モラル・パニック

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モラル・パニック(moral panic)とは、「ある時点の社会秩序への脅威とみなされた特定のグループの人々に対して発せられる、多数の人々により表出される激しい感情」と定義される[1]。より広い定義では、以前から存在する「出来事、状態、人物や集団」が、最近になってから「社会の価値観や利益に対する脅威として定義されなおされる」ことと言える[2]

モラル・パニックは、ある種の文化的行動(多くの場合サブカルチャーに属する)や、ある種の人々(多くの場合、社会的・民族マイノリティに属する)に対して、世間一般の間に「彼らは道徳常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解偏見、誇張された認識が広がることによって一種の社会不安が起こり、これら「危険な」文化や人々を排除し社会や道徳を守ろうとして発生する集団パニック集団行動である。少数の人々に対する、多数の人々(必ずしも社会の多数派というわけではない)による激しい怒りという形をとる。

概説

架空の例であるが、次のようなものがモラルパニックである。

社会に急速に携帯電話が普及したことにより、若者が携帯電話などに熱中することへの懸念が中高年の間で広がるとする。やがて「若年犯罪の増加や少女売春の増加や人間関係の劣化は、携帯電話の電波による脳へのダメージが原因だ」というようなセンセーショナルな説がメディアなどを通じて蔓延し、保護者の間に携帯電話に対する恐怖や社会不安が発生する。不安の高まりの結果、携帯電話の害悪を訴えて携帯電話を子供から取り上げたり、携帯電話販売を禁止したり携帯電話サイトを一律閉鎖したりする運動が社会全体に一気に広がる。この社会不安と運動はモラルパニックである。

これらのパニックは社会問題や俗流若者論などを取り上げるメディア報道により火が付くことが一般的であるが、半自然発生的にモラル・パニックが起こることもある。集団狂気(マス・ヒステリア、mass hysteria)はモラル・パニックの要素となりうるが、集団狂気とモラル・パニックの違いは、モラル・パニックの場合は人々の持つ道徳性によって燃え上がり、普通「純粋な恐怖」というより「怒り」として表現されることである。社会的・文化的価値観を覆すものに対する静かな不安が広がっている時に、怒りを表現してパニック的運動を発生させる人々は市民運動家・政治家評論家・メディアなどの「道徳事業家」(道徳起業家、moral entrepreneurs、アメリカの社会学者ハワード・S・ベッカー Howard S. Beckerによる造語)と呼ばれる人々であり、その標的となるのは「フォーク・デビル」(folk devil、「民衆の悪魔」、社会からよそもの視される人々で、民話や噂話やメディアなどでさまざまな害悪の原因としていつも非難される人々)と呼ばれる人々である。

モラル・パニックとは社会に緊張を起こすような論争の副産物でもあり、またモラル・パニックに対し疑問を呈することは社会の敵を擁護するものとしてタブー扱いされ、公の場での論争ができないこともある[3]

モラル・パニックは、社会が共有してきた価値観や規範に対する脅威が知覚されたときに、人々がその「脅威」を思い巡ることで起こるものである。普通、これらの脅威はマスメディアによる大々的報道に刺激されるか、社会の中の・言い伝え・都市伝説などによって刺激される。モラル・パニックはさまざまな結果を残すが、最も痛ましいものはパニックの中にいる参加者に対する「免状」である。彼らの行いはマスメディアによる観察や報道によって正当性を与えられ、それゆえマスメディアに見られている/支援されている彼らは集団心理によって激しい活動に向かって突き進んでしまう。

起源

「モラル・パニック」という言葉は1972年英国社会学スタンリー・コーエンStanley Cohen)によって生み出された。彼は著書『Folk devils and Moral Panicsフォーク・デビルとモラル・パニック)』に於いて、1960年代の英国でマスメディアがモッズロッカーズといった荒れる若者達をどう報道しどう過剰反応したかを記述する際にこの語を使用した。しかしコーエン以前に、彼の同僚であるジョック・ヤング(Jock Young)がロンドンのノッティング・ヒルでドラッグを吸う人々に対する社会の反応を「モラル・パニック」と表現した例がある[1]

モラル・パニックという言葉は比較的最近にできたものだが、多くの社会科学者は1925年に開始された「ミドルタウン・スタディーズMiddletown studies)」というアメリカ合衆国都市についての事例研究case study)に、この現象に関する最初の深い研究が含まれていた、と指摘している。この研究で、研究者達は、アメリカの小さな町の社会的・宗教的指導者達が、当時の最新技術であるラジオ自動車を「非道徳的な振る舞いを起こすもの」として非難していたことを報告している。例えば、この研究の際にインタビューを受けた牧師は、自動車を「車輪のついた売春宿」と表現し、この新発明を教会に出るべき時間に街の外へドライブに出かける手段を市民に与えるものとして非難している。

スチュアート・ホールらは、『Policing the Crisis: Mugging, the State and Law and Order』(1978年)において、アメリカで発生していた路上での強奪(mugging)がイギリスにも出現したことに対する社会の反応を研究し、コーエンの「モラル・パニック」を援用して、「犯罪率が上昇している」という議論が、社会の管理化を行うイデオロギー上の機能を果たしていると理論づけた。ホールの考えでは、犯罪に関する統計は政治的・経済的目的で歪められ、「危機を取り締まる」ことへの大衆的支持を作りだすためにモラルパニック(例えば、路上強奪に対するモラルパニック)が起こされるとし、メディアはそのためのニュース生産に中心的役割を果たすとした[4]

パニックの進行

モラル・パニックにはコーエンのいう「逸脱を増幅するスパイラル」という要素、すなわちメディア批評家の定義によれば「反社会的行動に分類される出来事やその他望ましくない出来事についての報道が更に次の報道を起こし拡大する螺旋状の進行」という要素がある。

  1. 関心 - モラル・パニックが起こるには、まず世間に、ある疑わしい集団や文化があり、社会に対し害をなす可能性がある、という認識があることが必要である。
  2. 敵意 - そうした集団や文化に対する敵意が高まり、「フォーク・デビル」へとされてゆく。「やつら」と「わたしたち」の明確な区分が形成される。
  3. 合意 - 国民的なものとはならないまでも、「これらの文化や集団は社会に対する現実的な脅威である」という認識が広まり受容される必要がある。このとき、「道徳事業家」たちの声が大きく、その一方で「フォーク・デビル」の声は社会に届かず組織化もされていないことがモラル・パニック発生には重要である。
  4. 不均衡 - 大衆は、非難されている集団が持つ実際の脅威に比べて不均衡な統計や情報を与えられる。
  5. 揮発性 - モラル・パニックは揮発性が高いため、激しく燃え上がるが終わる時も早く、大衆やメディアの関心は次の事件やニュースへ向かう[1]

批判

『フォーク・デビルとモラル・パニック』で、コーエンは「モラル・パニック理論」に対して起こった批判について概要を述べている。そのうちの一つは「パニック」という言葉に関するもので、この語が不合理さや混乱などの意味を内包してしまっているというものだった。コーエンは、パニックという語はメタファーとして使った時にはぴったりくる言葉だと主張している。

他の批判は不均衡性に関するもので、ある文化や集団に対する不均衡な反応の「不均衡」とはどれくらいの程度のものか、測る方法がないことを問題としている。コーエンが同書で述べているフォーク・デビルの例のうち、すべてが弱者であったり不当に中傷されたものであったりしたわけではないことを批判する者もいる。

Jewkesは「モラル」や「モラリティ」という語に関する問題、この語が「モラル・パニック」論において疑問なしに受容されている問題を挙げている[5]

モラル・パニックの例

実例や仮説が広まることによって、多くのモラル・パニックが起こっている。ただし、これらの事象を「モラル・パニック」とみなす立場と、正当な社会的運動とみなす立場には対立があるため、決着のつかない議論になる場合があることに注意したい。

法により線引きをすることは可能ではあるが、かつて魔女狩り裁判、奴隷制度を認める法や禁酒法などが存在したのも事実であり、普遍的なものではない。モラル・パニックが広がることにより、犯罪の取り締まりの強化や行政上の変化、さらには法制にまで影響をもたらすこともある。

古いもの

  • 魔女狩り
  • ホワイトスレイブリ(19世紀後半-20世紀初頭)
    若い女性をさらって性的奴隷のため売り飛ばす商売があるという噂が広がり、中国系移民ユダヤ人がその首謀者だとして攻撃を受けた。
  • 血の中傷Blood libel
    子供などを生贄にして殺し、その血を宗教的儀式に使っているという主張。反ユダヤ主義に関して長年、ユダヤ人を非難するために流布されてきたが、他のあらゆる宗教的異端者も中傷の標的となっている。
  • ホモフォビア同性愛に対する嫌悪、恐怖)
    同性結婚に対する反対も含まれる。
  • 混血移民などに対する恐怖・差別、ユダヤ人に対する暴行・虐殺
  • 小説演劇映画などの害悪
    1930年、アメリカでギャング映画の隆盛に対する宗教団体などの非難が高まり、アメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA、現在のMPAA)は自己検閲のためヘイズ・コード(Hayes Code)と呼ばれる映画製作倫理規定を策定した。1934年からはすべての映画に対し厳格適用されることになった。こうした自己検閲は1966年の廃止まで続き、アメリカ映画の勢いを少なからず殺いだ。
  • アルコールに対する、宗教団体や女性団体からの批判
    1920-1933年の間、アメリカ合衆国においていわゆる「禁酒法」として具現化。

20世紀半ば以降

20世紀後半以降

20世紀末以降

  • 少年犯罪の増加・凶悪化
    日本では少年犯罪が統計では減少しているにもかかわらず、1997年神戸連続児童殺傷事件以降センセーショナルに報じられるようになった。そして、特に2000年頃からは17歳の少年の犯罪が盛んに報道された。このことは日本政府を動かし少年法改定の推進力となった。また犯罪全体に対する厳罰化死刑制度の支持・存続を求める声も増加している。
    校内暴力や(対象が頻繁に入れ替わるようなタイプの)いじめの背景にもモラル・パニックがあると論じられる[7]
  • ペドフィリア(幼児性愛)に対する反発
    英国などではタブロイド紙などで反ペドフィリア・キャンペーンが行われており、結果、幼児性愛者と間違われた人に対するリンチも起きている[8]
  • 学校の安全
    アメリカでは1999年のコロンバイン高校銃乱射事件以来、生徒による校内での事件防止のため様々な安全対策がとられたが、しばしば過剰反応も指摘される。また同じくアメリカで、学級崩壊や成績悪化、麻薬取引など校内犯罪の増加に対し、1990年代以降ゼロ・トレランス方式とよばれる厳格な指導が広がったが、熱心な推進派と批判派の間の論争も起こっている。
  • フーディー(フード付きスウェット)
    若者の間で一般的な服装であるが、これが非常に流行している英国では万引きなど犯罪につながるという不安が広がり反対運動が起きている。
  • ハッピー・スラッピング
    悪戯と称して、行きずりの他人にいたずらや暴行をする映像を撮る行為。英国では社会的不安を起こしている。
  • クリスマスの世俗化(Secularization of Christmas
    メリー・クリスマス」の挨拶が無宗教的な「ハッピー・ホリデーズ」に変化しつつある風潮に対し、21世紀に入りアメリカの宗教保守派の間から反発の声が上がり、「ハッピー・ホリデーズ」を使用する企業や人物に対して「宗教的価値観を損なっている」という集中攻撃が行われた。
  • ソーシャル・ネットワーキング・サービス
    特に、英米で10代の若者の多くが、MySpaceFacebookに夢中になることへの不安、MySpaceを使った犯罪の恐怖が保護者などに広がり、法的規制が検討されている。
  • デジタルネイティブ
    デジタルネイティブの範囲については諸説あり、Prensky(2001)によると1980年から1994年に生まれた世代ということになるが、彼らのICT関連技術や関連サービスへの関心の高さとリテラシーの高さが、旧世代の間に一種の異人種観を引き起こしている、という見方もある。

脚注

  1. ^ a b c Jones, M, and E. Jones. (1999). Mass Media. London: Macmillan Press
  2. ^ Cohen, Stanley. 『Folk devils and moral panics』. London: Mac Gibbon and Kee社, 1972年. ISBN 0415267129 、9ページ
  3. ^ Kuzma, Cindy. "Rights and Liberties: Sex, Lies, and Moral Panics". AlterNet. September 28, 2005. Accessed March 27, 2007.
  4. ^ Hall, S., et al. 1978. Policing the Crisis: Mugging, the State and Law and Order. London: Macmillan Press. ISBN 0333220617 (paperback) ISBN 0333220609 (hardbound)
  5. ^ Jewkes Y (2004). Media and crime. Thousand Oaks, Calif: Sage, 76-77. ISBN 0-7619-4765-5.
  6. ^ 難波功士戦後ユース・サブカルチャーズについて(1):太陽族からみゆき族へ」(PDF)『関西学院大学社会学部紀要』第96巻、2004年3月、163-178頁、2011年2月13日閲覧 
  7. ^ 藤田英典『教育改革―共生時代の学校づくり』岩波書店、1997年、212頁。ISBN 978-4004305118
  8. ^ Vigilante violence: Death by gossip - Crime, UK - The Independent(2008年9月6日時点のアーカイブ

関連項目

外部リンク