「上杉謙信」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
170行目: 170行目:
* 戦国時代の武将としては希有な慈悲深い人物であった。主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の[[北条高広]]を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした[[佐野昌綱]]に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である[[本庄繁長]]が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
* 戦国時代の武将としては希有な慈悲深い人物であった。主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の[[北条高広]]を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした[[佐野昌綱]]に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である[[本庄繁長]]が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
* 一方で気性の激しさが窺い知れる伝えがある。謙信の重臣である[[柿崎景家]]の死について、『[[景勝公一代略記]]』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている<ref>景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説がある(『柿崎景家―川中島先陣』室岡博)。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子[[柿崎晴家|晴家]]だったとする説もある。</ref>。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を「謀反の疑い有り」として誅殺したり<ref>長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した(『関八州古戦録』)。</ref>、[[宇佐美定満]]に命じて長尾政景を謀殺<ref>謀殺説は『北越軍記』による。『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。</ref>したとする伝えもある。これらの逸話は謙信の性格の苛烈な一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。
* 一方で気性の激しさが窺い知れる伝えがある。謙信の重臣である[[柿崎景家]]の死について、『[[景勝公一代略記]]』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている<ref>景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説がある(『柿崎景家―川中島先陣』室岡博)。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子[[柿崎晴家|晴家]]だったとする説もある。</ref>。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を「謀反の疑い有り」として誅殺したり<ref>長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した(『関八州古戦録』)。</ref>、[[宇佐美定満]]に命じて長尾政景を謀殺<ref>謀殺説は『北越軍記』による。『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。</ref>したとする伝えもある。これらの逸話は謙信の性格の苛烈な一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。
* 永禄2年(1559年)8月27日、二度目の上洛の折、謙信が洛中を周覧していた時に教業坊の路頭で偶然、[[松永久秀]]と行き合った。近国一円に権勢を揮った久秀の面前においても謙信は泰然自若の構えで堂々と振舞った。異例の事態ともいえる謙信のこの態度に久秀は如何とも出来ずにいたが、その際、久秀率いる[[三好氏|三好]]・[[松永氏|松永]]の家臣の内人が無礼を働いたので、謙信は三条橋辺りでこれを捕らえて首を刎ねた。この一件について三好・松永両家から報復も苦情も無かった(『[[上杉家御年譜|謙信公御年譜]]』)。この事件は謙信の威風と勇猛さを伝えるものとして記録されているが、同時に傲岸不遜な一面が垣間見える逸話ともいえる。
* 永禄2年(1559年)8月27日、二度目の上洛の折、謙信が洛中を周覧していた時に教業坊の路頭で偶然、[[松永久秀]]と行き合った。近国一円に権勢を揮った久秀の面前においても謙信は泰然自若の構えで堂々と振舞った。異例の事態ともいえる謙信のこの態度に久秀は如何とも出来ずにいたが、その際、久秀率いる[[三好氏|三好]]・[[松永氏|松永]]の家臣の内2人が無礼を働いたため、謙信は三条橋付近でこれを捕らえてた。この一件について三好・松永から報復・抗議は無かった(『[[上杉家御年譜|謙信公御年譜]]』)。この事件は謙信の威風と勇猛さを伝えるものとして記録されているが、同時に傲岸不遜な一面が垣間見える逸話ともいえる。
* 永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では[[忍城]]城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は[[藤原氏]]の流れをむ名家で、武家棟梁の[[源義家]]にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど過大ではなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない<ref>思文閣史学叢書『戦国期東国の都市と権力』より。</ref>。
* 永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では[[忍城]]城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた長泰は直ちに兵を率いて帰城した。原因は諸将が下馬拝跪する中、長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は[[藤原氏]]の流れをむ名家で、武家棟梁の[[源義家]]にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない<ref>思文閣史学叢書『戦国期東国の都市と権力』より。</ref>。


=== 自己の正当性への確信 ===
=== 自己の正当性への確信 ===

2009年11月19日 (木) 02:38時点における版

 
上杉謙信
時代 戦国時代
生誕 享禄3年1月21日1530年2月18日
死没 天正6年3月13日1578年4月19日
改名 虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎
→輝虎→不識庵謙信
別名 仮名:平三
号:宗心
渾名:越後の虎、越後の龍、聖将、軍神
戒名 不識院殿真光謙信
墓所 上杉家廟所春日山林泉寺高野山ほか
官位 従五位下弾正少弼、贈従二位
幕府 室町幕府越後守護代関東管領
主君 上杉定実憲政足利義輝足利義昭
氏族 長尾氏平姓)→上杉氏藤原姓
父母 父:長尾為景、母:青岩院(虎御前)
養父:長尾晴景上杉憲政
兄弟 長尾晴景長尾景康長尾景房?
仙桃院長尾政景室)、上杉謙信
義兄弟:上杉憲藤上杉憲重上杉憲景
養子:畠山義春山浦景国上杉景虎
上杉景勝
養女:山浦国清朝倉義景の娘)
猶子:織田氏[1]
テンプレートを表示

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)/上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代越後国の武将・大名。後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた。

概要

上杉重房を初代として16代の世系にあたる[2]上杉氏の下で越後国守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎(ながお かげとら)。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。主君・上杉定実から見て「正妻」且つ「娘婿」にあたる。

のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄北条氏康織田信長佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。

自ら毘沙門天転生であると信じていたとされる。また、女性であったとする俗説もあるが、後年の創作である。

生涯

家督相続・越後統一

上杉神社内にある上杉謙信像
春日山城

享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の四男(または三男とも)・虎千代として春日山城に生まれる。

天文5年(1536年)に兄の長尾晴景家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺入門して住職天室光育の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。

当時、越後では守護上杉定実伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎は元服した同年、病弱な晴景を侮り反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。

天文15年(1546年)には黒滝城城主の黒田秀忠長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした(黒滝城の戦い)。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。

天文17年(1548年)、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。

2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。同年、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は翌年天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳に勝利(広瀬郷の戦い)。さらに坂戸城を包囲・降伏させることで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。これにより景虎は越後統一を成し遂げた。

第一次~第三次川中島の戦い

天文年間には甲相駿三国同盟を背景とした甲斐国武田晴信による信濃侵攻相模国北条氏康による北関東侵攻が本格化しており、甲相同盟により相互に出兵した両者の侵攻により、景虎は二正面作戦を余儀なくされる。氏康による攻勢を受けていた上野平井城に拠る関東管領の上杉憲政が、越後に対して救援を求めると景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。

天文21年(1552年)1月、上杉憲政を越後に迎える。4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される[3]。 天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。

同年、武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清高梨政頼(景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、8月にはこれに応じて信濃に出兵し、八幡と布施の戦いで武田軍の先鋒を圧倒、これを撃破。さらに武田領内へ深く侵攻し武田方の諸城を攻め落とす。その後に川中島(長野市南郊)で晴信と対峙する(第一次川中島の戦い)。

天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城(きたじょうじょう)を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。高広は帰参を許される。4月、晴信と川中島の犀川を挟んで再び対峙(第二次川中島の戦い)。しかし小競り合いに終始して決着はつかず、対陣5ヶ月に及び最終的には駿河国今川義元の仲介のもとに、景虎側に有利な条件での和睦に成功したため軍を引き上げた。

ところが弘治2年(1556年)6月、家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れ果てたためか、突然出家することを宣言し、高野山(一説に比叡山)に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は自ら軍を率いて出陣。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。

弘治3年(1557年)4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。武田領奥深くに侵攻し、山田城等の城を攻め落としたものの、晴信は決戦を避けた。その後に上野原で両軍は対陣するも武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中国一向一揆が起きたため、軍を引き上げた。

小田原城攻め・関東管領就任

永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。この年、関東では下野国の堅城唐沢山城が、北条氏康によって派遣された北条氏政率いる3万5千の大軍により包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撃退。永禄3年(1560年)3月、越中へ初めて出陣し、神保長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げのびた堅固な増山城も攻め落して逃亡させ、椎名康胤を援けた。

5月、北条氏康を征伐するため関東へ出陣し厩橋城沼田城岩下城那波城など北条方の諸城を次々に攻略、厩橋城で越年する。年が明けると軍を率いて上野から武蔵、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻。総大将が政虎である上に兵力差が大きく、野戦に利なしと悟った氏康は小田原城や滝山城など武蔵国や相模国の諸城へ退却し篭城する。永禄4年(1561年)3月に関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱佐竹義昭小山秀綱里見義弘小田氏治那須資胤太田資正三田綱秀成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲(小田原城の戦い)。小田原城で籠城する氏康を窮地に追い込む。

また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。

しかし小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せた上、長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどしたため、落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後鎌倉に兵を引いた。しかし4月には、武蔵の中原を押さえる要衝松山城を北条方から奪い取った(松山城の戦い)。

この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。もともと上杉家は足利宗家外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある。

ただし、藩翰譜によると、政虎自身が上杉頼成男系子孫であるという記述がある。応仁武鑑萩原家譜案にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為或いは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。

第四次・第五次川中島の戦い

第四次川中島の戦い

関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁山本勘助両角虎定初鹿野源五郎ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えることに成功。特に信玄が最も信頼する実弟・信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。

11月、再び関東に出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いてこれに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。

直後、矛先を転じ北条に寝返った下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を陥落させるには至らなかった。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため、城主の佐野昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる(唐沢山城の戦い)。

その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降る。政虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。12月、将軍義輝の一字を賜り、輝虎(てるとら)と改めた。

永禄5年(1562年)7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年(1564年)、信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄が信濃野尻城を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。しかし信玄が輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。

川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させることに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。

武田・北条との戦い

関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、一進一退の様相を呈した後、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。

永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが(舘林城の戦い)、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。永禄6年(1563年)には奪い取っていた武蔵松山城が武田・北条連合軍に攻撃され2月に落城。輝虎は反撃に出て要害堅固な武蔵の忍城を攻め、城主・成田長泰を降伏させる(忍城の戦い)。次いで小田家時の守る武蔵の騎西城を攻め落とし、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総にまで進出し、秀綱の弟である結城城主・結城晴朝を降伏させた。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えた。永禄7年(1564年)、常陸国へ入り、小田氏治の居城・小田城を攻略。さらに下野の唐沢山城を攻め佐野昌綱を二度降伏させた。

永禄9年(1566年)には再び小田城に入った小田氏治を再び降伏させるなど積極的に攻勢をかける。また、里見家が北条家に追い詰められていたため、これを救援すべく下総にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である臼井城に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの原胤貞より指揮を受け継いだ軍師白井入道浄三の知謀の前に、結果的には撤退することとなった(臼井城の戦い)。

その頃、信濃北辺の制圧を断念した武田信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。永禄8年(1565年)9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田の上野における拠点・和田城を攻めたが成功せず。そのため輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。永禄10年(1567年)には厩橋城代・北条高広まで北条に寝返った。関東において、武田信玄と北条氏康の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。4月、敵方となっていた北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。

越中進出と越相同盟

永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。

この頃から次第に越中へ出兵することが多くなる。永禄11年(1568年)3月、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)。7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく、越中松倉城守山城を攻撃した。

ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆(あがきたしゅう)の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後への帰国を余儀なくされる。輝虎はまず繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させる。すかさず11月に繁長の居城・本圧城に猛攻を加え、謀反を鎮圧した(本庄繁長の乱)。12月、武田と断交した今川氏真に救援を懇願される。永禄12年(1569年)には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。

永禄12年(1569年)3月、武田信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総関宿城を救うため、関東管領である輝虎は宿敵とも言える北条氏康と同盟する(越相同盟)。この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。

8月、越中へ出兵し椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲(松倉城の戦い)。松倉城自体は落城しなかったものの、支城の金山城を攻め落とす。年号が変わって元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。しかし再び越中へ出兵して松倉城を攻め、ついに攻略した。康胤は落ち延びて一向一揆と手を組み、協同して輝虎への抵抗を続ける。

この年、氏康の7男(異説あり)である北条三郎[4]を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号不識庵謙信」を称した

元亀2年(1571年)2月、再び越中へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城を落城させる。しかしその後、幾度もこの城を奪い合うことになり、越中支配をかけた富山城の争奪戦は熾烈を極めることになる(富山城の戦い)。

越中一向一揆・北条氏政との戦い

元亀2年(1571年)、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去り、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対する。元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対陣した(第一次利根川の対陣)。8月、北国に矛先を転じ、越中国の一向一揆勢力らと戦い激戦の末、富山城・滝山城を陥落させる。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長の同盟の申し出を受ける。その後、越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。

元亀4年(1573年)、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。3月には未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。8月には越中と加賀の国境付近まで進軍、一向一揆の立て籠もる朝日山城を落城させ、これにより越中の過半を制圧した。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。

しかし同時期に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳山城女淵城深沢城山上城御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である金山城を陥落させるに至らず。さらに武蔵国における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることが出来ず、結局羽生城を自落させた。

北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、謙信は北条方の武蔵騎西城・忍城・鉢形城など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが成功せず、関宿城は降伏してしまった(第三次関宿合戦)。閏11月には北条方の古賀公方足利義氏古河城に攻めるも、攻略出来ず。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。

織田信長との戦い

天正4年(1576年)2月、織田信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする信長包囲網を築き上げたのである。

越中・能登の平定

天正4年(1576年)9月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。

同11月、能登国に進み巨城・七尾城を囲んだが、攻めあぐんで越年する。天正5年(1577年)、春日山に一時撤退した(第一次七尾城の戦い)。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に遊佐続光(能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である畠山春王丸も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った(第二次七尾城の戦い)。謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで畠山義春を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。

また、この戦いの後、畠山義隆の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には畠山義続の子であるともされる[5]

加賀進出・織田軍との交戦

一方、長続連の援軍要請を受けていた織田氏は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8,000が加賀に向かっていた。

謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、さらに松任城に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したとされる(手取川の戦い)。なお、戦いの規模については諸説ある。

最期

天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、3月13日、急死した。享年49。倒れてからの昏睡状態より、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。『その時歴史が動いた』(NHK、2007年4月4日放送)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。

辞世

  • 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
  • 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」(「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある)

人物

  • 生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族の心もつかんだとされている。
  • 武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。時には自らを毘沙門天の化身と称したともいう。
  • 戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。
  • 七尾城の戦いのとき、謙信は有名な『十三夜』の詩(七言絶句漢詩)を作ったという。この詩は頼山陽の『日本外史』に載せられて広く知られることになったが、『常山紀談』や『武辺噺聞書』ではこれと少し違っているため、頼山陽が添削したものとみられている。また、十三夜は七尾落城の二日前であり謙信が本丸に登っていないことや、和歌によく通じた謙信も漢詩はこの他に一度も作っていないことなどから、これを不自然とし、この詩自体が後世の仮託とみなす説もある[6]
  • 青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育からを学び、上洛時には臨済宗大徳寺宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
  • 一般には「戦上手の内政下手」という印象があるが、実際には衣料の原料となる青苧栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とするなど、領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」という逸話も、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけと見ることも出来る。だが越後国人たちの離反には度々悩まされているように、謙信も信玄同様、国人衆の連合盟主という地位から脱することができなかった。
  • 合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者の集団を擁していた。平時においても出羽三山・弥彦山・黒姫山の山伏も諜報組織に組み入れていたことが知られている。
  • 吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」[7]と謙信のことを大天狗扱いするなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情であった。しかし、近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから五尺二寸ほど(約156cm)であったことがわかっている。当時の男性の平均身長は159cm程度であったため、屈強な武将たちの中で考えると「小柄」という表現が正しいことがわかっている。
  • 死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。謙信には現存する同時代の肖像画が存在しないが、高野山無量光院にはかつて晩年期を描いた画像が所蔵されており、1893年(明治31年)の火災で焼失したという。江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立する。
  • 誓文の血判から判定された血液型はAB型である。[8]

逸話

性格・行動

  • 甥の喜平次(後に養子となる景勝)に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送るなど、子煩悩な一面をみせている。特に関東在陣中の永禄5年(1562年)2月13日には、当時8歳だった喜平次に習字の手本として自ら『伊呂波尽手本』(いろは文字)を書いて送っている。手紙の本文も叔父らしい情け深いものだった(『上杉家文書』)。
  • 戦国時代の武将としては希有な慈悲深い人物であった。主君である謙信に対して2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。同様に、家臣である本庄繁長が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許している。
  • 一方で気性の激しさが窺い知れる伝えがある。謙信の重臣である柿崎景家の死について、『景勝公一代略記』では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとしている[9]。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を「謀反の疑い有り」として誅殺したり[10]宇佐美定満に命じて長尾政景を謀殺[11]したとする伝えもある。これらの逸話は謙信の性格の苛烈な一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。
  • 永禄2年(1559年)8月27日、二度目の上洛の折、謙信が洛中を周覧していた時に教業坊の路頭で偶然、松永久秀と行き合った。近国一円に権勢を揮った久秀の面前においても謙信は泰然自若の構えで堂々と振舞った。異例の事態ともいえる謙信のこの態度に久秀は如何とも出来ずにいたが、その際、久秀率いる三好松永の家臣の内2人が無礼を働いたため、謙信は三条橋付近でこれを捕らえて斬首した。この一件について三好・松永側からの報復・抗議は無かった(『謙信公御年譜』)。この事件は謙信の威風と勇猛さを伝えるものとして記録されているが、同時に傲岸不遜な一面が垣間見える逸話ともいえる。
  • 永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた長泰は直ちに兵を率いて帰城した。原因は諸将が下馬拝跪する中、長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れを汲む名家で、武家棟梁の源義家にも馬上からの会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど高くはなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間ではこれを事実とは認めていない[12]

自己の正当性への確信

  • 戦場において、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文を神仏に奉納した[13]

部下への配慮

  • 天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。

出家騒動

  • 家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。しかし8月17日大和国葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。

宿敵・武田信玄

  • 信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(『日本外史』より)」と箸を落として号泣したという。後世の創作の可能性が高いが、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。
  • 信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあるが、実際のところ謙信は信玄をかなり嫌っていたようである。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており(もっとも、戦国という時代を考えれば、信玄の行いは別にあってもおかしくないものだが)、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある(もっともこれらは道徳観に反する行いが理由とも解釈できるため、謙信がいわれもなく信玄個人を「毛嫌い」していたという確証はない)。しかし、嫌っていた信玄が今川氏真によって塩止めを受けたときは(武田氏の領国甲斐信濃は内陸のため、塩が取れない。これを見越した氏真の行動であった)、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれている)[14]。この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。

私生活

  • 謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという。これは、日ごろは倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためである。日ごろの倹約ぶりを知る部下たちはその豪勢な食事に喜び、結束を固くした。これが客をもてなす「お立ち飯」、「お立ち」として、今なお、新潟や山形の一部に風習として残っている(『上杉謙信傳』布施秀治)。
  • 生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、その子供は全員(景勝景虎義春国清)養子だった。
  • 謙信には複数の恋物語が伝わる。ひとつは、彼がまだ二十代の折、敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたが、重臣(柿崎景家ら)の猛烈な反対によって引き裂かれ、娘が剃髪出家した後、ほどなくして自害してしまい、食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたというもの(「松隣夜話」)。この他にも、謙信の侍女として仕えていた直江景綱の長女や、近衛前久の妹・絶姫との間にほぼ同様の逸話があり、このような悲痛な経験が謙信を独身主義へと導く一端になったと仄めかしている。こうした謙信の悲痛な恋物語は今日でも多くの小説やドラマなどで採り入れられているが、いずれも軍記などの不確かな史書のみで語られる伝説に過ぎず、実証はされていない。
  • また、永禄2年(1559年)、上洛した謙信と交流した近衛前久はこの時の謙信について「この間は度々おいで候て、華奢なる若衆を多く集め候て、大酒までにて、たびたび夜をあかし申し候、少弼(謙信)は若いのが好みとの由承り候 」と記しており、この書状に加え謙信が生涯独身であったことなどを結びつけて、謙信は女性との接触を一切持たず、男色のみを愛好したとする説もあるが、決定的な実証には至っていない。
  • 謙信が女性と交渉した事実が確認できないことについて様々な説があるが、いずれも確かな根拠に基づいたものではない。心理学的な観点から、信心深く立派な女性であった母青岩院と姉仙桃院(景勝の母)の影響があったと推測する見方(幼少期に高潔な人格の女性から深い愛情を注がれた男性は、成長すると他の女性にも同じ高潔さを無意識に求めるため、次第に周囲の女性に幻滅して興味を示さなくなる傾向にあり、謙信もその一人だったのではないかというもの)や、半陰陽説や女性説といった俗談の類から、毘沙門天あるいは飯縄権現信仰の妻帯禁制を堅く守っていたとする説などが存在する。
  • 大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと伝わっている。

健康面

左脚に関する傷病歴
  • 7歳の時、河中に落ちて左の膝を激しく打ち、後に(14歳頃)刈谷田川で長尾俊景と戦闘した際に、左の内股に矢傷を受け、大きな傷痕を残したという(『史論[上杉謙信]戦国孤高の名将の虚実』桑田忠親)。
  • 永禄4年から5年(と見られる)、左脚が気腫[15]になり、歩く時に引きずる様子が見られた。戦場では杖代わりに三尺ばかりの青竹を引っ提げて、軍兵を指揮したという(『常山紀談』)。
その他
  • 永禄2年(1559年)6月、二度目の上洛中に腫れ物を患う。腫物医の診断によると(よう)という重度のおできで、気血の滞留が病因と診られた[16](『謙信公御年譜』)。背中に出来た腫れ物を家臣たちが口で吸い出して治療にあたり、ほどなく治癒したと伝わる(『史伝上杉謙信』池田嘉一、『越後 上杉一族』花ヶ前盛明)。
  • 永禄4年(1561年)、関東進撃中に腹痛を患っている(『上杉家文書』)[17]
  • 永禄8年(1565年)36歳の時、(熱病)に罹る(花ヶ前盛明 年表)。卒去したとの流言蜚語が乱れ飛んだ。また、左脚が不自由になったのは、この際に併発した急性関節炎によるものとする説もある(『上杉謙信傳』布施秀治、『飛将謙信』栗岩英冶)。
  • 元亀元年(1570年)10月、41歳の時に軽い中風を発症した(『飛将謙信』栗岩英冶)。

死因

  • 過度の飲酒や食生活(塩分の摂り過ぎなど)による高血圧が原因の脳血管障害とみられ、古今を問わず最も有力視されており、定説となっている[18]。または、胃癌もしくは食道癌と脳卒中が併発したとする説もある[19]。他にも婦人病(詳細は上杉謙信女性説に記載)で亡くなったという奇説や、織田信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺殺、またはヒ素で毒殺されたなどの俗説もある。

戦国大名として

  • 謙信は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。
家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し。
  • 戦では無類の強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由は越中一向一揆に手間取ったこともあげられる(謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは真言宗)。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。

評価

  • 野戦において戦国最強の武将とされており、武田信玄や北条氏康、織田信長さえも恐れさせた。そのあまりの強さゆえに謙信が敵地に攻め込むと、ほとんどの敵は城内に逃げ込む有り様であった。信玄が第4次川中島の戦いで謙信と互角に戦えたのも、謙信との野戦を避け続ける信玄を強引に決戦場に引き出すため、謙信がわざと自身にとって絶対的に不利である武田側の領地深くの妻女山に陣を置いたためとされる。しかし信玄はこの戦いで実弟・武田信繁を討ち取られてしまう。信玄や家臣たちが絶大な信頼を寄せていた副将・信繁を失った衝撃は大きく、謙信の強さを目の当たりにした信玄は次の第5次川中島の戦いでは本陣を塩崎城に置き、野に陣をはり決戦を挑もうとする謙信との野戦を避けた。結果的に信玄は信濃北辺の制圧を謙信に阻まれたため、信濃制覇に失敗した。また戦上手であった氏康も、謙信が関東に遠征し幾度となく北条領内深く侵攻しても、圧倒的な強さを誇る謙信を恐れ野戦を挑むことはほとんどなかった。
  • 軍事能力に卓越しており、「越後の龍」や「軍神」などと後世で評されている。一般には謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたという見方が強い。天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。
  • 謙信と他大名との鉄砲、、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。上杉軍の強さは、謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。このことから上杉軍の武威は、謙信存命中から没後しばらくまでは、都周辺でも高い評価を得ていたものと思われる。その生涯で約70回もの合戦を行い、敗北は僅か2回と伝えられ、野戦に限れば北条氏康との生野山合戦の1回のみとされる。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  • 軍事面で評されることが多いが、内政面に関しても大きな失政はなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7000石、武田信玄は推定83万5000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げており、太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下している。
  • 野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、城攻めでは数多くの城を攻め落としたものの、成功せず撤退することもあった(小田原城臼井城唐沢山城等)。小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も成功せず、その後の北条の逆襲を招く結果となった。臼井城の攻防では原胤貞2千の軍勢に上杉1万5千と7倍以上であったにもかかわらず、胤貞より指揮を受け継いだ軍師白井入道浄三に大敗している[20]。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦では苦戦することもあり、数多くの城を攻め落とし直接の対陣での敗北は殆ど無いものの、関東における勢力圏は広くはなかった。
  • 持久戦が必ずしも得意でなかったのは、豪雪地帯から遠く補給線の貧弱な敵地に向けて長期的な軍事行動を取ることが不可能であり、それゆえに短期的な活動で多大な成果を得なくてはならなかったことが原因であると見られる。また、当面の戦闘で勝利を得ても、戦後処理の中で占領地を直接支配しなかったがために謙信が帰国するたび関東衆の離反を許すこととなり、北条・武田に対しての長期戦略は上野の一部を得るにとどまってしまった。結果として武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、国防に成功したものの、関東経略は立ち行かなくなっていた。
  • 第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。謙信は信玄の意図を見抜いていて作戦続行を主張したが、関東諸将の反対で撤退するしかなかった。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時、時間を置かず一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった」と述べたと伝わる。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。上洛が出来さえすれば成功の可能性は高く(若狭・越中間は航路があり上杉氏には水軍もあったため加賀一向一揆は無視できた。また、幕臣である越前の朝倉氏・若狭の一色氏の協力は得られた可能性が高い)、謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。しかし、このときも家臣の反対で実行に移せなかった。いずれも謙信の電光石火・神出鬼没ぶりや戦術眼の高さがうかがえる逸話だが、家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
  • 有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東や越後では畿内と違い関東管領職の権威はある程度通用したとの評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さをあらわしているとも言える。
  • 一方で、大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。また、名門への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとも言える。 ただし、元来越後上杉家が守護を勤め、越後上杉被官家臣が数多くいた越後を統一するには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。
  • 関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う。また、数々の戦いの多くが、村上義清小笠原長時上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
  • 生前に前もって後継者を決定しなかったとされ、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、景勝の代での衰退と没落の道を辿る元凶となった。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
  • 謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。
  • また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にある。当時は仇敵の武田側からすらも謙信は頼まれれば断れない性格だと評されていたことがわかる。
  • 藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとし、このセンセーショナルな「出稼ぎ」説は多くの識者から支持を得て広く世間に浸透した。しかし、市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、数々の疑問を呈しており、今後の議論が待たれている。

墓所・霊廟

高野山の上杉謙信廟

家臣

越後国人衆

他国衆

上杉一門衆

越後守護家由来
長尾一門など

上杉二十五将

上杉謙信に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。

上杉四天王

『上杉将士書上』を出典。また、『甲越信戦録』(著者不明、江戸時代末期の軍記物)では景綱は直江兼続に換えて表記。

脚注

  1. ^ 文書上でのやりとりのみ
  2. ^ 実際には重房女系子孫(重房 - 頼重 - 憲房 - 憲顕 - 憲将 - 山吉義盛室 - 行盛 - 長尾頼景室 - 重景 - 能景 - 為景 - 輝虎)として12代目の末裔となる。
  3. ^ 叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日、上杉家文書・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。尚、歴名土代には記載なし。
  4. ^ かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが関八州古戦録以外に出典がなく現在では否定されている。(長塚孝「北条氏秀と上杉景虎」戦国史研究12号他、黒田基樹氏の論文など)
  5. ^ また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない
  6. ^ 栗岩英冶、桑田忠親、井上鋭夫、花ヶ前盛明など多くの研究者が著書で指摘。
  7. ^ 古老物語
  8. ^ 『犯罪学雑誌』29号(日本犯罪学会編1963年四月刊)による。
  9. ^ 景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説がある(『柿崎景家―川中島先陣』室岡博)。また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子晴家だったとする説もある。
  10. ^ 長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した(『関八州古戦録』)。
  11. ^ 謀殺説は『北越軍記』による。『謙信公御年譜』では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記している。
  12. ^ 思文閣史学叢書『戦国期東国の都市と権力』より。
  13. ^ 合戦の際に自身を正当化する理由を神前に奉納する事自体は、信玄や秀吉・家康など他の戦国大名も行っている。
  14. ^ この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない。また、中世史家の杉山博は「甲州塩市場の独占をねらった謙信の行為や、敵であろうと味方であろうとおかまいなしに、甲州の塩不足に目をつけて塩を送りこんだ「死の商人」たちの仕業を、カモフラージュするために」このエピソードが出来上がったのではないか、としている。
  15. ^ 風湿(痛風リウマチに相当する漢方の語)。風毒ともいう。
  16. ^ 将軍義輝は病気見舞いとして大舘左衛門佐輝氏を坂本の陣所へ遣わし、同日、鉄砲火薬の調合書(『鉄放薬之方并調合次第』)一巻を謙信に贈った。
  17. ^ 近衛前久からの慰問の書状がある(「ふくちういかゝ候や、これのみあんじ申候。うけたまはりたく候。猶ゆたんなく、御屋うじやうかんよふにて候」6月10日付)。
  18. ^ 雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳卒中だと考えられる一因である。
  19. ^ 『松隣夜話』の記述を基に、王丸勇が著書『英雄医談―病跡学こぼれ話』で推測した。
  20. ^ 記事は『歴史街道2007年09月号』、PHP研究所による。『北条記』の記述と兵数などは異なる。一次史料による裏づけはない。

上杉謙信が登場する作品

書籍
  • 『上杉謙信伝』布施秀治(大正6年、謙信文庫)
  • 『飛将謙信』栗岩英冶(昭和18年、信濃毎日新聞社)
  • 『謙信と信玄』井上鋭夫(昭和39年、至文堂
  • 『上杉謙信』井上鋭夫(昭和41年、人物往来社
  • 『古戦場上杉軍記』(昭和44年、歴史図書社)
  • 『写真と史実 上杉謙信』稲荷弘信(昭和44年、中村書店)
  • 『史伝上杉謙信』池田嘉一(昭和46年、中村書店)
  • 『上杉謙信とその風土』室岡博(昭和58年、考古堂書店)
  • 『上杉氏の研究』阿部洋輔編(昭和59年、吉川弘文館)
  • 『上杉謙信と春日山城』花ヶ前盛明(昭和59年、新人物往来社
  • 『上杉謙信のすべて』渡辺慶一(昭和62年、新人物往来社)
  • 『上杉謙信』花ヶ前盛明(昭和63年、新潟日報事業社
  • 『上杉謙信』花ヶ前盛明(平成3年、新人物往来社)
  • 『上杉謙信大事典』花ヶ前盛明(平成9年、新人物往来社)
  • 『定本上杉謙信』池享矢田俊文編(平成12年、高志書院
  • 『上杉謙信』矢田俊文(平成17年、ミネルヴァ書房
  • 『歴史群像 No.69上杉謙信 関東電撃戦』、学研、2005年
  • 『越後上杉一族』花ヶ前盛明(平成17年、新人物往来社)
  • 『Truth In History上杉謙信』相川 司(平成18年、新紀元社
  • 『新編上杉謙信のすべて』花ヶ前盛明(平成20年、新人物往来社)
小説
  • 天と地と海音寺潮五郎) 謙信の出生から川中島の決戦まで。少年が英雄へと成長する過程を重視する
  • 武神の階(津本陽) 軍記や史料を用いてその生涯を書ききっている
  • 戦国自衛隊半村良) 長尾景虎の名で出演する。野心高い武将として描かれている
  • 上杉謙信(吉川英治) 永禄四年の川中島の顛末を描く。史実性は低いが高度な文学性を持つ
  • 上杉謙信(志木沢郁) 最新の研究成果を駆使して史実に近い謙信像を物語化することを試みている
  • 風林火山井上靖) 最終で名前が一行描写される程度である
  • 川中島の敵を討て(近衛龍春
映画
TVドラマ
漫画
TVゲーム
PCゲーム
携帯電話用ゲーム
ボードゲーム
ドラマCD
模型

関連項目


先代
長尾晴景
府中長尾家当主
1548年 - 1578年
次代
上杉宗家に吸収
先代
上杉憲政
山内上杉家(上杉宗家)
1561年 - 1578年
次代
上杉景勝上杉景虎
(御館の乱後は景勝に統一)