劉国傑

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劉 国傑(りゅう こくけつ、1234年 - 1305年)は、モンゴル帝国に仕えた女真人将軍の一人。青年期は益都淄萊等路行軍万戸府に属して南宋との戦いの最前線で武功を挙げ、南宋の平定後は帝国内各地で起こった内乱の討伐に従事した。

概要[編集]

出自[編集]

劉国傑は女真人の鳥古倫氏に属していたが、鳥古倫氏は中原に入って以後劉氏と改めたことから、劉姓を名乗っていた[1]。父親の劉徳寧はビチクチとしてチンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンに仕え、オッチギン家の投下領であった益都路に赴任し、管領益都軍民公事の地位を授かっている[1][2]。劉国傑は容貌魁偉にして騎射を得意としたため、若くして従軍し隊長に抜擢された[1]至元6年(1269年)より襄陽城の包囲戦が始まると、張弘範の指揮する益都淄萊等路行軍万戸府に属し、益都新軍千戸に任命されて南宋との戦いに動員されることとなった[3]。同じく女真人で、同時期に益都淄萊等路行軍万戸府に属し千戸となった李庭とは後年に至るまで戦場をともにすることとなる[3]

襄陽・樊城の戦い[編集]

南宋の大軍が劉国傑の駐屯する万全堡を攻めてきた時、劉国傑は僅か数百の兵でこれを破り斬首4000級余りを得たため、これ以後劉国傑の名声は高まった。その後、樊城を優先して陥落させる方針が取られると、劉国傑は樊城の外城攻めに活躍し、火砲で負傷したまま奮戦した功績から武略将軍の地位を授けられた。更に、内城攻めにも負傷したまま参戦し、数か所に傷を負いながら戦い抜き樊城陥落に大きく貢献した。襄陽城のも陥落した後、この奮戦ぶりを聞いたクビライは劉国傑を召し出し、武徳将軍・管軍総管の地位を授けるとともに、銀100両・錦衣・弓矢を下賜した[4]

南宋領侵攻[編集]

襄陽城・樊城の陥落により、至元11年(1274年)からは遂にバヤンを総司令とする南宋領全面侵攻が始まった。劉国傑もこれに従軍し、郢州で南宋水軍に進路を阻まれた時には、バヤンの命を受けて黄家湾堡を奪取することで漢水への進路を確保し、この功績により武節将軍とされた。その後も沙洋・新城の平定、丁家洲の戦いに活躍し、遂に益都新軍万戸へと昇格した[1]。その後、アジュ率いる軍団に属して淮南方面に進み、南宋軍の兵道を扼するために劉国傑は揚子橋を占領した。南宋側は1万の兵で以て夜襲でこれを奪取せんと図ったものの、劉国傑は南宋軍を撃退し逆に都統の張林を捕虜とすることに成功した。その後、南宋の張世傑が焦山を奪取せんと出撃してきたが、万戸の劉深がその後背をつき、劉国傑と董文炳が左右から挟撃することによって張世傑は大敗を喫した。これらの功績により劉国傑は懐遠大将軍の地位と、「バアトル(覇都)」の号を授けられた。劉国傑は次男であることから元々「劉二」と通称されており、これ以後は「劉二霸都」として知られるようになる[5]

シリギの乱[編集]

南宋の首都臨安が陥落すると、劉国傑は僉書西川行枢密院事に任じられ、淮南の兵を率いて蜀(四川)方面の平定を命じられた[1]。ところが、劉国傑が出立する前に西北方面でシリギの乱という大事件が勃発したとの報が届いたため、劉国傑は自らの軍団(益都新軍万戸)を甥の劉漢臣に委ね、急遽モンゴル高原に派遣されることになった[1]。至元14年(1277年)8月に先行したバヤン・トトガクバイダルらがオルホン河の戦いで勝利を収め、シリギトク・テムルら反乱軍はイルティシュ川方面に撤退していたが、至元15年(1278年)4月に侍衛親軍に属する左・右・中三衛の兵1万を率いて劉国傑はモンゴル高原に赴任した[6]。至元16年(1279年)に劉国傑がカラコルムに到着した頃、トク・テムルが再度カラコルムへの侵攻を図っているとの情報が入ったが、劉国傑は逆に今こそがトク・テムルのアウルク(後方基地)を攻撃する好機であると語り軽騎兵を選抜して出撃した[6]。劉国傑の読みは当たり、不意を突かれたトク・テムル軍は潰走し、劉国傑はこれを謙河(イェニセイ川)まで追撃したことでトク・テムル軍の多くがこの地で溺死した[7]。至元18年(1280年)、トク・テムルがモンケ家のサルバンとともに再度攻めてきたが、劉国傑はオイラト人のベクレミシュと協力してこれを撃退し、以後反乱軍は内紛に陥って自壊していった[8]。「シリギの乱」が事実上鎮圧されたことにより、同年中に輔国上将軍の地位を授けられ、劉国傑は江南方面に戻ることとなった[9]

征東行省時代[編集]

至元19年(1282年)、日本遠征(弘安の役)が失敗に終わったため、怒ったクビライは征東行省の大小の将校を罷免し、劉国傑を征東行省左丞に任命した。しかし、召喚された劉国傑は「遠征失敗の罪は元帥にのみあります。その他の諸将は元の職に復帰させれば、彼らは奮い立って先の恥を雪ごうとするでしょう」と進言し、クビライはこの進言を採用した。その後、建寧で黄華の叛乱が起きると、劉国傑は征東行省の兵を江淮に集めて参政のバヤンとともに叛乱を討伐した。劉国傑が叛乱軍の拠点である赤巖寨を陥落させたことで黄華は自殺し、叛乱軍は瓦解した。福建行省から援軍として派遣されてきた左丞のクラチュは残党を探し出し殲滅しようと図ったが、劉国傑はこれを諌めて自発的に投降するよう呼びかけたという[10]。至元22年(1285年)には征東行省から僉書沿江行枢密院に転任となっている[11]

湖広行省時代[編集]

更に、至元23年(1286年)には湖広地方が重要な地点でありながら盗賊が多発していることを理由に、劉国傑は湖広行省左丞に任命された。任地についた劉国傑は早速賊の李万二を捕らえ、翌1287年(至元24年)には広東で起こった鄧太獠らの叛乱も鎮圧している。至元25年(1288年)、湖南方面で詹一仔なる盗賊が衡州・永州・宝慶・武岡一帯の人々を糾合して官軍を寄せ付けなかったため、劉国傑が詹一仔を討ってこれを平定した。劉国傑の部下は投降した者達の処刑を求めたがこれを退け、衡州に清化・永州に烏符・武岡に白倉という屯田をそれぞれ設け投降した者達を配することで良民となすことに成功している[12]

至元26年(1289年)には閆太獠を清遠で攻めて捕虜とし、また厳太獠を敗走させた。4月、曾太獠を金林で敗走させ、劉国傑軍は深く山中に入って賊衆5000人を尽く殺した。7月、賀州に駐屯したが軍中に熱病が流行ったため、劉国傑は自ら兵を見舞い医薬を用いたという。しかし劉国傑自身も病にかかったことから、軍とともに道州に移ったところ、広東の盗賊陳太獠が道州に攻めてきたため、逆にこれを破って捕虜とする功績を挙げている[13]

至元27年(1290年)、江西の龍泉で盗賊が起こったため、劉国傑は討伐を配下の諸将に命じた。諸将は 「これは他の行省で活動している盗賊でありませんか」と述べたが、劉国傑はこれを放置すれば解決は困難となると述べ、軽兵を選んだ上で旗や太鼓なども持たず一昼夜にしての下まで至った。賊は数千の兵を有していたが劉国傑の奇襲に対応できず、劉国傑は数十騎でもって敵陣を陥落させ斬首500余りを得て賊軍を潰走させた。囚われていた民を救い出し、日が落ちると劉国傑は直ちに兵を収めて撤収した。現地の民は状況を把握できず困惑していたが、翌日に劉国傑が名を名乗ると、驚いた民たちは劉国際を神と見なし〜と決別したという。その後、劉国傑は霧に乗じて賊の巣窟を攻撃し、多くの者を捕縛・殺害し、遂に桂東に帰還した。2月、龍泉の盗賊が再び酃県で略奪を行ったため、劉国傑は酃県に赴き、軍を三つに分けて賊の根拠地である大井山に迫った。道は険しく劉国傑軍は馬を降りざるを得なかったが、この頃大雨であったために賊側も防備を整えられず、劉国傑は難なく賊を平定して帰還した。8月、永州の盗賊の李末子が全州を略奪したが、これも劉国傑によって討伐され、それまでの功績により湖広右丞に昇任となった[14]

大越国再征[編集]

至元28年(1291年)に湖広等処行枢密院、ついで同副使に任命され、武昌に移った。同年秋、広東で盗賊が再度起こったため、劉国傑が討伐に派遣された。至元29年(1292年)より黄勝許の討伐戦が始まったが、黄勝許配下の賊は剽悍な上飛鳥のように巖洞・篁竹を行き来し、毒矢を用いたことから難敵と見なされていた。劉国際は自ら兵を率いて奮戦し賊を清走させたが、賊は交趾大越国陳朝)領に逃げ込んでしまったため、劉国傑は柵を築き山を切り開くことで時間をかけて進出せざるを得なくなった。およそ2年をかけてようやく賊は平定され、黄勝許のみは単身大越に逃れたが、その妻子は捕らえられて殺された。劉国傑は書状を大越国に送って黄勝許の引き渡しを求めたが、大越国は遂に黄勝許を隠し通し渡さなかったという。また、至元30年(1293年)に入朝した時にはクビライが「湖広は重地であり、劉のみがこれを鎮撫するに足る。 他の者が能う所ではない」と述べ、他の官に移ることを禁じたという逸話が伝えられている[15]

成宗の治世[編集]

至元31年(1294年)、成宗オルジェイトゥ・カアンが即位すると、行枢密院が衡州に設置され、その副使に任命された、これより先、泊崖洞の田万頃・楠木洞の孟再らは叛乱を起こしたものの討伐を受けて投降し、泊崖洞を溶州に改名し田万頃をその知州事に任命していた。しかし1294年に田万頃は再び叛旗を翻し、討伐軍が起こられたが失敗し、オルジェイトゥ・カアン即位に伴う恩赦も伝えられたが従わず、ここに至り劉国傑が討伐に派遣されることとなった。9月、劉国傑は辰州に至るとまず明溪の賊魯万丑を討伐しようとしたが、緒戦で千戸崔忠・百戸馬孫児らが戦死した。10月、桑木溪まで至ると魯万丑が1千の配下を率いてきたが、劉国傑軍によって撃退された。その翌日、魯万丑は前日の倍の軍勢を率いてきたが、百戸の李旺が奮戦して敵陣を陥落させたことにより、劉国傑軍は勝利を収めた。その後施溶に至ると、配下の武将の田栄祖の献策に従ってまず強力な支城である石農次・三羊峯から攻略を行い、遂に施溶を陥落させることに成功した。これにより、遂に逃げ場を失った万頃を捕殺することに成功した[16]

元貞元年(1295年)、栄禄大夫・湖広行省平章政事に任じられた。劉国傑の駐屯する辰州・澧州では溪洞の諸蛮に接することから、宋代には民から屯田兵を募り傜役を免ずる代わりに防衛を担わせる制度があったが、南宋の滅亡に伴ってこの制度は廃止されてしまっていた。そこで劉国傑はこの制度を復活させ、広東・江西地方で盗賊が横行する地域38ヶ所に将士を分屯させて守り、この施策によって盗賊による被害は終息したという[17]

大徳5年(1301年)、羅鬼女子蛇節が叛乱を起こし、烏撒・烏蒙・東川・芒部の諸蛮がこれに呼応して貴州を陥落させたため、劉国傑が四川・雲南・思播の兵を糾合してこれを討伐するよう命じられた。賊兵は剽悍にして健馬を多く有しており、劉国傑軍は一時劣勢となったが、劉国傑は策を講じて兵の持つ盾に釘を打たせた。劉国傑軍が盾を棄てて逃れると、賊軍の馬は盾に打ち付けられた釘を踏み抜いて倒れ、逆襲した劉国傑軍の攻撃を受けて賊軍は大敗した。その後、賊軍は雪辱を果たすために劉国傑に戦いを挑んだが、劉国傑は敢えてこれに応じず、賊軍の意気が衰えた時期を見計らって攻撃をしかけ大勝利を収めた。大徳7年(1303年)春には蛇節・宋隆済・阿女ら賊の首魁を捕縛・処刑し、ここに至り西南方面の賊は平定されるに至った。中央に帰還すると宴席が設けられ、光禄大夫の地位と、多額の下賜品が与えられた[18]

晩年[編集]

大徳8年(1304年)に劉国傑は郷里に戻ったが、長年辺境で軍務を務めた心労から病を得てしまった。平草政事ブリルギデイの見舞いも受けたが、大徳9年(1305年)2月に72歳にして亡くなった。息子にトゴン(脱歓)がおり、湖広行省平章政事の地位を得てモンケ・カアンの孫娘を娶っている[19]。なお、ジャワ遠征に従軍したことなどで知られる高興は劉国傑の死後、「水上では朱清張瑄らがいなければ、陸では劉二(劉国傑)がいなければ、我は死んでいたであろう」と語ったと伝えられている[20]

益都淄萊等路行軍万戸府[編集]

襄陽城包囲戦の開始にあわせ、張弘範を司令官(万戸=トゥメン)とした上で、李璮の率いていた軍団を母体として至元6年(1269年)に成立した[21]。略して益都行軍万戸府とも[21]。至元12年(1275年)の臨安陥落後、張弘範が亳州万戸に転任になったことにより解散となった[3]。解散後はこの万戸府に属していた劉国傑・李庭・鄭祐らがそれぞれ新たな万戸府の長として独立し、劉国傑・劉漢臣父子は益都新軍万戸府を率いるようになった[1]。益都新軍万戸府の駐屯地は史書に明記されていないが、劉国傑が主に湖広行省で活動していたことから、湖広行省内の都市であったことは疑いない[22]

  • 万戸:張弘範
  • 千戸:劉国傑→益都新軍万戸府の万戸に昇格
  • 千戸:李庭→益都新軍下万戸府の万戸に昇格
  • 千戸:鄭祐→益都旧軍万戸府の万戸に昇格

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 陳 2015, p. 50.
  2. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「劉国傑字国宝、本女真人也、姓烏古倫、後入中州、改姓劉氏。父徳寧、為宗王斡臣必闍赤、授管領益都軍民公事」
  3. ^ a b c 陳 2015, p. 49.
  4. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「国傑貌魁雄、善騎射、膽力過人、少従軍漣海、以材武為隊長。至元六年、選其兵取襄陽、以益都新軍千戸従張弘範戍万山堡。宋兵窺伺、衆出取薪、大出兵来攻堡、国傑等以数百人敗之、斬首四千餘級、由是有名。従略荊南、抵帰峽、転戦数千里、還、破宋兵襄陽下。従攻樊城、破外城、火砲傷股、裹創復戦、平其外城、授武略将軍、佩金符。従破張貴兵櫃門関、戦甚力。再攻樊城、被傷数処、血戦、竟破之。襄陽降。世祖聞其勇、召見、遷武徳将軍・管軍総管、賜銀百両・錦衣・弓矢以寵之」
  5. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「従伯顔南征。十一年、次郢州。宋兵扼漢水、不得下、伯顔謀取黄家灣堡以入漢、国傑先登、拔之、加武節将軍。従破沙洋・新城、敗孫虎臣丁家洲、戦甚力、進万戸。復従阿朮取淮南、別軍揚子橋、扼宋兵道。宋以万衆夜奪堡、擊走之、擒其都統張林。宋将張世傑盛兵出焦山来禦師、施鉄繩、聯戦船、碇江中、以示必死。阿朮率諸軍進戦、万戸劉琛、由江南繞其後、国傑与董文炳、左右夾擊之、焚其戦船、世傑軍大潰、追奔圌山、奪黄鵠白鷂船数百艘。帝壮之、詔加懐遠大将軍、賜号覇都、国傑行等二、因呼之曰劉二霸都而不名。霸都、華言敢勇之士也」
  6. ^ a b 村岡 1985, p. 321.
  7. ^ 村岡 1985, pp. 321–322.
  8. ^ 村岡 1985, pp. 323–324.
  9. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「宋亡、入朝、加僉書西川行枢密院事、選淮南兵使将之平蜀。未行、会北辺有警、加鎮国上将軍・漢軍都元帥、将衛兵、定北方。冬、召還、帝親解衣加玉帯賜之。十五年、復将左・右・中三衛兵、戍北辺、詔『有不用命者、斬之以聞』。十六年、諸王脱脱木反、寇和林。国傑度其衆悉至、営中必虚、選軽騎襲之、獲其衆万計。脱脱木屢戦不利、又殘暴、失衆心、衆殺之来降。十八年、加輔国上将軍」
  10. ^ 植松 1997, p. 388.
  11. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「十九年、征東兵無功而還、帝怒、将尽罷大小将校、召国傑為征東行省左丞。既至、帝語之故、国傑曰『罪在元帥耳、倘蒙聖慈、復諸将之職、彼必人人思奮、以雪前耻矣』。帝従之、尽復其官、以属国傑征日本。会黄華反建寧、乃命国傑以征東兵会江淮参政伯顔等討之。国傑破赤巖寨、黄華自殺、餘衆皆潰。福建行省左丞忽剌出将兵来会梧桐川、欲搜賊潰去者尽殺之、国傑曰『首乱者、華也、餘皆脅従、招諭不帰、誅之未晚。』未幾、衆果出降。二十二年、罷征東省、除僉書沿江行枢密院、改僉院」
  12. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「二十三年、朝廷以湖広重地、且多盜、拝本省左丞。国傑至、首平湖南盜李万二。明年、広東盜起、寇肇慶、其魁鄧太獠居前寨、劉太獠居後寨、相依以為固。国傑趨擣後寨、破之、遂拔前寨、擒斬二人、捕民結盜者、皆杖殺之。加資徳大夫。二十五年、湖南盜詹一仔、誘衡・永・宝慶・武岡人、嘯聚四望山、官軍久不能討。国傑破之、斬首盜、餘衆悉降。将校請曰『此輩久乱、急則降、降而有釁、復反矣、不如尽阬之』。国傑曰『多殺不可、況殺降耶。吾有以処之矣』。乃相要地為三屯在衡曰清化、在永曰烏符、在武岡曰白倉、遷其衆守之、每屯五百人、以備賊、且墾廃田榛棘、使賊不得為巢穴。降者有故田宅、尽還之、無者、使雜耕屯中、後皆為良民。有詔討江西諸盜、国傑趨赴之。十一月、破蕭太獠於陳古水、斬数百人、進平懐集諸寨賊」
  13. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「二十六年春、東入肇慶、攻閆太獠於清遠、還攻蕭太獠於懐集、擒之、復攻走厳太獠。四月、攻曾太獠於金林、又破走之。賊深入保険、国傑鑿山而入、賊衆五千人、掩殺略尽。七月、次賀州、兵士冒瘴、皆疫、国傑親撫視之、療以医薬、多得不死。会国傑亦病、乃移軍道州。広東盜陳太獠寇道州、国傑討擒之、遂攻拔赤水賊寨」
  14. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「二十七年、江西盜起龍泉、下令往擊之、諸将交諫曰『此他省盜也』。国傑曰『縦寇生患、患将難図、豈可以彼此言耶』。乃選軽兵、棄旗鼓、去纓飾、一日夜趨賊境。賊衆数千逆戦、望見軍容不整、曰『此郷丁也』。易之。国傑以数十騎陷陣、衆従之、賊大敗、斬首五百餘級、奪所掠男女、日暮、忽收兵去。堡中民望見、怪之、莫知其誰。明日、又忽至、召堡民帰其男子曰『吾劉二霸都也』。民皆驚以為神、因告別盜鍾太獠居南安十八耒。国傑乗霧、突入其巢、賊衆驚乱、自相蹂踐、官軍搏之、自旦至午、所擒殺甚衆、還兵桂東。二月、龍泉盜復寇酃県、国傑遂還酃。賊退保大井山、乃分軍三道趨之、道険、棄馬而入。時天大雨、賊不為備、尽掩殺之、還鎮道州。八月、永州盜李末子千七寇全州、敗官兵、殺郡長官土魯。国傑進討、擒之、梟首而還。以前後功、加湖広右丞」
  15. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「二十八年、置湖広等処行枢密院、遷副使、還軍武昌。秋、広東盜再起、国傑復出道州。時知上思州黄勝許恃其険遠、与交趾為表裏、寇辺。二十九年、詔国傑討之。賊衆勁悍、出入巖洞篁竹中如飛鳥、発毒矢、中人無愈者。国傑身率士奮戦、賊不能敵、走象山、山近交趾、皆深林、不可入、乃度其出入、列柵囲之、徐伐山通道、且戦且進、二年、拔其寨。勝許挺身走交趾、擒其妻子殺之。国傑三以書責交趾索勝許、交趾竟匿不与。夏、師還、尽取賊巢地為屯田、募慶遠諸撞人耕之、以為両江蔽障。後蛮人謂屯為省地、莫敢犯者。詔遣使即軍中以玉帯賜之。三十年、入朝、帝謂朝臣曰『湖広重地、惟劉二霸都足以鎮此、他人不能也』。命無遷他官。俄議問罪交趾、加湖広安南行平章事、以諸王亦吉列台為監軍征之。未行、会帝崩、乃止」
  16. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「成宗即位、復置行枢密院於衡州、仍除副使。初、黔中諸蛮酋既内附復叛、又巴洞何世雄犯澧州、泊崖洞田万頃・楠木洞孟再師犯辰州、朝廷嘗討降之。升泊崖為施溶州、以万頃知州事、三十一年、万頃復叛、攻之、不能下。至是、帝即位、赦天下、并赦万頃等、亦不降、帝以命国傑。九月、国傑馳至辰、進攻明溪賊魯万丑、擁衆自上流而下、千戸崔忠・百戸馬孫児戦死。十月、進兵桑木溪、万丑復以千人拒戦、擊却之。明日、万丑倍衆来攻、国傑鼓之、百戸李旺率死士陷陣、衆軍齊奮、賊敗、遂破其巣、焚之。進攻施溶、部将田栄祖請曰『施溶、万頃之腹心、石農次・三羊峯、其左右臂也、宜先断其臂、而後腹心乃可攻』。国傑曰『甚善』。麾諸軍攻石農次、賊不能支、棄寨遁、遂拔施溶、擒万頃、斬之。復窮捕其党、攀崖緣木而進、凡千餘里」
  17. ^ 元貞元年、即軍中加栄禄大夫・湖広行省平章政事。辰・澧地接溪洞、宋嘗選民立屯、免其徭役、使禦之、在澧者曰隘丁、在辰者寨兵、宋亡、皆廃、国傑悉復其制、班師。継又経畫茶陵・衡・郴・道・桂陽、凡広東・江西盜所出入之地、南北三千里、置戍三十有八、分屯将士以守之、由是東尽交広、西亘黔中、地周湖広、四境皆有屯戍、制度周密、諸蛮不能復寇、盜賊遂息。六月、入朝、賜玉帯・錦衣・弓矢、台臣言国傑在軍中每以家貲賞将士、帝命倍償之、部曲有功者、各遷官」
  18. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「大徳五年、羅鬼女子蛇節反、烏撒・烏蒙・東川・芒部諸蛮従之皆叛、陷貴州。詔国傑将諸翼兵、合四川・雲南・思播兵以討之。賊兵勁利、且多健馬、官軍戦失利。国傑令人持一盾、布釘其上、俟陣合、即棄盾偽遁、賊果逐之、馬奮不能止、遇盾皆倒、国傑鼓之、賊大敗。既而復合衆請戦、国傑不応、数日、度其気衰、一鼓破走之、追戦数千里。七年春、擒斬蛇節・宋隆済・阿女等、西南夷悉平。詔領其将士入見、張宴享之、賞賜甚厚。進光禄大夫、償其賞士金一千九百両・鈔万五千錠、将士遷官有差、命還益都上冢」
  19. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「八年、還鎮。国傑久行辺、患瘴、至是病篤。平章卜隣吉台率僚属問之、国傑曰『交賊不臣、若病幸小愈、得滅此虜、則死無憾矣。』問以家事、不言。二月卒、年七十二。国傑性雄猛、視死如帰、嘗語人曰『吾為国宣力、雖身棄草野不恨、何必馬革裹屍還葬哉』。且善推誠得士心、故能立功如此。訃聞、帝深悼惜、贈推忠效力定遠功臣・光禄大夫・司徒・柱国、封齊国公、諡武宣。子脱歓、湖広行省平章政事、尚憲宗孫女」
  20. ^ 植松 1997, pp. 332–333.
  21. ^ a b 陳 2015, p. 48.
  22. ^ 陳 2015, p. 51.

参考文献[編集]

  • 元史』巻162列伝49劉国傑伝
  • 新元史』巻162列伝59劉国傑伝
  • 『益都金石記』巻3「劉氏先塋之碑」
  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈東洋史研究叢刊〉、1997年。ISBN 4762925101NCID BA66427768https://id.ndl.go.jp/bib/000002623928 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2004年。ISBN 4876985227NCID BA66427768https://id.ndl.go.jp/bib/000007302776 
  • 村岡倫「シリギの乱 : 元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 陳広恩「元益都諸万戸府考」『史学月刊』第6期、2015年