アリクブケ
| アリクブケ ᠠᠷᠢᠭᠪᠦᠬᠡ | |
|---|---|
| モンゴル帝国第5代対立皇帝(カアン) | |
|
アリクブケ(『集史』より) | |
| 在位 | 1260年6月8日[1][2] - 1264年8月21日 |
| 戴冠式 |
憲宗10年4月28日 (1260年6月8日) |
| 出生 |
太祖14年(1219年)頃 |
| 死去 |
至元3年(1266年) |
| 配偶者 | エルチクマシュ |
| クイティクタ | |
| クトゥル | |
| イラグイ | |
| エシタイ | |
| 子女 | ヨブクル、メリク・テムル、ナイラク・ブカ |
| 家名 | トルイ家 |
| 父親 | トルイ |
| 母親 | ソルコクタニ・ベキ |
| 宗教 | テングリ崇拝 |
アリクブケ(モンゴル語: ᠠᠷᠢᠭᠪᠦᠬᠡ, ラテン文字転写: Arïq Buka)は、モンゴル帝国の第5代対立皇帝(カアン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料ではاريغ بوكا(Arīgh Būkā)と書かれるため、書籍によってはアリク・ブカとも表記される[3]。モンケ、クビライ、フレグの弟にあたる。
生涯
[編集]生まれ
[編集]父トルイの死
[編集]1232年5月に、オゴデイ・カアンとトルイは金攻略をスブタイとタガチャルらに任せて河南を出発したが、長城を過ぎたあたりでオゴデイが病となった[4]。それが回復してから二人はモンゴル高原のオノン川に赴いたが、10月にトルイは亡くなってしまう[4]。
トルイの死後、末子相続によりそのウルスを相続したのはアリクブケであったが、彼がまだ幼かったため、実際にウルスをまとめ上げ、多数の部族を統制したのは母のソルコクタニ妃であった[5]。
兄のモンケがカアンに即位する
[編集]1241年のオゴデイ・カアンの崩御後はそのカアトゥン(皇后)ドレゲネの監国を経て、1246年にグユクが第3代皇帝に選出されたが、1248年に崩御した[6]。グユクが崩御すると、アラ・カマク山にいたバトゥはまず慣習に従い、摂政の任務をグユクの后妃の中で位階第一位であるオグルガイミシュに与えると、その場でクリルタイを招集した[7]。諸王侯は最長老であるバトゥをまず推挙したが、バトゥは固辞してモンケを指名した[8]。
クリルタイは翌年(1249年)春にも開催され、今度はオノン川、ケルレン川に近いチンギス・カンの旧直轄地において行われた[8]。ジョチ家、トルイ家、ジョチ・カサル家、カチウン家、オッチギン家らはクイトン・オラの地に参集し、モンケ即位に賛同しないオゴデイ家、チャガタイ家に最後通告を行った[9]。このときオゴデイ家のシレムン、カダアン・オグル、ナクは来会することを約束したが、期日になっても来なかったので、ついに占星学者に即位日を指定させ、1251年7月1日[注釈 1]に即位式が決行されると、モンケは第4代の皇帝(カアン)に即位した[9]。時にモンケは43歳であった[11]。
母ソルコクタニ皇太后の死
[編集]1252年2月、モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの母ソルコクタニ皇太后が薨去した[12]。ソルコクタニはケレイト部族の出身でネストリウス派キリスト教徒であったが、イスラム教にも好意を示し、彼らに対して惜しげもなく金銭を施した[12]。例えばブハーラーにイスラム教の学院(マドラサ)を建設するために1000銀バーリシュを下賜し、これに莫大な土地を寄進した[12]。このマドラサはハーニーと呼ばれ、千人の学生がここに出入りしていた[12]。生前オゴデイ・カアンはこの王妃に絶大なる敬意を示し、重要な事件があるごとに彼女に相談し、その使節に対して最も丁重に礼遇した[12]。オゴデイがソルコクタニにグユクと再婚するよう求めたが、彼女は子供の教育に全力を傾けねばならないからと断った[12]。晩年は四男のアリクブケとともにアルタイ山脈付近の地方に住んでおり、死後はチンギス・カンと夫であるトルイの墳墓の傍らに埋葬された[12]。モンケは父トルイに廟号「睿宗」を追贈した[12]。
モンケ・カアンの南宋征伐と崩御
[編集]1257年、兄のモンケ・カアンは自ら南宋征伐に出征する際、首都カラコルムの政府をアリクブケに委ね、将軍アラムダールをその副官に任命した[13]。
1259年8月、合州包囲戦の最中、モンケ・カアンは病気にかかり[14]、この12日後に釣魚山の付近で崩御した[15]。享年52歳であった[15]。
クビライの即位
[編集]
モンケ・カアンの崩御にあたり、燕都の長官ドルジ[注釈 2]とアラムダールがアリクブケを帝位につけるためにカラコルムに軍隊を結集し始めた[17]。時にクビライは南宋の鄂州(武昌府)を攻囲しており、その麻城県城付近でモンケ・カアン崩御を異母弟のモゲから報告を受けた[18]。その時、南宋で新たに右丞相に就任した賈似道が和平を提案してきたがクビライは拒否した[17]。しかし、続けてやってきたモンゴルの特使がカラコルムでアリクブケが帝位簒奪をもくろんでいるという報告を受けたため、クビライは賈似道の和平案を受諾し、包囲を解いてすぐさま北へ向かった[19]。
1260年1月、クビライは燕都の城壁のもとに本営を置き、アリクブケに対して「なぜ人馬金銀を徴発したのか」と詰問した[20]。これにアリクブケは「アルタン河畔地方におけるモンケ・カアンの大オルドでクリルタイを召集し、カアンの葬儀を執り行うために兄上(クビライ)とその党派を来会させようとした」と弁解した[21]。ドルジもクビライとその軍を率いる王侯たちにクリルタイに出席するよう勧誘したのだという[21]。それを聞いたクビライは「クリルタイに出席する前に自分たちの幕営地に軍隊を集めなければならない」と言ってその場を離れた後、4月に開平府で異母弟モゲ、オゴデイ家のカダアン・オグル、オッチギン家のタガチャル、その他左翼の諸王、諸将らはクリルタイを開いた[21]。6月、彼らはペルシア遠征中のフレグや、ジョチ家、チャガタイ家も遠方の地にいて召集が難しく、事態が重大でいささかの遅滞も許されないとして呼ばず、満場一致でクビライを第5代カアンにすることを強行し、即位させた[21]。時にクビライは46歳であった[21]。一週間にわたる祝宴ののち、新皇帝クビライは金銀のバーリシュ貨幣を満載した車両と高価な織物の荷物を運ばせ、これを親族、后妃、将校たちに分配した[21]。
諸王侯、諸将は百人の代表者をアリクブケのもとへ派遣し、クビライを即位させたことを通知した[21]。ドルジは逃走したが捕らえられ、モンケ崩御後の帝位簒奪の件を無理やり自白させたうえで禁固された[21]。クビライはチャガタイ家のアビシュカをチャガタイ・ウルスの当主(カン)に任命し、その兄弟とともに派遣したが、アビシュカは任地に赴く前に陝西地方でアリクブケ派に捕らえられて捕虜となった[21]。
アリクブケの即位
[編集]アリクブケはアラムダールに命じて北方諸部族に軍隊の徴発をおこなわせ、その首領たちに金銀絹布を分配させた[22]。劉太平とコルカイを陝西に派遣し、食料倉庫を設けさせた[22]。劉太平は王侯アスタイがカラコルムのクリルタイへ出発するに際して六盤山駐屯軍の指揮官として留めておいた将軍クンドゥカイと連絡を取っていた[22]。クンドゥカイは成都府知事(ダルガチ)のメリク・ホージャ、青居の指揮官キタイ・ブカをアリクブケに加担させることに成功した[22]。アリクブケはこれらの首領に推挙されてカアンの称号をとり、彼もまた第5代皇帝に即位した[23]。彼の一派の主だった人はモンケの正妃クトクタイ・カトゥン、モンケの諸皇子アスタイ、ウルン・タシュ、シリギと、チャガタイ家であった[23]。
アリクブケとクビライとの戦い
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アリクブケとクビライの両皇帝は互いに使者を交換し続けたが、折り合うことはなかった[23]。秋になってアリクブケはフレグの子のジョムクル、ウドゥル(ジョチの12男)の子のカラチャル両人の指揮のもとに一軍を進軍させた[23]。二人はカサル家のイェスンゲの指揮するクビライ軍の前衛と戦って敗れた[23]。この失敗に意気消沈したアリクブケの軍隊は瓦解した[23]。アリクブケは先に抑留していた百人の代表者を殺し、二人の息子とともに冬営地であるキルギスの地方へと退却した[24]。陝西地方に派遣していた劉太平とコルカイはクビライ派の廉希憲によって殺された[25]。
ウイグル人の名将である廉希憲は劉黒馬を四川に派遣してアリクブケ派のメリク・ホージャとキタイ・ブカを殺害し、クンドゥカイ追討の準備をした[26]。クンドゥカイは援軍の必要を感じ、黄河の対岸に退却し、途中で甘州城を掠奪し、長城の北でモンゴリアの軍隊を連れてきたアラムダールと合流した[26]。クンドゥカイ、アラムダールの軍は南へ向かって進軍したが、カダアン・オグル、汪良臣らに山丹州の耀碑谷の戦いで敗れ、二人は戦死した[27][26]。
クビライ・カアンは自らカラコルムに進軍し、オンギ河畔の「オンギのオルド」を夏営地と定めた[26]。カラコルム城はもともと華北から食糧の供給を受けていたのであるが、クビライがその供給を断っていたため食糧危機に陥っていた[26]。アリクブケは食糧不足に悩んだため、自身の幕下にいたチャガタイ家のアルグをチャガタイ・ウルスのカンにするという条件に、チャガタイ・ウルスから武器食糧の調達と、クビライの援軍としてやってくるフレグとベルケの軍隊を妨害することを命じた[26]。アリクブケは北のケム・ケムジュート地方へ逃れたが、極度の窮乏状態に陥ってクビライに使節を送り、自分の企みを悔いていること、兄クビライの最高主権を承認していること、クビライのもとに赴く意思があること、自分の軍馬に休養を取らせる必要があること、アルグ・カン、フレグ・カン、ベルケ・カンらの到着を待っていること、他の諸王侯とともに帝国継承の問題を解決するためにこの3人を招いたことなどを伝えた[26]。クビライはこれを承認すると返答し、3人の君主(カン)の到着前に二人で会見したいと希望した[28]。クビライは従弟のイスンゲをカラコルムに残し、自身は開平府へ帰った[28]。
1261年、アリクブケはその軍馬の休養が十分取れたので、カラコルムへ帰還し、あらためて投降する意思のあることをクビライが残留させていたイスンゲに伝えると、それを聞いて油断したイスンゲの軍に襲いかかり、その軍を蹴散らした[29]。続けてゴビ砂漠を越えてクビライに向かって進軍を開始した[29]。これを聞いたクビライも直ちに軍を進め、両軍はゴビ砂漠の縁辺コージャ・ブルダク丘陵とシムルタイ湖付近のアルチア・クングルで会戦し、アリクブケは完敗を喫して逃走した(シムルトゥ・ノールの戦い)[29]。クビライは追撃を禁止し、後退した[29]。10日後、アリクブケは再び戦いを挑み、シルグイルク丘陵に近いシルカン・タグン地区のアルトという場所で戦闘した[29]。激戦は夜までおよんだため、両軍は軍を退いた[29]。
アリクブケとアルグとの戦い
[編集]
1262年、アリクブケは物資が枯渇したため、チャガタイ・ウルスのアルグ・カンのもとへ3人の使者を派遣し、同地で家畜、兵器、金銀を徴発させた[30]。ところが、この徴発があまりにも多かったため、アルグ・カンは不服に思い、3人の使者を拘留した[30]。アルグ・カンは自分の部下にこの処分をどうすべきか聞いたところ、アリクブケ・カアンに敵対し、クビライ・カアンを承認するしかないとの結論であったため、3人の使者を殺害し、徴発された物資は部下に分配した[30]。これを聞いたアリクブケはカラコルムより進軍し、チャガタイ・ウルスへ向かった[31]。アリクブケが出発するやいなや、カラコルムにクビライがやってきたため、住民と聖職者たちはすぐに降伏し、クビライはそれを歓迎した[31]。
アリクブケの前衛を指揮していたカラ・ブカはプーラード城とスト湖との付近でアルグ・カンと遭遇し、戦いに敗れて死んだ[31]。アルグ・カンはこれに安泰してイリ河畔へ帰ったが、モンケの子アスタイの軍が鉄門と呼ばれる峻険を越え、イリ川を渡り、アルマリク城を占領し、アルグ・カンの私領を奪ったので、右翼軍を率いてホータン、カシュガル方面へ退却した[31]。まもなくアリクブケの本隊が到着し、アルマリクに冬営地を定めた[31]。アルグ・カンはさらにサマルカンドへ退却した。アリクブケは人馬を休ませて冬を過ごし、アルグ・カンの領土を掠奪し、手中に入ったアルグ・カンの軍隊をことごとく殺害した[31]。この野蛮な行為は彼にとって致命的なものとなった[32]。
翌年(1263年)春、アルマリクは恐るべき飢饉に遭遇し、おびただしい死者が出た[32]。アリクブケの将校たちの大半は敵兵に対するアリクブケの非人道的な行為に憤慨して彼から離反する決意をし、アルタイ山近くの砂漠のチャバカン河畔でクビライ軍の前哨を指揮していたモンケの子ウルン・タシュに投降した[32]。
アリクブケの投降
[編集]アリクブケにはもはや一握りの軍隊しか残っていなかった[33]。アリクブケはこの隙にアルグ・カンが来襲することを知り、前チャガタイ・ウルス当主オルガナ・カトゥンと別失八里等処行尚書省の長官マスウード・ベクをアルグ・カンのもとに派遣して講和を提案させた[33]。しかし、アルグ・カンはオルガナ・カトゥンと結婚し、マスウード・ベクを自身の財務長官として取り込んでしまう[33]。アルグ・カンはマスウード・ベクの力によってサマルカンドとブハーラーで莫大な額の金銀貢賦を徴発し、その軍隊の補給をすることができた[33]。
1264年、アリクブケは軍隊も財源も窮乏したため、クビライ・カアンに投降することを決意した[34]。アリクブケはクビライの宮殿の門の前に到着すると、クビライは軍隊を整列させ、ひとびとは彼に帳幕のとばりをかぶらせた[34]。アリクブケはこのような場合の慣例に従って平伏の儀礼をおこなった[34]。しばらくしてから内部に入ることを許され、書記官たちの席に直立した[34]。クビライは長い間感無量のおももちでアリクブケを凝視し、彼が涙を流しているのを見て自らも涙を禁ずることができなかった[34]。クビライは「弟よ、この争いでどちらが正当だったか?」と聞くと、アリクブケは「以前は私が正当でしたが、今は陛下の方です」と答えた[34]。クビライはアリクブケを皇子たちの傍らに着席させ、一同はその日を歓楽のなかに過ごした[35]。
アリクブケの処分
[編集]翌日、アリクブケの将校たちは鎖につながれ、クビライ・カアンは四人の王侯と三人の将軍よりなる委員会を設け、アリクブケとその支持者たちを審問することとなった[36]。アリクブケはこれらの企みは自分一人の罪であり、部下の将校たちに罪はないと明言した[36]。クビライ・カアンは「この企てをそそのかした者はだれか?」と問うたため、アリクブケはブルガイとアラムダールの名を挙げた[36]。列席の将校たちはアリクブケの供述を是認したので、部下の10人は死刑に処されたが、クビライ・カアンがアリクブケとアスタイの審判にはフレグ・カン、ベルケ・カン、アルグ・カンの列席を欲したため、3人のカンの到着を待ってから再び審問した結果、満場一致で二人の助命が決定された[37]。
アリクブケの死
[編集]1266年[注釈 3]、アリクブケはその1か月後病気で死去した[37]。その遺体はトルイとチンギス・カンとの傍らに葬られた[37]。
名前について
[編集]アリクブケ(Arïq Buka)とはテュルク語で「細い腰」の意味であり、モンゴル語で「純粋な牡牛」という意味である[37]。
アリクブケ王家
[編集]- アリクブケ大王(Ariq Buke >阿里不哥/ālǐbúgē, اریغ بوکا/Arīq būkā)
系図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 屠寄 1921.
- ↑ 白壽彝 2015, pp. 293–295.
- ↑ 佐口 1971.
- 1 2 佐口 1968, p. 101.
- ↑ 佐口 1968, p. 269.
- ↑ 佐口 1968, p. 257.
- ↑ 佐口 1968, p. 266.
- 1 2 佐口 1968, p. 271.
- 1 2 佐口 1968, p. 274.
- ↑ 佐口 1968, p. 276.
- ↑ 佐口 1968, p. 272.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 1968, p. 287.
- ↑ 佐口 1968, p. 339.
- ↑ 佐口 1968, p. 345.
- 1 2 佐口 1968, p. 346.
- ↑ 佐口 1971, p. 7.
- 1 2 佐口 1971, p. 6.
- ↑ 佐口 1971, p. 4.
- ↑ 佐口 1971, p. 6-7.
- ↑ 佐口 1971, p. 8.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 佐口 1971, p. 9.
- 1 2 3 4 佐口 1971, p. 11.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1971, p. 12.
- ↑ 佐口 1971, p. 12-13.
- ↑ 佐口 1971, p. 13.
- 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1971, p. 14.
- ↑ 池内 1986, p. 287.
- 1 2 佐口 1971, p. 15.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1971, p. 16.
- 1 2 3 佐口 1971, p. 17.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1971, p. 18.
- 1 2 3 佐口 1971, p. 19.
- 1 2 3 4 佐口 1971, p. 20.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1971, p. 21.
- ↑ 佐口 1971, p. 22.
- 1 2 3 佐口 1971, p. 23.
- 1 2 3 4 佐口 1971, p. 24.
- ↑ 佐口 1971, p. 24-25.
参考資料
[編集]書籍
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 3巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫189〉、1971年1月。ISBN 4582801897。
- 池内功「アリク=ブカ戦争と汪氏一族」『中国史における乱の構図』、雄山閣出版、1986年12月1日、ISBN 978-4639006114。
- 白壽彝 (2015) (中国語). 《中國通史·第八卷·中古時代·元時期(下)》. 中華人民共和國: 上海人民出版社. ISBN 9787208130005. "①此據《元史·世祖紀》。據《史集》阿里不哥先稱帝,當他所發詔旨被截獲後,忽必烈才稱帝。見《史集》第2卷,漢譯本頁293—295。"
