加藤段蔵

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加藤 段蔵(かとう だんぞう)は、江戸時代初期の軍学書仮名草子などに「鳶加藤」「飛加藤」の名前で言及されている戦国時代の幻術使いあるいは忍者の、読本(後述)における名称である。

文亀3年頃(1503年頃)の生まれとされることがあるが、出典は未詳。別表記に「加当段蔵」がある。


概要[編集]

越後流軍学の教本として用いられた軍学書『北越軍談』第17巻に、幻術使いの「鳶加藤(とびかとう)」として登場する。鳶加藤は常陸国茨城郡の出で、小田原の風間次郎太郎を師として幻術を身につけたという。箕輪の長野業正に仕えた後、彼の推挙で越後の長尾景虎(上杉謙信)に拝謁した鳶加藤は、牛を呑みこんでみせたり、瓠瓜の種を発芽させ、扇であおいで実を結ばせるなどの幻術を披露した。その夜、景虎は山岸宮内少輔貞臣の家から長刀を盗んでくるよう鳶加藤に命令するのだが、彼はいとも簡単にこの命令を実行してみせる。

これを見た景虎は鳶加藤の技を危険視し、山岸光祐に身柄を預けることにするのだが、不穏な空気を感じた鳶加藤はからくり仕掛けの傀儡(くぐつ)に芸をさせ、目を引いているすきに越後から逃げ出した。

その後、彼は甲府に現れて、今度は武田晴信(武田信玄)に仕官した。しばらくして、武田家秘蔵の書物が行方不明になり、鳶加藤が犯人であるとわかった。鳶加藤は、自分が逃亡したことで長野業正の立場が悪くなったので、晴信を暗殺して恩を返そうと家中に潜り込んだことを白状し、弘治3年(1557年)に首を討たれたという。[1]

来歴[編集]

この人物の最も古い記録は、天正年間(16世紀末期)に編纂された軍学書『甲陽軍鑑』の末書結要本と呼ばれる別巻で、「まいす者嫌ふ三ヶ條の事」という記事に「とび加藤」として言及がある。武田信玄のもとにとび加藤と名乗る、八尺の棒(もしくは槍)を使ってどんな堀や塀も飛び越してみせるという者が仕官しにやってきたのだが、召し抱えてみたところどこかの隠密だったので殺害したという内容である。時期については「永禄年午のとし」とあるので、永禄元年(1558年)と思われる。

この記事に続いて、長尾謙信(上杉謙信)のもとに「じゅつし(幻術使い)」がやってきて、牛を呑みこむ術や扇で木をあおいで花や実をつけさせる幻術を見せ、木に登って牛を呑む術を見破った男の首を斬ったところ、謙信が隠密だと見破って成敗したという永禄2年(1559年)の出来事が載っている。[2]

二つの事件は明らかに別々の出来事だが、『北越軍談』の著者は両者を混同し、「鳶加藤」という一人の人間のしわざとした。なお、後者の事件については、『上杉家御年譜』の永禄2年12月上旬の記事にほぼ同じ内容の話が載っているが[3]、『甲陽軍鑑』末書結要本と同じく幻術使いの名前は書かれていない。


寛文6年(1666年)刊行の『伽婢子』第七巻にも、『北越軍談』と似通った筋立ての物語が載っているが、名前が「飛加藤」に変わり、謙信が盗みに入らせる先が山岸貞臣から直江山城守に変わるなどのアレンジが加わっている。[4]


「加藤段蔵」という名前は、文化6年(1809年)から文政8年(1825年)頃にかけて刊行された速水春暁斎の読本『絵本甲越軍記』で使われたもので、出自についても伊賀出身の忍術名人へと設定が変更されている。[5]

忍者忍術の解説書や歴史小説などではこれら全てを折衷し、加藤段蔵が本名で、「鳶加藤」「飛加藤」は通り名ということになっている。

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 井上鋭夫・編 『上杉史料集』 新人物往来社1969年 
  2. ^ 『甲陽軍鑑末書結要本』 第一書房、1974年 
  3. ^ 米沢温故会・編 『上杉家御年譜 第1巻』 原書房、1989年 
  4. ^ 『伽婢子』 岩波書店、2001年 
  5. ^ 速水春暁斎 『甲越軍記』 博文館、1894年