イリンジバル
イリンジバル ᠷᠢᠨᠴᠢᠨᠪᠠᠯ | |
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モンゴル帝国第14代皇帝(大ハーン) | |
![]() 元寧宗嗣孝皇帝像(国立故宮博物院所蔵) | |
在位 | 1332年10月23日 - 12月14日 |
戴冠式 |
1332年10月23日 大都 |
出生 |
泰定3年3月29日 (1326年5月1日) |
死去 |
至順3年11月26日 (1332年12月14日(6歳没)) 大都 |
配偶者 | ダリエテミシ |
家名 | クビライ家 |
父親 | コシラ |
母親 | バブシャ |
寧宗 奇渥温懿璘質班 | |
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元 | |
第10代皇帝 | |
王朝 | 元 |
諡号 | 沖聖嗣孝皇帝 |
廟号 | 寧宗 |
陵墓 | 起輦谷(モンゴル高原) |
年号 | 至順 : 1332年 |
リンチンバル(モンゴル語: ᠷᠢᠨᠴᠢᠨᠪᠠᠯ, ラテン文字転写: Rinčinbal)は、モンゴル帝国の第14代大ハーン(元としては第10代皇帝)。読みは、リンチェンパル(チベット語: རིན་ཆེན་དཔལ།, ラテン文字転写: rin chen dpal)、イリンジバル(中国語: 懿璘質班, ラテン文字転写: Irinjibar)。
生涯[編集]
明宗コシラの次男。母のバブシャはナイマン部の出で、コシラが即位以前、アルタイ山脈の西に亡命していたときに生まれた。明宗が不審な急死を遂げて叔父の文宗トク・テムルが即位すると、鄜王に封じられた。
至順3年8月(1332年9月)に文宗が崩御すると、文宗は次の大ハーンに明宗の子を立てるように遺言した[1]。文宗はオングチャドにおいて兄の明宗を毒殺させたことを心から悔いていたが故に明宗の子を自らの後継者とするよう遺言したのだという[2]。
文宗を擁立して専権を振るっていた中書右丞相のエル・テムルは明宗を毒殺したと言われており、文宗の皇后であったブダシリにその次男のエル・テグスを擁立することを提案した[3]。エル・テムルの力が増すことを恐れたブダシリは、文宗の遺言に従って明宗の子を擁立することを望んだ[4]。
明宗の長男であったトゴン・テムルは都から遠く離れた広西に流されており、10月にイリンジバルがエル・テムルによって大ハーンに擁立され、ブダシリが皇太后として後見した。同年12月、寧宗はわずか43日の在位で急逝した[1][3][4]。
エル・テムルは改めてブダシリにエル・テグスの即位を要請したが、エル・テグスが幼いことを理由に再び固辞された[3]。既に13歳になって分別のつく年頃であるトゴン・テムルを即位させるのにエル・テムルは難色を示した[1]が、最終的にトゴン・テムルが呼び戻され、大ハーンに即位した。
后妃[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社〈講談社現代新書〉、1996年6月。
- 外山軍治 「寧宗(元)」 『アジア歴史事典』 7巻 平凡社、1960年。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫〉、1971年6月。
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