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少弐政資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
少弐政資
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 嘉吉元年(1441年
死没 明応6年4月19日1497年5月21日
改名 次郎[1]→頼忠[1]→政尚→政資
戒名 安養院殿明哲本光大禅定門[2]
墓所 専称寺 (多久市多久町)[3]
官位 大宰少弐
氏族 少弐氏
父母 父:少弐教頼 母:宗貞盛の娘
兄弟 政資千葉胤資鍋島経房
頼隆高経資元、南殿(松浦政室)
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少弐 政資(しょうに まさすけ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将少弐氏15代当主。筑前国高祖城主。初名は頼忠、父の死後家督を継ぐ際に8代将軍足利義政より偏諱を受け政尚を名乗り、後、政資に改名。

略歴

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室町幕府とその機関である九州探題渋川氏、それを背景とした周防国守護大名大内氏とは長年対立してきた少弐氏であったが、応仁元年(1467年)からの応仁の乱で大内氏が西軍につくと、少弐教頼・政資父子は東軍の細川氏と接近し、幕府への帰参を果たした。翌応仁2年(1468年)、九州で蜂起した父が大内氏に敗れ戦死したため、政資が家督を継いだ。

政資は大内氏に奪われていた筑前、豊前国を回復し、経済的には大陸との貿易を頻繁に行うことにより利益をあげ、また、のちには肥前国九州千葉氏の内紛につけこみ弟を当主として送り込み千葉胤資(たねすけ)と名乗らせるなど、少弐氏を一時的に中興する。

しかし、長年の盟友であった対馬国宗貞国の離反を許してしまうと、更に応仁の乱の終了後、大内政弘が再び北九州への侵攻を開始すると劣勢となり、政弘の子の義興の代には九州探題渋川尹繁と共に、幕府より政資の追討令を得た大内氏・渋川氏連合軍の全面的攻撃にさらされ、筑前を放棄し肥前に退避したものの、執拗な追撃を受け、傘下の国人多久氏の居城である梶峰城に拠ったが、多久宗時の離反によりそこからも追放され、専称寺において自刃した[4]

子・頼隆高経は政資と共に討たれたが、三男・資元が肥前の少弐氏庶流の横岳資貞を頼って落ち延び、少弐氏は辛うじて存続した。

辞世の歌は「花ぞ散る 思へば風の 科ならず 時至りぬる 春の夕暮」[5]

終焉の地の専称寺には核割れ梅の伝承が伝わり、三男資元と並んだ墓碑も現存している。[3]

脚注

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  1. ^ a b 『別本少弐系図』
  2. ^ 富士町史編さん委員会『富士町史 上巻 <中世>二 南北朝時代から室町時代前半』2000年3月31日、258頁https://dl.ndl.go.jp/pid/11517131/1/13 
  3. ^ a b 歴史-専称寺ご案内|千年寺院 専称寺”. senshoji.jp. 2024年12月1日閲覧。
  4. ^ 『史料綜覧』第8編之909 48頁
  5. ^ 『北肥戦誌』

出典

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