バヤン・モンケ
| バヤン・モンケ | |
|---|---|
| モンゴル帝国第33代皇帝(ハーン) | |
| 在位 | 1480年 - 1487年(諸説あり) |
| 別号 | ボルフ・ジノン(晋王) |
| 出生 |
1464年(『蒙古源流』では1452年) |
| 死去 |
1487年(『蒙古源流』では1470年) |
| 配偶者 | シキル太后(オロチュ少師の娘) |
| 子女 | バト・モンケ |
| 家名 | ボルジギン氏 |
| 父親 | ハルグチュク・タイジ(アクバルジの子) |
| 母親 | セチェク妃子(エセン・ハーンの娘) |
バヤン・モンケ・ボルフ・ジノン(モンゴル語:Баянмөнх жонон、1452年 - 1476年)は、15世紀後半のオルドス部の領主。モンゴルの第33代ハーン(在位:1480年 - 1487年)と数えられることもあるが、これを否定する説もある(後述)。
アクバルジ・ジノンの子のハルグチュク・タイジの子で、モンゴル中興の祖として著名なダヤン・ハーンの父にあたる。しかし、ボルフ・ジノンの事績や活躍年代は史料間で錯綜しており、実際にハーンに即位したかどうかを含めて、研究者の間でも見解が分かれている。
本名がバヤン・モンケ(Bayan möngke)で、「ボルフ・ジノン(Bolqu J̌inong)」が称号である。『明実録』などの漢文史料では、前者を伯顔王、後者を孛羅、孛羅忽などと漢字表記する。また、日本語書籍ではバヤン・ムンケとも表記される[1]。
生涯
[編集]出自
[編集]各種モンゴル年代記では、ボルフ・ジノン出生の過程を以下のように語っている。タイスン・ハーンとオイラトのエセン太師が対立したとき、ハーンの弟のアクバルジ・ジノンは唆されて兄を裏切り、息子のハルグチュク・タイジとともにエセン太師の側についた。このためにタイスン・ハーンは敗れて殺されたが、兄を裏切ったアクバルジ・ジノンも殺され、エセンの娘を娶っていたハルグチュク・タイジはトクモク方面(キプチャク草原)に逃れた。その後、ハルグチュク・タイジが巻狩り中にトクモクのイェクシ・モンケという者に殺されたため、妊娠7カ月のセチェク妃子は従者のイナク・ゲレとともに、父のエセン・ハーンのもとに身を寄せた[2]。3カ月後の1452年[注釈 1]、セチェク妃子は男の子(バヤン・モンケ)を生むが、ボルジギン氏の生き残りであるとして父のエセン・ハーンがその子の命を狙うため、曽祖母のサムル公主のもとに預け、そこでバヤン・モンケと名付けてソロンガスのサンガルドルの妻のハラクチン大夫人を乳母として育てさせた[2]。
しかし、それでもエセン・ハーンは命を狙ってきたので、イナク・ゲレはオイラトのオキデイ太傅という者に頼んで、ハラチンのボライ太師、サルトールのバヤンタイ・メルゲン、フンギラトのエセレイ大夫とともに3歳のバヤン・モンケをモンゴルへ脱出させた[3]。途中、ウリヤンハン[注釈 2]のオロチュ少師という者と出会い、「自分の娘(シキル)を中宮としてバヤン・モンケ太子に娶せ、生き残ったボルジギン氏に送り届けましょう」と言って来たため、4人はバヤン・モンケを彼に託した、という[3]。
一方、オルドス地方に入る前のバヤン・モンケについては漢文史料上でほとんど言及されないが、1459年(天順3年)には「伯顔(バヤン)王」なる人物の記録が『明実録』に見える[4]。更に、同じ人物が1460年(天順4年)には孛羅・モーリハイ(毛里孩)・オロチュ(斡羅出)と行動をともにしていたと記されるが[5]、ボライとオロチュは上記の通り幼年のバヤン・モンケを助けたとされる人物であり、この「伯顔王」こそが若年のバヤン・モンケと考えられている[6]。
オルドス地方への移住
[編集]エセン・ハーンの没後、モンゴル高原南部ではハラチンのボライ太師が有力となっており、オルドス地方への進出を開始した。孛羅はモーリハイ王によって殺されてしまうが、その勢力を継承してオルドス地方を支配したのが「斡羅出」なる人物で、この人物こそバヤン・モンケの後ろ盾となったオロチュ少師に他ならない[7]。
1466年(成化2年)にモーラン・ハーンがモーリハイ王に弑逆され、1468年(成化4年)にモーリハイ王も殺されると、モンゴル高原は混乱状態に陥ってハーンが不在となってしまった[8]。この情勢下で、1470年(成化6年)中に「孛羅」なる人物が「筏を作って黄河を渡り、(オロチュは孛羅の勢力を)併せて一つの勢力となった」との報告が明朝になされた[9][10][11]。「孛羅」が誰を指すかは諸説あるが[注釈 3]、1471年(成化7年)5月には明朝に使者を派遣した「孛羅太子」が登場し[12]、その同一人物が同年7月条で「孛羅忽」と表現される[13]。更に同年10月には「孛羅忽太子」との表現も見られるため[14]、孛羅太子=孛羅忽太子こそがボルフ・ジノンと考えられている[15]。
なお、チンギス・カンの祭祀を行う「八白室」は現在のオルドス市エジンホロ旗に位置するが、八白室がこの地方に移ったのもこの時期であると考えられている。この事は考古学的研究からも裏付けられ、元朝にチンギス・カン祭祀が行われていたケルレン河流域のアウラガ遺跡では、おおよそ15世紀中ごろを最後として祭祀の形跡がなくなり、入れ替わるようにしてオルドス地方に八白室が建設される[16]。よって、この時期にボルフ・ジノンとともにオルドス地方に移住した「チンギス・カン祭祀を担う集団」こそが、オルドス部の前身であると考えられている[17]。
三者鼎立
[編集]ボルフ・ジノンがオルドス地方に入ったのとほぼ同時期、西方の天山山脈よりベグ・アルスランもこの地方に移住してきていた。ベグ・アルスランとオロチュは成化8年(1472年)正月よりオルドス地方の支配を巡って抗争を始め、同年12月には「ボルフがオロチュによって殺された」との報告が明朝になされた[18][7]。ボルフがこの時殺されたというのは明らかに誤伝であるが、これ以後オロチュは史料上に現れなくなり、ボルフはベグ・アルスランと協力関係を築き始める[7]。さらに、1473年(成化9年)5月には始めて「満都魯太子」という人物が明朝の記録に現れるが[19]、この人物こそがモンゴル年代記上の「マンドゥールン・ハーン」に相当する[7]。
こうして、オルドス地方にはボルフ・ジノン、マンドゥールン、ベグ・アルスランという三人の有力者が鼎立し、混乱状態にあったモンゴル高原はこの三者によって再統合されていった[7]。1473年9月には「マンドゥールン(満都魯)・ボルフ(孛羅忽)・ベグアルスラン(癿加思蘭)三酋」が始めて共に明朝に侵攻したとの記録があり[20][21]、10月には三者が韋州に侵攻したものの撃退されたとの記録がある[22][7]。モンゴル年代記に「(ボルフ・ジノンとマンドゥールンは)兄弟の間柄となってボロボロになった6つの万人隊(トゥメン)を収拾していった」とあるのは[23]、まさにこのころの活動を指すものと考えられている。
マンドゥールンの治世
[編集]漢文史料・モンゴル年代記は一致して1475年(成化11年)[注釈 4]にマンドゥールンがハーン位に就いたことを伝えている[24]。マンドゥールン即位の背景について、『明実録』によると「ベグ・アルスランは当初ボルフ太子に自らの娘を娶らせ、ハーン位につけようとしたが、ボルフ・ジノンがこれを譲ったため、マンドゥールンがハーン位に就いた」とされる[25]。
一方モンゴル年代記によると、オロチュ少師がバヤン・モンケ太子とシキル妃子をハーンのもとに会わせて、マンドゥールン・ハーンがバヤン・モンケにボルフ・ジノンの称号を与えたとされる[23]。しかし、上記のようにマンドゥールン即位の何年も前から「孛羅忽(ボルフ)太子」の名前は漢文史料上で見えており、「即位後のマンドゥールンがジノン号を与えた」というのは疑問視されている。
いずれにせよ、ボルフ・ジノンはハーン即位の資格を持った有力者として認められていたことは確かであり、マンドゥールンからすれば自らの地位を脅かす人物と警戒されていたのではないかとみられる。
ボルフ・ジノンの殺害
[編集]ボルフ・ジノンが殺されるに至った経緯について、モンゴル年代記は以下のように伝えている。ある時、ボルフ・ジノンのハリューチンのホンホラという者が、マンドゥールン・ハーンに「あなたの弟はイェケ・ハバルト中宮を娶ろうとしています」と讒言したため、ハーンは信じず、ボルフ・ジノンに真意を確かめた上で、ホンホラの口を断って殺した[26]。
その後、ヨンシエブのイスマイル太師がマンドゥールン・ハーンに「ホンホラの言うことは本当だったのに…」と言い、一方でボルフ・ジノンにも「ハーンはホンホラの言葉を信じてあなたに悪意を抱いています」と言い、2人の離間を謀った[23]。やがて2人はイスマイル太師の言うことを信じ始め、マンドゥールン・ハーンは遂にイスマイル太師に命じてボルフ・ジノンを討たせた。ボルフ・ジノンは先に逃れて無事であったが、彼の国人と家畜はことごとく奪われ、妻のシキル太后はイスマイル太師の妻となってしまう[27]。
漢文史料の『明実録』では1476年(成化12年)10月に「マンドゥールンとベグ・アルスランがボルフとマンドゥ知院・モンケら三人を殺害した」との記録があり[28]、1478年(成化14年)7月にも「ボルフは既にベグ・アルスランに殺された」と報告されている[29][30]。後述するようにボルフ・ジノンがハーンに即位したことを認めない立場からは、この時既にボルフ・ジノンは殺されてしまったとする。
一方モンゴル年代記によると、1479年(成化15年)[注釈 5]にマンドゥールン・ハーンが42歳で亡くなると、翌年(1480年)[注釈 6]、バヤン・モンケ・ボルフ・ジノンが即位してハーンとなったとされる[31]。しかし31歳の庚寅の年(1482年)[注釈 7]、バヤン・モンケ・ボルフ・ハーンはヨンシエブのケリュー、チャガーン、テムル、モンケ、ハラ・バダイの5人によって殺されたという[31]。
しかし、漢文史料の伝える1476年(成化12年)死去ではボルフ・ジノンが「マンドゥールン没後にハーン位に就く」ことは不可能なため、ボルフの没年について研究者の見解は分かれている(後述)。
ボルフ・ジノンのハーン即位の是非
[編集]上述の通り、ボルフ・ジノンの晩年については漢文史料とモンゴル年代記で異なる経緯を伝えており、研究者の見解が分かれている。研究者の中では大きく分けて1.「『明実録』の記述が誤報で、モンゴル年代記の記す通りボルフ・ジノンはマンドゥールンの後にハーンに即位している」という説と、2.「モンゴル年代記の記述が後世の創作で、ボルフ・ジノンはマンドゥールンの在世中に殺されている」という説が存在する。
ハーン即位を認める説
[編集]20世紀までは主に日本人研究者による研究によって前者の説が有力であり、例えば岡田英弘は1481年(辛丑/成化17年)に初見し、1487年(丁未/成化23年)に死去したと明側に伝えられる「小王子」をボルフ・ジノンとみなし、次のように考証している[32]。『アルタン・トプチ』はボルフ・ジノンが「大位に4年あった時…寅年に崩じた」とあり、マンドゥールンが死去した1479年(己亥/成化15年)から4年後の1482年(壬寅/成化18年)が没年と推定される[33]。しかしこれでは『明実録』の伝える1487年(丁未/成化23年)の「小王子」の死亡年と合致しないため、岡田は年代記の編者が他の事件(ダヤン・ハーンの婚姻年)と混同してしまったと考え、やはりボルフ・ジノンは1487年に死去したと結論付ける[34]。
ハーン即位を認めない説
[編集]しかし岡田説の発表後、中国内モンゴルにて『アルタン・ハーン伝』という新出史料が発見され、本書にある「ついに赤い丑年に44歳で、ダヤン・ハーンは無常のことわりによってお亡くなりになったのであった」という記述が注目されるようになった[35]。この記述に基づくとダヤン・ハーンを1474年(甲午/成化10年)出生、1480年(庚子/成化16年)即位、1517年(丁丑/正徳12年)死去となり、『アルタン・トプチ』の1473年(成化9年/癸巳)出生、1479年(成化15年/己亥)即位、1516年(正徳11年/丙子)死去、とも1年違いでよく合致する。『アルタン・ハーン伝』『アルタン・トプチ』はモンゴル年代記の中でも成立が早いということもあり、以後『アルタン・ハーン伝』もしくは『アルタン・トプチ』に基づく解釈が主流となった[35]。
例えば宝音徳力根は『アルタン・トプチ』に「ボルフ・ジノンが亥年に大位に就いた(yeke oru saγuba)」というのは「ジノン位に就いた」という事であると解釈し、亥年は1467年(丁亥/成化3年)のことであると論じた[36]。そして、1467年がモーラン・ハーン死去の翌年であることに注目し、『アルタン・トプチ』が「大位に就いた」と表現するのは、ハーン位が一時的に空位となったことを糊塗するためであったと指摘する[36]。さらに、前述のとおり『明憲宗実録』成化十二年十月条に基づいて1476年=成化12年がボルフ・ジノンの没年であると仮定し、『蒙古源流』の「ボルフ・ジノンが死去した時点でダヤン・ハーンは4歳であった」との記録をあわせると、ダヤン・ハーンは1473年(成化9年/巳年)生・1479年(成化15年/亥年)即位・1516年(正徳11年/子年)卒となり、『アルタン・トプチ』の記述と合致する。よって、Buyandelgerは「1476年=成化12年、ダヤン・ハーンが4歳の時、ボルフ・ジノンはハーン位に就くことなく殺された」という説を支持している[37]。
系図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 明の于謙の奏議(『于公奏議』)には景泰3年9月に「トクトア・ブハの弟の息子が亡くなった(「脱脱不花王的弟男無了)」と記されており、この時トクトア・ブハの甥のハルグチュク(バヤン・モンケの父)が死去していたことが確認される。トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)は同年初頭に死去しているため、「タイスン・ハーンの死後、まもなく弟のアクバルジ・ジノンとその息子のハルグチュクもエセンに殺された」とするモンゴル年代記の記述とも合致する。これによって、『蒙古源流』の伝えるバヤン・モンケの壬申/1452年出生が確認される(Buyandelger 2001, p. 2.)
- ^ 『蒙古源流』ではウルートとしている。
- ^ 成年間初頭には「孛羅乃」「孛羅」「孛羅忽」という人名が散見する。「孛羅乃」は斉王ボルナイ、「孛羅忽」はボルフ・ジノンに比定されているが、「孛羅」をどちらで解釈するかが研究者によって分かれている。なお、和田清は「孛羅乃」「孛羅」「孛羅忽」が全て同一人物であると論じたが、谷口ら後続の研究者によって否定されている。
- ^ 『蒙古源流』では癸未の年(1463年)とするが、これは後から誤った十干を追加したもので、一回り後の「未年=乙未(1475年)」とすれば合致する。
- ^ 『蒙古源流』では丁亥の年(1467年)とするが、これは後から誤った十干を追加したもので、一回り後の「亥年=己亥(1479年)」とするのが正しい。なお、マンドゥールン・ハーンが1479年=成化15年に死去したというのは、漢文史料側の記述とも合致する。
- ^ 『蒙古源流』では29歳の戊子の年(1468年)とするが、これは後から誤った十干を追加したもので、一回り後の「子年=庚子(1480年)」とするのが正しい。
- ^ 『蒙古源流』では31歳の庚寅の年(1470年)とするが、これは後から誤った十干を追加したもので、一回り後の「寅年=壬寅(1482年)」とするのが正しい。ただし、岡田英弘は『明実録』成化23年の記事に「小王子已死」とあるのを重視して、1482年没は誤りで、1487年(成化23年)没が正しいと論じている。
出典
[編集]- ^ 吉田 1998, p. 224.
- ^ a b 岡田 2010, p. 292.
- ^ a b 岡田 2004, p. 205-207.
- ^ 『明英宗実録』天順三年正月辛卯(八日),「迤北伯顔王部属達子阿木敦来降、命為頭目送南京錦衣衛撥房居住月給米二石」
- ^ 『明英宗実録』天順四年七月己丑(十五日),「勅鎮守甘粛太監蒙泰等曰、今得寧夏総兵等官奏報、虜酋孛羅・毛里孩・斡羅出・肯者・伯顔領一万五千人在荒泥山駐札、要往寧夏迤西虜掠……」
- ^ Buyandelger 2001, pp. 7–8.
- ^ a b c d e f 和田 1959, p. 383.
- ^ 和田 1959, p. 384.
- ^ 『明憲宗実録』成化六年十一月甲午(二十日),「平虜将軍総兵官撫寧侯朱永奏、虜酋斡羅出潜拠河套、出没辺境。近孛羅又率窮寇、作筏渡河、併而為一、賊勢愈衆。……」
- ^ 和田 1959, p. 382.
- ^ 谷口 1980, p. 299.
- ^ 『明憲宗実録』成化七年五月甲午(二十二日),「平虜将軍総兵官撫寧侯朱永等奏、迤北癿加思蘭同孛羅太子、共遣使臣兀馬児平章等三百三十人、備馬四百三十匹入貢到辺。……」
- ^ 『明憲宗実録』成化七年七月丙子(五日),「迤北孛羅忽并癿加思蘭、遣使臣完者都貢馬……」『明憲宗実録』成化七年七月壬午(十一日),「虜酋孛羅忽等上書、乞還其俘獲族属。兵部言……」
- ^ 『明憲宗実録』成化七年十月癸酉(五日),「兵部奏、来降夷人帖木児赤、原係孛羅忽太子部下知院、已注広州前衛副千戸……」
- ^ 谷口 1980, p. 305.
- ^ 白石 2005, p. 13-16.
- ^ 白石 2005, p. 16-18.
- ^ 『明憲宗実録』成化八年十二月丙子(十四日),「平虜将軍総兵官武靖侯趙輔奏……但比者伝聞、孛羅忽為小石所殺、癿加思蘭順河亡走、儻此虜渡河而西越至鎮番、則甘涼必有侵軼之患。……」
- ^ 『明憲宗実録』成化九年五月庚子(十日),「命来降迤北満都魯太子・平章斡失帖木児、為広東広州前衛正千戸」
- ^ 『明憲宗実録』成化九年十月壬申(十四日),「……奏云、九月十二日満都魯・孛羅忽・癿加思蘭三酋、自河套出、分寇西路。……」
- ^ 谷口 1980, p. 309.
- ^ 『明憲宗実録』成化九年十一月甲午(七日),「……十月十一日、孛羅忽・満都魯・癿加思蘭入寇韋州、臣方自境外破虜老営而還。……」
- ^ a b c 岡田 2004, p. 214.
- ^ 岡田 2010, pp. 228–229.
- ^ 『明憲宗実録』成化十五年五月庚午(十五日),「福餘衛都指揮扭歹等奏報。迤北癿加思蘭、為其族弟亦思馬因所殺。……成化初、入黄河套、与孛魯忽・満都魯・猛可・斡羅出等相会楡林辺患。従此起既而同孛魯忽将猛可并其頭目殺死斡羅出覚而避之。癿加思蘭乃与衆商議、欲立孛魯忽太子為可汗、而以己女妻之、因立己為太師。孛魯忽不敢当、譲其叔満都魯、癿加思蘭乃以女妻、満都魯而立為可汗、己為太師……」
- ^ 岡田 2004, p. 215.
- ^ 岡田 2004, p. 214-216.
- ^ 『明憲宗実録』成化十二年十月戊戌(二十八日),「詔兵部……時有被虜者還報、北虜讐殺及欲遣人入貢。又云、満都魯与癿加思蘭、殺孛羅忽及満都知院・猛可等三人、前後事情不同。兵部言……」
- ^ 『明憲宗実録』成化十四年七月辛酉(二日),「兵部尚書余子俊奏、宣府送来降虜乃買忽至訳知、虜酋満都魯・癿加思蘭等、事情不一、縁此虜占拠河套退遁未久。又与瓦剌斡失帖木児・猛可等讐敵、遠処沙漠、亦非本心。今聞、孛羅忽已為癿加思蘭所殺、斡失帖木児已死……」
- ^ 谷口 1980, p. 310.
- ^ a b 岡田 2004, p. 218-219.
- ^ 岡田 2010, pp. 238–239.
- ^ 岡田 2010, pp. 240–241.
- ^ 岡田 2010, pp. 241–242.
- ^ a b 吉田 1998, pp. 247–248.
- ^ a b Buyandelger 2000, p. 152.
- ^ Buyandelger 2000, pp. 2–3.
参考文献
[編集]- 羽田明、佐藤長 他訳注『騎馬民族史 正史北狄伝』 3巻、平凡社〈東洋文庫〉、1973年3月。ISBN 9784582801972。
- 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年3月。ISBN 978-4759910827。
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年11月。ISBN 978-4894347724。
- 谷口昭夫「斉王ボルナイとボルフ・ジノン」『立命館文學 (三田村博士古稀記念東洋史論叢)』1980年。
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 宝音德力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6巻、2000年。
- 宝音徳力根Buyandelger「達延汗生卒年・即位年及本名考辨」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第6巻、2001年。