宗助国

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宗 助国(そう すけくに、承元元年(1207年)? - 文永11年10月5日1274年11月4日))は、鎌倉時代中期の武将対馬国地頭代守護代でもある)。宗氏の一族。長兄の宗重尚宗氏初代当主)の養嗣子となる。右馬允、贈従三位宗資国とも。子は盛明(右馬太郎)、右馬次郎。

八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、10月5日に対馬国府の八幡宮仮殿からおびただしい炎が上がり、人々が焼け失せるかと驚いたがそれは幻であった。その日の午後、対馬の西の海は一面に蒙古の軍船に覆われた。午後4時頃、蒙古の船は対馬下島西岸の佐須浦(現対馬市厳原町小茂田浜)に接岸し、船450艘、3万人の軍勢が来襲した。6時頃に国府の地頭所に連絡があり、対馬の地頭で守護少弐景資の代官でもある宗助国は、80余騎を率いて岩山の夜道を佐須浦へ馳せ向かった。翌朝、通事(通訳)を使者として蒙古人に事情を尋ねたところ、蒙古軍は7、8艘の船から1千人ばかりが下り立ち、激しく矢を射かけて攻撃を始めた。助国らは急遽陣を立て直して応戦したものの、助国をはじめ子息の右馬次郎、養子の弥次郎、他に庄の太郎入道、肥後国の御家人田井藤三郎など全員が戦死した。

蒙古軍は佐須浦に火をかけて焼き払った。小太郎と兵衛次郎という2人が博多へ船をはしらせ、事の顛末を知らせた。

助国主従の亡骸を埋めた場所は「お首塚」「お胴塚」として現存している。

対馬市厳原町小茂田の小茂田浜神社に祭られている。この神社では毎年11月12日の小茂田浜神社大祭において、鎧冑姿で練り歩き、海に向かって弓を放ち島の平和を祈願する「鳴弦の儀」が行われている。

1896年(明治29年)11月2日には、対馬島民らの請願を受けて、従三位が贈位された[1]

脚注[編集]

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  1. ^ 『官報』第4006号、「叙任及辞令」1896年11月04日。

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