熊野丸

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KumanoMaru-1945.jpg
船歴
起工 1944年8月
進水 1945年1月28日
竣工 1945年3月31日
就役 終戦時未就役。戦後に引き揚げ船として就役。
除籍 1947年
性能諸元
総トン数 9,502 トン
排水量 8,000 トン(基準)
全長 152.0 m
垂線間長 142.0 m
全幅 19.6 m
喫水 7.0 m
主機 蒸気タービン 4缶2基2軸
出力 10,000馬力(軸馬力)
速力 19ノット
乗員
兵装 75mm単装高射砲8基
20mm単装機銃6基
8cm迫撃砲2門
搭載機等 三式指揮連絡機8機

熊野丸(くまのまる)は、大日本帝国陸軍が建造した揚陸艦である。日本陸軍における分類は特種船太平洋戦争中に護衛空母機能を有する上陸用舟艇母船として起工されたが、完成が大戦末期となり、実戦使用されないまま終戦を迎えた。引き揚げ船として使用後、解体された。

建造[編集]

日本陸軍は、島国という地理的事情のため早くから上陸戦に対する関心が深く、1930年代から陸軍特種船(陸軍特殊船)と称される揚陸艦を建造していた。太平洋戦争が勃発すると揚陸戦艦艇の需要は高まり、戦時標準船に代表される計画造船の一環としても特種船4隻の建造が行われることになった。戦時型の特種船は一般の戦時標準船各型と並んでM型に分類され、うち2隻は標準的な舟艇母船のM甲型、2隻は上陸戦支援のための航空機発進能力を有するM丙型として計画された。なお、完全な軍用船ではあるが、民間海運会社保有の商船名目で建造し、徴用の形で陸軍管理下で運航する方式を採った[1]

このM丙型1番船として計画されたのが「熊野丸」である。1944年(昭和19年)3月から着工のM甲型に続いて、日立因島造船所で建造されることになった[1]。名目上の船主は川崎汽船である。空母類似の全通飛行甲板による航空機運用能力を持つ特種船としては、戦前計画の「あきつ丸」に続き2隻目となる。ただし、この時点での航空機運用は上陸戦時の支援戦闘が目的で、飛行甲板は発進専用、使用後は陸上飛行場に着陸させる計画だった。

ところが、「熊野丸」が未着工のうちに太平洋戦争の戦局は次第に悪化、特にアメリカ海軍潜水艦による輸送船被害の増大が問題となった。日本陸軍は、海軍による海上護衛が十分でないと不満を抱き、1943年(昭和18年)8月から陸軍船舶兵が運用する独自の対潜用護衛空母の建造を検討し始めた。日本海軍との折衝の末、「あきつ丸」およびM丙型にカ号観測機三式指揮連絡機を運用できる護衛空母機能を追加することと、護衛空母兼用タンカーである特TL型戦時標準船を建造することが、1944年3月までに決定された。その結果、未着工の「熊野丸」も護衛空母化の対象となり、海軍協力の下で設計が変更されることになった[2]

「熊野丸」は1944年8月に起工され、1945年(昭和20年)1月末に進水、同年3月末に竣工となった。ただし、艤装のうち高射砲など兵装の搭載は行われていない。

設計[編集]

基本構造は他の陸軍特種船と同様の舟艇母船で、船体の水線近くを全通式の舟艇格納庫としている。船尾に発進口があり、兵員搭載状態の大発動艇を格納庫内に敷かれたコロを使って連続発進させることが可能だった。

「あきつ丸」と異なって当初から海軍の協力を得て設計されたため、航空機運用機能がより洗練されたものとなった。外観は、「あきつ丸」が飛行甲板脇に船橋や煙突が立った島型空母だったのに対し、「熊野丸」では煙突を日本海軍の空母の多くと同様に舷側開口とし、船橋も飛行甲板下に収納した平甲板型空母へと大きく変わった。デリックポストの位置も、竣工時の「あきつ丸」のような船尾中央ではなく、発着の邪魔にならない左舷後部に最初から装備された。飛行甲板後端にはエレベーターが設けられ、甲板下の航空機格納庫から搭載機を移動できる。着艦制動装置は「あきつ丸」と同様で、陸軍が萱場製作所に独自開発させたものを使用する予定だった[3]。なお、飛行甲板に迷彩塗装が施されていたが、当初からの計画なのか、係留状態でのカモフラージュとして行われたものか不明である[2]

運用等[編集]

「熊野丸」の建造中にさらなる戦局の悪化が進み、竣工した1945年3月末にはヒ船団などの南方資源航路は閉鎖状態にあった。以前のような潜水艦の脅威だけでなく、航空機の脅威が増大しており、計画された対潜護衛空母としての運用が可能な情勢ではなくなっていた。そのため、一応は竣工した「熊野丸」も、一度も実用航海に出ないまま陸軍船舶の本拠地である宇品港金輪島に係留された。教育中の船舶砲兵の見学に使用された程度で、兵装も搭載されず、カモフラージュを施して攻撃を免れるだけとなった。宇品周辺では呉軍港空襲広島市への原子爆弾投下などがあったが、「熊野丸」が大きな損害を受けることは無かった[4]

引き揚げ船として使用中の「熊野丸」。煙突が直立式に改められ、飛行甲板上に救命ボートが搭載されるなど外観が変化している。

行動可能な状態で終戦の日を迎えた「熊野丸」は、海外からの復員兵引揚者輸送に使用されることになった。引揚船としての使用のため、煙突は飛行甲板を貫通した右舷寄りの直立式に変更され、救命ボートの増加搭載などの改装工事が施されている。格納庫などは蚕棚と通称される多段式ベッドを設置して居住空間となり、最大収容人員は約4000人とされた。葫芦島在留日本人大送還に加わって満州方面の引揚者を1回輸送しただけとする説もあるが[5]、乗船した復員兵らによれば、1946年(昭和21年)2月にショートランド諸島ファウロ島から復員兵3610人を輸送[6]1947年(昭和22年)5月にはジャワ島から復員兵約2000人を輸送[7]、6月にはビルマラングーンからの復員輸送[8]など各地に赴いている。

引き揚げ輸送に目途がついた後、廃船となった「熊野丸」は1947年11月から翌1948年(昭和23年)8月末までに解体された。設計的には商船への改装も可能だったと思われるが、元は航空母艦機能を有した点が軍備解体との関係で問題視され、GHQからの許可が得られなかった[4]。船体下部は、川崎重工神戸造船所浮きドックとして再利用された[5]

同型船[編集]

同じM丙型特種船として計画された船として、「ときつ丸」(日本海運)がある。1944年10月に同じ日立因島造船所で起工されたが、途中で設計変更されて護衛空母機能を省き、M甲型に類似した船型で建造が進められた。資材欠乏のため終戦時に進水前の状態で、貨物船へと再度の設計変更を受けて、一般商船として竣工した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 岩重(2011年)、56頁。
  2. ^ a b 岩重(2011年)、58頁。
  3. ^ 奥本(2011年)、66頁。
  4. ^ a b 岩重(2011年)、131頁。
  5. ^ a b 奥本(2011年)、67頁。
  6. ^ 暁会(編) 『あぁ陸軍の海戦隊記―絵で綴る戦友たちの証言 船舶工兵第二聯隊(前身 独立工兵第十一聯隊)史』 暁会事務局、1992年、277頁。
  7. ^ 小倉彰 「パレンバン石油部隊の追想」『平和の礎―軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編) 第4巻』 平和祈念事業特別基金、1993年、184-185頁。
  8. ^ 戦時下に喪われた日本の商船:熊野丸(2012年2月12日閲覧)

参考文献[編集]

  • 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年。
  • 奥本剛 『日本陸軍の航空母艦―舟艇母船から護衛空母まで』 大日本絵画、2011年。

外部リンク[編集]