陸奥 (戦艦)

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1926年改装後の陸奥
艦歴
発注
起工 1918年6月1日
進水 1920年5月31日
就役 1921年10月24日
その後 1943年6月8日に爆発、沈没
位置 北緯33度58分 東経132度24分 / 北緯33.967度 東経132.400度 / 33.967; 132.400
除籍 1943年9月1日
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:32,720トン
全長 215.80m
全幅 28.96m
吃水 9.14m
機関 ロ号艦本式専焼缶15基、同混焼缶6基
艦本式タービン4基4軸 80,000馬力
最大速 26.7ノット
航続距離 16ノット / 5,500海里
乗員 1,333名
兵装
(新造時)
45口径41cm連装砲4基
50口径14cm単装砲20門
40口径7.6cm単装高角砲4門
53cm魚雷発射管8門
兵装
(改装後)
45口径41cm連装砲4基
50口径14cm単装砲18門
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃10基
装甲 水線305mm
甲板75mm
主砲前盾305mm
主砲天蓋152mm
副砲廓152mm

軍艦 陸奥(むつ)は旧陸奥国を名前の由来に持つ、日本海軍戦艦である。日本海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月に主砲火薬庫爆発を起こして沈没した。

概要

「陸奥」は長門型戦艦の2番艦で、八八艦隊計画二番手である。姉妹艦「長門」より1年遅れた1917年(大正6年)に八四艦隊案の一艦として加賀型戦艦天城型巡洋戦艦と共に予算が承認された[1]1918年(大正7年)6月1日に横須賀海軍工廠にて起工され[2]1920年(大正9年)5月31日に進水[3]1921年(大正10年)11月22日、引渡し式が行われ軍艦籍に入った[4]。佐世保鎮守府に入籍。

1番艦の「長門」と共に、日本の力の象徴として戦前の国民に長く愛された。戦前の学校の教科書に描かれたり、男子がイメージする軍艦といえば、当時の連合艦隊旗艦である「長門」や「陸奥」であった[5]陸奥湾に入泊した際には多くの青森県民が見学に訪れている[6]。陸奥艦内神社は岩木山神社の御分神を祀っていたため、乗組員も岩木山神社に参拝した[6]

第二次世界大戦中には僚艦「長門」らと共に温存されていたが、1943年(昭和18年)6月8日、原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没。戦後に浮揚作業が行われ、1970年(昭和45年)には、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示された。大戦末期にアメリカ軍の攻撃で沈没し、終戦後に浮揚され解体処分された他の日本軍艦と異なり、艦体の一部が現在も沈没場所に残っている。

軍縮条約下での扱い

建造途中の1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約における「未完成艦は廃艦とする」との条件に含まれたことでイギリスアメリカは「陸奥」の廃棄を主張したが、日本側は完成艦であるとして存続を主張する[7]

「陸奥」の完成は10月24日とされているが、実際には測距儀など備品装備が間に合わず、公式試験を省略し、半完成のまま海軍に引き渡されている[8]。12月5日に横須賀で艤装中の「陸奥」に第三分隊長として着任した大西新蔵(海軍大尉)は、この時点でも完成度85%程度と述べている[9]。これに対してイギリス、アメリカの調査が行われているが、接待などを装った日本側の妨害工作により、未完成である確証を掴むことが出来なかった。最終的に「陸奥」の保有は認められたが、アメリカはコロラド級3隻(1隻は廃棄)の建造変更と建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認められた[10]。これにより「陸奥」は世界のビッグ7の一艦となった。

新造時

1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した[11]。「長門」とは後橋や艦橋指揮場の形状が異なり、艦首フェアリーダーの位置がやや先端に向かっている。艦首は連繁式1号機雷の連繁索を乗り切るための形状となっている[12]。菊花紋章は「長門」よりもやや高い位置にあった[13]。これは、最終時まで変わらない区別点となった。

新造時には「長門」が舷側に備える魚雷防御網ブームも新造時の「陸奥」は装備しておらず、主砲塔の測距儀も、「長門」は従来型の波式6メートルから新式の武式8メートルという2メートルほど大型化したものに変更されている[14]。高速時の艦体震動のため、四番砲塔の測距儀は信頼性が低かった[15]。「長門」と同じく、当時は艦橋に吹き込む煙突の排煙・排熱処理が問題となった。「長門」のものよりも太いファンネルキャップが取り付けられたがあまり効果はなく、1924年(大正13年)3月に屈曲煙突に改装された[16]。艦橋の10m測距儀の測距精度が向上し、煙突改造の結果は良好だった[15]

改装

1926年(大正15年)年、「長門」と共に第一次改装が決定されている。「長門」の艦首は波切りが悪く、飛沫により砲塔光学装置が曇ってしまうなど問題があり、また艦首被弾時に大浸水を招く恐れがあるため、「長門」に先んじて「陸奥」の艦首部分の形状変更が行われた[17]。このため「陸奥」の艦首は横から見ると鋭角となったが、予定通りの効果が出なかったため、「長門」は艦首形状を変更していない。

第二、第三主砲塔の測距儀は10メートル型に換装し、高角砲も従来型の8センチ砲から八九式12.7センチ四〇口径連装4基、ヴィッカース式40ミリ連装機銃2基に変更した。機関は屈曲式の煙突へと変更されている。このほか艦橋前部にも予備指揮場を設けた。羅針艦橋の拡張など、細かな改良は暫時行われた[18]

「陸奥」には1934年(昭和9年)9月5日から1936年(昭和11年)9月30日まで大改装が施された。バルジの装着、艦首部分延長水平防御改善、主砲、高角砲の仰角上げ、注排水区画を増やしている。主砲砲身は廃棄艦となった加賀型戦艦加賀」及び、「土佐」で用いられた砲身と仰角を伸ばした41センチ砲を改良した物を装備した[19]

艦橋部にも変更が加えられ、前鐘楼と呼ばれる前部艦橋は、最上部に九四式方位盤照準装置を配置、その下が主砲射撃所となり、以降下に向かって戦闘艦橋、副砲指揮所、副測的所、上部見張所、主砲前部予備指揮所、羅針艦橋、副砲予備指揮所、司令塔艦橋下部艦橋と続くようになった[20]。「陸奥」の副砲予備指揮所はガラスがない開放式で、「長門」のガラス付きと異なっている[21]

蒸気缶は艦本式21基から8本に減少したことで煙突は1本となり、燃料搭載量は増加、航続力も16ノットで8,650海里に増えたが、速力は25ノットに低下した。

1935年(昭和10年)の改装で取り外された41センチ連装砲の4番砲塔は、教材として江田島にある海軍兵学校に持ち込まれており、同地が海上自衛隊の第1術科学校・幹部候補生学校となってからも、主砲弾と共に展示されている[22]

太平洋戦争

待機と前線

太平洋戦争大東亜戦争)序盤は広島湾周辺で他の戦艦ともども温存された。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦に参加したが、部隊後方のため戦局への寄与は無く、第一航空艦隊壊滅後に呉に帰投している。米軍がガダルカナル島に上陸したことから、迎撃のため8月11日に日本を出港、8月17日にトラック泊地に進出した[23]。8月21日、近藤信竹中将の前進部隊に加わって出港、第二次ソロモン海戦に参加したが、米軍と交戦することはなかった[23]。その後10月の南太平洋海戦、11月の第三次ソロモン海戦のいずれにも参加せず、戦艦大和」と共に後方で待機した。第三次ソロモン海戦では、「陸奥」航海長が近藤中将指揮する第二艦隊旗艦・重巡洋艦愛宕」の臨時航海長を務めて米軍新型戦艦2隻(サウスダコタワシントン)と交戦している[24]

陸奥爆沈

1943年(昭和18年)1月12日に横須賀に到着した後は内地待機が続いた[23]6月8日、「陸奥」は広島湾沖柱島泊地に停泊していた。早朝から降っていた霧雨がやみ、無風で霧が泊地を覆っていたという[25]。「陸奥」の周囲には姉妹艦「長門」、戦艦扶桑」、重巡洋艦最上」、軽巡洋艦「大淀」、「龍田」、駆逐艦「若月」、「玉波」が停泊している[26]。この日「陸奥」は桂島泊地に向かう「長門」に旗艦ブイを譲るため、午後1時から繋留替えをする予定になっていた。「長門」は「陸奥」の右舷前方で一旦停止する[27]。航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、「陸奥」は三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬のうちに船体が2つに折れた。艦前部は右舷に傾斜すると、爆発後すぐに沈没した[28]。この時、360tもの重量がある三番砲塔が艦橋とほぼ同じ高さまで吹き飛んだという目撃証言もある[29]

「長門」は「陸奥」轟沈を米潜水艦雷撃によるものと判断し、増速して現場を離れると、救助艇を発進させた[30]。艦後部は爆発後しばらく艦尾部分を上にして浮いており、「長門」短艇が接舷して救助作業を行っている[31]。艦尾部分は午後5時ごろまで浮いていたが、日没後に沈没した。乗員1,474人(定員1,343名、予科練甲飛第十一期練習生と教官130名余が艦務実習で乗艦)のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だった[32]

「陸奥」の南南西約1,000mに停泊していた戦艦「扶桑」は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後「陸奥」に関する一切の発信は禁止された。また付近の航行は禁止され、死亡した乗員の家族には給料の送金を続けるなど、「陸奥」の爆沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。1943年(昭和18年)は山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、アッツ島玉砕など暗いニュースが連続しており、国民に親しまれた「陸奥」が戦わずして爆沈という最悪のニュースを内外に報道することができなかったという事情もある[33]。もっとも連合艦隊各艦にはニュースが通達され、さらに休暇上陸後に国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたと証言する戦艦武蔵」乗組員もいる[34]。呉でも「陸奥」爆沈の情報は確証を持って語られていたという[35]。「陸奥」爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入された。

爆発の原因

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われた。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされる。1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになった[36]。だが、真相は未だに明確になっていない。謎めいた「陸奥」の最期は、フィクションの題材にもなった。この他、爆発の原因はスパイの破壊工作、三式弾の自然発火による暴発、また、上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられている[37]

三式弾の自然発火は原因調査前に最も疑われた事故原因のひとつだったが、「陸奥」の隣に碇泊していた「扶桑」の艦長であった鶴岡信道大佐以下、目撃者は爆発直後に発生した爆発煙を、ニトログリセリンと綿火薬が主成分の主砲弾用九三式一号装薬によるものだったと述べ、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の比較確認実験でも、同様の証言が残されている。事故後の調査実験でも、三式弾の劣化等による自然発火は発生しないことが判明した。

更にもうひとつの意見として大高勇治(第七駆逐隊司令部付通信兵)による爆雷誤爆説がある[38]。「陸奥」爆沈の約1年半前の1941年(昭和16年)12月30日、対潜水艦哨戒出撃準備中の駆逐艦」は起爆点を水深25メートルにセットしたたまの爆雷1個を陸奥爆沈地点に落とした[39]。その際は爆発せず、引き上げられもせず放置された。落とした事実は上級士官に報告されなかった[40]。この付近は水深25メートル前後であり、「陸奥」移動時のプロペラの回転により何らかの波動が発生して爆雷が爆発したのが陸奥沈没の原因であると結論づけている[41]。大高は人為説に対して、戦艦の弾薬庫管理は厳重であること、鍵は当直将校が首にかけていること、弾薬庫には不寝番衛兵がいることなどを指摘し、仮に陸奥の艦長が敵国のスパイであったとしても、火薬庫に侵入・放火することは不可能だとして否定的である[42]。「長門」副砲手として「陸奥」の沈没を目撃した田代軍寿郎(海軍一等兵曹)も、弾火薬庫常備鍵を持った陸奥副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたこと、予備鍵は艦長室にあることを理由に挙げ、弾薬庫不審者侵入説を強く否定している[43]

引き揚げ

爆沈直後から海軍は「陸奥」引き上げを検討した。可能であれば3ヶ月の工期で再戦力化したいという希望を持っていたが、調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されたため、浮揚計画は放棄された。1944年(昭和19年)7月、陸奥の燃料庫から重油の回収作業が行われ約600トンを回収した(竹作業)。終戦後の浮揚作業は、占領下の監視の為に行われなかったが、1948年(昭和23年)に西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。この際、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こり、作業は中断した。

1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導によるサルベージが再開され、山口県大島郡周防大島町陸奥記念館では、引き揚げられた艦首部分や武装の一部、乗員の遺品などが展示されている。引き揚げ当初は1500tクレーンによって艦尾引き揚げを試みたがワイヤーが切れて断念、その後1971年(昭和46年)3月15日に艦尾の浮揚に成功した[44]。同様に第四砲塔が引き揚げられ、内部から数点の遺骨が回収された。沈没場所は浅い瀬戸内海であるが、潮流が速く、視界も悪いため潜水するのは危険な場所である。

現在は艦体の約70%が浮揚され、艦橋部と、艦首部等を除く艦の前部分などが海底に残っている。

2007年(平成19年)4月7日第六管区海上保安本部は測量船「くるしま」のマルチビーム探測機を用いて「陸奥」の船影を捉え、一般公開した。[45]

引き上げ材の利用

現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦に放射性物質のコバルト60を含ませ、ガンマ線の放出により破損箇所を検出するというシステムを使っているため、その放射性物質の一部が鉄に混入する。戦前に製鉄された陸奥の鉄材は、そのような放射性物質を含んでおらず、海中にあったことで、戦後大気中で多数おこなわれた各種核実験の影響も少ない。このため、たとえば通常の人体から発せられるごくわずかな放射線を測定する放射線測定機材に、「陸奥」の鉄を引き上げ、利用した例がある[46]

引き揚げ展示品と展示場所

船の科学館に展示される主砲
主砲尾栓部
難波八阪神社内主砲抑気具記念碑
陸奥記念館山口県周防大島町

主錨、錨鎖、スクリュー、14cm副砲、艦首先端部

靖國神社遊就館東京都千代田区

小錨、14cm副砲

船の科学館東京都品川区

41cm主砲身

聖博物館長野県東筑摩郡麻績村

41cm主砲身

立命館大学国際平和ミュージアム京都府京都市北区[47]

舷窓

高野山奥の院和歌山県伊都郡高野町

第4砲塔の基部、及び推進機軸の先端部を慰霊碑の一部として使用

日植記念館岡山県津山市

41cm主砲(一部)、12.7cm連装高角砲、副錨

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)(広島県呉市

41cm主砲身、主錨、スクリュー、主舵

入船山記念館(広島県呉市)

スクリュー、舷窓、錨鎖の一部

海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校(旧海軍兵学校広島県江田島市

菊御紋章

大山祇神社愛媛県今治市

錨鎖の一部

大谷霊園(愛媛県今治市

14cm副砲

福齊寺長崎県長崎市

主砲装甲一部及び、引き揚げられた部材(慰霊の鉄兜となっている)

艦歴

  • 1918年(大正7年)6月1日 - 八八艦隊計画の2号艦として、横須賀海軍工廠で起工された。
  • 1920年(大正9年)5日31日 - 進水。
  • 1921年(大正10年)10月24日 - 竣工。佐世保鎮守府に入籍。
  • 1927年(昭和2年)1月 - 艦首形状変更工事。
  • 1934年(昭和9年)6月 - 横須賀鎮守府へ移籍。
  • 1934年(昭和9年)9月5日 - 二カ年計画の大改装工事開始。
  • 1936年(昭和11年)9月30日 - 大改装工事完了。
  • 1942年(昭和17年)5月29日 - ミッドウェー海戦に参加。米軍と交戦することなく、6月6日に帰投。
  • 1942年(昭和17年)8月11日 - トラック島に進出する。
  • 1943年(昭和18年)1月12日 - 日本本土に戻る。
  • 1943年(昭和18年)6月8日 - 柱島沖で爆沈。
  • 1943年(昭和18年)9月1日 - 除籍。

主要目一覧

要目 新造時
(1920年)
大改装後
(1936年)
排水量 基準:32,720t
常備:33,800t
基準:39,050t
公試:43,400t
全長 215.80m 224.94m
全幅 28.96m 34.60m
吃水 9.08m 9.46m
主缶 ロ号艦本式専焼缶15基
同混焼缶6基
ロ号艦本式大型4基
同小型6基
主機 オールギアードタービン4基4軸
軸馬力 80,000shp 82,000shp
速力 26.5ノット 25.28ノット
航続距離 5,500海里/16ノット 8,650海里[48]/16ノット
燃料 石炭:1,600t
重油:3,400t
石炭:50t
重油:5,600t
乗員
主砲 四一式40.6cm連装砲4基
副砲 四一式14cm単装砲20門 同18門
高角砲 8cm単装4門 12.7cm連装4基
機銃 三年式3挺 7.7mm3挺
40mm連装2基
25mm連装10基
(後日40mmに代わって装備)
魚雷 53cm水中発射管4本
同水上4本
なし
その他兵装
装甲 水線305mm
甲板75+70mm
主砲前盾305mm
主砲天蓋152mm
副砲廓152mm
水線305mm
甲板75+127mm
主砲前盾457mm
主砲天蓋250mm
副砲廓152mm
搭載機 なし 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。

公試成績

項目 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 34,116t 87,494shp 26.728kt 1921年(大正10年)
大改装後 82,578shp 25.28kt 1936年(昭和11年)

歴代艦長

艤装員長

艦長

  • 小牧自然 大佐:1921年(大正10年)3月1日 -
  • 黒瀬清一 大佐(海兵26期):1921年(大正10年)12月1日 - 
  • 寺岡平吾 大佐(海兵27期):1922年(大正11年)12月1日 - 
  • 原敢二郎 大佐(海兵28期):1923年(大正12年)12月1日 - 
  • 米内光政 大佐(海兵29期):1924年(大正13年)11月10日 - 
  • 池田他人 大佐(海兵30期):1925年(大正14年)12月1日 - 
  • 枝原百合一 大佐(海兵31期):1926年12月1日 - 
  • 堀悌吉 大佐(海兵32期):1927年(昭和2年)12月1日 - 
  • 吉田善吾 大佐(海兵32期):1928年(昭和3年)12月10日 - 
  • 阿武清 大佐(海兵33期):1929年(昭和4年)11月30日 - 
  • 毛内 効 大佐(海兵33期):1930年(昭和5年)12月1日 - 
  • 菊野 茂 大佐(海兵34期):1931年(昭和6年)12月1日 - 
  • 和田専三 大佐(海兵34期):1932年(昭和7年)5月1日 - 
  • 安藤 隆 大佐(海兵34期):1932年(昭和7年)11月1日 - 
  • 糟谷宗一 大佐(海兵35期):1933年(昭和8年)11月15日 - 
  • 細萱戊子郎(海兵36期):1934年(昭和9年)11月15日 -
  • 春日篤(海兵37期) 大佐:1935年(昭和10年)11月15日 - 
  • 桑折英三郎 大佐(海兵37期):1935年12月2日 - 
  • 後藤英次 大佐(海兵37期):1936年(昭和11年)12月1日 - 
  • 高木武雄 大佐(海兵39期):1937年(昭和12年)12月1日 - 
  • 五藤存知 大佐(海兵38期):1938年(昭和13年)11月15日 - 
  • 保科善四郎 大佐(海兵41期):1939年(昭和14年)11月1日 - 
  • 小林謙五 大佐(海兵42期):1940年(昭和15年)11月15日 - 
  • 小暮軍治 大佐(海兵41期):1941年(昭和16年)8月11日 - 
  • 山澄貞次郎 大佐(海兵44期):1942年(昭和17年)6月20日 - 
  • 三好輝彦 大佐(海兵43期):1943年(昭和18年)3月10日 - 6月8日殉職

同型艦

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A09050126900「海軍艦艇製造沿革」
    • Ref.B07090399700「23.軍艦陸奥進水式参列ニ関スル件」
    • Ref.C08050171800「軍艦陸奥製造一件(1)」
    • Ref.C08050171900「軍艦陸奥製造一件(2)」
    • Ref.C04015804000「軍艦陸奥人員数調査表の件」
    • Ref.C04015121100「軍艦陸奥艦首改造の件」
    • Ref.C04015157600「陸奥前部水中発射管室及隣接区画浸水の件」
    • Ref.C04016686900「軍艦陸奥羅針盤橋一部拡張の件」
    • Ref.C05034646500「横廠機密第110号 10.2.9 軍艦陸奥後部左舷14糎弾庫火災報告」
  • 不二美術模型出版部編『戦艦長門・陸奥 -艦船模型の制作と研究-』(出版共同社、1977年)
  • 吉村昭『陸奥爆沈』(新潮文庫、1979年改版) ISBN 4-10-111707-1
    陸奥爆発の原因検証を試みたノンフィクション
  • 大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。ISBN 031-40870-6945{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 横山一郎『海へ帰る 横山一郎海軍少将回想録原書房、1980年3月。 
    1923年、「陸奥」着任。副砲発令所長-分隊長心得-測的長。
  • 福地周夫『続・海軍くろしお物語』光人社、1982年。ISBN 4-7698-0179-3 
    福地は1942年11月「陸奥」運用長着任。1943年3月、病気のため退艦。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0451-2
  • 松永市郎『思い出のネイビーブルー 私の海軍生活記』光人社NF文庫、1994年2月。  -松永は少尉候補生時、「陸奥」配属。
  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ15『長門型戦艦 帝国海軍のシンボル「長門」「陸奥」の激動の軌跡を詳解!』学習研究社、1997年。ISBN 4-05-601684-4 
    • 田代軍寿郎「長門副砲射手が見た陸奥の悲劇」
  • 『世界の戦艦 弩級戦艦編 BATTLESHIPS OF DEADNOUGHTS AGE』世界文化社、1999年。ISBN 4-418-99101-8 
  • 青山淳平『海市のかなた 戦艦「陸奥」引揚げ』(中央公論新社、2001年) ISBN 4-12-003162-4
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』(光人社、2001年) ISBN 4-7698-1028-8<br />著者は第一航空艦隊司令部信号下士官。著者の弟は「陸奥」信号兵として爆沈時に戦死。
  • 超精密3DCG戦艦長門 (双葉社 2005年) ISBN4-5-47737-0
  • 大高勇治『第七駆逐隊海戦記 生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』光人社NF文庫、2010年。ISBN 978-4-7698-2646-0 
  • 日本海軍艦艇写真集 戦艦 大和 長門 長門 陸奥 (光人社) ISBN 4-7628-0771-6

陸奥を描いたフィクション

陸奥引き上げを記録したノンフィクション

脚注

  1. ^ 「海軍艦艇製造沿革」p.2
  2. ^ 「軍艦陸奥製造一件(1)」p.40
  3. ^ 「23.軍艦陸奥進水式参列ニ関スル件」p.6
  4. ^ 「軍艦陸奥製造一件(2)」pp.57-58
  5. ^ 超精密3DCG戦艦長門 (双葉社 2005年)、#歴群15長門型等参照
  6. ^ a b #松永、ネイビーp.94
  7. ^ #歴群15長門型p.164
  8. ^ #歴群15長門型p.165
  9. ^ #海軍生活放談pp.240-241
  10. ^ #歴群15長門型pp.166-167
  11. ^ 「軍艦陸奥製造一件(2)」p.44
  12. ^ #歴群15長門型p.154
  13. ^ #歴群15長門型p.25
  14. ^ #歴群15長門型p.153
  15. ^ a b #横山一郎回顧録17頁
  16. ^ #歴群15長門型pp.155、163
  17. ^ 「軍艦陸奥艦首改造の件」p.4
  18. ^ 「軍艦陸奥羅針盤橋一部拡張の件」pp.8
  19. ^ #歴群15長門型p.52
  20. ^ #歴群15長門型p.158
  21. ^ #歴群15長門型p.159
  22. ^ 世界の艦船2009年7月号
  23. ^ a b c #歴群15長門型p.163
  24. ^ 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』(光人社、2008年)232頁
  25. ^ #歴群15長門型p.182
  26. ^ #続・海軍くろしおp.92、#歴群15長門型p.183
  27. ^ #歴群15長門型p.184
  28. ^ #歴群15長門型p.186
  29. ^ #歴群15長門型p.188
  30. ^ #歴群15長門型p.184
  31. ^ #歴群15長門型p.185
  32. ^ #続・海軍くろしおp.91
  33. ^ #歴群15長門型p.189
  34. ^ 佐藤太郎『戦艦武蔵』(河出書房、1975)48頁。当時、武蔵は木更津沖に投錨中。
  35. ^ 橋本廣『機動部隊の栄光』255頁
  36. ^ #続・海軍くろしおp.94
  37. ^ #海軍生活放談pp.259-260
  38. ^ #第七駆逐隊p.166
  39. ^ #第七駆逐隊p.165
  40. ^ #第七駆逐隊p.165
  41. ^ #第七駆逐隊pp.166-168「陸奥爆沈の珍事実」
  42. ^ #第七駆逐隊p.167
  43. ^ #歴群15長門型pp.188-189
  44. ^ #続・海軍くろしおp.98
  45. ^ 六管プレスリリース http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/news/press/press.pdf/19-4-4.pdf
  46. ^ http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abdi/qa/index_j_qa08.html
  47. ^ 不定期展示品として
  48. ^ 昭和12年度海軍省年報による。福井静夫の著作では16ノットで10,090海里との数値もある。

関連項目

外部リンク