金津義旧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金津義舊から転送)
移動先: 案内検索

金津 義旧(かなづ よしもと、旧字体:義舊、生没年不詳)は、室町時代戦国時代の武将。通称の新兵衛の方が有名で、金津 新兵衛(かなづ しんべえ)として知られる。妻は長尾虎千代(後の長尾景虎・上杉謙信)の乳母である。

生涯[編集]

金津氏は、越後国金津(現新潟市秋葉区)に土着した清和源氏平賀氏の流れを汲む一族で、長尾氏以上の家柄だったため、謙信は新兵衛のことを家臣と言うよりは上位の客将であると公言していた。

虎千代は、父・長尾為景が当時としては非常に高齢になってからできた、まさかの子だった。そのため長尾家家臣団はもとより、実の父からも本当に我が子なのかどうかを疑われる有様で、そんな愛情のない家庭に育った幼い頃の虎千代は自然と塞ぎがちで、疑心暗鬼に苛まれる子だった。妻がその乳母となったのが縁で、やがて虎千代の養育係となったのが新兵衛だった。虎千代は新兵衛のことを父のように慕い、一人新兵衛の前では明るく子供らしく振舞ったと言われている。

そうしたことから、成人した長尾景虎の新兵衛に対する信頼は非常に厚いもので、景虎の出兵時には居城春日山城留守居役を任されるほどだった。新兵衛自身もその信頼に応えるべく、生涯にわたって景虎の脇を固める働きをした。

のちに上杉二十五将にも数えられている。

逸話[編集]

若き頃の新兵衛は猛将で、合戦中に尿意をもよおしても放尿しながら片手に持った槍で敵を三人斬り捨てたという伝説も残る。また、越後守護上杉定実の旧臣・黒田秀忠が、虎千代の兄で越後守護代の長尾晴景に対して謀叛をおこした際には、敵勢から虎千代を守るために床下に隠れさせ、一難去った後に虎千代を救け出したこともある(後に黒田は景虎に討伐されている)。

関連項目[編集]

晩年の金津新兵衛:   家督、氏名共に養子に譲り隠居の身になった。(聖将上杉謙信・小松重雄著)による。   藁科家の言い伝え(昭和20年ころ聞いた内容)   1.祖先は家老であった。   2.名前は新兵衛、苗字は不明 ただしすべて新兵衛で通用していた。   3.幼少の上杉謙信を育てた人であった。   4.晩年になって藁科を名乗ることを許された。   5.姓名は藁科新兵衛豊國と名乗った。   6.子孫に 豊、新 の字をもらい命名した。    藁科傳十(生没不詳)藁科豊蔵(嘉永2年生)藁科小一郎(明治5年生)藁科新重(明治28年生)   初期の戸籍は静岡県榛原郡吉田町 上越からどのように静岡に流れたかは不明。   家訓らしきもの。   人の上に立つな。(人を踏み台にするなの意味)   人からいやなことをされても 絶対にやり返すな。   田螺になるな、注釈付きで、タニシは春先に田圃に生まれ、夏に向かって徐々に水が少なくなり   水の多い所に移動しなければならないが、明日明日と日延べし結局干からびてカラスに食われて   しまう。転じて 機は失することなかれ。