コンテンツにスキップ

モーラン (北元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーラン・ハーンから転送)
モーラン
モンゴル帝国第31代皇帝(ハーン
在位 1465年 - 1466年

出生 1430年代
死去 1466年
配偶者 サマンディ・ハトン
  モングチェイ・ハトン
家名 ボルジギン氏
父親 トクトア・ブハ
母親 アルタガルジン・ハトン
テンプレートを表示

モーランモンゴル語: Молон1430年代 - 1466年)は、モンゴルの第31代ハーン(在位:1465年 - 1466年)。タイスン・ハーン(トクトア・ブハ)の子で、マルコルギス・ハーンの異母兄にあたる[1]漢文史料では即位以前のモーラン・ハーンの事をトグス太子(脱谷思太子、帖骨思太子)と記している[2]。また、『蒙古源流』ではムラン・ハーンと表記される。

生涯

[編集]

即位以前

[編集]

『蒙古源流』によると、モーランは1437年丁巳)に、タイスン・ハーンとアルタガルジン・ハトンとの間に生まれたとされる[3]。しかし、モーランが3歳の時に、タイスン・ハーンとアルタガルジン・ハトンが離縁したため、母方のウリヤンハンゴルラト)部で暮らすようになったという[3]

一方、漢文史料では即位前のモーラン・ハーンに相当する人物をトグス太子(脱谷思太子/Toγus tayiǰi)もしくはトグス・モンケ(忒古絲猛可/Toγus möngke)という名前で記録している。トグス太子が始めて登場するのは1439年(正統4年)のことで、オイラトトゴンエセン父子らとともに明朝から賞賜を与えられている[4][5][6]。この記録は『蒙古源流』の「1465年に17歳で即位」という記述と矛盾するが、恐らくは『蒙古源流』の側が「先代のマルコルギスが幼くして即位した」事実と混同して誤った生年を伝えたものと考えられている[6]

1452年(景泰3年)中にエセン太師によってタイスン・ハーンとその弟のアクバルジ・ジノン、アクバルジの息子のハルグチュク・タイジらが殺害されるという事件が起こった時、トグス太子は脱赤知院・納哈帖木児左丞らとともにエセンの下を出奔したとの報告が明朝にされている[7][8][6]。しかしその後、トグス太子はエセンの支配下に戻ったようで、1454年(景泰5年)2月にはエセンの配下として、アラク知院らとともに下賜を受けている[9][6]

同1454年末にはエセン・ハーンがアラク知院に殺されるという事件が起き、モンゴリア東部のモーリハイ王らは新たにトグス太子の異母弟であるマルコルギスをウケクト・ハーンとして擁立した。1463年(天順7年)には「マルコルギス(馬児苦児吉思)王・満剌楚王・ボルナイ(孛羅乃)西王・右都督ウネ・テムル(兀研帖木児)等、頭目ハダ・ブハ(哈答不花)」らが明朝に使者を派遣したとの記録があるが[10]、この中の「満剌(mǎnlà)」が「モーラン(Molan)」の音訳であるとする説がある[6]。この説が正しければ、トグス太子は即位前より「モーラン」の名を称するようになっていたようである[注釈 1]

即位以後

[編集]

『蒙古源流』によると、即位の前年(1464年)に母方の祖父のチャブダン(シャブダン、沙不丹)が亡くなったため、同じゴルラト部のハブチルという者の所で召し使われるようになった[3]。しばらくしてその家に災いが起きたため、ハブチルが預言者や占い師に聞いたところ、「ボルジギンに悪いことをした天罰である」と言われたので、恐れたハブチルはすぐさまモーランをオンリュート部のモーリハイ(毛里孩、ムラハイ王)のもとに送った[3]

そして1465年(成化元年/癸酉[注釈 2]、折しもハーンであるマルコルギス・ウケクト・ハーンボライ太師によって殺害されたので、モーランはモーリハイによってハーンに擁立された[11]。なお、『蒙古源流』はモーラン・ハーンが即位した時の年齢を「17歳の時」とするが、上述の通り同時代史料の『明実録』の記述と矛盾するため、疑わしい[12]。Buyandelgerはモーラン・ハーンが即位したのは30歳前後ではないかと推定している[6]。また、漢文史料の『北虜考』では、モーリハイ(毛里孩)・オロチュ(阿羅出)・モンケ(猛可)らがボライ太師と争った末に「トグス(脱思)を立てて王(ハーン)とした」と記されており[13]、トグス太子がモーラン・ハーンのことであると分かる[2]

しかし、即位から僅か1年後の1466年(成化2年/丙戌)にモーラン・ハーンはモーリハイ王によって殺されてしまった。モーラン・ハーン殺害の経緯について、『蒙古源流』は以下の様に伝えている。ある日、ソロンガスのフトゥバガという者がモーラン・ハーンのもとに来て、「モーリハイがあなたの妻サマンディに色目を使い、兵を起こして攻めてきます」と偽ってモーラン・ハーンに兵を起こさせ、一方でモーリハイにも「ムラン・ハーンはあなたを殺してあなたの国人を奪おうとしています」と嘘をつき、両者を争わせた[11]。やがてモーラン・ハーンはモーリハイに敗れ、殺害された。のちにモーリハイはモーラン・ハーンの妻のひとりモングチェイ・ハトンからフトゥバガの謀だったと知り、フトゥバガの舌を切って殺したという[14]

一方、明朝の側にはモーリハイ自身が一連の経緯を伝えてきたとの記録があり、それによると「ボライ(孛来)太師が近ごろマルコルギス・ハーン(馬児苦児吉思可汗)を殺害したため、モーリハイ(毛里孩)はまたボライを殺害し、後にまた新たなハーン(=モーラン・ハーン)を立てた。しかしオロチュ(斡羅出)少師なる者がいて、モーリハイと争ったため、モーリハイはまた新立のハーンを殺害し、オロチュを追い出した」という[15]。これによると、モーラン・ハーンは早くからモーリハイと対立しており、オロチュ少師と組んで対抗しようとしたが、敗れて殺されようである。なお、『明憲宗実録』には成化2年=1466年の10月にモーリハイがオロチュの「老営」を襲撃したとの記録があり、恐らくは同年9〜10月頃に両勢力の武力衝突があり、モーラン・ハーンは殺されるに至ったものと考えられている[6]

死後

[編集]

モーラン・ハーンの死後、モーリハイはしばらく新たなハーンを擁立せず、9年間の空位ののち、タイスン・ハーンの弟であるマンドゥールンがハーン位に就いた。

系図

[編集]

モンゴル帝国の北元時代の系図

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお、Buyandelgerが天順七年の「満剌(mǎnlà)」が「モーラン(Molan)」であると論じる以前、和田清は「トグス太子」が本名で、「モーラン・ハーン」がハーン号ではないか、と推定している(和田 1959, p. 362.)
  2. ^ 『蒙古源流』では即位年を癸酉の年(1453年)とするが、これは後から誤った十干を追加したもので、一回り後の「酉年=乙酉(1465年)」とすれば合致する。《岡田 2004,p214》

出典

[編集]
  1. ^ 岡田 2010, p. 69.
  2. ^ a b 和田 1959, pp. 360–361.
  3. ^ a b c d 岡田 2004, p. 211.
  4. ^ 『明英宗実録』正統四年正月癸卯(二十四日),「瓦剌使回遣使齎勅賜達達可汗曰……賜丞相把把的・右丞相脱歓・左丞相昂克……小失的王・脱谷思太子・淮王也先……等倶賞賜有差」
  5. ^ 和田 1959, p. 335.
  6. ^ a b c d e f g Buyandelger 2000, p. 150.
  7. ^ 『于公奏議』巻10景泰三年九月十日兵部為辺情事,「聴得脱脱不花王弟男無了、有帖骨思太子・脱赤知院・納哈帖木児左丞等両起前後反出走了、説也先太師在阿剌忽馬乞・可蘭海子・卜魚児海子等処地面駐札、因奏報」
  8. ^ 和田 1959, pp. 343–344.
  9. ^ 『明英宗実録』景泰五年二月癸未(二日),「命瓦剌也先使臣哈只等齎書賜也先曰……又賜瓦剌阿剌知院・忒古絲猛可等王子及諸頭目綵幣・表裏有差。悉命来使齎勅、以給之」
  10. ^ 『明英宗実録』天順七年六月丁亥(二十九日),「迤北馬児苦児吉思王・満剌楚王・孛羅乃西王・右都督兀研帖木児等、頭目哈答不花等、各遣頭目阿羅出等二百人来朝貢馬、賜宴并綵幣・表裏・紵絲・襲衣有差、仍命阿羅出等齎勅并綵幣・表裏各帰、賜馬児苦児吉思王等」
  11. ^ a b 岡田 2004, pp. 211–212.
  12. ^ 和田 1959, p. 361.
  13. ^ 『北虜考』,「是時、孛来稍衰、其大毛里孩・阿羅出少師・猛可、与孛来相讐殺、而立脱思為王、虜中言、脱思故小王子従兄也」
  14. ^ 岡田 2004, pp. 213–214.
  15. ^ 『明憲宗実録』成化三年正月丙子(九日),「虜酋毛里孩遣使求入貢且言、孛来太師近殺死馬児苦児吉思可汗。毛里孩又殺死孛来、後又新立一可汗。有斡羅出少師者、与毛里孩相讐殺、毛里孩又殺死新立可汗、逐斡羅出、今国中無事。……」

参考資料

[編集]
  • 森川哲雄『アジアの歴史と文化〈7〉北アジア史』同朋舎、1999年3月。ISBN 978-4810408607 
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434 
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年11月。ISBN 978-4894347724 
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫〈東洋文庫論叢〉、1959年。 
  • 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』』第6巻、張橋科学研究、2000年。