同書
- ^ 『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の中書省が発送した牒にある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 NDLJP:991068/217 。
- ^ 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。
- ^ 関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54-(1)、2005年12月、219頁
- ^ 新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月
- ^ 新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁
- ^ 川添昭二 1977, p. 70, 82, 89.
- ^ 川添昭二 1977, p. 89.
- ^ 川添昭二 1977, pp. 134–135.
- ^ 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年
- ^ 川添昭二 1977, pp. 111–122.
- ^ 川添昭二 1977, pp. 121–122.
- ^ a b 「〔按〕本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。)太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。)トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。(百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。)トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。」山田安栄編『伏敵編』巻二、1891年6月、11-12頁。
- ^ 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し。」(建治二年閏三月五日筆「妙密上人御消息」:『鎌倉遺文』12295号、『鎌倉遺文』 古文書編 第16巻 、239頁)
- ^ 若江賢三「蒙古襲来の伝聞を巡って-日蓮遺文の系年研究」『人文学論叢』8、愛媛大学人文学会、2006年。
- ^ 『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.181。
- ^ 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十年六月戊申の条「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。」
- ^ 『元史』巻一百五十九 列伝第四十六 趙良弼「良弼言、臣居日本歲餘、睹其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。帝從之。」
- ^ 近代デジタルライブラリー。[1]、朝日日本歴史人物事典、諏訪春雄記事。伊原敏郎『明治演劇史』
関連項目
外部リンク
- 蒙古襲来絵詞
- 『蒙古合戦絵詞書 2巻 中島広足 写 文化14(1817)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 元寇の油絵 矢田一嘯によるパノラマ画 鎮西身延山本佛寺所蔵 - うきは市ウェブサイト