上田毅八郎

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うえだ きはちろう
上田 毅八郎
生誕 1920年8月30日(93歳)
日本の旗 日本 静岡県
職業 船舶画家
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上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - )は、日本の画家である。海洋船舶画家として[1]、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。

人物[編集]

生い立ち[編集]

静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた[1]

従軍体験[編集]

1941年昭和16年)、20歳のときに召集されて浜松市の陸軍高射砲連隊に入営。船舶砲兵(陸軍輸送船の高角砲員)として兵員輸送作戦に従事。軍務の傍ら、すれ違う艦船などを軍事郵便ハガキにスケッチしていた。また、ジャワ島アリューシャン列島ラングーン湾(ビルマ)など、赴く土地の空や海の色を頭に叩き込んだ[1]

従軍中、上田は26隻の軍隊輸送船に乗船し、計6回撃沈されている[1]1944年昭和19年)11月14日、上田が船舶砲兵として乗船していた輸送船、金華丸は敵機250機からの3日間に渡る空襲を受けてマニラ湾で撃沈され、船砲隊員の3分の2は即死した[1]。船首の砲座にいた上田は海に飛び込み、3-4時間漂流の後に一命を取り留めたものの、利き腕の右手と右足を負傷して障害を残した[1]

終戦後[編集]

上田は従軍前、父親の営む塗装業を手伝っていたが、戦後は右手足の障害により高所作業などはかなわず、代わりに座ってでもできる看板の文字を書く仕事を始めた[1]。仕事の終わった夜には、左手で書道を習うなどしていたが、絵を描きたいとの欲求は抑えられず、趣味として艦船などの絵を描き続けた[1]

船舶画家[編集]

それらの絵が次第に地元の評判となっていた1959年昭和34年)、静岡で同じ町内に住んでいた田宮模型(現在のタミヤ)の田宮俊作[2]から箱絵の製作を依頼された上田は即座に快諾した[1]。巡洋艦「鳥海」「愛宕」を描いたのを手始めに3-4日で一枚を仕上げる仕事ぶりで、後の艦船プラモデルシリーズ「ウォーターライン」の箱絵の大半、2,000枚以上が上田の作となった[1]

上田は船舶画を描く際、何よりも正確さにこだわり、資料を徹底的に調べ、写真がないものについては図面から絵を書き起こしている。国会図書館に残る当時の軍艦の設計図から構造を知るほか、船舶装備の機能の理解、場所による海や空の色、船の速度による煙のたなびき方の違いなど、従軍による実体験による知見があるからこそ再現できるものという[1]

1973年昭和48年)に初の個展を開催、以後帆船、軍艦、車、機関車、飛行機等の作品が、プラモデルのボックスアート以外に絵本カレンダー等でも使われるようになった。2009年現在までに2万点以上の作品を手がけ、あわせて後進の指導に力を入れている。2011年平成23年)2月には、画集『上田毅八郎の箱絵アート集-戦艦大和から零戦まで』(草思社)が出版された。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 戦友の魂慰める船舶画 上田毅八郎 『日本経済新聞』 文化面、平成23年4月20日
  2. ^ 後に上田の絵を、「あの人の絵は、いつも悲壮な勇姿という解釈が施されている」(『朝日新聞』 平成6年11月18日)と評している

外部リンク[編集]