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少弐資能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
少弐 資能
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建久9年(1198年
死没 弘安4年閏7月13日1281年8月28日
改名 資能→覚恵(法号)
別名 武藤資能
官位 大宰少弐
幕府 鎌倉幕府
主君 藤原頼経頼嗣宗尊親王惟康親王
氏族 少弐氏
父母 父:武藤資頼
兄弟 資能武藤頼茂武藤為頼武藤頼基
経資景資盛資[1]宗資?
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少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将御家人少弐氏2代当主。

略歴

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当時武藤氏大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。

資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、の使者の対応にも当たっている[2]文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も九州の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。

弘安4年(1281年)の弘安の役にも老齢の身を押して出陣した。壱岐島の戦いでは元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した[3]。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師南浦紹明[4]は、導師として太宰府横岳崇福寺において葬儀を執り行った。

なお、仁治3年(1242年)に、円爾(聖一国師)が博多承天寺[5] を開く際に、資能は寺地数万坪を寄進した。

太宰府市観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡[6]のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼墓と伝えられる五輪塔と少弐資能の供養塔(宝篋印塔)が並んで建っている。

脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』第2篇・391頁。
  2. ^ 『史料綜覧』第5編之905 144頁
  3. ^ 『史料綜覧』第5編之905 258頁
  4. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.68)
  5. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.12)の解釈によると、父の武藤資頼の生前の約束であったのか、没後14年を経ているにもかかわらず、承天寺の喜捨(捨地壇越)は父資頼として、その名をたたえているのである。
  6. ^ [https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/d-map/kaisetu26.html に九州国立博物館「西都 大宰府」記述あり。]

出典

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  • 尊卑分脈
  • 『亀山天皇紀』
  • 『後宇多天皇紀』
  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年