宗性

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宗性(そうしょう、建仁2年(1202年)- 弘安元年6月8日1278年6月29日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての東大寺。父は藤原隆兼

人物略歴[編集]

1214年建保2年)東大寺に入って道性に師事して得度東大寺の中院・尊勝院に住した。僧綱・権大僧都を歴任し、1260年文応元年)東大寺別当に任じられた。旧仏教の復興に努め、1230年寛喜2年)笠置山貞慶の感化によって弥勒信仰に傾倒し、1235年嘉承元年)には『弥勒如来感応抄』を著している。1269年文永6年)には権僧正に任じられている。東大寺には宗性自筆の稿本が数多く残り、彼の学識の高さをよくしめすものであるが、中には飲酒や男犯などの当時の堕落を表す資料も含まれている。1275年健治元年)8月9日、74歳の高齢で南都を離れて、南山城笠置寺般若院の僧房に籠り、8月20日以降、『地持論指示抄』『華厳探玄記香薫抄』『華厳宗祖師伝』などを抄しはじめている。

また、数々の僧伝を集成して日本仏教史を考察しようとした[1][注釈 1]。学僧として著名な東大寺の凝然は宗性の門弟にあたる[1]

同性愛者であり、100人の稚児と関係を持ったとされる。[2] 

彼が南都を離れたのは、1275年8月4日に、年来同宿してきた児の力命丸が、全く過はないのに、興福寺林小路で殺害されたのが原因であるとされる。[3]

著作[編集]

  • 『弥勒如来感応抄』
  • 『地持論指示抄』
  • 『華厳探玄記香薫抄』
  • 華厳宗祖師伝』

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 宗性のこうした営みは、弟子凝然の著述活動同様、鎌倉時代のいわゆる「旧仏教」の僧侶たちが、「日本にとって仏教とは何であったか」を追究しようとした意思の現れととらえることができる。大隅(1989)p.210

参照[編集]

  1. ^ a b 大隅(1989)p.210
  2. ^ 戦国武将の明暗(新潮新書) 本郷 和人
  3. ^ 田端泰子/細川凉一 (2002年5月30日). 女人、老人、子ども. 中央公論社. 

参考文献[編集]