テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
テムル
ᠲᠡᠮᠦᠷ
モンゴル帝国第6代皇帝(大ハーン
YuanEmperorAlbumTemurOljeituPortrait.jpg
在位 1294年5月10日 - 1307年2月10日
戴冠式 1294年5月10日
別号 完者篤皇帝 ᠥᠯᠵᠡᠶᠢᠲᠦ ᠬᠠᠭᠠᠨ Öljeytü Qa'an[1]
オルジェイトゥ・カアン(中期音)
オルジェイト・ハーン(近現代音)

出生 至元2年9月5日
1265年10月15日
死去 大徳11年1月8日
1307年2月10日
大都、玉徳殿
埋葬 起輦谷/クレルグ山
配偶者 ブルガン
子女 徳壽(デイシュ)
王家 クビライ家
父親 チンキム
母親 ココジン
テンプレートを表示
成宗 奇渥温鉄穆耳
第2代皇帝
王朝
都城 大都
諡号 欽明広孝皇帝
廟号 成宗
陵墓 起輦谷(モンゴル高原
年号 至元 : 1294年
元貞 : 1295年 - 1297年
大徳 : 1297年 - 1307年

テムルモンゴル語ᠲᠡᠮᠦᠷTemür漢字:鉄穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、大元ウルスの君主としては第2代の皇帝モンゴル帝国の第6代皇帝。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシア語などではこれを訛ってティムールと表記する。

生涯[編集]

世祖クビライの次男チンキムの三男で、チンキムがコンギラト氏出身の正夫人ココジンとの間に儲けた3人の嫡子のうちの末子にあたる。父で皇太子のチンキム、祖父クビライに寵愛されていた次兄ダルマバラが相次いで早世したため、クビライの晩年にその後継者の最有力候補となった。カダアンの乱では叛乱鎮圧軍の総司令に抜擢され、この時ともに戦った部下の多くは即位後に側近として活躍することとなる[2]

至元30年(1293年)、モンゴル高原に駐留して中央アジアカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンがクビライに召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。翌年クビライが崩御すると上都クリルタイ(王族集会)が開かれ後継者が議されたが、監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤンは一致してクビライによって皇太子に指名されていたテムルを推し、テムルが長兄カマラを抑えて大ハーンに即位した。

テムルが即位すると高原に対するカイドゥの侵攻はますます強まったため、テムルは兄の晋王カマラに加えて従兄弟の安西王アナンダを始めとする大軍を高原に送り込んだ。これにもかかわらず元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねたが、次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元朝に投降し始めた。これに対して焦りを深めたカイドゥは大徳5年(1301年)、配下のオゴデイ家チャガタイ家の諸王のことごとくを動員し、全力をあげて高原に侵攻した。テムルは甥のカイシャンらを追加派遣してこれにあたり、元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。カイドゥは戦傷がもとでまもなく没し、これを機にチャガタイ家の当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子チャパルを説得してテムルに服属を申し出た。大徳9年(1305年)、テムルはドゥアとチャパルの服従を承認し、クビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされた。

大徳3年(1299年)、テムルは江浙の禅僧一山一寧を使節として日本に派遣しながら朝貢を促したのに、クビライに比べると姿勢はかなり緩和しており、既に武力によって制する意図は無かったとみられる[3]。日本に着いた一寧は鎌倉幕府の実権者である北条貞時に国書を奉呈するが、その真意を疑った幕府は一寧を抑留しただけでなく、元朝側の要求にも一切応じなかった[4]。これが元朝が日本へ派遣した最後の使節団となった。

テムルの政権では、オゴデイからクビライまで4代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚サイイド・アジャッルの孫バヤン(バアリン部の将軍バヤンとは別人)が中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成してクビライの制度を踏襲した。テムルの後ろ盾であった将軍バヤンはテムルの即位後間もなくに亡くなったが、父チンキムの莫大な遺産を管理する母ココジンがテムルをよく支えた。一方、宮中の節制されない浪費と税収の減少に因って元朝の国家財政はテムルの治世から慢性的な赤字に悩まされた。

テムルは飲酒と荒淫の悪癖があったので次第に病気がちとなり、チャパルらとの和平を受け入れた頃にはほとんど病床に就いており、政務を執ることができなくなっていた。宮廷では、大徳4年(1300年)にココジンが死去してからはテムルの皇后ブルガンが勢力を持ち、テムルの代理として政務を取り仕切って権勢を振るった。

大徳11年(1307年)にテムルが崩御すると、ブルガンは自らの地位を保持するためにテムルの従兄弟にあたる安西王アナンダを擁立しようとした。しかし、かねてよりブルガンの専権に不満を抱いていた一派がカイシャンとアユルバルワダの兄弟を擁立して政変を起こし、最終的にカイシャンが即位することとなった。

宗室[編集]

后妃

男子[編集]

脚注[編集]

  1. ^ モンゴル語で「吉祥のハーン」を意味する。
  2. ^ 吉野2008/吉野2009
  3. ^ 元史』巻20, 成宗紀 大徳3年3月癸巳(1299年4月13日)条 「命妙慈弘濟大師、江浙釋教總統補陀寧一山齎詔使日本。詔曰:有司奏陳、向者世祖皇帝嘗遣補陀禪僧如智及王積翁等兩奉璽書通好日本、咸以中途有阻而還。爰自朕臨御以來、綏懷諸國、薄海内外、靡有遐遺、日本之好、宜復通問。今如智已老、補陀僧一山道行素高、可令往諭、附商舶以行、庶可必達。朕特從其請、蓋欲成先帝遺意耳。至於惇好息民之事、王其審圖之。」
  4. ^ 鎌倉年代記』によれば国書は正安元年10月8日(1299年11月1日)、幕府に伝わった。
  5. ^ 『元史』宗室世系表によると、「成宗皇帝、一子:皇太子徳壽、早薨、無後」とある。また、『集史』テムル・カアン紀によると、ブルガン皇后との間に تاشى طايشى Tāsh ī ṭāyshī という人物が儲けているがこれが徳壽と同一人物と考えられており、他にも別の后妃から生まれた مقابلين maqābalīn? という息子がいたという。徳壽は大徳9年6月庚辰(1305年6月27日)に皇太子とするために立皇子されたが、同年12月庚寅(1306年1月3日)に薨去した。

参考文献[編集]

  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年6月)
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 吉野正史「ナヤンの乱における元朝軍の陣容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』、2008年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱: 二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1971年6月)