風魔小太郎

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風魔 小太郎(かざま、ふうま こたろう)もしくは風間 小太郎(かざま こたろう、文献中の記名はこちら)は、北条氏康の時代における相模国忍者集団、相州乱破(そうしゅうらっぱ)もしくは風魔一党の師範役的な立場にあった人物である。

「風間」「風摩」「風魔」なる人物が長期間にわたって活動していたことが後北条氏関連の文書や軍記物から窺えるため、歴史小説や忍者の解説書などでは、相州乱破の頭目が代々「風魔小太郎」を名乗ったと説明されていることが多い。[1]


概要[編集]

槇島昭武の著した軍学書関八州古戦録』において、天文15年(1546年)あるいは天文12年(1543年)の上杉憲政による川越城攻めの際、柏原に差し向けられた北条氏康配下の忍び、二曲輪猪助の師として「風間 小太郎(かざま こたろう)」の名前が挙げられているのが[2]、江戸期における唯一の言及である。ただし、彼が相州乱破の頭目かどうかについては触れられていない。


北条家の遺臣である三浦浄心の著した『北条五代記』には、天正年間(1573~1593年)に後北条氏に仕えていた風摩(かざま)一党の頭目として、風摩(かざま)某なる人物が紹介されている。同書によれば、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、鬼のような異相の持ち主であったという。[3]根拠は不明だが、この風摩某は忍者の解説書において、しばしば五代目の風魔小太郎とされている。[4]


同じく三浦浄心の『慶長見聞集』によれば、江戸時代初期に風魔一党の残党・係累が盗賊となって江戸近辺を荒らしまわり、対立していた盗賊の向崎甚内の密告によって根絶やしにされたとある[5]戸部新十郎の『忍者と盗賊』などの忍者の解説本では、この事件において頭目の風魔小太郎も捕縛・処刑されたと書かれているが[6]、出典の『慶長見聞集』をはじめ、同時代の記録にはそうした記述が存在しない。

戦術[編集]

『北条五代記』によれば、風摩某は山賊、海賊、強盗、窃盗の各五〇人四隊からなる、合計二百人の乱破(忍者)を従えていた(人数的には近世一万石の藩並みの兵数)。敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけた(小規模戦力において相手の軍事力を奪い、再利用)。そのうえ、ここかしこに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺したと記される(情報攪乱)。


風間出羽守[編集]

小太郎と同一人物であるかは不明だが、「風間(かざま)出羽守」なる人物が度々北条氏の文書に登場し、警備担当や諜報任務に当たったことが記録されている。下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』では、風間出羽守を忍者と解説している。

文書によると、元亀3年(1572年5月7日付けで、岩井弥右衛門尉に対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留するので宿以下の用意を命じ、不法があれば小田原城に訴えるように命じた。元亀4年(1573年)には、百姓からの苦情で、風間某は武蔵国すな原(現在の埼玉県鴻巣市)での在宿を禁じられた。

この他、岩付城の夜間警備を命じられたり、天正10年(1582年9月13日付けの北条氏政書状では、風間出羽守に信濃国遠江国の戦況を知らせた上で、示し合わせて出陣するよう命じられている。

また、風間出羽守の嫡子に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺(埼玉県さいたま市岩槻区黒谷) を開基したという。

現在[編集]

2013年5月3日に行われた小田原北條五代祭りにおいて、市観光協会が主催する天下一忍者決定戦の勝者に六代目 風魔小太郎の栄誉が与えられ話題となる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 川口素生 『スーパー忍者列伝』 PHP研究所1976年 
  2. ^ 槇島昭武 『関八州古戦録 改訂版』 新人物往来社1976年 
  3. ^ 槇島昭武 『北条史料集』 人物往来社1966年 
  4. ^ 山下昌也 『実録 江戸の悪党』 学習研究社2010年7月 
  5. ^ 三浦浄心 『慶長見聞集』 新人物往来社1969年 
  6. ^ 戸部新十郎 『忍者と盗賊』 河出書房新社1986年