藤村修
藤村 修 ふじむら おさむ | |
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生年月日 | 1949年11月3日(74歳) |
出生地 | 大阪府大阪市 |
出身校 | 広島大学工学部経営工学科 |
前職 | あしなが育英会顧問 |
所属政党 |
(日本新党→) (新進党→) (国民の声→) (民政党→) 民主党(野田グループ) |
公式サイト | 衆議院議員 ふじむら修 |
第80代 内閣官房長官 | |
内閣 |
野田内閣 野田改造内閣 |
在任期間 | 2011年9月2日 - 現職 |
選挙区 |
(旧大阪3区→) 大阪7区 |
当選回数 | 6回 |
藤村 修(ふじむら おさむ、1949年11月3日 - )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(6期)、内閣官房長官(第80代)。
外務副大臣(菅内閣)、厚生労働副大臣(菅第1次改造内閣)、衆議院厚生労働委員長、民主党幹事長代理等を歴任した。
来歴
大阪府大阪市生まれ。大阪府立豊中高等学校を経て広島大学工学部経営工学科卒業。大学在籍時に交通事故遺児の作文を読んだことをきっかけに交通遺児育英会の活動にボランティアで参加するようになった。大学卒業後に交通遺児育英会の職員となった後、あしなが育英会顧問・評議員、社団法人日本ブラジル交流協会理事長を務めた。[1]
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧大阪府第3区(定数5)から日本新党公認で出馬し、初出馬ながら新党ブームに乗ってトップ当選を果たした。翌1994年、日本新党の解党に伴い新進党結党に参加。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い大阪府第7区から出馬し、再選。
1997年末の新進党解党により、国民の声に参加。その後民政党を経て、1998年の民主党結成に加わる。2000年の第42回衆議院議員総選挙では民主党公認で出馬し、大阪7区で3選。
2003年の第43回衆議院議員総選挙でも大阪7区で4選を果たしたが、2005年の第44回衆議院議員総選挙では、小泉旋風に乗る自由民主党の渡嘉敷奈緒美に大阪7区で敗れ、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、5選。民主党次の内閣では2006年にネクスト文部科学大臣、2009年にネクスト厚生労働大臣にそれぞれ就任した。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では大阪7区で前回敗れた渡嘉敷に勝利し、6回目の当選。同年9月、衆議院厚生労働委員長に就任(~2010年5月)。厚生労働委員長として、2010年3月には子ども手当法案、2010年4月には国民健康保険法改正案の採決を行った。
2010年6月、菅内閣で外務副大臣に就任。同年9月、菅第1次改造内閣で厚生労働副大臣に任命された。2011年1月、民主党幹事長代理に就任し、厚生労働副大臣を退任(後任は大塚耕平)。
2011年9月2日、野田内閣の内閣官房長官に任命され初入閣。9月11日には、鉢呂吉雄経済産業大臣の辞任に伴い、後任に枝野幸男が就任するまでの間、臨時代理を務める。同年11月15日、拉致問題を担当する大臣を補佐する副大臣の兼任問題で、野田佳彦首相より厳重注意を受ける。
2012年2月22日、島根県主催の竹島の日記念式典に招待されるが拒否し、同日に南京大虐殺について「非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない。村山談話以来、政府の姿勢は変わっていない」と記者会見で述べるなど、中国・韓国に配慮した外交姿勢を見せている。東日本大震災追悼式でも、約200億円の震災義援金を届けた中華民国(台湾)の代表者を各国や国際機関の代表と離れた2階席に案内し献花を許さなかったことについて、記者会見で「外交儀礼として問題がない」と表明した。[2]
所属団体・議員連盟
- 日伯国会議員連盟(事務局長)
- 自然体験活動推進議員連盟(幹事長)
- 国際カイロプラクティック教育議員連盟(幹事)
- 活字文化議員連盟(事務局長)
- 図書議員連盟(幹事長)
- チャイルドライン設立推進議員連盟(副会長)
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
- 北京オリンピックを支援する議員の会(事務局次長)
脚注
外部リンク
公職 | ||
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先代 枝野幸男 |
内閣官房長官 第80代:2011年 - |
次代 現職 |
先代 細川律夫・長浜博行 |
厚生労働副大臣 2010年 - 2011年 小宮山洋子と共同 |
次代 小宮山洋子・大塚耕平 |
先代 武正公一・福山哲郎 |
外務副大臣 2010年 武正公一と共同 |
次代 伴野豊・松本剛明 |
議会 | ||
先代 田村憲久 |
衆議院厚生労働委員長 2009年 - 2010年 |
次代 鉢呂吉雄 |