神州丸
船歴 | |
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運用 | 大日本帝国陸軍 |
発注 | 播磨造船所 |
起工 | 1933年(昭和8年)4月8日 |
進水 | 1934年(昭和9年)3月14日 |
竣工 | 1934年(昭和9年)12月15日 |
戦没 | 1945年(昭和20年)1月3日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:7,100t 満載:8,108t |
全長 | 144m |
全幅 | 22m |
吃水 | 4.2m |
機関 | 艦本式ボイラー2基 石川島造船所製蒸気タービン1基 |
最大出力 | 7,500hp |
最大速力 | 20.4kt |
航続距離 | 7,000浬 |
乗員 | 標準収容兵員約1,200名 (最大約2,000名) |
兵装 | 太平洋戦争開戦時 八八式 7.5cm 単装高射砲(特)6基 九八式 20mm 単装高射機関砲(特)4基 三八式 7.5cm 野砲1基 爆雷 水中聴音機 最終時 八八式 7.5cm 単装高射砲(特)11基 九八式 20mm 単装高射機関砲(特)6基 二式 12cm 迫撃砲(対潜用)1基 爆雷 水中聴音機 |
搭載上陸用舟艇 | 大発(D型)最大29隻 (八九式中戦車・自動貨車等搭載可) 小発最大25隻 |
搭載砲艇 | 装甲艇(AB艇)最大4隻 |
搭載高速偵察艇 | 高速艇甲(HB-K)最大4隻 |
搭載機 | 九一式戦闘機 九二式偵察機(爆装可)等最大12機 |
主要特種装備 | 搭載舟艇迅速泛水装置 対空施設 冷房装置 |
装備 | 呉式二号射出機三型改二2基 75cm 探照灯2基 軍用無線電信所 |
神州丸(神洲丸、しんしゅうまる)は、大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦(上陸用舟艇母船)。存在秘匿のためにR1、GL、MT、龍城丸(りゅうじょうまる)等の名称も使用されている。帝国陸軍では特種船に分類され、その第1号(第1船・1番船)となり同型船は無い。
事実上の世界初の先進的なドック型揚陸艦として上陸用舟艇である大発動艇(大発)・小発動艇(小発)多数および、それらの護衛砲艇たる装甲艇(AB艇)、高速偵察艇たる高速艇甲(HB-K)を搭載し極めて高い上陸戦遂行能力を持ち、日中戦争(支那事変)最初期から太平洋戦争(大東亜戦争)末期に至るまで数々の上陸作戦・揚陸作戦を成功に導いた。また、計画段階より搭載航空機による上陸部隊の支援攻撃が考慮されていたため、後身の発展型であるあきつ丸と同じく現在の強襲揚陸艦の先駆的存在であった。
船名
本来の船名たる神州丸(神洲丸)の「神州(神洲)」とは古来日本の異称・雅称であり、「現人神たる天皇の国」および「神々の宿る国」という意味である(神国)。日本の異称は「神州」の他にも扶桑・大和・敷島・秋津島(秋津洲・あきつ)・八島(八洲)・瑞穂等が存在するが、何れも民間船舶・陸軍船舶・海軍艦艇の船名(艦名)として広く用いられているものである。
秘匿船名の「GL」はその「神州」を英語に直訳した「God Land(ゴッド・ランド)」の頭字語、「MT(M.T.)」は命名当時の帝国陸軍船舶部隊(暁部隊)のトップたる、第1船舶輸送司令官兼陸軍運輸部長松田巻平(初代)・田尻昌次(二代目)両陸軍中将の姓のイニシャル「Matsuda・Tajiri」から取られたものである[1][2]。神州丸と命名されるまでは「R1」と称されていた。
神州丸の建造とほぼ同時期、第一次船舶改善助成施設によって民間海運会社の巴組汽船が本船と同名である中型貨物船神州丸(4,180総t)を建造しており、かつ神州丸(貨物船)は太平洋戦争初期には陸軍徴用船(吾妻汽船へ移籍)として神州丸(特種船)共々ジャワ上陸作戦に投入されているため[3]、本作戦当時の神州丸(特種船)は龍城丸という船名を使用している(龍城はジャワ上陸作戦のみの秘匿船名とされ、作戦終了後に元の「神州」へと戻っている[4])。龍城の名は暫定的なものであったために由来は不明ではあるものの、海軍には同音異字の艦名を持つ小型航空母艦龍驤が存在しており、あえて建造時期の被る龍驤と船名を被らせる事で特種船の存在秘匿に努めたという説もある。なお、海軍艦艇の艦名と同一ないし擬似する船名は特種船を初めとする陸軍船舶および舟艇には珍しい事ではない[5](#秘匿)。
建造の経緯
上陸用舟艇は、波打ち際に乗り上げて将兵や装備を揚陸するために、吃水が浅く小型であるものがほとんどである。このため外洋航行力に乏しく、根拠地から上陸地点までは他の母船によって運ばれる必要がある。戦間期当時の上陸用舟艇母船は宇品丸(陸軍省所有船)のように一般の貨物船(軍隊輸送船)と大差無いもので、上甲板に舟艇を搭載し、デリック・ガントリークレーン・ボートダビット・ホイスト等で泛水(へんすい・海面に降ろすこと)させる方式をとっていた。泛水時には基本的に舟艇は空船で、将兵は泛水後に母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込み、火砲や車輛、馬匹等はデリックで舟艇内に吊り降ろしていた。この方式は舟艇が多数の場合に時間がかかるほか、波浪の状態によっては泛水・乗船・積載が難しく、また将兵等が移乗時に落下する危険性もあるため迅速な上陸戦を行うのに不向きであった。
島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンのアメリカ軍(極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代より上陸戦に関心のあった帝国陸軍はその研究に力を入れており、同年代中期から1930年代初期にかけて機能的な上陸用舟艇である小発動艇(小発)・大発動艇(大発)の各型を実用化していた。それらが投入された1932年(昭和7年)3月1日の第11師団による七了口上陸作戦(第一次上海事変)は成功裏に終わったが、戦訓として以下の問題が明らかとなった。
- 在来の泛水方式では上陸に時間がかかり奇襲効果が乏しいこと。
- 敵前の洋上で輸送船より舟艇に移乗するため危険なこと。
- 水深が浅いため小型輸送船しか使用できず、そのため積載艇の種類が限られその数も少なくなること。
また、第一次上海事変での戦訓のほか、1932年6月に行われた陸軍将校らの日出丸(栃木商事、5,256総t)による南洋群島巡航が開発の契機になったとの見方もある[6]。
これらの経緯から、上陸用舟艇を大量に積載可能で人員や装備を乗せたまま連続的に泛水できる新鋭の舟艇母船(揚陸艦)の開発を開始、当初は軍隊や物資の輸送を担当する官衙たる陸軍運輸部の独力で着手していた。なお、陸軍が本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の海軍は戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない。かつ、陸軍が海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である[7]。
計画・開発されたこの舟艇母船は、従来の単なる輸送船とは全く異なり以下の大きな特徴があった。
これら極めて先進的な機能を有す、のちの神州丸は事実上の世界初のドック型揚陸艦であると同時に強襲揚陸艦の先駆的存在でもあり、神州丸の航空機運用能力を全通飛行甲板の形で発展させた後続のあきつ丸は、船型においても現代の強襲揚陸艦に近いものであった。
ちなみに、アメリカ軍初のドック型揚陸艦であるアシュランド級1番艦のアシュランドは、神州丸の起工の約9年後である1942年(昭和17年)に起工・進水されたものである(ドックは露天型)。イギリス軍においては1940年(昭和15年)に、1917年(大正6年)建造の鉄道連絡船「TF-1」および「TF-3」を徴用、1941年(昭和16年)に前者はアイリス(更に1942年にプリンセス・アイリスへ改名)後者をダフォディルと命名し、揚陸艦(LSS:Landing Ship Sternchute)に改装・就役させているが、あくまで老朽鉄道連絡船の設備を流用した脆弱なものであり、のちにはアメリカから供与された本格的なカサ・グランデ級(アシュランド級の主機を変更した準同型艦)を運用している。
建造
上述の計画から生まれた原案をもとに設計された「R1(R1輸送船・特種輸送船R1・R1運送船等と呼称)」は、船体に舟艇格納庫を有し内部に大発(船尾ハッチから発進)を、上甲板両舷部に小発(各々専用のダビットを用意)を満載した舟艇母船として先進的かつ実用的なものであった反面、船首部に小型の飛行甲板を設けた奇抜な構造であった(更に上甲板中央部にカタパルト2基を設置)。
そのため、開発途中から参加した海軍の技術協力により大幅な設計変更が加えられ[8](海軍艦政本部に設計図を送り[9])、舟艇の運用方法および設計寸法は陸軍原案をそのまま承継しつつ、船首飛行甲板を廃し航空機発進には船橋および前部甲板に設けられた射出口・左右計2基のカタパルトを用いる事とし、新たに両舷側に側方泛水装置(舷側ハッチとホイスト)を新設する等、船型は大きく変更された[10]。
1933年(昭和8年)4月8日、「R1」は播磨造船所で起工、翌1934年(昭和9年)2月8日に神州丸(神洲丸)と命名[11]、同年3月14日に進水し、11月30日に陸軍に引き渡され12月15日に竣工した[12][13]。
竣工後の神州丸は帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり、陸軍運輸部の本部(のちに兼船舶司令部)も置かれている母港たる広島県宇品(宇品港)に移動。1935年(昭和10年)1月にはカタパルトを装備するため近隣の呉海軍工廠に回航され、射出試験を経た2月26日に宇品に帰還し晴れて完全完成となった[14]。以降、神州丸は小改装・演習・試験・訓練を繰り返し錬成しつつ、1937年(昭和12年)7月の日中戦争勃発を迎える事となった(#実戦)。
秘匿
神州丸は、陸密第438号『陸軍兵器機秘密取扱規程』に依る「第一級秘密兵器」に準して取り扱う文字通りの秘密兵器であり、「神州丸ノ機密保持ニ関シ万全ヲ期ス……」で始まる『【極秘】神州丸ノ取扱要領』においては、特に航空機・舟艇運用能力(KS・両舷ホイスト・船尾装置)を秘匿する事としている。かつ、一般に対しては「馬匹及重量材輸送船」と称する、新聞・雑誌・日本船舶名簿・ロイド船名簿日本船名録その他一切の名簿および公刊印刷物に記載されないように注意するといった配慮が1935年1月になされている[15]。
同時期、逓信省(管船局)に対して以下の内容を通牒(ほぼ同様のものを憲兵司令官と大蔵省(税関)にも通牒)[16]。
- 「陸軍輸送船神州丸ハ作戦上其構造性能ハ勿論其存在ニ関シテモ極力之ヲ秘匿(中略)諸構造図面並諸要目ハ秘密扱トシ一切之ヲ外部ニ開示セサル様関係ノ向ヘ洩レ無ク伝達方特ニ及依頼候也」
- 「尚諸種ノ船名簿統計新聞雑誌等ニ本船名ノミヲ登録掲記スルコトモ防止スル様御配慮相煩度併テ依頼トス」
船名としてR1改め神州丸と命名されて以降も秘匿名として、年の古い順に「GL(God Land)」[17]、「MT(Matsuda・Tajiri)」、龍城丸の各称が臨時に使用されており(#船名)、カタパルトは「KS(KS機、K,S機)」、航空機格納庫には「馬欄甲板(馬匹用の部屋)」の秘匿名・偽名が与えられている。
また、竣工前後においては陸軍内部で以下の配慮がされた。
- 播磨造船所にて行われる引渡式に参列する軍人は軍服を避け私服を着用する事、陸軍所属船を示す山形(山形波線・山型波線)の標識[18]は宇品に移動後に付す[19]。
- 陸軍運輸部に属する者、陸軍省・参謀本部・教育総監部・陸軍航空本部に於いて関係ある者、教育・訓練・演習・修理のために乗船する者(軍人・軍属)、および警衛にあたる憲兵以外の者は「神州丸」視察・見学・乗船に陸軍大臣の許可が必要[20]。
播磨造船所のドックは田舎の山間に位置しており、(川崎造船所・三菱造船所・大阪鉄工所・藤永田造船所といった主要所より)機密保持に適していたことも発注先に選ばれた理由の一つであった[21]。
戦艦日向の煙突
なお、完成後の神州丸は日中戦争の実戦投入前に後述の航空機格納庫(馬欄甲板)の擬装ないし、同様の特種船を複数保有しているかの如く欺瞞するため[22]、船体中央部に太い大型煙突を増設している(本物は船体後部、馬欄甲板を避けるようにやや左舷寄りに設けられた細い小型煙突)。
このダミーの大型煙突はもとは海軍の伊勢型戦艦2番艦日向の2番煙突であり[23]、これは1936年(昭和11年)前後頃に伊勢・日向が行った機関改装等の大改装時(従来2本の煙突を1本化、1番煙突を撤去し2番煙突を大型化)の撤去品転用とされている。
構造
基本船型
神州丸の船型は当時の民間商船とは全く異なった外形である。航空機/馬欄格納庫(上段)と兵員居住区(下段)の2層に分かれた巨大な箱型の上部構造物を有し、後世の自動車運搬船や、21世紀のアメリカ海軍最新鋭ドック型輸送揚陸艦サン・アントニオ級を思わせる。上部構造物側壁へつながるよう舷側に強いフレアがかかっており、水線部での船体幅よりも上部が著しく幅広くなっている。このように特殊な軍用船だと明らかな外観は機密保持の観点から問題視され、甲型1番船摩耶山丸等の後の量産型特種船では商船型に近い外形へと変更される事になる(丙型1番船あきつ丸は起工後に国際情勢を鑑みて、商船型第1形態を取りやめ飛行甲板を装着した空母型第2形態状態で竣工[24])。
外見とは裏腹にいわゆる軍艦構造の重防御設計ではなく、商船構造である[13]。ただし、建造中の1934年に発生した友鶴事件を受けて復元性向上のため海水バラスト搭載の設計変更がされた際、浸水に対する防御力を高めるための防水区画増設が行われている。この設計変更のために公試排水量が1,600tも増加した。後述するように船体内に舟艇格納庫が存在するため水中防御力についての懸念があり、就役後に対魚雷防御のため25mmのDS鋼板を舷側に二重に追加する改装を舞鶴海軍工廠で受けている[25]。なお、のちのジャワ上陸作戦時に友軍の重巡洋艦最上に誤射雷撃され大破着底しているが、防雷隔壁は第1層こそ破られたものの第2層で浸水は食い止められていた[26]。
陸軍運輸部の原案では、畿内丸等ニューヨークライナーと呼ばれていた当時の新鋭高速貨物船を原型とした設計であった。原型のニューヨークライナーではディーゼルエンジン2基2軸の推進方式であるところ、エンジンを1基追加して3軸推進とする計画であったが[27]、海軍による設計変更で蒸気タービン一軸化にされている。
舟艇泛水設備
神州丸の最大の特徴として先進的な上陸用舟艇の搭載・泛水方法がある。その船体内に広い舟艇格納庫を設けここに大発等多数の舟艇を搭載する。後世のドック型揚陸艦ではウェルドックとして、ドック内に海水を導き舟艇を泛水させている。神州丸では海水を導入しての泛水ではなく滑走台による泛水方式であった。舟艇格納庫内にはローラーを利用した軌条が敷かれ、天井に設置されたトロリーワイヤーを利用して舟艇を軌道上で移動させる。この軌条は船尾まで伸びており、シーソーを経由してスロープ(滑走台)に、そして大型ハッチ(門扉。船尾泛水扉)を有す並列2箇所の泛水口へ通じている。船尾のみならず両舷側にも大型ハッチが設けられ、ここから舟艇をホイストを用い泛水可能である。この船尾ハッチの構想自体は陸軍原案からあるものだが、それを全通式とし、また舷側ハッチを追加したのは海軍による設計変更後である。
船尾の並列2箇所の泛水口には曲線を描く計4枚の跳ね上げ式大型ハッチがあり、揚陸作業時にはバラストタンクに注水し船尾を沈下させるとともにこのハッチが開き、スロープの後端が海面に接するようになっている。滑走台の軌条の上を舟艇が順次移動し、連続して泛水、大部隊を揚陸させる事が可能だったのである。構造的には大きく異なるが、後世のドック型揚陸艦相当の能力を有していた。同様の設備があきつ丸以下量産型の各特種船にも承継されている。
ただし、その構造上必然的に隔壁が少なくなる舟艇格納庫が喫水線付近に存在する構造は浸水に対して脆弱という弱点もあった。日本以外ではイギリス海軍が改装揚陸艦のアイリス(プリンセス・アイリス)、ダフォディルを運用しているが、やはり防御力の低さが問題視されて前線使用は制限された。
各種舟艇は格納庫だけでなく前部・中部・後部の全ての端艇甲板上にも多数搭載可能であり、これらは一般の軍隊輸送船のようにデリックやダビットを用い泛水する。装甲艇(AB艇)・高速艇甲(HB-K)やカタパルトの吊り上げが可能なようにデリックは強力なものであり(デリック強化は海軍の設計変更で大幅に強化された点である)、小発用の中部上甲板には各々専用のダビットが用意されていた。
航空機運用能力
優れた舟艇運用能力と並ぶもう一つの大きな特徴として、上陸部隊支援用の航空機の運用能力がある。2層構造の上部構造物内上段に航空機格納庫(秘匿名「馬欄甲板」)を設け、最大12機程の戦闘機・偵察機(偵察爆撃機)を搭載・使用可能であった。離船(発艦)手順は、大型デリックを用い前部甲板の円形台座に設置した秘匿名「KS」こと呉式二号射出機三型改二(海軍製の火薬式カタパルト)に、船橋ブリッジ下部の格納庫開口部に用意した機体を載せ射出となる。
着船設備はなくまた使用機は水上機ではない陸上機であるため、機体は占領した敵飛行場・臨時造成飛行場に着陸、陸上・水上に不時着・不時着水するか、操縦者は乗機を捨て落下傘降下によって収容される。なお、これに擬似する運用能力を持つ船舶としては、のちの第二次世界大戦時に輸送船団護衛のためイギリス海軍が実戦投入したCAMシップが該当する。「神州丸」と同じくカタパルトによって発船した戦闘機は、敵機を迎撃した防空戦闘後には陸上の飛行場に向かうか、船団付近に不時着水ないし落下傘降下し操縦者は収容されていた(このCAMシップおよびMACシップは一般の輸送船(商船)を臨時に改装したものであり、日本の「神州丸」以下特種船と異なり揚陸艦ではない)。
この航空機運用能力は画期的なものであったが、航空機の急速な発達により建造後数年で実質的な意味を失ってしまい、なおかつその運用難度からも使用される事は殆どなかった。実戦でKSが使用されたのは日中戦争中の1937年9月23日、白河々口から乗船した独立飛行第4中隊が上海に向けて洋上離船した例が唯一である[28]。しかしながら、神州丸はただの揚陸艦から一歩進んだ、総合的な上陸戦遂行能力を持った強襲揚陸艦の先駆的存在であった。のちの第二次大戦時に建造される量産特種船のうち、航空機運用能力を改良・発展させた丙型あきつ丸(およびM丙型熊野丸等)は、全通式飛行甲板を有す等本格的な航空設備が設けられたより先進的な揚陸艦となっている。
実戦
日中戦争
1937年7月、日中戦争勃発を受けて舞鶴海軍工廠にて水中防御改善のため改装工事中であった神州丸は、これを早々に切り上げ同月17日に宇品へ帰港。完成以降、泛水作業等錬成に励んでいた第5師団工兵第5連隊第3中隊は、28日ないし29日に独立部隊たる独立工兵第6連隊(連隊長:岩仲広知陸軍工兵中佐)に改編され隷下に3個中隊を擁し、神州丸にはこの第1中隊(中隊長:鬼頭将方陸軍工兵大尉)が乗船し出撃準備にあたった[29]。
中国派遣動員師団のひとつたる第10師団揚陸の一翼を担う神州丸(当時は秘匿名「MT」を使用)は、8月9日までに大発12隻・小発26隻・装甲艇4隻・高速艇甲4隻を搭載し準備を終え、翌10日に第1船舶輸送司令官松田巻平陸軍中将乗船の司令官艇らの見送りを受け宇品を出港した。13日に神州丸以下4隻の第1次上陸船団は上陸先である太沽沖に到着・投錨、装甲艇・高速艇甲は偵察のため先行出撃している。14日、第2次上陸船団各輸送船の到着をもって揚陸作業に移り神州丸は舟艇を迅速に泛水、同日9時頃に第10師団諸部隊は太沽に上陸した(同地は7月30日に現地陸軍部隊によって制圧済であった事もあり問題なく上陸を終えている)。引き続き15日、第3次上陸船団の揚陸作業を終えた神州丸は前日夜に宇品帰還の命令を受けていたため、20時に太沽を出港し帰路に就いた[30]。
太沽上陸作戦において神州丸はその威力を発揮し活躍、その初陣は成功に終わった(8月14日当時は台風接近中のため2mもの波浪が各船舶・舟艇を襲う悪条件であったが、神州丸泛水作業隊の働きにより全舟艇の泛水・収容を完了している)。以降、川沙鎮・呉松鎮・杭州湾・白茆口・白那士湾等で行われた各上陸作戦に神州丸は投入されるとともに、またその搭載能力を生かし輸送任務にも参加、中国戦線で大活躍した[31]
なお、この日中戦争時に中国沿岸にて投錨中の神州丸のその特異な姿に注目した現地のアメリカ海軍によって、秘密裏に至近距離からその姿を写真撮影されている(「日本艦船識別表 ONI41-42」収録)[32]。
太平洋戦争
マレー作戦
日中戦争で活躍した神州丸は、当然1941年末開戦予定の太平洋戦争(南方作戦)にも投入される事となった。12月8日に太平洋戦争作戦第1号であるマレー作戦、タイ領シンゴラへの第25軍(司令官:山下奉文陸軍中将)司令部の上陸に携わりこれを成功させている。
蘭印作戦
翌1942年には太平洋戦争の開戦意義である南方資源地帯確保のため、1月11日より始められた蘭印作戦に動員。蘭印作戦では「空の神兵」こと第1挺進団の活躍によって、最重要戦略的攻略目標であるパレンバン大油田を2月14日に制圧していたが(パレンバン空挺作戦)、首都バタビア(ジャカルタ)やバンドン要塞を擁しオランダ軍主力・イギリス軍・オーストラリア軍・アメリカ軍のABDA連合軍将兵約8万強が守備するジャワ島の制圧は最終目標となっていた(当時、東南アジアほぼ全域を掌握していた日本軍にとってこのジャワ島上陸作戦は南方作戦の総決算と言えるものでもあると同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦であった)。このジャワ上陸作戦には神州丸(当時は秘匿名龍城丸を使用)のみならず竣工間もないあきつ丸(丙型特種船、神州丸に次ぐ特種船第2号)も投入され、第16軍(司令官:今村均陸軍中将)司令部が座乗する神州丸以下はバンタム、あきつ丸以下はメラクへの上陸に参加する事となった。
2月18日、西部ジャワ島上陸部隊たる神州丸はあきつ丸等とともに総計56隻の大船団を編成し、仏印のカムラン湾を出港(19日に東部ジャワ島上陸船団38隻はホロ島を出港)。27日、日本軍上陸を阻止すべく出撃したABDA連合軍艦隊と、日本海軍第3艦隊との間で数日に渡りスラバヤ沖海戦が発生、結果的に日本軍は敵艦多数を撃沈し勝利するものの、長時間の戦闘にもかかわらず敵艦隊を全滅させる事が出来ず、これがのちのジャワ上陸時に問題となってしまった[33]。
3月1日0時、バンタム湾に入った神州丸以下(およびメラク湾に入ったあきつ丸以下)の船団は投錨し揚陸作業を開始。0時30頃には赤色の信号弾が空に上がり第1次上陸部隊はジャワ島に無血上陸した。しかし、スラバヤ沖海戦で逃したアメリカ海軍重巡洋艦ヒューストンおよび、オーストラリア海軍軽巡洋艦パースがこれら上陸船団を発見、0時37分に砲撃を開始(遠距離のため上陸船団へは命中せず)。これに先立つ0時9分、バビ島東方においてヒューストン、パースを発見、追尾していた駆逐艦の吹雪が0時44分に雷撃を敢行(のち離脱)、ここにバタビア沖海戦が発生した。上陸船団の護衛にあたっていた、軽巡名取を旗艦とする第3護衛隊(司令官:原顕三郎海軍少将)隷下の各駆逐隊も、原海軍少将の突撃命令を受けヒューストン、パースと交戦、また北方哨戒中の第7戦隊の重巡最上・三隈、駆逐艦敷波も参戦した。各艦は砲雷撃を行い1時47分にパースが、2時6分にヒューストンがそれぞれ沈没し、日本軍は同海戦に勝利した。
しかし戦闘中の1時35分、バンタム湾上陸船団の直掩である第二号掃海艇が突如轟沈した。1時38分には輸送船の佐倉丸(神州丸とともに軍司令部指定船)、続いて病院船の蓬莱丸、そして神州丸も魚雷を受けて大破した(佐倉丸・神州丸および、魚雷を回避しようと急旋回した輸送船龍野丸は船体が傾斜した状態で着底、蓬莱丸は水平状態で着底)。当時、神州丸は第16軍司令部要員が上陸のため前部甲板にて舟艇へ移乗中であったが、右舷中央に被雷し急速に約45度傾斜したため今村陸軍中将以下の将兵は重油の流出した海に転落・漂流、約3時間後に泛水作業隊らによって救助されたものの遠距離用無線機と暗号書が海没してしまい、ジャワ島中部バトロールおよび東部クラガンに上陸した別働隊との直接通信が(無線機が5日に空輸されるまで)不能となってしまった[34]。しかしながら第2師団を筆頭に各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し7日には要衝バンドンに進出(これによりバンドン地区防衛兵団は降伏)。8日より蘭印総督との間で降伏交渉が行われ翌9日無条件降伏が確定、今村陸軍中将以下第16軍は3月10日の陸軍記念日にバンドンに入城し、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わった。
なお、バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊であるあきつ丸以下は、敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させ帰路に就いている[35]。
重巡最上の誤射
戦闘後の調査によって、神州丸以下に直撃した魚雷は日本海軍の九三式魚雷(酸素魚雷)である事が判明。これは3月1日1時27分、最上がヒューストンに対し放った筈の複数本の魚雷が、射線延長線上の神州丸以下船団に命中してしまった同士討ち(誤射)であった。神州丸は優秀な上陸戦遂行能力のみならず旗艦的な司令部機能を有する日本軍にとって虎の子的存在であり、それを輸送船2隻・病院船1隻・掃海艇1隻とともに「撃沈」してしまった海軍の失態は大きなものであった(佐倉丸・第二号掃海艇は沈没、神州丸・蓬莱丸・龍野丸は大破着底)。かつ、神州丸沈没によって座乗していた司令官以下第16軍司令部は上陸前にあわや全滅という危機に陥り、中・東部上陸部隊の直接指揮に必要な遠距離用無線機を喪失している。なお、バンタム湾は浅瀬の泊地であるため船は完全沈下せずに着底し、被雷は第1次上陸部隊の揚陸後で、当日は月齢13と非常に明るい夜であったため人的被害は最小限に食い止められたが、それでも約100名が死亡した。
しかしながら帝国陸軍はこの事件を不問に処し、海軍の名誉に傷をつけぬよう神州丸以下の沈没は敵軍の攻撃によるものにすることを提案、かつ責任追及も行っていない。「人情将軍」と謳われた人格者たる名将今村陸軍中将も、後日司令部揃って謝罪に参った海軍指揮官を快く赦している。のちの陸軍による神州丸サルベージ作業中、「九三式」の刻印がある九三式魚雷の破片が船倉ヘドロ内より発見されたがこれはバンタム湾に投棄され証拠隠滅[36]、陸軍省が企画した対外用公刊戦史『大東亜戦史 ジャワ作戦』(1942年11月)では、連合軍の駆逐艦や爆撃機の攻撃によって神州丸以下は沈没したことになっている。
以下は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍に対して第16軍司令官今村均陸軍中将と第1揚陸団長伊藤忍陸軍少将が送った謝辞である[37]。
二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス
— 今村第16軍司令官(第5水雷戦隊・第7戦隊司令官に対し)
サルベージ・修理
3月4日、大傾斜着底した神州丸をサルベージし、修理の上再び軍務に就かせる旨の命令が熱田丸に避難中の乗員に対し第1揚陸団長より発せられた。約1ヵ月後、シンガポールから日本サルヴェージ株式会社の静波丸が到着し調査にあたったが、自船の能力では浮上不可と判断。宇品の船舶司令部において協議がなされ、技師・作業員・潜水士多数を載せた日本郵船の大隅丸の派遣が決定し5月下旬に送られた[39]。神州丸は魚雷によって右舷中央部中甲板2m下部の位置に縦横数mの破口が開き、水中聴音機の聴音棒は抜け落ち、舟艇泛水用の舷側ハッチも破損、全体の被害状況は右傾斜約45度・機関室完全水没・中甲板約70%水没・上甲板約50%水没であった。しかし幸いにも発電機室は水没しておらず、防雷隔壁は第1層こそ破られていたが第2層で浸水は食い止められていた[40]。
サルベージはまず右舷船底のヘドロを除去し破口を木材にて密封、これは8月中旬までに完了。9月には船内の排水作業を行いつつ傾斜を復元させ23日に船体は浮上、船内の洗浄・消毒・整備を経て12月13日に総合運転試験をパスした。破口はあくまで応急修理であるため日本本土への回航は不安視されたため、12月25日にシンガポールの海軍のドック(セレタードック)に移送、約2ヶ月後に入渠し1943年(昭和18年)4月30日まで各部の補強を受けた。なお、当時セレタードックは海軍艦艇の修理で手一杯であったが、海軍に沈められた神州丸は(入渠に約2ヶ月要しているものの)優先して修理されることになっていた[41]。
5月1日、「お色直し」がされ出渠した神州丸は生ゴム1,000t分の資源と本土帰還者を乗せ、護衛駆逐艦1隻とともに6日に出港、10日に台湾の馬公へ寄港し佐々木船長の機転で土産としてバナナを大量に積み、15日には九州の門司に到着した。似島検疫所を経て18日に宇品へ帰還したが、7月中旬から10月頃にかけて播磨造船所に入渠し修繕工事が行われている[42]。
輸送・揚陸作戦
1943年11月、完全復帰した神州丸はその搭載能力を生かし数々の輸送任務に投入され、1944年(昭和19年)5月までにパラオ・高雄・シンガポール・釜山等各方面を巡っている。
ヒ65船団
シンガポール行きヒ65船団(ヒ船団)に加入し南下中の6月2日、バシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦ピクーダの魚雷攻撃を回避しようとした僚船たる輸送船の有馬山丸が神州丸の船尾に衝突、対潜用に搭載していた爆雷が誘爆し、約200名が死亡する事故が起きた。大破した神州丸は香取型練習巡洋艦の香椎に曳航され基隆で7月末まで修理を受け、8月の宇品帰還後は、11月まで釜山への輸送任務を幾度も行っている。
これ以降のフィリピン輸送作戦は、揚陸艦として建造された神州丸以下特種船達の揚陸能力を最大限に生かす最後の作戦となった[43]。
ヒ81船団(タマ33船団)
11月、フィリピン防衛戦のため精鋭第23師団を緊急輸送する任務が、神州丸およびあきつ丸(丙型)・摩耶山丸(甲型)・吉備津丸(甲型)の特種船に与えられた。このため、ルソン島マニラ行き神州丸以下特種船々団は本来のシンガポール行きタンカー船団とともにヒ81船団を編成、14日に船団は伊万里湾を出港した(本船団は特種船と高速タンカーが主体となり、護衛には海軍の特設空母の神鷹・駆逐艦の樫および海防艦5隻が就く日本軍としては極めて豪華な編制であった)。
空母神鷹には対潜飛行部隊として第九三一海軍航空隊の九七式艦上攻撃機14機が搭載され、目視が可能な昼間には2機が常時飛行し哨戒、また神州丸・あきつ丸および護衛各艦も水中聴音機を使用し敵潜水艦を警戒していた。なお、当時の「あきつ丸」は対潜用護衛空母として改装後の姿であったが、護衛に神鷹があることと大規模な軍隊輸送のため対潜飛行部隊(独立飛行第1中隊・三式指揮連絡機)は陸揚げされ、航空機格納庫には物資等を満載している。
しかし15日正午頃、五島列島沖において護衛各艦および九三一空機の哨戒の隙を突かれ、あきつ丸がアメリカの潜水艦クイーンフィッシュの雷撃で輸送弾薬が誘爆炎上、転覆轟沈した。また17日18時に摩耶山丸がピクーダ、同日23時に神鷹がスペードフィッシュの雷撃でそれぞれ撃沈された。これにより輸送部隊の半分を喪失、3隻合計で約6,200ないし6,700名が戦死した。
なお、眼前で僚船を撃沈された神州丸・吉備津丸に被害は無く、25日に同じく無傷のタンカー船団(ヒ81船団)と分離したのち、26日高雄よりタマ33船団に改編。目的地の北サンフェルナンド(当初のマニラより変更)へ到着、輸送部隊を揚陸し任務を達成している。
タマ38船団
12月、同じくルソン島への精鋭部隊(第19師団・第1挺進集団)輸送任務が神州丸および吉備津丸・日向丸(M甲型) に与えられた。このタマ38船団は26日に高雄を出港、特種船3隻と1隻の輸送船青葉山丸は数隻の海防艦に護衛され、29日北サンフェルナンドへ到着。揚陸作業中にアメリカ陸軍航空軍第5空軍の攻撃を受け青葉山丸が沈没するも、神州丸以下は31日深夜までに輸送物件の大半を無事に揚陸、輸送任務は成功した。
最期(マタ40船団)
年が明けた1945年(昭和20年)1月1日3時55分、タマ38船団で揚陸任務を成功させた神州丸および吉備津丸・日向丸は帰還便乗者数百名を乗せ、海防艦三宅以下6隻を護衛としマタ40船団を編成、サンフェルナンドを出港した。
3日0時30分、バシー海峡を突破した船団は高雄沖に到着し投錨。7時、高雄入港のため抜錨するが、台湾はアメリカ海軍空母機動部隊(第38任務部隊)艦載機により空襲中との情報を入手。回避のため中国本土へ変針したが、7時50分に第38任務部隊の索敵機2機と遭遇、索敵機は船団警戒のため出撃していた海軍の飛行艇を撃墜し去った。こののち爆装した敵艦上爆撃機3機が飛来するも、神州丸以下は対空戦闘を敢行しこれを撃退[44]。
11時30分、空母ホーネット (CV-12)他より約50機の敵大編隊が襲来、爆撃機・雷撃機が船団の中でもひときわ異様な船型の神州丸を集中攻撃していった。神州丸は巧みな操船と船砲隊の対空戦闘により十数発の爆弾・魚雷を回避するも、戦闘開始約10分後ついに船橋付近と煙突付近に爆弾が直撃。爆弾は馬欄甲板(旧:航空機格納庫)を貫き上甲板上で爆発し火災が発生した。攻撃は15分程で終わり敵機も空母に帰還したが、神州丸の延焼を防ぐことは出来ず搭載弾薬も誘爆したため、中村船長は総員退船命令を発し同じく12時30分には今野船砲隊長も退船命令を発令、神州丸は放棄された。戦死者は船員33名・船砲隊66名・便乗者283名に上る[45]。生還した神州丸の乗員は海防艦に救助され、また僚船の吉備津丸は3発の直撃弾を受けていたが日向丸ともども健在であり、これら残ったマタ40船団は目的地高雄に入港した[46]。
放棄された神州丸は水線下には被害を受けていなかったため、沈むことなく炎上を続けながら漂流した。しかし約12時間後、夜間で炎に照らされるその姿が目標となり、1945年1月3日23時37分にアメリカ海軍の潜水艦アスプロの雷撃を受け高雄沖南南西約90km、北緯21度57分・東経119度44分の地点で沈没した。ここに帝国陸軍船舶部隊の筆頭として、日中戦争開戦直後から数多の上陸作戦・揚陸作戦にて活躍を見せた神州丸はその生涯を終えた。
主要船歴
- 1933年4月8日 - 播磨造船所にて起工
- 1934年2月8日 - 神州丸と命名
- 3月14日 - 進水
- 11月30日 - 引渡
- 12月15日 - 竣工
- 1935年2月26日 - 完全完成(呉海軍工廠にてカタパルト設置後)
- 1937年5月 - 舞鶴海軍工廠にて改装着手(舷側の水中防御を改善)
- 7月 - 日中戦争勃発にともない改装工事を未成のまま帰港
- 8月 - 太沽上陸作戦参加。揚陸成功
- 11月 - 杭州湾上陸作戦参加。揚陸成功。
- 1938年10月 - バイアス湾上陸作戦参加。揚陸成功
- 1939年2月 - 海南島上陸作戦参加。揚陸成功
- 1941年12月 - 防空基幹船に指定。マレー作戦・シンゴラ上陸作戦参加。揚陸成功
- 1942年3月1日 - 蘭印作戦・ジャワ上陸作戦参加。揚陸成功
- 第1次上陸部隊揚陸直後、バタビア沖海戦に巻き込まれ友軍の重巡最上の発射した魚雷が命中し大破、大傾斜着底。座乗していた第16軍司令官今村均陸軍中将以下、将兵が海に投げ出される
- 3月4日 - サルベージ作業開始
- 12月25日 - 応急修理のためシンガポールに移送
- 1943年7月 - 播磨造船所へ入渠
- 10月 - 修理を完了。以降、数々の輸送・揚陸任務に従事
- 1944年6月 - ヒ65船団に加入し航行中、敵潜の雷撃を回避しようとした輸送船有馬山丸が船尾に衝突。爆雷が誘爆し大破・操舵不能になり約200人が死亡、台湾にて修理を行う
- 11月 - ヒ81船団にあきつ丸・摩耶山丸・吉備津丸の特種船3隻等と共に加入。あきつ丸・摩耶山丸および護衛の神鷹を敵潜の雷撃によって喪失するも、神州丸・吉備津丸は生還
- 11月/12月 - 吉備津丸ともにタマ33船団を編成。揚陸成功
- 12月 - 吉備津丸・日向丸とともにタマ38船団を編成。揚陸成功
- 1945年1月3日 - 帰路、吉備津丸・日向丸とともにマタ40船団を編成し航行中、高雄沖にてアメリカ海軍第38任務部隊の空襲を受け炎上、放棄。なお吉備津丸・日向丸は生還
- 漂流中に米海軍潜水艦アスプロの雷撃で沈没
脚注
- ^ 陸軍運輸部技師 『表紙「特殊船、神州丸、竜城図面」』 アジア歴史資料センター、Ref.C14020235900
- ^ 陸軍砲工学校工兵科長 「特種輸送船見学ノ件」 1936年4月20日、アジ歴、Ref.C01004216900
- ^ 戦後、ウォーターラインシリーズといった艦艇模型等のボックスアート画家として活躍する、上田毅八郎が船砲隊(船舶砲兵)砲手として乗船・従軍。
- ^ 奥本 2011、53項。
- ^ のちの量産特種船である甲型1番船摩耶山丸・甲小型2番船日向丸・M丙型1番船熊野丸と、重巡洋艦摩耶・戦艦日向・重巡洋艦熊野等。
- ^ 松原 1996、84-85頁。
- ^ 21世紀初頭現代においても、アメリカ陸軍は大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有している。
- ^ 松原 1996、91-92頁。
- ^ 奥本 2011、4項。
- ^ 奥本 2011、37項。
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「特種運送船名ニ関スル件」 1934年2月8日、アジア歴史資料センター、Ref.C01004029800
- ^ 奥本 2011、37項。
- ^ a b 日本造船学会 1977、767頁。
- ^ 奥本 2011、39項。
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「神州丸取扱ニ関スル件」 1935年1月24日、アジ歴、Ref.C01004092300
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「陸軍輸送船神州丸ニ関スル件」1935年1月10日、アジ歴、Ref.C01004092100
- ^ 「特種輸送船見学ノ件」 1936年4月20日
- ^ 山型波線の意匠は、旭日を意匠とする「軍旗(連隊旗)」の制定と同時期(明治時代最初期)に「大隊旗」として制定されたものであり、近代日本においては陸海軍のシンボルの一つとして広く用いられていたものである。海軍においても山形波線と碇を意匠とする海軍大臣旗(旧:海軍卿旗)として明治最初期に制定されている。
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「神州丸引渡式ニ関スル件」 1934年11月27日、アジ歴、Ref.C01004091800
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「神州丸視察者等ニ関スル件」1934年12月24日、アジ歴、Ref.C01004091700
- ^ 奥本 2011、35項。
- ^ 奥本 2011、5項。
- ^ 奥本 2011、40項。
- ^ 奥本 2011、45項。
- ^ 日本造船学会 1977、768頁。
- ^ 奥本 2011、53・54項。
- ^ 松原 1996、85-86頁。
- ^ 奥本 2011、5項。
- ^ 奥本 2011、41項。
- ^ 奥本 2011、43項。
- ^ 奥本 2011、43項。
- ^ 奥本 2011、40項。
- ^ 奥本 2011、51項。
- ^ 奥本 2011、52・53項。
- ^ 奥本 2011、53項。
- ^ 奥本 2011、55項。
- ^ 第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 アジ歴、Ref.C08030119100
- ^ 奥本 2011、53項。
- ^ 奥本 2011、54項。
- ^ 奥本 2011、53・54項。
- ^ 奥本 2011、55項。
- ^ 奥本 2011、55項。
- ^ 奥本 2011、65項。
- ^ 奥本 2011、63項。
- ^ 奥本 2011、65項。
- ^ 奥本 2011、63・65項。
参考文献
- 石橋孝夫『艦艇学入門―軍艦のルーツ徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2000年。ISBN 978-4769822776。
- 瀬名尭彦「昭和の日本陸軍船艇」『世界の艦船 506号』、海人社、1996年、22-23頁。
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻 戦前・戦時編』原書房〈明治百年史叢書 第207〉、1977年。ISBN 978-4562003020。
- 松原茂生、遠藤昭『陸軍船舶戦争』戦誌刊行会、1996年。ISBN 978-4795246331。
- 奥本剛『日本陸軍の航空母艦 舟艇母船から護衛空母まで』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4499230520。
- 三木原慧一『帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (37)』学習研究社、2002年。ISBN 978-4056027808。
- 参謀本部 「特種輸送船準備ニ関スル件」1938年3月24日、アジア歴史資料センター、Ref.C04120477800
- 陸軍運輸部 「神州丸用探照灯保管転換ノ件」 1936年4月8日、アジ歴、Ref.C01004243600
- 陸軍運輸部 「神州丸無線電信所開設ノ件」 1934年12月10日、アジ歴、Ref.C01004129900