新城神社

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新城神社
元寇の合戦の場となった壱岐の新城神社の鳥居から本殿
所在地 長崎県壱岐市勝本町新城東触字尻井441番地
位置 北緯33度49分59.7秒
東経129度43分5.5秒
座標: 北緯33度49分59.7秒 東経129度43分5.5秒
主祭神 壱岐の守護代 平景隆、元寇で殉難した将兵、諸神
創建 昭和年(1948年)
地図
新城神社の位置(長崎県内)
新城神社
新城神社
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新城神社(しんじょうじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。

祭神[編集]

平景隆公を主祭神とする。

概要[編集]

1274年(文永11年)10月14日、軍・高麗連合軍は、対馬に続き、壱岐島の西側に上陸。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。文永の役で戦死した壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡に新城神社は鎮座する。祭神の平景隆は元寇文永の役の日本国危き時に、国家を衛るため勇敢に戦い命を捧げた。

祭神は、国難事変に際して神威を顕し、平時に於ては国家の平和を護り給う神々である。 壱岐島民は文永11年(1274年)以来、新城神社御創建の願い、明治19年(1886年)本殿の建設を実現した。

なお、『高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。

元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、日本兵を1,000余り討ち取った。

歴史[編集]

  • 文永11年(1274年) 元(モンゴル)・高麗(韓国)連合軍による島民大虐殺
  • 明治19年(1886年)本殿建設
元寇の合戦の場となった壱岐の新城神社の神殿内部

主な祭典[編集]

  • 1月1日 元旦祭
  • 2月11日 建国記念祭
  • 12月31日 除夜祭

参考文献[編集]

  • 新城神社御由緒書

周辺史跡[編集]

  • 文永の役新城古戦場:この一帯は、第一回目の元寇である文永の役(1274年)の最後の激戦地であり、惨殺された多くの壱岐島民の死体を埋めた千人塚がある。元寇殉国忠魂塔が中央に建ち、観音像、本来の千人塚の標石である自然石がある。また、案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができる。
  • 少弐資時の墓:二度目の襲来である弘安の役では、蒙古高麗連合の東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んで来た(1281年)。元・高麗連合軍を迎え撃った当時の壱岐守護代少貳資時は、船匿城(ふなかくしじょう)で全滅した。壱岐神社近くの少貳公園の松林の中に資時の墓があり、周辺には、元寇の戦艦と思われる(いかり)石、急を知らせる防人の狼煙(のろし)台やがある。
  • 唐人原古戦場

交通[編集]

壱岐芦辺港から車で10分

関連項目[編集]

外部リンク[編集]