劉璋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。2400:2650:2000:2300:8177:301a:1ba3:b994 (会話) による 2022年11月22日 (火) 23:52個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎生涯)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

劉璋
清代の書物に描かれた劉璋
代の書物に描かれた劉璋
後漢
陽城侯・監軍使者・振威将軍
出生 延熹5年(162年)頃?
死去 建安24年(219年
拼音 Liú Zhāng
季玉
主君 独立勢力→劉備孫権
テンプレートを表示

劉 璋(りゅう しょう、延熹5年(162年)頃? - 219年建安24年))は、中国後漢末期の群雄である。劉焉の子。家系は劉氏季玉劉瑁の弟である。

生涯

劉焉の少子(末の子)だったが、若い時に長兄の劉範や次兄の劉誕と共に、奉車都尉として長安献帝の近侍として仕えていた。献帝は宗室の劉焉の暴走を諫めさせるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞かずに劉璋を二度と都に戻さなかったという。194年興平元年)に兄劉範劉誕が相次いで亡くなった[1]。劉焉が病死した時に州の大吏の趙韙らは劉璋の温仁を貪らんと、共に上書して劉璋を益州刺史とした[2]。朝廷(李傕政権)は、劉璋を益州牧に任命した。

200年(建安5年)、自分に叛いた張魯の生母(盧氏)とその弟の張徴を見せしめのために誅殺した。

この頃、劉璋と趙韙は感情的な対立がもとで決裂し、趙韙は劉璋に兵を向けようとしたが、返り討ちにされた。『英雄記』によると劉璋は、荊州三輔出身の兵士である東州兵が民衆を侵害しても取り締まることができず、政令に欠けるところも多かったので、これらの事を不満に思う民衆は少なくなかった。劉璋は趙韙にこの問題を解決させようとしたが、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び謀反を起こした。蜀郡・広漢犍為の三郡は趙韙に呼応し、劉璋は窮地に陥ったが、東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、趙韙は配下に裏切られて斬られ、反乱は終結した。また『華陽国志』では、趙韙は劉璋を諫めたが聞き入れられず、謀反を起こしたとある。

曹操が荊州を制圧すると、劉璋は陰溥を使者として派遣して曹操に敬意を表した。曹操は劉璋に振威将軍の将軍位を与えた。この際、兄・劉瑁は平寇将軍の官位を貰っている。その後、劉瑁は精神を病み間もなく亡くなった[3]

重臣の中には野心家の張松法正孟達らがいて、彼等は既に劉璋の下では出世が覚束ないと考え、これを見限り劉備を益州の牧として迎えるべく画策する。この頃、益州にもようやく張魯や曹操らの脅威が迫りつつあった。元々、戦が不得手であった劉璋は、このこともあって張松らの進言を聞き入れて、あっさりと劉備を益州に入れることを許してしまう。この時、王累黄権劉巴らが反対したが、劉璋は聞き入れなかった。

後に張松の兄張粛の密告で張松の内通行為が露見すると、劉璋は張松を処刑して劉備と対立し、劉備は軍勢を率いて劉璋を攻撃した(劉備の入蜀)。鄭度が劉備軍を飢えさせるために焦土作戦を採るように進言したが、優柔不断で領民思いな劉璋は受け入れなかった。劉璋の武将の劉循張任らが懸命に抗戦したが、戦慣れした劉備軍の前に遂に敗れ、劉備軍は成都に迫った。214年(建安19年)の夏5月の劉備の降伏勧告に対し、官民の多くは戦う覚悟であったが、劉璋は「私はもはや領民を苦しめたくない」と言って決断し、降伏した。

降伏後、劉璋は劉備の命令で次男の劉闡と共に荊州の士仁が守る公安に移された。長男の劉循は奉車中郎将として、成都に滞まってそのまま劉備の家臣となった。

219年(建安24年)、関羽呂蒙によって殺され、荊州が孫権に奪われた時、劉璋はそのまま帰順して家臣となり、孫権に益州に任じられたが、間もなく病死した。

三国志』の著者陳寿は、「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」と厳しい評価をしている。

関連人物

親族

配下

演義のみ

脚注

  1. ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」によると兄・劉瑁の死については、曹操が荊州を制圧時に劉璋が使者を送った時期である。
  2. ^ 『三国志』蜀志 「劉二牧伝」 州大吏趙韙等貪璋温仁、共上璋為益州刺史
  3. ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」 璋聞曹公征荊州、已定漢中、遣河内陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故

参考資料

  • 『三国志』