千葉頼胤

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千葉頼胤
時代 鎌倉時代中期
生誕 延応元年11月20日1239年12月16日[1]
死没 建治元年8月16日1275年9月7日[1]
改名 亀若丸(幼名)→頼胤
別名 千葉介
幕府 鎌倉幕府
(役職:下総伊賀両国守護職[1]、下総国萱田・吉橋・神保郷、印東庄などの地頭[1]
主君 将軍藤原頼経頼嗣宗尊親王惟康親王
得宗北条時頼時宗
氏族 千葉氏
父母 父:千葉時胤、母:北条時房の娘[2]
兄弟 頼胤、女子(藤原信通室)
千葉泰胤の娘
宗胤胤宗

千葉 頼胤(ちば よりたね)は、鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府御家人千葉氏の第8代当主。第7代当主・千葉時胤の子。

略歴[編集]

仁治2年(1241年)、父・時胤が死去したため、わずか3歳という幼少で家督を継いだ。当時の千葉氏は若い当主が相次いだため、鎌倉幕府の評定衆を務めた一族の千葉秀胤が力を持ち、頼胤の後見として事実上の惣領となるが、宝治元年(1247年)に宝治合戦がおきると、幕府の命令で一族の秀胤とその一派は滅ぼされる。だが、当時頼胤は幼かったため、父の兄弟である千葉泰胤ら一族の者が任を代行した。この乱で幼少の頼胤の責任は問われなかったものの、一族の多くが処分されており、頼胤や泰胤は一度失われた千葉氏宗家の権威と一族の結束を回復させるために千葉氏と妙見菩薩の関係を強調する“妙見説話”を前面に押し出したとする見方がある[3]

建長元年(1249年)、香取神宮の遷宮に際して正神殿・一鳥居などを造営するに功を挙げた。しかしどうも頼胤は博打を好む人物だったらしく、翌建長2年(1250年)には幕府より博打禁制の命令が出されている。

前述まではまだ幼少の時期と言える段階であるため、幼名の亀若丸を名乗っていたものとみられるが、元服後の「頼胤」の名が初めて史料上に現れるのは、『吾妻鏡』に建長5年(1253年)に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中での後陣の供奉の一人として挙げられている「千葉介頼胤」の記述であり[4]、この時までに当時の北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼偏諱を受けて名乗ったものとみられる[5]

やがて時頼の子・時宗の代になって元寇がおきると異国警固番役のために出陣し、軍と戦ったが、傷を負い、建治元年(1275年)8月16日に37歳で死去。跡を子の千葉宗胤が継いだ。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年) p.392 「千葉頼胤」の項(執筆:岡田清一)より。
  2. ^ 『奥山庄史料集』所収『桓武平氏諸流系図』より。
  3. ^ 丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』(岩田書院、2013年) ISBN 978-4-87294-794-6 P51-53・93-96
  4. ^ 『吾妻鏡』建長5年8月15日条。
  5. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤北条泰時頼胤北条時頼宗胤胤宗兄弟が北条時宗胤貞貞胤北条貞時高胤北条高時から1字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)より)。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は、服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(→PDF版)に明確に示されている。

外部リンク[編集]