きんさんぎんさん

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きんさんぎんさんとは、1990年代の日本において記録的な長寿で話題となった双子姉妹成田 きん(なりた きん、1892年明治25年)8月1日 - 2000年平成12年)1月23日)、蟹江 ぎん(かにえ ぎん、1892年(明治25年)8月1日 - 2001年(平成13年)2月28日)の愛称。旧姓は矢野。100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ、一般人でありながら1990年代の日本においては国民的な人気を誇り、当時の日本国内のマスメディアからも毎年のように取り上げられていた。長寿を全うした時点では、二人とも名古屋市南区に居住していた。

姉妹

成田きん

蟹江ぎん

  • かにえ ぎん、双子の妹。血液型A。2001年(平成13年)2月28日午前1時50分に死去。満108歳没。
  • 死因は老衰
  • 戒名は徳峰浄銀大姉。
  • 喪主は孫(五女の長男)が務めた。
  • 好物は白身魚、フライドチキン。
  • 中京テレビニュースプラス1』では、訃報を伝える際に「3世紀を生きた」と表記していた

来歴

1892年明治25年)8月1日愛知県愛知郡鳴海村(現在の名古屋市緑区)で矢野家の長女・次女として生まれた。きんとぎんの二人が一卵性双生児であることも検査で確認されているが、血液型は異なっている。二人とも内職として特産品であり伝統工芸品でもある有松・鳴海絞りの絞り括りの工程を仕事としていた。

ぎんは1913年大正2年)、22才の時、農家の息子の蟹江園次郎と見合い結婚。ぎんは養蚕の仕事に精を出すことになる。蟹江家は農業のかたわら養蚕をやり、繭を売っていた。そのため、初夏から夏の終わりごろまで、普段生活する部屋も蚕棚で埋め尽くされていた。

翌年の春に第1子の年子を出産。跡継ぎに男をほしかった姑から、嫌味を言われる肩身の狭い日々を送る。結局男は生まれず4人の娘[1]を育て上げた。

日中戦争により中国から輸入された鶏の餌も途絶え、ぎんの家では、養鶏業をやめざるをえなくなった。姉・きんは、夫・良吉との間に4男7女をもうけ、この戦争で長男と次男を中国大陸の戦地に送ったが、ぎんの夫婦は男の子を授からなかったので、女ばかりのぎん一家は周囲から浮くようになり疎んじられていった[2]。娘らは道を歩くだけで、非国民と言われることがあったという[3]

1991年(平成3年)に数え年百歳を迎えて、当時の鈴木礼治愛知県知事西尾武喜名古屋市長から二人揃って長寿の祝いを受けたことが新聞に紹介される[4]。その後ダスキンテレビCMに起用され[5]「きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳。ダスキン呼ぶなら100番100番。」(ダスキンの問い合わせ電話番号が「100番100番」であったことから)で全国的に有名になり[5]、双子のお婆さんとして親しまれた。同じ時期、通信販売情報誌通販生活」のCMやAMラジオ局・ニッポン放送AMステレオ放送開始宣伝にも出演。1992年(平成4年)の新語・流行語大賞の年間大賞及び語録賞にも選出[5]

1992年(平成4年)2月に『きんちゃんとぎんちゃん』(作詞松本礼児作曲穂口雄右)でCDデビューし、浦辺粂子の持つ、日本での最高齢レコードデビュー記録を大幅に更新した。なお、このCDはオリコンで39位を記録して、オリコン史上最高齢でのチャートイン記録となった。

1992年12月(100歳)、1998年12月(106歳)にテレビ朝日徹子の部屋』にゲスト出演した(2016年現在、歴代の徹子の部屋のゲストの中で最年長)。

1993年(平成5年)にはNHK第44回NHK紅白歌合戦』に応援ゲストとして出演した。また、東海テレビ制作のフジテレビ系列『金曜ドラマシアター』(→『金曜エンタテイメント』、現・『金曜プレミアム』枠)『名古屋嫁入り物語』シリーズに特別出演したほか、敬老の日スペシャルゲストとしてフジテレビ『笑っていいとも!』にも自宅からの中継で登場している。

1995年(平成7年)には「金銀婆婆」と呼ばれ人気を得ていた台湾へ招かれて、103歳で初めての海外旅行をした。この時、ぎんは「(名古屋弁が)通じればええけどね」と語っていた。

百歳を越えて初めて確定申告を経験した。1992年(平成4年)には参議院国会質問においても取り上げられる[6]など話題になり、日本国外でも報道された。1993年(平成5年)には春の園遊会に招かれている[7]放送大学平澤彌一郎教授による足の裏の調査を受けた。このことを契機として、きんは放送大学の科目履修生となり、平澤教授の講義を履修した。全国各地でイベントに参加するなど、亡くなる直前まで芸能活動や慰問を続けた。

姉妹マスコミで取り上げられ始めたころは全白髪であったが、メディアに取り上げられるにつれ黒髪が増えていったことが確認されている。マスコミに取り上げられる前は中度の認知症であったとされるが、マスコミに取り上げられるにつれさまざまな著名人やリポーターの取材を受けたり、全国各地を旅行するために筋力トレーニングに励んだ結果、リポーターの質問に的確に応答し、ドラマ出演時に台詞を記憶するなど症状が改善した。この事例は医学会でも注目され、認知症の予防には、常に新しい経験と刺激・下半身を中心とした筋力トレーニングによる脳への刺激が有効であることの実証例として、テレビ番組『特命リサーチ200X』で紹介された[8]

認知症改善のきっかけとなった下半身の筋力アップのトレーニングは、きんのトレーナーを務めた久野接骨院院長・久野信彦が2008年(平成20年)12月に出版した『老筋力』(祥伝社)内で詳細を記している。その中で、きんはハムストリングス強化運動と呼ばれる筋肉トレーニングなどを行い、下半身の血管を刺激するミルキング効果を向上させることで、血液循環が良化し、認知症改善につながったとされる。また、久野院長はこのときのノウハウからクノンボールという健康器具を開発し、『100歳まで歩ける!クノンボールエクササイズ』(自由国民社)を2011年(平成23年)7月に出版したが、同年11月末現在で10万部を超えるベストセラーとなっている。

家族

その他

  • 戸籍上はぎんが妹ではあるが、先に出生したのはぎんの方である。当時でも法(太政官令)に従えば、ぎんが姉になっていた。しかし当時は双子のうち後から出生した方を兄・姉とする慣習が強かったため、ぎんが妹にされたという(当時は、双子については母親の胎内の奥にいた子の方が先に発生したものと考えられていたため)。
  • 二人の幼少時には、双子は縁起が悪いとする慣習が強く残っており、学校でもいじめの対象となった。そのため、1日交代で学校に通って授業内容を教え合ったりしていたという。
  • 2人は別々の家に住んでいたにも関わらず、ぎんはきんの死去した日に「何か調子が悪い」と体調不良を訴えた。
  • 2001年(平成13年)のエイプリルフールのジョーク記事として、東京新聞に「きんさんぎんさんの三つ子の妹『どうさん』が移住先のブラジルで亡くなっていた」という記事が掲載された。
  • 「尊敬する政治家」として2人とも愛知県選出の海部俊樹(元総理大臣)の名を挙げていた。なお、海部はきんの葬儀委員長を務めている。
  • 100歳になってメディアに出演するようになって大金が入った際、「お金を何に使いますか?」という問いに対して、2人揃って「老後の蓄えにします」とユーモアで答えた。
  • きんとぎんの愛唱歌は『リンゴの唄』(並木路子霧島昇)。それが縁で平成初頭に放送のフジテレビ系列の特別番組で並木との共演が実現し、3人で同曲を合唱した。
  • NHK『週刊こどもニュース』のタイトル文字は2005年(平成17年)まで2人が書いたものを用いていた(2005年以降の題字は松井秀喜が書いたもの)。
  • 1992年(平成4年)3月31日放送のフジテレビの『第11回爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル』でコロッケと対戦した栗田貫一が、きんとぎんの1人2役ものまねをして『三百六十五歩のマーチ』(水前寺清子)を歌うというネタを披露し、勝利を収めた(栗田がコロッケに勝利したのはこの回が最初で最後である。コロッケはこの回を最後に番組から降板)。

音楽

シングル

参加アルバム

  • きんさん・ぎんさんがえらんだ よいこにきかせたいわらべうた・日本の唱歌(1992年10月21日発売)

写真集

  • いまがしあわせ―写真集 きんさん、ぎんさん100年の旅(1992年5月発行、風媒社)
    • 1992年12月時点で3万部近くを発行[12]
  • 夢がたり―きんさんぎんさんありがとう(2002年6月発行、志考社)

脚注

  1. ^ 実際は夭折した2番目の娘がおり、5人の娘を産んだことになる。
  2. ^ 当時の日本は男尊女卑の風潮がまだ根強かった。
  3. ^ 当時の日本では男尊女卑の風潮に加えて、家の男子が兵士として軍隊に入隊することが名誉とされており、ぎん一家のように女性だけの家族は当時の日本人の間では不名誉なこととされた。
  4. ^ 訪問翌日に紹介記事を掲載したのは、中日新聞読売新聞(中部版)、日本経済新聞など
  5. ^ a b c 現代用語の基礎知識 1992年 年間大賞
  6. ^ 第123回国会 予算委員会 第8号 平成四年三月二十四日 質問者 西川潔
  7. ^ 時事年鑑 1994年 P155
  8. ^ http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20000213/f1362.html
  9. ^ 朝日新聞』東京本社版2010年1月20日付夕刊、3版8頁「窓」
  10. ^ [1]
  11. ^ 日本経済新聞』1992年3月6日付名古屋夕刊、37頁。
  12. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年12月17日付名古屋夕刊、36頁。

参考文献

外部リンク